聖書:エゼキエル書37章1-10節, 使徒言行録2章1-13節
世界中で起こっている痛ましい無差別殺人事件は、世界が今は形の見えない戦争状態にあることを示しています。人が集まるところ、しかも平和を楽しんでいる人々の所に、あるいは恵まれた人々、社会の中枢にいる人々が集まる場所がテロの標的になっている。これは本当に恐ろしいことです。太平洋戦争の末期には特攻隊が編成され、片道だけのガソリンで敵地に飛び立つということが行われました。つまり、国家の命令で行われた自爆テロのようなものです。日本人はあのようなことは二度と起こしてはならないし、二度と起きないと思っていたのです。ところが今、自分の命もろとも、多くの人々の命を滅ぼすことを実行する人々が世界中にいるということですから、わたしたちは明らかに、見えない戦争という狂気の世界の中に、生きています。
しかし、わたしたちは形の見えないものを恐れて隠れて生きてはいません。それどころか苦労して出かけるのです。行き先に幸いがあると信じるからです。ペンテコステの礼拝は、2000年前エルサレムで起こった奇跡を記念する日です。2000年前のその日、それは主イエス・キリストが十字架の死を遂げられた過越しの祭から50日目の五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。主イエス・キリストによって招かれ、12使徒とされた弟子たちの一人は主を裏切って敵に売り渡しました。しかし他の11人も自分の志や力によって主に従うことができませんでした。
最初の弟子たちとはそのような人々だったのです。そして、わたしたちはどうかと言えば、わたしたちもそうではないでしょうか。従おうとして従えなかった。何か不都合なことがあると逃げてしまうような者。主はそのような者たちをご存じでした。昔も今も。そのような者たちの罪を赦して再び主に従う者としてくださるために、主は復活してくださったのではないでしょうか。再び主に出会った使徒たちは喜びました。主は40日、彼らと共にいらして、聖書について教え、神の国について説き明かしてくださいました。そして約束してくださったのです。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」213下。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」この約束の意味を使徒たちは理解したでしょうか。いつ、どこで、何が、どうやって、ということは何も明らかではありませんでした。彼らは復活の主にお会いした後も、主が天に昇られるお姿を見送った後も、今までの彼らに過ぎませんでした。つまり、臆病な、弱い弟子たちの群れでありました。かつてたくさんの預言者が迫害を受けたように、そして彼らの主イエスさまが迫害を受けたように、彼らもいつ何時、憎まれ、叩かれるかもしれないと思っていました。敵を恐れて目立たないようにしていたかもしれません。
そんなに消極的な彼らが、ただ一つ一生懸命、熱心にしたことがあります。それは皆で集まって祈ることでした。使徒言行録1章15節によると、百二十人ほどが一つになって集まっていたようです。弱い人々が一つになって集まる。それは、一つになって集まる理由があるからこそ集まるのです。何ができるわけでもない。見通しも無い。ただ、一つになっているのは、ただ一つの約束を信じているからではないでしょうか。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」
時は五旬祭の日でした。主が十字架の死を遂げた過越しの祭の時と同じく、大勢の人々がエルサレムに集まっていました。世界中から祭りを祝うためです。観光旅行なのでしょうか。ユダヤのお祭りは人気の観光スポットなのでしょうか。そうではないのです。世界中から集まる人々の多くが離散のユダヤ人とその子孫でありました。イスラエル民族はソロモン王の次の世代には早くも分裂し、弱体化し、周辺の国々に攻め込まれ、また大国に滅ぼされた歴史を持ちます。その度に人々が国を追われ、奴隷にされ、異国の地で嘲りの種とされながら、世界中に散らされて行ったのです。そのような風前の灯のような民族でありながら、彼らは不思議に生き残りました。彼らはどこにいても、一つの信仰を守ったからです。どこにいても、一人の神を礼拝することを忘れない。そしてユダヤ教の祭の時には、遠くから近くから、人々はエルサレムに帰って来ました。
神は、この民のただ中に、全世界の救い主をお遣わしになりました。主イエス・キリストが十字架に贖いの死を遂げられたのは、過越しの祭の時でした。神は、エルサレムに全世界から人々の集まる時を選んで、この業を成し遂げられたのです。ですから、同じように、エルサレムに全世界から人々の集まる五旬祭の日に、天から聖霊が与えられたのも、神の深いご計画によるものであったに違いありません。今日読んでいただきましたエゼキエル書37章9節で、主なる神はこう言われます。「主はわたしに言われた。『霊(breath)に預言せよ。人の子よ(mortal)、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ(Come from four winds, O breath,)。霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。』」
霊よ、と呼びかけられているのは、息のことです。神の息(breath)です。霊よ、四方から吹き来れ、というのは四つの風から来なさい、という意味です。このように、聖霊は神の息であり、風として表現されています。わたしたちは聖霊を見ることができません。そして物理的な音として聴くことも、普通は全くできません。しかし、主なる神は御自身の神秘的なご性質をわたしたちに知らせることを望まれたからこそ、このようなしるしによってお示しになったのです。大勢の人々が集まるこの時をお選びになり、多くの人々の五感に知られる、このような激しい風の音で聖霊の降臨をお知らせくださいました。
炎のような舌という不思議なものが弟子たち一人一人の頭の上にとどまった、というのも、同様に神が奇跡によって表してくださった聖霊降臨のしるしでした。炎のような舌によって表されるのは、天下のあらゆる国のさまざまな言語のことではないでしょうか。使徒たちの声の中に、言葉の中に神の尊い力が示された。わたしたちはこのことを決して疑ってはならないと思います。炎の舌という言葉は、わたしたちに神の真理を理解させるために、真理をわたしたちの感覚によって示している。神はここでもまた、わたしたちの限界と能力に寄り添ってくださっているのです。
もう一度エゼキエル書の先程の言葉を思い出してください。主は言われました。「霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。」枯れた骨は殺された人々の骨です。彼らは戦争で殺されたのでしょうか。卑劣なテロの犠牲者なのでしょうか。それなら、ただただ犠牲者だ、彼らは何も悪くない、ということになるでしょう。しかし、実は、そうではないのです。では人々は、しかも神の教会の人々です。人々は何に殺されたのでしょうか。だれに殺されたのでしょうか。彼らは自分の欲に殺されたのです。自分自身の中にいる、他ならぬ神の敵に殺されたのだ。すなわち、人々は罪のために死んでいるのです。エゼキエルの時代にそうであったように、主イエスの時代にも神の教会の民が罪のために、神の敵に支配され、殺されてしまっています。そして、これは決して他人事ではない。昔のことではない。今の時代のことでもあります。
使徒たちの上に聖霊が降った時、彼らは立ち上がりました。主が彼らの心を燃え立たせ、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するための日、それがペンテコステであります。神はこうして歴史に残るこの日、聖霊を一度だけ、目に見える形でお示しになりました。このことは、聖霊の助けという神の目に見えない隠れた恵みは、今も決して教会に欠乏してはいないことを、わたしたちに確信させるためなのです。
先週、日本基督教団の西東京教区総会が行われました。教団は30ほどの異なる教派の合同教会でありますが、1970年頃から教団の外のクリスチャンから物笑いの種となるほどの問題を抱えていました。信仰共同体としての一致が損なわれる危機的な状況が続いていたのです。私が献身に至った大きな理由の一つでもありました。特に10年近く前には聖餐を巡る対立が激化しました。それまで非常に楽観的な人々、何よりも和気あいあいの交わりを第一とする人々も、これは大変だと危機感を持ったようです。二年か、三年前ですか、国分寺教会で行われた教区総会の際、かつてないことが起こりました。
教区総会は開会礼拝の時、聖餐式を執行し、日本基督教団信仰告白を全員で告白することになったのです。私が印象的だったのは、教団信仰告白をいい加減に(ただ読み上げているだけなのに)しか言えない人々が近くに居たことでした。使徒信条も礼拝では告白していないかと思うほどで、このような人々が牧師として、信徒議員として出席していたのか、と驚きました。また、聖餐の時、退席した人もいたようです。そして今年の教会総会、聖餐式を執行し、日本基督教団信仰告白を全員で告白し、教会の代表者の集まりとして整然と行われ、ヤジも怒号も飛びませんでした。
わたしたちは何を教会の旗印とするのか、について改めて考えさせられるのではないでしょうか。主の制定された聖餐を正しく執行すること。そして教団信仰告白に表された、世々の教会の受け継いだ信仰を表明すること無しに、教会は建てられないことを思わされます。けれども一方で、主は聖霊を降して、最初に教会にさせたことは、言葉による証しでした。全世界の人々の集まったところで、使徒たちは聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話し出したのです。
聞いた人々はびっくり仰天しました。それは一つには、使徒たちがガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったからです。そしてもう一つの驚きは、無学なはずの彼らが、大勢の人々の前で、一斉に異なった言葉を話す人々に理解できるように、神の偉大な御業を語り出したからです。すなわち、ある者はラテン語を話し、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したとしたら、これこそ神の御業による奇跡でなくて何であったでしょう。
この奇跡については、あり得ないとして退けるものから、様々な解釈をするものまで諸説あるのでしょうが、奇跡物語を神の御業として受け止めることもわたしたちの信仰です。言葉が通じるという奇跡です。日本聖書協会によりますと、世界には約6600のもの言語があり、現在も500近くの言語の聖書翻訳プログラムが進められているとのことです。相手に分かる言葉で話すということは、伝えたい良い知らせがあるからです。そして、福音がまだ届かない人々へ、是非届けたいと願うのは、何よりも神の愛がわたしたちに迫っているからに他なりません。神の働きと知恵について堂々と語った使徒たち。小さな者、弱い者、取るに足りない者の上に降りたもうた聖霊の御業を思う時、私たちもその計り知れない力に驚く者となりましょう。御業に驚く。御業を信じる。そしてこの奇跡を成し遂げて福音を世界に宣べ伝える教会を開始した主の聖霊は、今もわたしたちに働いてくださることを信じて、その御業を待ち望みましょう。祈ります。
教会の頭であるイエス・キリストの父なる神様
ペンテコステ、聖霊降臨日の聖餐礼拝を感謝します。御言葉によってあなたの御業を知らされる時、私たちは自分たちの力の不足、知恵の不足を嘆くことから解放されます。真に感謝です。主よ、あなたは聖霊を教会にお遣わしくださって、計り知れない励ましと大きな御業を成し遂げてくださる方であることを知りました。この小さな成宗教会の群れをもこれまで目に見えないお支えと励ましを送って下さいました。わたしたちは不信仰な者で絶えず、祈る代わりに思い煩うことの多い者ですが、悔い改めます。
主の聖餐に与り、罪の贖いに結ばれていることを感謝します。どうか、キリストの執り成しによって、この罪を赦し、わたしたちを新たに造りかえて、聖霊の神様の導きを常に信じ祈る者にしてください。
本日は、今年度初めて長老に選ばれた兄弟に対して、選挙で再選された兄弟姉妹と共に長老任職式を執行しました。主よ、どうぞ、だれよりもあなたに近くいますことを望み、自分の不足を嘆くことなく、豊かに賜物をくださる主に信頼してこの務めを果たすことができますように。また長老を選んだ教会全体も、それぞれの責任を主に対して果たし、教会が御心に適ったキリストの体の肢とされるように、怠りなく祈らせてください。
わたしたちは困難な社会にありますが、真に主なるあなたを拠り所として悪に傾くことなく、怠惰に落ちることなく、目を覚まして祈り、より苦労している兄弟姉妹の上に助けを祈り続ける者でありますように。成宗教会を通して、東日本の諸教会を通して、主の御心が示され、力強い伝道がなされるために、小さな時も所も、奉仕も生かしてください。
礼拝に来られない兄姉の上に、主の慈しみ、顧みが豊かに与えられますように。
この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。