信じる者には、何でも出来る

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌380番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 19章9節 (旧約聖書857ページ)

19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。

新約聖書:マルコによる福音書 9章14-29節 (新約聖書78ページ)

9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

《説教》『信じる者には、何でも出来る』

マルコによる福音書9章に入って、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて「高い山」に登り、神の栄光をお教えになりました。それは、僅か一瞬の出来事でしたが、それまで隠されていた「イエスこそ終末のメシア・キリストである」という神の御業の秘密を見ることか出来ました。「山上の変貌」と呼ばれるこの物語は、弟子たちにとって、思いがけない至福の時でありました。そして主イエスは弟子たちと共に山を下りるとき、再び死と復活による本当の救いについて予告をされます。

その「山の上」から下って来た「山の下の世界」即ち現実の世界は、主イエスの御心とはかけ離れた姿をとっていました。本日の14節以下には、「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。」とあります。

この時、山の下には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を除く弟子たちが残されていました。彼らのところに、悪霊に憑かれた子供を持つ父親がやって来たのです。ナザレのイエスの評判を聞き、恐らく最後の望みを主イエスに託して来たのでしょう。しかし、そこに主イエスは居られず、主イエスの帰りを待つ弟子たちだけがいました。

主イエスの居られない時の弟子たち。帰りを待つ弟子たち。これは何を意味しているのでしょうか。それは、今、私たちが置かれている状況とも言えるでしょう。そのことから、本日の物語を見て行くことにします。

教会とは「イエスの帰りを待つ者の群れ」とも言えます。そして、「イエスの帰りを待つ者の群れ」には、イエスの御言葉と御業とを委託されているのです。世の人々は、この「イエスの帰りを待つ者の群れ」に、イエスに期待したことを代わって実現することを要求したのです。

悪霊に憑かれた子供を持つ父親は、主イエスが留守であることを知ると、弟子たちに癒しを願いました。かつて、弟子たちが各地に派遣された時、彼らは「多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒した」と6章13節には記されており、決して突拍子もない無理な願いではありませんでした。ですから、彼らはその時の経験を思い起こし、癒しを試みたのでしょう。しかし、この日、奇跡は起こりませんでした。弟子たちは悪霊を追い出すことに失敗したのです。

ある人は、「これは暗い物語である」と言っています。何故なら、「イエスを待つ者の群れ」が示す、哀れな姿だからです。残された弟子たちは、主イエスの留守の間も御言葉を語り、福音を宣べ伝えていたことでしよう。無為に過ごしていたとは考えられません。彼らは彼らなりに、宣教の御業に励んで来たことでしよう。しかし今、明らかになったことは、彼ら自身には「何も出来ない」ということなのです。主イエスと共に居たときには可能であった癒しの奇蹟が、「弟子たちだけでは全く出来ない」ということに気付かされたのです。この失敗が、律法学者たちにとって絶好の攻撃目標になったのは、当然のことでした。

世の中には、自分では何もしないが他人の失敗を決して見逃さない、という人が沢山います。「イエスの帰りを待つ者の群れ」即ち教会が語ることを、その傍で聞いているようなふりをしながら、ひとたび教会の無力さが顕わになった時、時を移さず、直ちに非難の矢を向けようと構えている人々が大勢いるのです。

弟子たちは自分たちだけでは悪霊を追い出すことが出来ませんでした。病気を癒すことに失敗したのです。そこで、律法学者たちは「何故治らないのか」と問い質したのでしょう。14節には「議論をしていた」と記されていますが、それは議論などというものではなく、失敗の追及とその弁明という「互いの言い争い」「罵り合い」と言うべきものと思われます。「何故、治らないのか、出来るならやってみよ」「お前たちが邪魔して煩しいから気が散って駄目だ」。せいぜいそんなところでしよう。

この罵り合いが「問題の本質」に関わるような論争ではなかったことは、子供の父親を含めた群衆が、帰って来た主イエスを見つけるや否や、直ちに彼らを離れて走り寄ったことからも明らかです。

父親の願いは悪霊に苦しめられている子供を救うことでした。しかし弟子たちも律法学者たちも、互いに相手を非難し攻撃するだけで、病気の息子を連れて来た父親の心を少しも考えていません。この罵り合いには父親の痛みが全く顧みられておらず、苦しむ息子を前にして途方に暮れている者を無視し、ただ単なる宗教上の議論に終始している、人間的対立でしかありませんでした。

ですから、集まった群衆にも、聞くに耐えないものであったのでしょう。「もはや、この人々ではどうにもならない」という絶望でしかなかったのです。

19節の主イエスの嘆き「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」とあります。

この主イエスの嘆きが、主イエスの周りだけのものであった、とは言えないでしょう。また主イエスの指摘する「あなたがた」とは、この時の弟子たちや律法学者たち、群衆だけに限定されているとは言えません。私たちは、「山の下」に住み、「イエスの帰りを待つ者の群れ」として、この御言葉を聴かなければならないのです。

この時、最も非難されているのが弟子たちであるのは明らかです。15節によれば、「群衆は皆駆け寄って来た」と記されているのに、弟子たちのことは記されてはいません。主がお帰りになった時、真っ先に駆けつけるのが弟子の姿であるはずです。自分たちに課せられた困難な課題を、主イエス・キリストに委ねるのが弟子の為すべきことである筈です。誰よりも先に、誰よりも熱心に主のもとに駆けつけ、苦しみを訴えるのが召された者の姿ではないでしょうか。

主イエスが「信仰がない」と決め付けられたのは、彼らが奇跡を行えなかったからではなく、弟子として最も大切なことが欠けていることを指摘しておられるのです。

「イエスは主である」「ナザレのイエスこそキリストである」という口先だけの告白など、何の役にも立ちません。8章29節に記されているように、彼らは、確かに、ペトロと共に、フィリポ・カイサリアで主イエスへの信仰を告白しました。しかしその信仰告白が、自分の生きる姿の中に表されていなければ、新しいことは何も起こらないのです。主は主であり、しもべはしもべです。しもべは主の下にあって初めてしもべであり、主から離れて独立しようとする時、しもべは、「主の栄光を映し出す務め」を放棄することになるのです。

20節から24節には、「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」とありました。

ここのイエスの御言葉は、父親に語られていますが、むしろ弟子たちへの想いが込められているように聞こえます。神の子キリストにとって、悪霊を追い出し、病気を癒すことは簡単なことでした。事実、25節以下に記されているように、イエスの一言で悪霊は逃げ出すのです。ですから、この父親の求めを聞くだけならば、また律法学者たちを黙らせるだけであるならば、23節と24節の「信じる者」の話は不要な筈です。

しかし、この時、主イエスにとって最も大切であったことは、十字架への時が切迫しているこの時、後を託す弟子たちの霊的成長であったことは、「何時まであなたがたと共にいられようか」という19節の御言葉からもあきらかです。

「信じる者には何でもできる」。この御言葉を、弟子たちはどんな気持ちで聞いたでしょうか。彼らは「信じる者」になっていた筈でした。少なくとも、フィリポ・カイサリアでペトロと共に信仰告白した時、彼らは「信じる者になった」筈です。しかし今、現実に自分たちの無力さを知らされた時、同時に、「信じる者になり切れていない自分」を、思い知らされたのです。

「信じる者」とは、どのような人なのでしょう。「信じる者」は、本当に何でも出来るのでしょうか。29節で主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」とあります。

「信じる者」とは、「祈る者のことである」と主イエスは言われているのです。「信じる」とは「祈る」ことであり、「祈る」ということは、「自分の全てを神に委ねること」です。「祈り」は、人間の独り言ではなく、祈る者は、聖霊の御導きにより、神とキリストとの交わりの中に招かれるのです。

神との交わりに於いては、自分の主導権を全く放棄することが「真実の祈り」です。ですから、「祈り」によって神に委ねた出来事は、もはや人間の業ではなく、神の御心がそれを実現して行くのです。このことが明らかであるならば、「祈り」において不可能を想定する人はないでしよう。「もし出来れば」という「祈り」はあり得ないのです。

もう一度申し上げます。「祈り」とは、人間の勝手な独り言ではなく、祈る者と主なる神が、聖霊なる神の御導きによって、交わりの姿をとることです。そしてその祈りの中で、御心の実現を求めるのがキリスト者というものです。

もしあの時、弟子たちが御心を第一に考えて祈っていたとするならば、彼らは、誰よりも先に、帰って来られた主イエスのもとに駆けつけた筈です。つまり、24節の「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」との叫びこそ、弟子たちの言葉でなければならなかったのです。

この物語は、「教会にとって最も大切なものは何か」ということを明確に示しています。主イエスは、御前に平伏した父親に、「信じる者には何でも出きる」即ち「祈る者に不可能はない」と、はっきりと言われました。

この御言葉を聞く時、多くの人々は「不可能はない」という言葉の大胆さに驚きます。そんなことがどうして言えるのかと不思議に思います。しかし、よく考えてください。「祈り」によって起こるあらゆることは御心の実現であり、「神の御業に不可能はない」のです。本当に驚かなければならないのは、その不可能がない大きな力を持つ「祈り」が、「私たちに祈ることが許されている」ということなのです。

私たちは、今、「山の下」にいます。最も大切なことは、「山の下の教会が常に祈りに満たされている」ということです。

教会は何をする所かと問われるならば、確信を持って、「教会は祈る所です」と答えるべきです。それ以外にはありません。私たちは、祈ることによって、主から託された使命を果すべく生きているのです。山の下で、キリストが再び帰って来られることを待つ者の群れである私たちは、主が教えて下さったように、「ひたすら祈る」のです。

教会に託されている祈りの交わりを軽んじ、共に祈ることを怠る者には、教会の本当の力が分かりません。現代の教会の切実な問題は、祈りの欠乏であり、特に祈祷会の衰退でしょう。そう言った意味で、私たちの教会で毎週行われる水曜日の祈祷会を充実させることこそ、主なる神の御恵みです。

私たちの教会は、祈る者で満ちていなければなりません。家族の救いを祈り、主の御栄えを祈り、地域の救いを祈り、神の宮としての教会の栄光を祈るのです。祈る者だけが主の力の偉大さに触れることが出来るのです。

キリスト者は、祈りの信仰の中にこそ、生きなければならないのです。

お祈りを致します。