十戒について

聖書:出エジプト20117節, ローマの信徒への手紙1014

 教会は福音を宣べ伝えるために、神さまが建ててくださっています。イエス・キリストは、神の言葉と言われます。教会は礼拝の説教において、神さまとはどなたであるか。そしてイエスさまがどなたであるかをお知らせします。それは、聞くわたしたちが神の言葉を信じて生きる者とされるためです。

教会は聖書によって神の言葉を宣べ伝えるのですが、聖書は御覧のとおり、大きな書物で、66巻の文書から成っています。クリスチャンになる前にこれを隅々まで読んで、頭に入ったという人は、多くはないと思います。それどころか、本当に少数と思います。もし、そうしなければ洗礼を受けることはできない、という掟になっていたとしたら、この2千年経った今、20数億ものクリスチャンは生まれなかったでしょう。宗教改革がヨーロッパで起こったのは16世紀ですが、その時代、字を読める人の数は少なくて、その上、聖書も個々人で持つなどということは考えられませんでした。

そこで信仰の教育はどのようになされたのでしょう。人々は使徒信条と、主の祈り、そして 十戒 によって信仰教育を受けました。この三つが三要文と呼ばれています。今、成宗教会では、全国連合長老会の発行している「新・明解カテキズム(信仰問答)」によって、教会の信仰を学んでいますが、それは、三要文を学ぶということです。

さて、わたしたちはちょうど去年の9月から礼拝で使徒信条について学んで参りました。先週、永遠の命を信ずということの意味を知ることができました。「永遠の命を信じます」とはどういうことか。その答をわたしたちは学びました。それは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。この信仰が、使徒信条の最後の告白になっています。最後にして、最も重要な生きる目標が示されている訳です。

わたしたちは今、少子高齢化社会を生きています。そしてこの社会の傾向、潮流は急に変るということは考えられず、あと何十年も続くと思われます。それはたくさんの高齢者が死を迎える一方、若い人々の数は少ないので、日本人だけを考えれば、人口の減少が続く社会です。人の一生を考えれば、高齢になって地上を去るということはごく当たり前なのですが、大勢の人が少数の人を見送るのではなく、大勢の人が世を去って、少数の人が残されるという社会現象は、決して当たり前ではなく、深刻だと受け止めています。しかし、深刻なのは、地上を去る人々ではなく、あとに残される人々ではないでしょうか。

教会は主イエスさまのご命令に従って、福音を宣べ伝えて来ました。神さまから与えられたこの務めを十分に誠実に果たしたならば、世を去ることは平安そのものです。教会は永遠の命を信じると告白しているのですから。わたしたちの人生は、真に至らない罪にまみれたものであっても、最後の最後まで主の憐れみを信じ、主の救いを信じて歩み通すことが大切です。こんな者でも愛してくださる神さまがおられることを信じて、イエスさまに結ばれて年を取ったなら、これほど恵まれた生涯はありません。地上を生きている今も、既にイエスさまと結ばれ、神さまの永遠の命を生き始めているのですから。

しかし、教会にいるわたしたちには、深刻に思うべきことがありましょう。そうでなければなりません。なぜなら、大勢の中高年が地上を去った後に、残される人々の数がたとえ少なくなっていくとしても(そうでなくなる時が来ることを、わたしたちはもちろん希望しなければなりませんが)、その残される人々にも福音が宣べ伝えられなければならないからです。教会が地上に立っているのは、人々が神さまを信頼して地上の生活を神に従って生きるためなのですから。

初めに結論を述べたようになったかもしれませんが、今日からわたしたちは十戒について学ぼうとしております。御言葉に聴きましょう。出エジプト記20章2節。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神さまがモーセを通して人々に与えた十戒、10の戒めは、聖書の今日読んでいただいて出エジプト記20章と、申命記5章の二か所に記されています。来週から3節から17節までを順に学んで行きたいと思いますが、2節は十戒の前文に当たる部分で、大変重要な意味を持っています。

「わたしは主」であると宣言される神さまは、万物の主であります。すなわち天地万物を創造された主なる神である、と名乗りを上げておられます。そして、その神さまはあなたに向かって言われます。わたしはあなたの神であると。では、あなたと呼ばれた人々はどういう人々でしたでしょうか。それは出エジプトの民です。神さまはあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である、と宣言なさいました。

十戒という昔の映画を覚えている方もいらっしゃると思います。その頃教会もイエスさまも知らなかった私でも覚えている映画です。チャールトン・ヘストンのモーセに率いられた民は、葦の海の手前でエジプトの軍勢に追いつかれ、もう絶体絶命というその時、奇跡が起こりました。神さまは、紅海の水を真っ二つに分け、海の道を開いてくださいました。CGも何もない時代のあれだけの奇跡の場面をどうやって撮ったのか、ということが大変衝撃的で、長く人々の印象に残った映画だったと思います。

しかし、これは映画ではなく、聖書が語る言葉であります。わたしたちの命の危機、滅びの瞬間に、御手を伸ばして捕え、救ってくださる神さま。無から有を呼び出し、死を命に変えてくださる神さまが、同時にわたしたちの生きるこの歴史に働きかけて、イスラエルを救い出してくださる方であることが明らかになった瞬間です。この方こそ、真の神なのではないでしょうか。神さまに与えられた十戒は、神さまの救いに応えるために人々に与えられたものです。

救いとは、奴隷の家から解放されることであります。奴隷の状態とは、だれかに支配されている。何かに支配されているということです。人は誰にも支配されたくないと思っています。しかし実際には誰かに、また何かに支配されている。そして支配されていることにさえ気づいていないかもしれません。イスラエルの人々はその支配の苛酷さに苦しんで、叫び声を上げた。その声を神さまが聞いてくださったのでした。

奴隷の家から解放されるためには、自分の苦しみに気づかなければなりません。息苦しいけれども、死にそうだけれども気づかない人々は多いのです。自分は救われる必要があると、そして救われたいと願い求めることが必要です。自分を支配しているものが何かに気づかなければなりません。自分を支配している罪を知って、悔い改めたいと心から願うことが必要なのです。イスラエルの人々の救いの物語は、文字通り、救われるための格闘でありましたが、彼らが自分の力でしたことはほとんど何もありませんでした。彼らにはただただモーセに従って行くこと、神さまを信じることだけが求められました。そして神が自ら勝利してくださったので、彼らは自由にされたのでした。

もしわたしたちが、そのようにして解放されたなら、その神さまに何と言って応えたらよいでしょうか。どんな御礼ができるでしょうか。ただただ神さまのお与えくださる戒めを守って生きること。そのことによって応えるしかないのです。十戒はそのようにしてイスラエルの人々に与えられました。

ところで、このようにして救われたイスラエルの人々は、特別な人々だったでしょうか。いいえ、むしろ普通の人だったでしょう。むしろ、弱い、力のない人々だったけれども、主なる神さまは彼らを愛して、ご自分のものとしてくださいました。教会に来てイエスさまと結ばれる人々も同じです。神さまの秘密の選びによって招かれているので、だれも人間的な評価によって、神さまの選びを考えることはできません。ただ恵みによって選ばれたことを感謝して十戒をいただくのです。

ところが新約聖書ローマの信徒への手紙10章を見ますと、十戒(ここでは律法と言われています)を与えられた人々の中には、自分を誇る人々がいました。十戒を守れる人は偉い人、立派な人。守れない人は罪人と評価し、できる人は自分の正しさを主張しました。1~3節。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

人が自分の正しさ(義)を主張するために、神さまは律法(十戒)を与えられたのでしょうか。全くそうではありません。自分が正しいという人も、実は神さまの前では罪人に過ぎないからです。十戒の目的は、人が自分の罪に気がつき、本当に正しい方は神さまだけだと悟ることにあるのです。4節。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」神さまの正しさは、イエスさまの中に表されました。すなわち、神の子イエスさまは御自分の正しさを誇るために世に来られたのではありません。その全く逆に、正しくありたいと願いながら正しくなれない人間の罪を御自分に引き受け、ご自分の本来持っておられた正しさをわたしたちに与えてくださるために、世に来られたのです。

ですから、ここに主張されているとおり、律法の目標はイエス・キリストであります。十戒をいただいたイスラエルは何とか守ろうとして熱心に務めました。そして中には守ることができたと得意になり、守れない人々を罪人として軽蔑する者もいました。また、十戒を与えられた自分たちの民族は特別優れているからだ、と異邦人を軽蔑する人々もいました。しかし、律法の目標は、律法を完全に守ることができない自分に気がつき、自分の罪を悔い改めて、神さまの恵みにより頼むことなのです。

新約聖書の時代を生きるわたしたちはイエスさまに出会い、この方に表された神さまの深い慈しみを信じる者とされました。教会はイエス・キリストの罪の赦しに結ばれた者として、改めて感謝の内に、父なる神さまより十戒をいただくのです。主に従う者とされたので、依然として罪人ではありますが、絶えざる感謝と悔い改めの思いをもって、新たに十戒の言葉をいただきたいと願います。

今日の学びはカテキズム問39です。「十戒とは何ですか。」答は「十戒は、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。」祈りましょう。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一週間の歩みをお守りいただき、再び礼拝の場に集められましたことを感謝いたします。先週まで約一年にわたって学んで参りました使徒信条の学びを終え、本日から、十戒について新たに学び始めました。どうか、この学びによってみ言葉の力が聖霊によって豊かに発揮され、それぞれの魂が救いの主に向かって成長できますように道を開いてください。

わたしたちの中には、高齢のゆえの困難や病気と日々向き合っている方々が多くいますが、どうかその一人一人のご生活において、主イエスさまと結ばれた豊かさ、救いの御業を現わしてください。特に病院や施設で暮らす方々をあなたの恵みで覆って日々の困難に勇気を以て立ち向かわせてください。また、若い世代、働く世代の方々の困難を顧みてください。皆さんが非常に忙しく、この社会の多くの悩みを抱えていると思います。どうか、あなたの救いを信じ、いつも祈り求める者となりますように。

先週は教会学校との合同礼拝を祝してくださり、ありがとうございました。また一日夏期学校をも豊かにお守りくださり感謝です。来週から始まる教会学校の二学期をお守りください。良い学びと交わりの時が与えられ、成人の礼拝と共に、信仰を告白する者が起こされますように。また来週は9月聖餐礼拝を守ります。どうか聖餐に向かって真の悔い改めで心を清め、整えてください。また、9月8日(土)に近づきました「子どもと楽しむ音楽会」に向けて祈ります。どうか、地域に開かれた教会の務めとして、この行事を祝福してください。

すべての日常の務めの中に、主の聖霊のお働きによって備えられる、来年度の新しい教師の人事が整えられますようお祈り申し上げます。

主イエス・キリストの御名によって、御前に祈ります。アーメン。

天から降って来たパン

聖書:出エジプト記161215節, ヨハネによる福音書653-58

 今日、わたしたちは聖書を二か所読みました。一つは旧約聖書です。その昔、神さまの約束を信じて旅をしている人々がいました。ところがそれはとても辛い荒れ野の旅でした。人々は「食べる物がない!と、文句を言いました。すると神さまは人々に夕べには肉を、朝にはパンを与えてくださいました。でも肉屋さんがあったわけでもパン屋さんがあったのでもないのです。神さまがくださったのは、天から大地に降りた霜のようなものでした。食べてみると、その味は蜜の入ったウェファスのようでした。これこそが、神さまが人々に食べ物として与えてくださったパンなのでした。

そして今わたしたちもう一つ新約聖書を読みましたが、それはイエスさまがお話になった言葉です。53節で、イエスさまはおっしゃいました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」聞いた人はびっくりしたことでしょう。これは何のことだろう!次にイエスさまは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。今度は、少しだけ分かったでしょうか。これは普通の食べ物の話ではないのだと。そうです。これは、永遠の命の食べ物の話です。イエスさまは、ご自分のことを指して、「わたしは永遠の命のための食べ物である」とおっしゃいました。

わたしたちは毎日食べ物をちゃんと食べなければなりません。美味しいものを食べたい。でも栄養のあるものを食べなければなりません。「好き嫌いしないでいろいろなものを食べましょう。そして大きくなりましょう。心も体も元気に生きましょう」と言ってわたしたちは努力しますね。食べ物はありがたいものです。その食べ物がない時に、そしてお店屋さんもない時に、神さまは天からマナを降らせてくださいました。そのことも本当にありがたいですね。みんな神さまの恵みです。

でもイエスさまはおっしゃいました。58節です。「わたしは天から降って来たパンである。あなたがたの先祖の人々は昔、マナを食べたのに死んでしまった。そのようなものとわたしは違う」と仰ったのです。違うって、どこが違うのでしょう?イエスさまはこのように言われます。「わたしのパンを食べる者は永遠に生きる」と。

イエスさまは天から降って来ました。わたしたちにイエスさまのパンを食べさせるために来てくださったのです。神さまが、わたしたちにこのパンを食べさせて、永遠の命を与えたいと思われて、イエスさまをわたしたちのところに遣わされたからです。

それでは、どうして神さまはわたしたちに永遠の命をくださろうと思われるのでしょう?それは、神さまがわたしたちを愛しておられるからです。どんなわたしたちでしょうか。神さまは優等生の人を愛しておられるのでしょうか。立派な人のことだけを神様は愛しておられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。神さまはだれにでも永遠の命をくださるのです。そのために、神さまはイエスさまをこの世界に遣わされました。イエスさまを信じる人々ならだれにでもくださるのです。このことから、神さまがどんなにわたしたちを愛しておられるかが分かります。

イエスさまを信じた人は、イエスさまの与えてくださる御言葉のパンを一生懸命いただきます。また洗礼を受けて聖餐式に参加します。そしてイエスさまと結ばれて生きる生活を続けます。それは、神さまの永遠の命に結ばれる生活です。わたしたちは今礼拝で使徒信条を学んでいます。今日はカテキズムの問38というところでした。その問はこういう問いです。「永遠の命を信じます」とはどういうことでしょうか。そして、その答をわたしたちは知りました。「永遠の命を信じる」ということは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。

今日は、成宗教会で初めての試みですが、大人の礼拝と教会学校の礼拝を合同でささげました。教会学校の皆さんはお昼から善福寺川緑地公園に出かけてBBQを行います。みんなで楽しく食事をする中で、わたしたちは神さまの国で開かれる盛大な宴会を想像したいと思います。イエスさまと結ばれたいと思う人は、実はイエスさまを通して、神さまとの交わりの中に招かれているのです。それでは祈ります。

 

御在天の父なる神さま

今日の成宗教会の合同礼拝を祝してくださり、わたしたちを御前に集めてくださったことを感謝します。永遠の命を与えるためにあなたはイエスさまをわたしたちの世界にお遣わしになりました。わたしたちは毎日一生懸命食事を美味しくいただいて、あなたの助けによって成長したいと思います。それだけでなく、どうか神さま、あなたに向かって成長することができますように。イエスさまを信じて永遠の命をいただきたいという願いを皆さんに起こしてください。そしてイエスさまとの交わり、父なる神さまとの交わりに喜び迎えてください。

どうか、今日お昼から開かれようとしている夏期学校の行事を守り導き、怪我なく楽しいものとしてください。あなたの内にある喜びがわたしたちにも与えられますように。

また、どうか今日、礼拝を覚えながら、来ることができなかった皆さんを深く顧みて、慰めをお与えください。これらの方々の祈りを聴き上げてください。また夏休みも終わりに近づいていますが、どうか若い方々の健康と生活が秋に向かって整えられますように。また教会のバザーに向けての活動、「子どもと楽しむ音楽会」などのために、良い準備ができますように。最後になりましたが、今病気やご高齢の困難と闘っている方々、また様々な悩みにある方々を顧みて、荒れ野に道を開いてください。

この感謝と願い、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストに、神の輝くお姿を見る

聖書:出エジプト24章12-18節, コリントの信徒への手紙二 4章1-6節

 本日は、旧約聖書として出エジプト記の聖書が与えられています。出エジプトの民の物語は、今、21世紀を生きるわたしたちに、現実として差し出されています。彼らの先祖であるヨセフは、ヤコブの息子であり、アブラハムのひ孫にあたりますが、兄弟に妬まれ、憎まれて、奴隷としてエジプトに売られました。しかしその兄弟たちもすべて、パレスチナの飢饉の際にエジプトに移り住んだのです。そして長い間にはエジプト人に支配され、奴隷の身分に転落して行きました。しかし、彼らは神がご自分に従う民として選ばれたアブラハムの子孫でありました。そこで神は人々を支配する者の鎖を断ち切ってくださり、自由へと招いてくださいました。自由。それは神に向かう自由。神に従う自由であります。

人々は実に孤独で生きて来たのではありません。人々の生きた歴史は、人々が共に生きる共同体の歴史です。共に生きる交わりです。それはどんな共同体なのでしょうか。血縁共同体なのでしょうか。または住む地域を共にする地縁の(地域社会の)共同体なのでしょうか。それとも、共同体とは、一緒に仕事をする仲間なのでしょうか。趣味の仲間ならたくさんいる、という人々もいることでしょう。学びの仲間もそうかもしれません。しかしそれ以上に、共同体を作るために集まる人々もいます。それでは、出エジプトの民はどんな共同体だったでしょう。そのどれも当てはまるところがあるかもしれません。しかし、全く当てはまるかと言えば、そのどれにも当てはまらないのです。

なぜなら、出エジプトの民は神が集められた共同体であります。奴隷の状態から自由にされた共同体です。そして自由とは、神への自由です。神だけが人をあらゆるものの支配から自由にしてくださる方です。これは神への信頼で成り立っている共同体です。逆に言えば、それがなければ成り立たない共同体なのです。

先ほど私は、出エジプトの民の現実を私たちも生きていると言いました。なぜなら、わたしたちもまた現代という激動の時代を生きているからです。21世紀、激しい気候変動が起こっています。また、福島の原発事故は人類がかつて体験したことのない災害でありました。これから何十年、あるいは何百年経っても過去の話にはできないかもしれません。そして第二、第三の事故がいつでも起こるリスクがあります。それも、自然災害からだけではなくても、戦争という人災によって引き起こされる可能性はいつでもあるのです。その上に日本ではこれから激しい人口減少に直面していかなければなりません。その一方、世界中では人口爆発があり、地球全体としてはすでに72億を越えているということです。

そういう現代に在って、今わたしたちも、神の集められた共同体に生きています。イエス・キリストによって招かれたからです。今日も、こうしてわたしたちは成宗教会という日本基督教団の1600余りの教会の一つである小さな教会に礼拝を守っております。また、教団の中にある連合長老会の一つである東日本連合長老会という地域教会に所属する群れとして礼拝を守っております。このように、聖書の御言葉に向かいながら、今、歴史的に自分たちがどこに立っているのか、また世界の中でどこに立っているのかを、確認させられることは大切なことではないでしょうか。

こうして今年も春に向かおうとしています。教会の入り口から差し込む光が日に日に明るくなり、柔らかくなっているのを感じて、「ああ、今年も春だ。春だ」と思いながら、私は16年も成宗教会と共におらせていただいたのだと感慨深く思います。16年前も礼拝に集まっていた人々が集まることが出来なくなったという嘆きの思いが教会にありました。一生懸命教会に仕えていた人々が高齢になり、教会に足を運ぶことが出来なくなった。また、転居を、引っ越しを境にどこの教会にも行かなくなった人々は少なくありません。しかし、礼拝を守ることが出来ないことの深刻さを真に理解していた人々はどれだけいたのでしょうか。

出エジプト記でエジプトから脱出した民は、人間の支配者の奴隷状態から救い出されたのでしたが、それからが彼らの戦いの始まりでした。なぜなら、人の支配に縛られなくなっても、罪の支配を受けず、本当に神に従う自由な人となるために、人々は自分たちの罪と戦わなければならなかったからです。なぜなら、人は一人で生きる者ではなく、共同体の一員として生きる者だからです。実はこういうふうに申しますことさえ、ごく最近まで「それは共同体論という一思想に過ぎない」と批判されるだけになっていました。

現代人は共同体など不必要、なくても生きられるという思想が歓迎されたからです。ひとりで○○に登ったとか、世界を一人で○○したとか、そういう個人プレーがもてはやされるのですが、実際にはその個人を育て、サポートするどれだけ多くの人々がいるか、ということが成功の決め手であります。また、7年前の震災の直後、私は一人の老人がお団子屋さんの前から動かないのを見ました。何だかんだと話しながら、そこに座り込んでいるので、店の主人は困った顔をしていましたが、老人の気楽な独り暮らしが地震を境に一変して、家にいるのが恐ろしい様子でした。

生きるということは、決して一人で誰とも関わりなく生きることではないとは、震災を経験したすべての現代人が知っていることです。また長く生きれば生きるほど、多くの人々のサポートによって自分の生活が成り立つことを実感することでしょう。また実感すべきです。また、少子化が進む時代に、子供を家庭で育てられなくなるという深刻な事態も急速に増えています。子どもたちが家族という共同体を失って行く危機的な状況が広がっているのです。

このような今、成宗教会に集まっているわたしたちは、礼拝共同体の一員として主の御招きを受けているのです。神に招かれ、神の自由に生きる特別な恵みを受けるために。主はモーセに言われました。出エジプト記24章12節。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」そこでモーセは山に登り、十戒を刻んだ石の板を主から受けることになるのですが、この板は御存じの通り、礼拝共同体の人々が神に対する戒めを守り、隣人に対する戒めを守って、救いを得るための律法が書かれていたのです。

モーセは神の御許に出るために山に登って行く際に、礼拝共同体の長老たちに言いました。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」

こう言い残してモーセは人々から離れ、四十日四十夜神の御声に聞き従っていましたが、モーセが不在の間、神の礼拝共同体であるはずの人々は、自分たちを導いてくださる神から心が離れ、金の子牛の形を造り、これを自分たちの神として拵え上げ、これに礼拝を捧げるようになってしまったのです。

わたしたちを圧迫し、支配する人間から解放してくださった方こそ、真の神でありますが、その方を信じ続け、従い続けることの何と困難なことでしょう。また、真の神は目に見えない方、わたしたちの感覚や考えをはるかに超える方でありますが、わたしたちは自分の考え、感覚を何と信じていることか。自分で良いと思うものに何と夢中になることか。そして自分で拵え上げたものを神としてこれに仕え、この世の支配に縛られ、それに何とがんじがらめに縛られることになることでしょうか。

モーセが不在であった40日40夜とは、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた長さに匹敵します。それは実際の数字というよりは、十分長い期間を意味します。その間、神の共同体は礼拝を守り、教えを聞くことが出来なかったのでしょうか。それともしなかったのでしょうか。ここに礼拝を守ることの大切さをわたしたちは教えられるのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストによって礼拝の民とされました。共に集まり、讃美と感謝を捧げ、御言葉によって生かされるのです。主の聖霊がわたしたちの罪の赦しを御言葉によって教えてくださるからです。

わたしたちは旧約の民に優るとも劣らない罪の誘惑にさらされている者です。それは絶えざる不安となってわたしたちを攻め立てて来ないでしょうか。自分が救いに入れられたということがどんなに大きな事であったことか。神を忘れ、すぐに他の頼れるものを捜し求めてバタバタする。礼拝を守るどころではない、ということになってしまう。しかし、神はわたしたちの不信仰にもかかわらず、様々な落ち度にもかかわらず、ただ恵みによって救いに入れてくださったのです。それも忘れてしまって、わたしはあれをしたから良かった、わたしはこれができるから、と自分で自分に値打ちをつけようとします。そうすることによって、ただ自分を輝くようにしたいのです。その結果、神の恵み深さをほめたたえることから遠ざかり、神の栄光の輝きを目立たないようにするために努力しているという、真に情けない不幸な状態に陥るのではないでしょうか。

それでも、この教会の群れは、大変幸いであると私は思います。今日の新約聖書コリントの信徒への手紙で、使徒パウロが強調して止まないことを、私も強調するために、説教をさせていただくことが出来たからです。すなわち、イエス・キリストの真の福音とはどのようなものかを明らかに伝えるために、主はパウロをお遣わしになりましたが、私もまた、どんなに小さな足りない者であっても同じ福音を伝え続けるために、この教会に遣わされたからです。本当に誇るべきは、この輝かしい福音伝道の務めであります。

ですからパウロは、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と述べましたその言葉を、私もそのままお伝えしたいと思います。使徒パウロほど、人生の大逆転を経験した人はいないと思います。キリストを迫害する者、教会を迫害する者としてのサウロ。彼の名はダビデ王を妬み殺そうとしてサウル王と同じでした。サウル王には神からの悪霊が来て、彼を迫害者に変貌させたのですが、教会の迫害者サウロには何と主イエス御自身が来てくださって彼を罪に死なせ、福音に生きる者と生まれ変わらせてくださいました。

真に恐るべきは神の力。神の恵みの圧倒的な力であります。わたしたちの目には何が正しいのか、また何が一番大切なのかが、しばしば隠されて見えません。様々な声がわたしたちを惑わし、迷わせるからです。しかし、主の方に向き直りましょう。災害や疫病や戦争や、ありとあらゆる不安が世界に昔からあるのに加えて、今はIT革命の時代です。人間も社会をも支配すると言われるITが果たして誰の支配を受けるのか、わたしたちの知恵が及ばないとしても、わたしたちは見えない神の御支配を信じ、2000年従って来たキリストの体の教会を信じます。

「この世の神(=悪魔)が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の(目に見えない)似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」御父は人間の感覚によっては理解できません。しかし神は、御子を通してわたしたちに現れたまい、御子によって見えるものとなり給うたのです。「闇の中から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストは闇の中に輝く光、救いの光です。しかし、わたしたちの救いのためにいらしてくださった主は、地上では何ら輝かしい、人を引き付けるようなお姿をお持ちになりませんでした。わたしたちの中にいらしてわたしたちの弱さを担い、わたしたちの破れを御自分のものとしてくださったこの愛を、わたしたちは知ることが出来るでしょうか。この愛に神の輝くお姿を見ることが出来るでしょうか。

キリストは救いの光として世に来てくださいました。光がそこにあるだけではわたしたちは感じることが出来ません。目の中に映し出されて、初めてわたしたちは光を見ることが出来るのです。福音は二つの光に例えられます。一つは聖霊が与え給う福音がキリストをわたしたちの罪を贖うために掲げてくださる光です。そしてもう一つは聖霊がわたしたちの心にその光を感じる光を与えてくださることです。聖霊がわたしたちの心を照らして、救いを悟らせてくださるために、わたしたちは礼拝共同体として御言葉を聴き、真の救いを心に確信する教会を建てて参りましょう。

 

御在天の主なる父なる神様

御子イエス・キリストによって開かれた救いの御業を感謝し、尊き御名をほめたたえます。わたしたちはあなたの御招きに従って、本日も礼拝を守り、代々の教会と共に、また全国全世界にある教会と共に真の主イエス・キリストの体に結ばれることを切に願い祈ります。

目に見える悲惨と困難に満ちた世界に在って、またこの国、この社会の問題の中にあって、わたしたちはただ恵みによってあなたに招かれ、あなたに従う者とされました。どうかわたしたちが志を同じくする東日本連合長老会と共に、また全国全世界の教会と共に、御心を尋ね求め、福音を宣べ伝えて真にあなたに信頼する共同体を建て上げるために努めることが出来ますように。

主なる神様、あなたはあなたの慈しみに頼る他はない貧しい者を決してお見捨てにならないとわたしたちは知っております。どうか、同じ信仰を告白し、主の執り成しに頼る人々を教会に集めてください。わたしたちをつなぐものはイエス・キリストの尊い死と復活の命であることを、多くの人々が悟り、悔い改めてあなたに立ち帰りますように。どうか受難節の歩みを主が共に導いてください。今苦しんでいる者を顧みてください。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。

神の指の働き

聖書:出エジプト記8章12-15節, ルカ福音書11章14-23節

 2017年は1月1日の礼拝から始まり、12月31日の礼拝で終わるという、礼拝に始まり、礼拝に終わる年でした。そしてクリスマスの礼拝と行事が24日の主の日に集中する、という年でもありました。カレンダーが今年と全く同じになった年は、2006年ですから、今から11年前ということになります。その時の教会役員の方々で現在の長老職を担っている方々は今はおられません。ご高齢やお仕事で退かれた方もおられます。また、この10年ほどの間に受洗され、転入された方々が新しく長老に選ばれるようになりました。

成宗教会は2013年に東日本連合長老会に加盟して、長老教会の一員として歩み始めましたが、このことも非常に大きな決断でありました。教会はこうして大きく変化したことを、改めて振り返っております。ただ、この教会に私が赴任して以来、変わらないものもございます。その一つは週報の裏側にある諸報告です。よく申せばアットホーム的な、問題にするならば個人情報に関わるものも報告しています。これは成宗教会が月報とか、季刊誌とか、より教会活動の報告文集的なものを編集発行していないので、その補いとして、あらゆる活動、教会員の最小限の消息など、記録に残すためでありました。

そういうわけで、本日の週報にも24日のクリスマスの報告を感想文的に載せております。もっと客観的に、事実を淡々と報告するのが良いのかもしれません。しかし、今回はあえてお名前を上げさせていただいた方々もいます。これは、一番目立った人の順ではなく、神さまのご配慮のうちに、目に見えて活躍した方も、お顔を見せることさえ出来なかった方も、共に一つになってこのクリスマスを迎えたことを感謝したいと思ったからです。

今の時代に生きるわたしたちには、本当はいつの時代でもそうなのでしょうが、多くの悩みがあります。本人自身のことはもちろん、親の悩み、子孫の悩み、配偶者の悩み、兄弟や、家族の悩み、仕事の悩み等々です。しかし、だからこそ、イエス・キリストは来てくださいました。悩み多い世に。私たちは今年も御子のご降誕をお祝いすることができました。前年よりは少なかったですが、それでも多くの人々がこの教会のクリスマスに来て下さいました。小さな御子の誕生は、その人々の中に来てくださったでしょうか。あなたの心に、イエスさまは生まれたでしょうか。私はそう訊ねています。

主イエス・キリストが来てくださったなら、私たちの内に住んでくださったなら、それは大変大きな出来事です。なぜなら、神の御子は無力なお姿でいらして、私たち、無力な者の心に受け入れられるならば、決して無力なままではおられないからです。神の国は近づいたと、洗礼者ヨハネは告げました。主イエスも言われました。神の国は神の御支配です。世の光として来られる方は、世の闇を追い出す方なのです。それこそが神の御支配の表れです。ではどのようにして闇を追い払ったのでしょうか。今日の聖書、ルカ福音書11章14節がその一つの証しです。

「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」主イエスは人々の病気を癒されました。また悪霊を追い出されました。主イエスが人々の病気を癒され、悪霊を追い出されたのは何の目的のためなのでしょうか。主イエスが口の利けなかった人から悪霊を追い出すと、何とその人は話すことができるようになりました。そんなことはあり得ない。今まで見たことも聞いたこともない。その奇跡に、人々は驚嘆しました。では、主イエスの目的は人々を驚嘆させるためだったのでしょうか。

モーセの物語である出エジプト記には魔術師が登場します。モーセと兄弟アロンがエジプトの王、ファラオに交渉に行って、イスラエルの民をエジプトから去らせるように頼みました。ところがファラオは全く耳を貸しません。そこでモーセとアロンは神が命じられる通りに、禍の奇跡を行いました。神はこんな恐ろしい禍をファラオの国に下すことができると。ところが、そこにファラオに仕えている魔術師がいました。彼らはモーセに対抗してファラオに言ったことでしょう。「王様、あんな魔法私たちだってできますよ。」こうして魔術合戦が始まります。ナイル川を血に染める魔術。蛙大発生の魔術。

しかし、モーセが魔術を使ったのは魔術合戦をするためではありません。ファラオを驚かせて、神の力の前に屈服させ、神の命令に従わせるためでした。神はファラオに命じられます。「あなたの奴隷となっているわたしの民を解放せよ!」と。さて、主イエスのなさった奇跡にも、目的がありました。それは人々をびっくりさせるためではありません。もちろん、主イエスの奇跡の業を見た人々は、「この方はすごい!」とか、「この方は一体どなただろう」と驚嘆したことでしょう。しかし、そういうことが目的ではないのです。主イエスは罪人の救いのために来てくださいました。それは、罪人、すなわち罪の奴隷となっているすべての人間に対して神の憐れみ、神の愛の表れであります。

私たちは皆罪人なのですが、神さまがそんなにも私たちを憐れんでおられるとは、大部分の人々が知らないのであります。むしろ、「私は同情されるような惨めな者ではない」と、内心高ぶっているのではないでしょうか。本当は、神に背いているところは、皆同じ人間です。ですから、主イエスも誰に対しても愛情と同情をもっておられます。神は皆同じ人間と思っておられる。しかし、そう思っていないのは人間の方なのです。ですから、主イエスは金持ちの青年が近寄って来て、「先生、救われるためには何をしたらよいですか」と尋ねた時にも、この人を慈しんで声を掛けておられます。

そこで主イエスは、だれもが大変な悩みだと思うような病人、悪霊にとりつかれた人々に対して奇跡を行ってくださいました。こういう人々は、すべての罪人の苦しみを目に見える形で苦しんでいるのですから。ですから、この人々に対する主イエスの深い憐れみ、慈しみは、神の愛を目に見える形で証ししていることなのです。ですから、あんなに人を苦しめ、支配していた悪霊は、主イエスの命令で人から追い出されたとき、何の力も発揮できず、何の抵抗できず、出て行くより他はありませんでした。このように、神の愛の力がどんなに強いものであるか、私たちは知っているでしょうか。信じているでしょうか。

主イエスの奇跡にこそ、神の国の到来を見るべきではないでしょうか。人々は奇跡を見て驚いたけれども、中には疑い深い人々がいました。彼らは救いを待ち望んでいる人々の中にいながら、実は神の愛も、神の御支配も信じたくない。信じないためなら、どんな努力でもする。どんな屁理屈でも考えるのです。そこで「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、更に天からのしるしを求める者もいました。

主イエスは、人に同情し、悪霊を追い出して、その人を口の利けない苦しみから解放してくださいました。しかしその結果、言われたことは『悪霊の頭ベルゼブル』です。これがどんなに侮辱的な言葉であったか、想像できないと思います。ベルゼブルとは、本来はバアル・ゼブブという言葉で、ペリシテ人の偽の神々の頭に与えられた名でした。(列王下1:2)  この偶像に備えられた多くの供え物のために神殿にたくさんの蠅がいたので、蠅の守護神を意味しているとも言われています。あるいは食べ物に群がる蠅の害から救われるために、この偶像に助けを求めたのではないか(カルヴァン)という説もあり、とにかくイスラエルの人々は、偶像に対する憎悪と嫌悪を表すために、悪魔をバアル・ゼブブと呼んだのであります。

こういうわけですから、悪意ある人々は、キリストが一般の人々から嫌われるように、「悪魔」、つまり、最大の敵と呼ぶことによって、考えられる限り最大級の非難を与えようとしたのでした。私たちも善意をもって、同情をもって何かをしたのに、思いがけず、非難され、軽蔑されるという経験をすることがありますが、聖書は主イエスがどんなに私たちに同情して下さったか、ということと、その結果はほめたたえられるどころか、悪魔、サタン呼ばわりされるというこれ以上ない侮蔑を受けたことを語り伝えているのであります。

しかし、私たちががっかりして、力を失う時も、心を閉じてしまう時も、主イエスは人々にがっかりして心を閉ざされることはなさいませんでした。主は悪意ある人々に順序よく教え諭されます。それは、私たちが時を経ても、所を隔てても御言葉に教え諭されることができるためなのです。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。」

主イエスが悪霊を追い出したのは、悪霊の内輪もめの結果ではない。もしそうなら悪魔の支配は自己崩壊することでしょうが、実際には、悪魔は堅い一致団結によって、神の支配を来させないように、人々を自分の奴隷にしておくためにあらゆる手段を尽くして戦っているのです。主イエスが奇跡を行われたのは魔術合戦に勝つためではありません。モーセとアロンが魔術合戦を挑んで来るエジプトの魔術師たちと戦った時、ついに魔術師の力が及ばないところに達しました。魔術師たちは降参して、ファラオに言いました。『これは神の指の働きでございます』と。

その聖書にちなんで、主イエスは言われました。20節。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」神の指は神の愛の力です。私たちは無力だと感じることが多い時代です。私たちの内に多くの悩みや課題を抱えています。しかし、私たちの内にキリストが来てくださっているなら、嘆くのは見当違いではないでしょうか。確かに私たちは弱い。しかし、キリストの愛は奇跡を行われる神の指の働きに他ならないのですから。

21節、22節の例えは興味深いものです。強い人が武装しているというのは、神さまのことではありません。悪魔のことなのです。武装して悪魔の支配領域を守っている。しかし悪魔よりもっと強い者が襲って来る。悪魔より強いのは人間ではありません。絶えず、悪魔に唆され、おだてられ、騙されて、疑いを持たされ、脅され、たやすく支配されてしまう私たちだからです。しかしついに強い者が襲ってきて悪魔に勝つ。その人はだれでしょう。私たちの主イエス・キリストに他なりません。

勝利者キリストは悪魔から分捕り品を奪い返します。悪魔の支配下に苦しんでいた人々を奪い返し、神の国の御支配の中に配置してくださるのです。この目に見えない、ひそやかな戦いが進行中です。私たちの多くが家族で、職場で、また施設でただひとりのクリスチャンかもしれません。しかし、考えてごらんください。神はイエス・キリストによって私たちの内に戦いの拠点をあちこちに作っておられるのではないでしょうか。皆が密かに私たちを見ています。私たちが幸せに生きているかどうかと。お金のことではない、能力のことではない、健康のことですらないのです。たとえ、「ない、ない、ない」の、私たちであっても神の愛が私たちに注がれていることを、周囲は見ているのです。ここに神の国が来ているかどうかと。ここに救いがあるかどうかと。

ですから、この戦いは私たちの戦いです。私たちは、どちらの側について戦っているのかが問われています。主イエスは言われます。「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」と。私は感じています。既に成宗教会の多くの方々が周囲から見られているだけでなく、当てにされていると。頼りにされていると。その家にとって、その職場にとって、その施設の中で、教会の皆さんが希望のもとになっていると。だから、私たちは、私たちの希望がどこにあるかをはっきりと自覚して生きる者となりましょう。主イエスによって神の愛が、神の指の働きが私たちと共にありますように。祈ります。

 

恵みと憐れみに富み給う教会の主、イエス・キリストの御父

2017年最後の主の日、私たちを御堂に集めて下さり、主の御名をほめたたえる礼拝を捧げさせていただいたことを感謝します。先週私たちは、クリスマスを無事にお祝いすることができ、恵み深い神の御名を世の人々にお知らせすることができました。

この年をも、私たちの不信仰と至らなさにも拘わらず、あなたは私たちを恵みで取り囲んでくださいました。私たちの言動によって教会の兄弟姉妹、家族、友人、また多くの人々を悲しませ、失望させることがございましたら、どうかその罪をお赦しください。あなたの御霊のお働きは罪人の救いのために人々を招くことでございますことを思う時、どうか私たちがあなたの喜ばしいお働きに賛同し、参加することができるために、私たちを新たに造りかえてください。どうか、私たちが家族、友人、社会に対して、あなたの愛と慈しみを、身をもって表す教会共同体となりますように。

成宗教会を地域連合長老会である東日本の諸教会と共に歩ませてくださったことを感謝します。また全国連合長老会を通して、日本基督教団を通して、全世界の主の教会を通して、主イエス・キリストの体の教会を建てるための戦いに参加させてくださったことを感謝します。目に見えて礼拝を守ることができるのは、真に小さな群れですが、あなたの目に大切に守られ、私たちの目の届かない所まで慈しみによって守られ導かれていることを感謝します。

どうか来る年も、主イエス・キリストを告白し、救われて主の体の肢に結ばれる人々を増し加えてください。また、私たちの貧しさを顧みてくださるあなたが、この教会の福音伝道のために、必要なすべてを備えてくださることを信じ、お願い致します。教会の礼拝と諸活動のすべてが福音のために清く用いられますように祈ります。そして今、お病気の方々、ご家族の労苦を負う方々の上に慰めと励ましと癒しをお与え下さい。

すべてを感謝し、御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。