ペンテコステ礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌7番
讃美歌181番
讃美歌183番
《聖書箇所》
旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)
◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
新約聖書:使徒言行録 2章1~13節 (新約聖書214ページ)
◆聖霊が降る
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
《説教》『聖霊が降る』
「五旬祭の日が来た」と本日の物語は始まっています。この祭りは、旧約時代に守られていた「七週の祭」に由来するもので、元来、小麦の収穫を祝う日でした。申命記やレビ記の定めによれば、過越祭の安息日が終わり大麦に鎌を入れ収穫し始めました。過越しの日から七週後、即ち、五十日目に小麦の収穫が始まり初物を神に献げる「七週」「50日」後に当たります。更にこの日は、「過越の閉じる日」とも呼ばれ、過越祭に始まる一連の春の行事の終わりの日とされ、すべての仕事を休み神殿に集まる大切な日でありました。この祭が、過越から数えて五十日目にあたることから、「五旬節」とも呼ばれ、そのギリシア語がペンテコーストス「50番目の日」なのです。ですから、ペンテコステは、穀物の収穫を祝う日であり、本来、それ以上の何ものでもありませんでした。
「五旬祭の日が来た」。私たちが、先ず注目するのは、この「来た」と訳されている言葉であります。この言葉は「満たす」という意味の言葉を強めたものであり、「時が満ちた」「いよいよその時が来た」という内容を持っています。
「時が満ちる」とは、重要な出来事、予告されていた事柄の実現の近いことを意味します。ですから、ただ「過越祭から五十日が経過した」ということではなく、「ペンテコステの日に満ちる時」とは何か、「満ちる時そのもの」に眼を向けなければなりません。そして、「満ちる時」を理解するためには、当然、それに先立つ「約束」を思い返さなければなりません。
主イエスが十字架に向かわれる前に弟子たちに約束していたことを思い出してください。新約聖書200ページ、ヨハネによる福音書16章12節から14節に「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」とあります。主イエスはご自身がこの世から去られた後に、聖霊を送られることを繰り返してお約束になったとヨハネ福音書は記しています。残された弟子たちの苦難を予告されると共に、その苦しみが喜びに変わる日のことを、はっきりと告げられました。「真理の霊」をこの世に送り、その聖霊なる神こそ、私たちの「助け主」であり、「すべてを父なる神の御計画に従って整える」ということを、主イエスは約束されました。
もちろん、十字架前夜の弟子たちには、その御言葉の意味が分からなかったでしょう。しかしながら、主の御言葉が謎に満ちていたにせよ、「来るべき日には、何かが起こる」ということは、弟子たちも感じ取っていたのです。
そのあとに続いた十字架と復活を巡って、明らかとなった弟子たちの惨めな姿、裏切りと挫折、混乱と絶望。それらを通して、主イエスは、新しい御業へと弟子たちの眼を向けさせて、「来るべきその日」に対する信仰の姿勢を整えさせたのです。
本日の使徒言行録2章1節から3節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
これが、この世に教会が初めて誕生した時でした。いったい、何が起こったのでしょうか。
1章12節以下によれば、すでに使徒と呼ばれた弟子たちや主イエスの家族を含めた主イエスに従って来た人々120人程が皆、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。彼らには祈ることしかありませんでした。祈る以外、なすべきことがなかったと言ってもよいでしょう。父なる神の御許に帰って行かれた主イエスの御言葉に彼らはすべてを委ねるようになっていたからです。彼らは、「この時」を待っていたのです。神の力が与えられ、為すべきことが教えられる「時」を、ひたすらに待っていました。それ故に、この2節の「突然」という言葉が、言いようもない「喜びへの招き」として響いて来るのです。
私たちは、聖書の御言葉を読むとき、ときとして、理解できない出来事にぶつかります。神の御心は、「理解できないことがあまりにも多すぎる」ということは事実です。それは、神の知恵によるものであり、私たちとは比べものにならない深い御心から出ているからです。それ故に、理解できない、不合理であると言って御言葉を退けるならば、一番大切なものを失ってしまうことにもなります。「不合理なるが故に信ず」という古典的な告白は、キリスト者すべてに共通なものと言えるでしょう。信仰とは、理解できないことを信頼することなのです。主イエス・キリストが父なる神の御心を受けてすべてを良いようにしてくださる。私たちは、その時を待つことに最大の努力をすべきです。
「激しい風が吹いて来るような音」。「炎のような舌」。すべては「~のような」という表現であり、その時の光景を、直接的・具体的に語ってはいないことに注目すべきです。それは、「風」ではなく「炎」でもなく、「舌」でもありません。何ひとつはっきりと示されてはいないのです。
「天から聞こえた音」とは、「風の激しさ」を表現するものです。眼に見えぬ「風の激しさ」は、「音の大きさ」でしか表現することはできません。それでは、これほどの激しさで迫って来る「風」とは何であったでしょうか。「風:プノエー」とは、「息」という意味です。ここで語られている「風」とは、自然現象である「空気の流れ」ではなく、「神の息」のことなのです。
神の驚くべき力を秘めた聖霊に、突然満たされた人間の驚き、それは、あたかも全世界に響き渡るような強烈な体験でした。彼らは、頭の中で「聖霊に満たされた」と考えたのではありません。そう「思い込んだ」のでもありません。人間の思いのすべてを遥かに超える「神の力」に包み込まれてしまったのです。
それ故に、生命と力とに満ちた聖霊なる神を、「風と炎のような舌」という想像を絶するような表現で語る以外に方法を知らなかったと言うべきでしょう。
4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。
これこそが聖霊なる神が降られた目的であり、新しく造られた教会の姿です。彼らは語り始めたのです。どこの国の言葉で語ったのか、何ヶ国語であったのかを考えることは意味のないことです。ペンテコステの日に起こったことは、語学の天才の誕生ではなく、「教会の誕生」です。それ故に、教会とはどのようなものであるかを考えることが何よりも大切なのです。
私たちの教会は、「すべての人間を救う」という神の永遠の御計画の中で、欠くことの出来ないものとして新しく造られ、今、このように存在しています。教会は、復活のキリストが、御自身世にとどまって親しく導かれること以上の大きな働きをするためのものとして、特別に与えられたものなのです。
「神の時」が新しく教会を生まれさせ、罪の中に生きて来た誰もが予想すら出来なかったにもかかわらず、恩寵の賜物として新しく建てられたのが「聖霊の宮なる教会」なのです。聖霊の宮である「教会」に生きる喜びに満たされること、それこそが、主が約束して下さった「来るべきその日」のキリスト者の姿なのです。
先ず、ここで注意しなければならないことは、ここに集まっている人々は、「すべてユダヤ人である」ということです。それが5節の指摘することでした。また、9節以下の一覧表は、「各国の人々」という意味ではなく、「それぞれの地方から帰って来た人々」ということであり、これも「ペンテコステのために海外から帰って来たユダヤ人」と理解すれば十分でしょう。この帰って来たユダヤ人とは、紀元前597年のバビロン捕囚に始まったユダヤの地から離れていったユダヤ人で、エジプト、小アジヤ、ローマ等に広く離散して、新約時代のアレキサンドリアには100万人以上も居ました。これをディアスポラ「離散」のユダヤ人と言います。現代的に言えば、それらの人々が祭りのために故郷に帰省したということです。
4節の「ほかの国々の言葉」という表現は、何を表しているのでしょうか。ある人々は「離散したユダヤ人の各国の言語による証しだ」と説明しています。それにしては、人々が7節にあるように「驚き怪しんだ」り、13節の「驚き、とまどった」のは何故でしょうか。11節の「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いた」という驚きと、13節の「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲りは、同時には理解できません。加えて、この場にいた多くの人々の悔い改めは、14節から始まるペトロの説教を聴いた後に初めて起こって来たのです。人々の悔い改めは37節の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という正しい反応へ導いたのはペトロの説教でした。ここでの、「とまどいと嘲り」しか引き起こさなかった「証し」とは、いったい何であったのでしょう。
これも2節以下と同じく、聖霊の御業を語る「信仰的表現」と考えることができます。即ち、5節以下は、4節の表現方法なのです。聖霊降臨を語る聖書は、その実態を明らかに語る表現方法を持ちませんでした。それと同じく、そこで始まった聖霊の御業も、このように表現するしかなかったのです。
4節の「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」には、「恍惚状態」という意味もあるので、正しくは、「異なる言語」ではなく「異なる言(ことば)」、あの「言(げん)」と一字で書いて「言:ことば」と訳すべきだとも言われています(岩波訳、岩隈訳、永井訳)。神の霊によって導かれる者は、自分の知恵・自分の思いではなく、神の知恵によって語り、「自分の想いを遥かに超える事柄を語る」ということです。そもそも福音とは、そういう要素を持つものなのです。
「このとき語られたのは何ヶ国語か」ということではなく、聖霊なる神によって、「教会は、今や、全く新しいことを始めたのだ」ということを告げているのです。告げられたれた内容が大切なのです。まさに、ヨハネ福音書1章1節で語られているように、「言(げん)」一字で「ことば」と呼ばせた「ロゴス」が示されたのです。
ヨハネ福音書14章27節で主イエスは、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と言われ、また今日の聖書箇所使徒言行録1章8節では、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とも言われました。その約束された「力」こそ「言」と漢字一字で書いた「ことば・ロゴス」なのです。神の力は、「ことば・ロゴス」となって人々の心の中に深く送り込まれるのです。それは、人間の業ではなく、人間の才能によるものでもありません。それは、神の業であり、神の力なのです。
9節から11節に記されている地名の一覧表も、単純に、表面的に見るのではなく、信仰の知恵によって、まったく別な意味で理解することが出来るでしょう。この地名は、厳密に語られているのではなく、言わば、代表として挙げられているのです。ユダヤを中心としてみると東方の4地域、北方の5地域、それに南方の2地域の11の地域であり、これにローマを加えれば十二です。十二は、民族を表す完全数であり、「全世界を表す」と考えられます。「西」がないと言われるかもしれませんが、ユダヤの西は地中海です。そこで、「この地名表をもって全世界を表す」という解釈が生じて来るのです。さらに、海の民の代表としてのクレタ、砂漠の民の代表としてアラビアを加えて完全さに念を入れたと考えられます。
「ユダヤが出発地であり、ローマが目的地である全世界を表す」と解釈することが出来ます。そのすべての人々が「今や福音を聞く時が来た」という宣言です。
13節の「新しいぶどう酒に酔っている」は、「安物の酒で悪酔いしているような、わけのわからない妄言」「理解できないことば」としか、この世の人々には受け止められなかったことが示されています。それだけに、聖霊の導きのもとに行われた教会の出発は、「全く新しいことであった」と言われるのです。
神の御業の先頭を走るべく建てられた教会が、世の人々から受ける反応も、このときの人々の反応と似ていると言えます。「福音をすべての人々へ」。「すべての人々に対する神の国への招き」。どこの国ではなく、どこの地域でもなく、すべての人々への招きを教会は語り始めました。
教会は、神の御心を実現するために誕生し、教会に集まる人は、神の御心に仕えるのです。
周囲の人々からのいかなる嘲りや無視、妨害さえも、世界は神の御心の下にあって、神の御業の働く場であり、御心は、「この世界に生きるすべての人間の救いである」という福音を、教会は語り続けるのです。
4節によれば、語り出したのは「聖霊に満たされた全員」でありました。「誰が」というのではなく、「一同」が「一斉に」語り出したのです。それが聖霊の御業です。聖霊に満たされた者は、語らずにはいられないのです。
これこそが、私たちのこの教会に与えられた聖霊の働きなのです。
お祈りを致しましょう。
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