唯一無二

6月の説教

聖書箇所 使徒言行録4章5-12節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

主にある兄弟姉妹の皆様、本日もまた主の御言葉を聴きましょう。

本日は、使徒言行録4章の御言葉が示されました。ここでは、12使徒のペトロとヨハネがユダヤ教の議員、長老、律法学者たちによって、取り調べを受けた時のことが記されています。6節には、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と記されております。

「ああいうこと」というのは、病人を主イエスの名によって癒したことを指します。これは3章のところで記されている、足の不自由な男を癒したことでした。3章16節にありますように、イエスの名によって、ペトロたちは、この人を強め、癒しました。

ユダヤ教の議員や律法学者たちは、これを問題視しました。なぜなら、イエスの御名によって人が癒されることを認めるならば、自分たちが死刑の判決を下し、十字架につけて殺してしまったイエスこそが、特別な力を持った存在、さらに言えば神の御子であったということを認めることになるからです。

そこで、彼らは、ペトロ達を尋問することで、ペトロ達を押さえつけようとします。ペトロたちを脅すことで、イエス・キリストの復活を宣べ伝え、主イエスの御名によって、人々を癒そうとすることを妨害しようとしたのです。

これに対して、ペトロは、彼らの圧力に恐れることなく実に堂々と弁明しています。8節にも「聖霊に満たされて言った」と記されておりますように、ペトロを強めたのは聖霊なる神でありました。聖霊が、ペトロに勇気を与え、証しすべきこと、語るべきことをお示しになったのです。

それでは、ペトロは聖霊に満たされてどのようなことを語ったのでしょうか。10節には次のように記されています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」

この10節の言葉にも表れているように、ペトロは、恐れることなく堂々と語ります。律法学者や長老たちのみならず、イスラエルの民全体に向けて、あなたがたが十字架につけて殺してしまい、神が死者の中から復活させられたキリストこそが、救い主であると宣言します。ペトロのこの変化は、驚くべきことです。なぜなら私たちは、聖書を読むとき、ペトロの信仰が、これまでとても弱々しいものであったことを知るからです。

例えば、イエス・キリストが十字架にかけられる夜、ペトロは、主イエスの弟子であることを指摘されました。その時、ペトロは、巻き込まれるのを恐れて、「私はイエスという人を知らない」と、三度も主イエスのことを否定したのです。そして、恐れてガリラヤに逃げ帰ってしまったのでした。

そのペトロが、今ここで、かつて関わりを否定した主イエスの御名によって癒しを行っています。さらに、取り調べの最中にも、その主イエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったではないかと、有力者たちに、物おじすることなく、はっきりと批判しているのです。それはイスラエルの宗教的指導者たちを、怒らせ、命の危険を生じさせる危険性のある行為でした。しかし、それにも関わらず、ペトロは、主イエスの御名によって、癒しを行い。またその名による救いを大胆に語ったのでした。それは、まぎれもなく聖霊の神の御導きに他なりません。なぜなら、誰も、聖霊による以外に、イエスをキリスト、救い主であると告白することはできないからです。

こうして、聖霊によって促されたペトロは、12節において、はっきりと主イエスの名による救いを証言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、ペトロの偉大な信仰告白であると言えるでしょう。聖霊によって、導かれたものが語る真実の言葉であると言えます。

思えば、キリスト教とは、このキリストの名に対する信頼に基づくものであると言えましょう。たとえば、わたしたちは、お祈りする時、最後に決まって、「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と締めくくります。これは、お決まりの定型句のように考えてはいけないものです。そこには、信仰的な意味が込められているのです。それは、ただキリストに依り頼むという徹底した救いの確信です。今日の箇所で、ペトロが証したように、私たちには、この名前以外に救いは与えられていないからです。

父なる神に祈る時、私たちは、自分自身の名によって祈るのではありません。また、天使や偉大な聖人の名によるのでもありません。ただイエス・キリストの名、イエス・キリストの権威によって、わたしたちは父なる神に祈ることができます。主イエス・キリストによって、私たちの祈りを聞き届けてください。私たちの祈りには、そのようなキリストへの徹底した信頼が込められているのです。

当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、信仰者であっても、しばしばキリストを忘れ、キリスト以外に救いを求めてしまうことがあります。『ハイデルベルグ信仰問答』の問い29、30でも、その危険性に対して警告しています。

問29 なぜ神の御子は、「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、

唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましては見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答え:いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、信教出版社、2002年、pp.31-32)

ここには、はっきりとキリストが唯一無二の救いであることが示されています。ここで大切なことは、キリスト「のみ」が救いであるということです。キリストによってのみ救われるのであって、キリスト「も」、また別の神も救いであるということではないのです。

このハイデルベルグ信仰問答の言葉は、ペトロの信仰の告白と同じように、日本で生きるキリスト教徒へ重要な課題をなげかけることになります。

なぜなら、この日本の宗教的観念では、このようなキリスト「のみ」の信仰は、しばしば受け入れがたいものとされるからです。たとえば、こういうことを言う人がいます。「たしかにキリスト教もいいものです。でも、結局は、どの神様を信じていても同じでしょう。キリストだって、お釈迦様だって、神社の神さまだって、どれもみな結局は同じでしょう。」

このような考え方をする方も、日本では少なくないように思います。そして、ハイデルベルグ信仰問答が警告しているように、私たち信仰者もまた、気を付けていないと、キリスト「のみ」の信仰から、キリスト「も」、他のもの「も」という信仰に陥ってしまう危険性を持っています。しかし、このキリスト「も」という信仰は、結局のところ、キリストを信じているとは言えない。そのことを、『ハイデルベルグ信仰問答』ははっきりと教えています。

このことは、「キリスト者」、「クリスチャン」という言葉にもよく表れています。この言葉は、わたしたちが何者であるかを良く言い表しています。キリスト者とは、そしてキリスト教とは、ただキリストにのみ、自らの救いの確信を置き、また望みを置くことです。救いの一部ではなく、救いに必要なことがすべてキリストにあると確信することです。

それは、キリストだけが、罪の赦しのために十字架にかかり、また死者の中から復活されたということによっています。キリストだけが、わたしたちの罪を許すことのできるお方であり、また永遠の命を与えてくださるということです。

主イエスの御名により頼むというのは、その犠牲に感謝し、その恵みの内を生きるということを意味します。ただ主が示してくださった救いを信じ、そこに唯一無二の慰めを見出しつつ、信仰の歩みを進めたいと思います。

祈りましょう。

イエス・キリストの名によって

聖書:詩編1182225節, 使徒言行録3110節,41012

 今年も恵まれてイースターの礼拝を守ることができました。主イエスのお墓はからっぽだった。このことによって弟子たちは、自分たちの罪が赦されたことを信じたのでした。それだけではありません。主イエスの復活という奇跡は、神が、差し出しておられる救いへの招きであります。主イエスの復活を信じるなら、その人の罪を赦されると、信じたのでした。私たちは礼拝の中で、世界中の教会が代々信じて来た信仰とは何かを学んでいます。それは古代教会から今に至るまで教会が受け継いで来た信仰告白で、それに基づいて明治時代に制定された日本基督教会信仰告白があり、また日本基督教団信仰告白も制定されております。

わたしたちの教会は洗礼式の際には日本基督教団信仰告白を告白しますが、1954年に制定された教団信仰告白の元になっているものが日本基督教会信仰告白なので、元々連合長老会に所属している教会では、この信仰告白を合わせて告白しているところもあります。

わたしたちが今取り上げて学んでいるのは、使徒信条です。本日は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白している、このところであります。この言葉は、教会の中ではイエスが名前でキリストが名字だと思っている方はいないと思いますが、世の中ではそういう誤解もあるそうです。

これは、イエス様は救い主キリストであると、私たちは信じ、主と崇めます、という意味であります。世の中にはたくさんの宗教があり、たくさんの神々と称するものがありますが、そのことを受け入れているのではありません。他の人々はどうであろうとも、私たちはイエス様こそ、救い主。私たちを救う御力のあるただお一人の方、神であると告白しているのです。今日の聖書はよく知られた神殿の前で起こった奇跡物語です。

この神殿を立てたのはヘロデ大王。マタイ福音書の2章に登場する異邦人の支配者であります。彼は壮大な神殿を建てましたが、その入り口の一つに「美しい門」という名の場所がありました。大層豪華で美しい装飾で飾られた門は当時の人々の目を奪ったことでしょう。ところがその入り口には一人の乞食が座っていました。境内に入る人々に施しを求めて生活をしていたのでしょう。美しい門とみすぼらしい乞食。それは全く不釣合と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。神殿が豪華であろうと質素であろうと、ユダヤの人々には神殿に来る目的は別にありました。

それは言うまでもなく、神を礼拝することです。では、復活の主にお会いし、主イエスはキリストであると信じた人々はどうしたでしょう。彼らもユダヤ人でした。主イエスを十字架に付けたのもユダヤ人。主イエスの復活を信じ、罪の赦しを信じた最初の弟子たちもユダヤ人でありました。では弟子たちは、主イエスを十字架に付けた憎き人々の指導する、仕える神殿には行かなくなったのか、と言えば、決してそうではありませんでした。彼らは家に集まって主を賛美し、パンを裂き、主の制定された聖餐を守ったことでしょう。しかし、彼らがこれまでしていたことを止めませんでした。それは毎日2回か3回、神殿に出かけて行ってこれまで通り、礼拝を守ることでした。

そういうわけで、ペトロとヨハネは神殿の美しの門を入ろうとしました。すると物乞いをしている人が目に留まりました。この人の方は、毎日大勢の人々が出入りするので、一人一人を見上げたりしなかったでしょう。ただ下を向いてお願いして居れば、中にはお金を落とす人がいる。それで良かったのです。彼はそれ以上、だれにも何も期待してはいなかったでしょう。

ところが、ペトロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。その人はびっくりしたでしょう。でも彼は自分が人に期待していること以外のことは考えませんでした。期待していること。それは、何かもらえることです。ところが彼の期待は裏切られました。しかし、彼の期待を全く打ち破ることが起こったのです。ペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。弟子たちの持っているもの。それは主イエスのお名前でした。イエス・キリストへの信仰でした。

金銀を持っている人々は、そうだれにでも分けて上げたいとは思わないものです。分けたらなくなってしまうと心配します。どこかに隠してでも取って置こうとします。食べ物でも沢山あったら、みんなに分けてしまわないで、何とか保存食にして取って置こうとするでしょう。ところが本当に良いものを持っている人は分け与えずにはいられない。本当に良いもの。それは、人に分けても無くならないのです。むしろますます豊かになります。それは何でしょうか。それがイエス・キリストの福音です。ペトロが持っているものは、しまいこんでおくことができないもの・・・それは福音です。福音は人から人へと伝えられてこそ福音である。福音は人々に伝えてこそ、その本当の意味、本当の力が現れるのです。

ペトロは彼が持っている福音を言葉によって、この人に伝えました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命令したのです。この命令は、決してペトロ自身の力や権威によって命じたのではありません。彼は、ナザレの人であり、私たちの救い主である主イエスの名を呼んで、その名を信じて、その名によって命じたのでした。言葉は力となり、結果を生み出します。それだからこそ、主イエスの力と権威は、命じられた人の上に現れることとなったのです。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行ったのです。

こうして、乞食の期待は全く裏切られました。彼はただいくらかの施しを求めただけだったのですが、思いがけないもの、立ち上がって、歩く力を与えられるという、全く信じられないほどの主の恵みに与ることになりました。「立ち上がる」というギリシャ語は、座っている状態から立ち上がるという意味ばかりではありません。人が眠っている状態から「起き上がる」、あるいは死んでいる状態から」「甦る」という意味をも表します。また「歩く」というギリシャ語は、「生活する」、「生きて行く」という意味でもあります。

エフェソの信徒への手紙5章14節(358ページ)に次のように言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」キリストの御名によって、私たちは死者の中からキリストと共に復活したのです。これからもキリストに照らされて恵みの道を歩みましょう。

何年も前から「美しい門」にいるこの足の不自由な乞食は人々に知られていました。人々が驚き怪しむ中で、彼は今やすべての参拝者の中で、一番喜びにあふれた人となったことでしょう。こうして、この出来事は証言したのです。救い主イエスの御名が真に権威あるものであることを、だれの目にも明らかなように証言するものとなりました。

福音を聞いた人々の一方は、他方に向かって呼びかけます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。すると呼びかけられた人は立ち上がり、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美するのです。素晴らしいことではないでしょうか。主イエスの名によって立ち上がる。そして神を賛美する。そのために私たちは教会に集まるのです。さて、私たちは今喜んで神様を賛美しているでしょうか。イエス・キリストの救いを自分だけのものにしておくことができずに、他の人に呼びかけずにはいられない人でしょうか。神の不思議な業としるしとは、このような人々の間に現れるでしょう。どちらも主イエスの御名の権威を証ししているからです。そしてこのような私たちが教会の門の内側に入って主イエスの名によって教会を建てることができるのです。

しかし、私たちはしばしば福音を忘れてしまう者ではないでしょうか。門の前に座りながら、入って行くことを忘れてしまっている。神様に溢れる恵みをいただきながら、感謝と賛美と祈りのために教会に集まることを忘れてしまう。神様の恵みを忘れてしまう恩知らずの罪深い者である私たち。しかし、だからこそ、福音はいつも繰り返し聞かなければならないのです。主イエスの名によって語られる罪の赦しの言葉を新たに聞いて立ち上がって行かなければならないのです。

小さなたとえ話をしましょう。これは古代教会の神学者が語ったものではないかと思いますが、今は覚えていません。世界という名の一人の乞食がいました。その名は「世界」というのです。彼が天の国の門の前に横たわっている。それを神さまは見ました。ところで、神様にはご自分の中に隠してしまっておくことのできないものがありました。それは御自分の命と愛でありました。世界という名の乞食はただ施しと冷たい飲みものを求めました。しかし、神さまは御自分の愛する御子を彼にお与えになりました。御子は人が従うべき真の人、人が求めるべき命でありました。御子は世界の萎えた身体の内に住んでくださいました。そして、世界が再び歩き、飛び跳ね、賛美できるようにして下さいました。それは、イエス・キリストの物語であります

ところで、イエス・キリストの名によって癒された人のことでペトロたちは非難中傷されました。しかしこのような迫害も、神様はキリストの名を高めるためにお用いになってくださることが分かります。ペトロは公の場で宣言する機会を与えられたからです。4章10節。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ペトロはさらに詩編118編を根拠として、人間の罪、特に人の上に立って人々を導いている指導者の罪を告発しました。

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」ペトロは人間の罪と神の恵みを恐ろしいまでに対比させています。「あなたがたはイエス様を殺したのだ。しかし、神さまはその方を復活させられたのだ」と。すなわち、人間が価値のないものとして軽蔑して捨てた方を、神さまが用いられるということが起こりました。隅の親石とは、建物が建てられる時の、最も端にある土台の石のことであります。隅というのは、大変不思議な二つの特徴があります。まず、建物の隅といえば、目立たない場所ですが、逆に建物の外から隅を見ると、いろいろな方向からよく目立ち、建物の根幹を支える要の石がそこに置かれているのです。

では主が隅の親石となって下さる目的は何でしょうか。それは、わたしたちがキリストを信じて、キリストの体の教会に組み込まれ、教会の生ける石となるためである。「私たちを救うことができるのは、イエス・キリストの御名によるしかない」という宣言を私たちは聞きました。代々の教会はこのお名前を信じ、告白しているのです。私たちはこのような確信をもって、信頼を以って、日々、主を見上げているでしょうか。この告白において、ペトロや使徒たちと同じ立場に立っているでしょうか。そうでないか、ここが私たちの決定的な違いとなる。この告白によってのみ、私たちはイエス・キリストの教会を建てることができる。

 

主なる父なる神様

皆をほめたたえます。先週はイースター聖餐礼拝を豊かに守ることができ、感謝でございます。私たちは新しい姉妹を教会に迎えることができました。どうかあなたの祝福に満ちた教会を建てるために、互いに主の御旨を行い、ご栄光を表す教会となりますように。教会総会をまじかに控え、様々な問題を解決していくことができますように。多くの兄弟姉妹が高齢のため、奉仕を続けることが困難です。若い方々も非常に忙しく困難を極めていますが、どうか助け合って礼拝を守り、奉仕を捧げ、あなたのご栄光と御心とを表す教会となりますように。総会の準備を祝し、また導いてください。長老選挙の上にあなたの恵みの導きを祈ります。長老、信徒の皆様のご健康をお支えください。教会学校はじめ、若い方々の信仰の教育が発展し、良い実を結ぶ教会となりますように。教会学校に与えられている生徒さんとご家族がイエス・キリストの福音を豊かに聞くことができますように。

東日本連合長老会に加盟して5年になります。この間のお導きを心から感謝します。長老会もますます忙しくなりますですが、どうか長老ばかりでなくすべての教会の奉仕者が恵まれ、支えられますように。御言葉によって良い学びが出来、共に教会を建てて行くことができますようにお助け下さい。

今、お病気が重く、お見舞いもできない方がおられます。どうぞ、また共に集い、主の御顔を仰ぎ賛美を捧げることができますように、ご回復を切に祈ります。また特にご高齢の方々の日を平安で満たしてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。