天には父がおられる

聖書:ホセア書2章1-3節, ローマの信徒への手紙8章14-17節

 わたしたちの誰もがよく知っている祈りに、主の祈りがあります。これは、弟子たちが主イエスにお願いして、祈りのいわばお手本を教えていただいたのでした。主は初めに「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけることを教えられました。

それで、今日の日本では、伝道が振るわないと言われる教会だけでなく、キリスト教主義の学校でも、「主の祈り」は広く知られていると思います。しかし、わたしたちが主の祈りに従って、神を「天の父」とよぶことができることの意味を、わたしたちは考えたことがあるでしょうか。この祈りは、天にはわたしたち父と呼ばれる方がおられる、という信仰の告白を表しているのです。父と言えば、わたしたちは地上に父と呼ばれる人を持っていました。豊かな時代には、親は親、子は子で、干渉し合わない生活が理想であったでしょう。しかし、貧しい時代には父の借金をどうするのか。廃墟のようになってしまった親の家、土地をどうするのか。最近の新聞には、親の扶養、介護の問題ばかりではなく、兄弟の作った借金をどうすればよいのか、引きこもりの兄弟をどうすればよいのか等、子供の世代にとって悩みは後を絶たないようであります。

だからこそわたしたちは、神を父と信じることの幸い。その絶大な価値を教えられています。わたしたちは豊かになる時もあれば、貧しくなる時もあります。しかし、それに対して天の父は変ることなく、豊かであります。そしていつも信じて従う人々を豊かに恵んでくださる方なのです。今日読んでいただいてホセア書2章1節です。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。」

イスラエルの人々が生ける神の子らと呼ばれています。しかし、それでは、彼らが「生ける神の子ら」と呼ばれない時があったということでしょうか。その通りです。彼らイスラエルの民は豊かになった時に、生ける神を忘れ、自分たちの好みの偶像に仕えるようになったのです。豊かな地の実りも、豊かな才能も、すべて神から与えられた賜物に過ぎないのに、それを心に留める人は非常に少ない。そこで、神は繰り返し神の子なる民を責め続けます。「あなたがたは「ロ・アンミ」だと。もうあなたたちはわたしの民ではない。わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(ホセア1:8)

それほど神は人々の不信仰を怒り、激しく責め続けても、いつまでも怒り続け、いつまでも責め続けることはない。これは真に不思議なことです。人間ならあり得ないことです。だからこそ、真の神を天の父と呼び奉る有難さがあるのです。神は御自分の民を決してお忘れにならないからです。ところが神の子らとされた人々はどうでしょうか。神から遠く離れ、恵みを受けるよりも、自分の努力で、実力で、何かを勝ち取ったと言いたい。自分が、できることにいつもこだわっている。「天の父よ、どうか助けてください」と祈ることが出来ないのです。

旧約聖書の時代には、神はイエスエルとユダの12部族を選んで、神の民としてくだいました。主は彼らを、「ご自分の宝の民である」と言われました。しかし、イエス・キリストをお遣わしになった時、すべての人々、つまりギリシア人もユダヤ人もなく、すべての人々を御自分の許へと呼び集められたのです。旧約の民への約束は「律法を守るならば、救われる」というものでした。逆に言えば、律法を守らないならば、その人は呪われるということなのです。「わたしはこれをしている。あれをしている」と言って自分の立派さを証明しようとする人々は多いのです。

しかし、守らなければならない律法は数限りなくあります。先ほどの親子関係の例で考えてみても、「親が子を甘やかさない方が良い」というかと思うと、「親の扶養のために子供の生活が成り立たなくなってしまっている」という現実があります。これをすれば絶対だ。あれをすれば絶対に正しいということが実際あるのでしょうか。わたしたちはあれこれ自分の考えを述べ、人を時には批判するものですが、実際には他人に当てはまることが、自分に当てはまらないということがたくさんあり、またその逆もありますから、一律に律法を守ることでは救われないということになります。

イエス・キリストは、このようなわたしたちのために、自ら律法によって裁きを受けてくださいました。それは律法を守って救われることのできないわたしたちが、ただ神の恵みによって救われるためです。キリストはご自分の捧げる犠牲によって、わたしたちがただ恵みによって神の子となるための道を開いてくださいました。わたしたちはユダヤ人ではありません。わたしたちは当時の異邦人、ギリシア人やローマ人と同じ立場にいます。キリストによって、ギリシア人にもローマ人にも、すべての人に救いを得させる神の恵みが現れたのです。だからこそ15節では、世界の共通語であるギリシア語と、アッバ(アラム語で父)というアラム語を並列させて、神への呼びかけを強調しているのです。今や、キリストによって、すべての人が「天の父よ」と親しく呼びかけることが出来るのです。

わたしたちがもし、本当にこのことを信じるならば、そのこと自体、神の聖霊がわたしたちに送られてきている証拠となります。わたしたちは主イエスの御名によってお祈りを捧げていながら、主の祈りを唱えていながら、他方で何と思い煩いの多いことでしょうか。何と不平と愚痴に陥りやすいことでしょうか。真剣に反省しなければなりません。なぜなら、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と書かれているからです。パウロは更に、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と主張しています。「あなたがたは『人を奴隷として再び恐れに陥れる霊』を受けたのではない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちを神の子としてくださる聖霊は、神の自由なお働きによってわたしたちを導き、成長させてくださるということではないでしょうか。

しかしながら、パウロが福音を宣べ伝えた教会の中には、まだまだ律法を守ることによって教会を整えようとする力が働いていたと思われます。わたしたちの中にはイエス・キリスト以外、決して誇るものがあってはならないのです。ところが熱心な奉仕者をほめたたえるあまり、その人の教養学歴をほめたたえ、その人の社会的地位をほめたたえ、その人の力をほめたたえる傾向はどうしても否めません。褒められる側が問題なのではなく、ちやほやする人々に非常な問題があるのです。なぜ、ちやほやするのでしょうか。それはすぐれた賜物を持っている人に取り入って、自分が利益を得ようとするからではないでしょうか。特に気前よく献金する人々に対する、他の人々の態度に、非常に問題を感じることがあります。あの人はお金持ちだ、という噂を流す人々の意図は明白です。人と比べて「自分は貧しいから」と言い、捧げない口実にするのです。何とか理由をつけて自分を正当化しようとします。こういうのを偽善と言います。こういう態度を続けているうちに再び律法に縛られ、神の霊が与える自由を失ってしまうでしょう。

教会を建てるための戦いは、自分の言い訳を作り、自分の気に入った教会を建てることではありません。しかし、天には父がおられることを心から信じ、祈るならば、わたしたちは父から聖霊を受けることが出来ます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と聖書は述べております。

神の聖霊がわたしたちにしてくださる証しは、「わたしたちの霊がキリストの御霊を指導者、また教師として持ち、神によって子としていただく」ということを確実にするほどのものです。しかし、わたしたちの性質は、自分では、このような信仰を心に抱くこともできません。ただ聖霊の証しによるのでなければ、ここに到達できないのであります。ですから、もし聖霊がわたしたちの心に、神の父としての愛を証ししてくださるのでなければ、わたしたちは祈りをすることができません。ですからわたしたちは、神に「父よ」と口で呼びかけ、また心の中でもそのように固く信じるのでなければ、神に正しく祈ることはできないのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」わたしたちがもし神の子であることを信じるならば、神の相続人であることも信じることになりましょう。

神の相続は、永遠の命を相続するのです。このことはこの世の相続のことよりも、実ははるかに大切なことでありますが、わたしたちは聖霊の助けがなければ、この大切さも全く理解できないでしょう。教会にこの世のことを持ち込んで来る誘惑にわたしたちは弱い者ですが、自分の行く先々のこともないがしろにして持ち物を誇っているのは、実に浅ましいことです。

私は最近、ひどい風邪を引きまして、久しぶりに近所のお医者さんにかかりました。すると病院の様子は二、三年前とは、また様変わりしていました。以前は待合室に患者があふれていましたが、今は驚くほど空いています。その分、お医者さんは各家を駆けずり回り、終末期医療に向かう人々を安全に病院やホスピスにお世話しているようでした。このお医者さんは10年以上前に、私が牧師であると知って、こう質問をしていました。「人は年取って死んでいく。それでどうしていけないんでしょうねぇ。」

お医者さんが今も同じ考えを持っているのかどうか分かりません。しかし、わたしたちが、神の子として神の相続人であると信じることと、信じないことには、大きな違いがあるでしょう。キリストによって罪赦され、神の子とされたわたしたちは、キリストと共同の相続人であると信じる。すると世界が変わるのではないでしょうか。世界の何が変わるのでしょうか。キリストはわたしたちの代わりに苦難を忍んでくださいました。ご自分の罪の報いとしての苦しみではありません。人の苦難をご自分の身をもって受けてくださった。この愛に神の栄光が表れているのです。私たちはこの愛を知りました。この愛を知るときこそ、世界が変わるのです。

このキリストに従って生きましょう!キリストの苦しみはわたしたちの救いのためです。わたしたちは、今はキリストと共に苦しみことが出来る。キリストと共に苦しんで、キリストと共に永遠の命を受けることが出来るからです。年を取るということには、多くの困難があります。しかし、希望に生きる高齢者になりましょう。それ自体わたしたちにとって善いことに違いありませんが、そればかりでは決してないと思います。わたしたちの使命は、地上に教会を建てることだからです。わたしたちの後に希望が残るということが何よりも大切です。その希望によって後の世代が慰めと励ましを受け、ここに真の救いがあることを確信して生きるようになるように、私たちは祈るのです。

キリストに従うことは自分の力や業によってできることではありません。ただ天に昇られたキリストが送られる聖霊がわたしたちを導いておられるのです。その自由なお働きによってわたしたちは、楽なことばかりでなく、むしろ困難なことも辛いことも、すべてのことを時宜にかなって与えられた恵みと感謝することができるのです。祈ります。

 

恵みと憐みに富み給う主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。あなたはわたしたちを励まし、天の父と呼びまつる幸いをお知らせくださいました。私たちは、自分の働きによって教会を建て、各人の家庭を支えようと一生懸命になりますが、困難は増すばかりです。しかし、あなたの聖霊によって、私たちはあなたを父と呼ぶことが許されました。私たちの力と知恵の及ばない深いご配慮によっていつも導かれていることを信じる者とならせて下さい。そしてここにただ恵みによって生きる教会を建てて下さい。そして私たちに、なくてならない命の御言葉を満たしてください。

東日本連合長老会とともに歩んでおりますことを感謝申し上げます。どうかこの小さな群れをも豊かに用いて、教会の中でも外にあっても、主のご栄光を表す者とならせて下さい。受難節を歩んでいる私たち、どうか自分の行いに頼り、あなたの助けを呼び求めない罪から私たちを救い出してください。

洗礼準備が御心のままに導かれますように。また来週は、教会の3月定例長老会議が持たれます。どうぞ、来年度の計画、諸行事を決めるにあたり、御心が行われ、御名があがめられる計画となりますように。また、特に記念誌編集のために多くの方々のご協力が得られますように、私たちの過去の歩みが未来に向かって用いられる記録となりますように。

ご病気の方々を覚えます。どうかこれまでの恵みに満ちたご配慮を感謝しますとともに、それぞれの方々が良き治療を受けることができますように道を開いて下さい。どんなときにも私たち信者のすべてが、主の証人として立たされていることを心に確信し、無力なときにこそ、ただ主の恵みによって歩むことができますように。

教会の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。