呪いを祝福に

聖書:イザヤ書53章1-5節, ローマの信徒への手紙6章4-11節

 昨日は成宗教会の兄弟の結婚式が、恵比寿にある教会で行われました。それは中国語を中心に礼拝が行われている大きな教会で、集まっている人々は働き盛りの若い世代。昔の日本の高度成長期の教会はそうだったと懐かしく思いました。それに比べると、わたしたちの教会をはじめ、日本の多くの教会は人々が高齢化し、いかにも弱っているように感じるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。人は必ず高齢化するのです。社会もそうでしょう。山だって火山活動が盛んな時代が過ぎると、だんだんとおとなしく丸くなる時代が来ると学校で習いました。

すると私たちは進んでいるのかもしれません。血気盛んな人々が集まっている国があり、教会がある。しかし、若者は決して若者のままではいない。だれもがだんだん高齢になって行く。もし教会に、全く同じ世代の人以外、一人もいないならば、その教会はいずれ立ち行かなくなるでしょう。しかし、神様が教会を建てるとお決めになったのであれば、決して人の予想通りにはなりません。私がこの教会に呼ばれたときも、役員会の記録には、高齢化のため、礼拝出席が減少した、と書かれていました。その時も教会員は自分より、年取った方々がほとんどであったのです。

けれども自分より先輩がいること。何十年年上の大先輩が自分の傍にいるということは実は思いがけない恵みです。人は多くの場合、同じ年代の人々といることを好むので、自分と同じ年頃の人々を仲間と感じるようです。しかし、人生の先輩、信仰の大先輩がここにいる恵みは大きい。実際、私も成宗教会の大先輩の方々から多くの恵みをいただきました。遠い星を見て、宇宙を学ぶように、高齢の教会員が共に生きているならば、その人を通して神様が学ばせてくださる恵みは計りしれません。

私は大学生の時、教会に通う者となりました。その頃の礼拝の様子は、今はほとんど記憶のかなたに行ってしまっています。しかし、思い出すのは、礼拝堂の片隅に座って肩を震わせて泣いていらした老婦人の後ろ姿です。なぜ泣いていたのでしょうか。それは1960年代後半。まだ多くの高齢者が戦争の悲しみ、悼みの中にあったことを、今更ながら思います。高齢者は悲惨な時代、悲惨な社会を記憶しているからこそ、礼拝説教に涙をもって自分たちの罪を社会の罪を証ししていたのでしょう。罪によって呪われたのだと。

ですが、それから数十年の内にわたしたちはすっかり変わってしまったことに気がつきませんでした。呪いなんて、何のことだろうか。漢字も忘れてしまっています。わたしたちの理想は衣食住に困らないこと。みんなと仲良く楽しく暮らすこと。いつまでも長生きすること。それだけでいい。その理想さえ実現すれば、神様のことは忘れてもいいではないか。実際、高度経済成長期にだれもが豊かになったと感じていた頃、教会の礼拝で泣く人はいなくなったと思います。そして礼拝で居眠りする人が増えました。皆、神の愛の話を聞きたいと思います。神の祝福を受けたいと思います。しかし、それではなぜ、キリストは十字架にお掛かりにならなければならなかったのでしょうか。そのことを知らせることは、教会にとって非常に困難な時代が来たのでした。

私は居眠りしている信者の一人ではありましたけれども、教会の人々が弱り果てていることを感じておりました。そして神さまは、私がどうしても伝道者として立たなければならないというところまで追い詰められました。しかし、伝道者として、教会の皆さんに神様の言葉を説き明かすことになった時、何と言っても一番困難であったのは、人間の罪について語ることでありました。ローマの信徒への手紙3章23-24節にある言葉です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みに寄り無償で義とされるのです。」

このわずか3行ばかりの言葉です。読み上げるのは簡単ですが、一体だれが、自分のこととして納得するのでしょうか。説教者は、会衆の一人一人に「あなたは罪ある者です」と言わなければならない。これが大変困難だったのです。私は自分は足りない人間だという自覚があり、一方で教会の人々がたいそう立派に見えました。元々、学校の教師として上から目線で生徒を見ることの無い者でした。また生徒の方も大変おおらかに言いたい放題のことを私に言って来る、そういう教師でした。私には生徒も教師も神の御前に等しい者同士だったのです。

ところが教会の説教者は、自分の落ち度を差し置いて、人間が等しく神の御前に罪人であることを語らなければなりません。そして「あんたなんかにそんなことを言われたくない」と言われることも覚悟しなければなりません。教区総会の時期になると思い出すのですが、教会記録審査という仕事があり、私もそれを担当しました。ルールに従って審査をし、問題を指摘したときのことです。ある教会の会計役員が私を指さし、その指を振りながら、声を震わして言ったのです。「お前なんかに、お前なんかに、私の報告を直されて・・・。」それは高齢の男性でしたが、私が教会の教師であることを知った上でも、自分の書類が直された怒りが治まらないようでした。私の17年の教会の務めは、人間の罪とは何か、について学ばされる年月でありました。そして、そのことを、人々に向かって恐れず大胆に語れるようになることは非常に困難で、多くの時間を要したわけです。

今日読んでいただいたイザヤ書53章1節。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」こう言っている「わたしたち」とはだれでしょうか。それは諸国の王たちであります。人々の上に立って統治している王たちが、「実に驚きに堪えない」と言っているのです。わたしたちの聞いたことを、だれも信じられなかったし、これまでにだれもその意味が分からなかったというのであります。

それほどに、この福音を信じる者はいないというのです。だからイザヤ書はその不信仰を、悲しみ嘆かないではいられないのです。そう嘆いてから、彼らは苦難を受けた一人の方について語りはじめます。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」輝かしい風格、好ましい姿は美しさを表します。美しさは神の祝福のしるしです。ところがこの方は美しくなかった。だから、だれも彼を見たいと思わなかったのです。わたしたちはキリストの栄光を人間の見方によって判断してはならず、ただ聖霊の神がキリストについて教えてくださることを信仰によって理解しなければなりません。3節。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」ここでは、主の僕であるこの方のさらに詳しい状況が語られています。つまり、彼は社会から追放された者であり、侮られ、友もない。彼は悲しみと悲哀の人でありました。またこの方は、見るに堪えられないほど魅力のない、病の人であったのです。人は万事が好都合に行っていて、更に健康である時には、不健康で醜い病んでいる者をさげすみ、侮りやすいものです。だからこそわたしたちは自分のこうした傾向と戦わなければならないのです。

わたしたちは楽をして得して、その上で救われたいと考えたいのではないでしょうか。だから、キリストについて理解することができず、キリストを受け入れることができないのです。しかし、イースターの喜びについて語る前には、まず必ず、キリストの苦難と死について思わなければなりません。もし、キリストの苦難を思わず、復活から宣べ伝え始めるならば、それは弱い福音になるでしょう。預言者はキリストの悲しみ、病弱、見捨てられ、侮られ、死に至ったことから宣べ伝え始めたのです。

ところが、多くの人々が彼の死に躓くのです。それはまるで彼が死によって打ち負かされ、死によって圧倒させられたかのように感じられるからです。しかしわたしたちは、死の力と支配を主が打ち破って復活してくださったことを告げるべきなのであります。主の強さとその力は、死を打ち破ることによってこそ、その本質が理解されるからです。

主の強さと力は、死と関係なくあるのではないのです。それは死の支配を打ち破った所に示されました。さて、諸国の王たちは、キリストが負われた苦難の本当の意味を悟らされて、次のように告白したのであります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

これまでは彼らはこの方が単純に打たれ、苦しめられ、何かの理由で神に叩かれているのだ、と考えていたのでしたが、この時初めて理解しました。実はこの方は自分たちの悩みと、自分たちの悲しみを担っていることを。キリストは地上にいらして、その御言葉によって悪霊を追い出し、多くの病人を癒されましたが、その奇跡物語は、わたしたちの魂にもたらす救いを証しするものであったのです。キリストの地上の働きは、わたしたちの体を癒すためではなく、むしろ魂を癒すことにあるのではないでしょうか。

だからこそ、その癒しは体に対する癒しよりもはるかな大きな広がりを持っていたのです。主はわたしたちの魂の医者に任命された方でありますから。「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」いう告白は、人間がどんなに感謝がなく邪悪であるかを、預言者が示そうとしているのに違いありません。彼らはキリストがなぜそんなに激しく苦しんでいるのかを知らず、「ただ彼自身の罪のせいで、神が彼を打ち叩いたのだ」と勝手に解釈していたのです。

わたしたちも全く変わりないと思います。自分の身に何も苦労がない間は、苦労している人の気持ちがなかなか分からない。辛い戦争の体験が共通の苦しみだった時代を記憶している間は、キリストの苦難に救いを見い出す人々が教会に集まったのです。しかし、わたしたちも何とか福音を宣べ伝えようと思うならば、ご自分のためではなく、ただただ罪人を憐れまれたために苦難を負ってくださった方の労苦を僅かでも味わうことができるのではないでしょうか。そして神の御心を知ろうとしない人間の罪、自分の痛みには火がつくほど敏感なのに、人の苦しみには全く鈍感な人間の罪が思われるのです。罪を罪とも思わない生き方そのものが呪われているのです。しかし、それにもかかわらずキリストは、この罪の浅ましさにまみれた人間をなお憐れんで、呪いを祝福に変えてくださいました。キリストの苦難と死は、わたしたちの苦難を苦しみ、死を御自分のものとしてくださったのです。ローマ6章4節。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」今日は、使徒信条の中で主は「十字架につけられた」ことがどのような意味を持つのかについてみ言葉に聞きました。「木に掛けられる者は呪われる」と聖書に書いてあります。イエス・キリストの十字架の意味は、わたしたちが神様に赦され、永遠に祝福されるために、キリストが神様に呪われたということです。最後にローマ6章7-8節を呼んで、祈ります。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 

父・御子・聖霊の三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。ペンテコステに聖霊を注いで下さり、教会の歩みが始まって以来、全世界の教会を励まして、主の体に結ばれるものとしてくださいました。わたしたちの教会もただあなたの恵みによって今日まで導かれたことを感謝します。

本日は使徒信条について、わたしたちの主が十字架にお掛かりになったことを告白して来た意義を学びました。わたしたちもあなたに立ち帰って生きるために、キリストの十字架の死に結ばれ、罪の贖いを受けました。このことを繰り返し思い起こし、新たに感謝を込めて、主の命と共に生きる者とならせてください。

教会の行事が守られ、東日本連合長老会の教会会議も恵みのうちに導かれたことを感謝します。本日は、西東京教区の総会が行われます。あなたの福音がこの小さな教会でも宣べ伝えられると同時に、全国、全世界の教会が手を携えて、福音を宣べ伝え、一つのキリストの体に結ばれるために、教区総会を清めてお用いください。そこで行われる選挙によって秋に行われる教団総会の議員が選ばれます。どうかこの選挙の上に御心が行われますように。

礼拝に来ることが困難になっている兄弟姉妹のために祈ります。多くの方々が主の日の礼拝を覚え、心を込めて祈っておられます。どうかその祈りが聴かれ、わたしたちの祈りと共に、あなたの喜びとされ、この教会が守られますように。主に連なる一人一人が共に主の恵みを受けますように。主はわたしたちをその死に結ばれ、わたしたちの呪いを御自身に受けてくださいました。その代わりにて御自分にある天の祝福に、わたしたちを結んでくださいました。わたしたちの多くが高齢となっておりますが、あなたがわたしたちに注いでくださった恵みを、年を重ねる毎にますます豊かに証しする者となりますように。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。