あなた方を造り上げる言葉

聖書:出エジプト記19章5-6節, コリントの信徒への手紙二12章16-21節

先週、成宗教会は大塚啓子先生に礼拝に奉仕をしていただき、礼拝を豊かに守ることができ、感謝です。また初めて会食の時を持つことができ、お話を伺って大変良かったとの感想を参加者の皆さんから伺うことができました。大塚先生は女性の教職として、結婚、出産、育児をなさりながら、同時に教職の務めを忠実に果たして来られた方です。ご主人が教会と関わりない所から出発されたという点では、私の場合もそうでありましたから、私もたとえ中年で献身した者であっても、若い世代の女性教職の足を引っ張らないように、と心がけて参りました。大塚先生は間違いなく日本基督教団の将来を担う教職のお一人になられるでしょう。そして、わたしたちの教会が東日本連合長老会と共に歩み始めた頃から、成宗に説教に奉仕してくださった神学生の方々もまた、今は教団の中で重要な働きを担う教会の教職についておられるのであります。

さて、今日の説教題を「あなた方を造り上げる言葉」としましたが、造り上げるとは、家を建てるという言葉と同じです。つまり、あなたがた個々人の徳を高める(今の時代ではこの言葉も、残念ながらあまり使われないのですが)ということが目指しているのは、共同体を建てることです。それは、主イエス・キリストに結ばれた教会共同体を建てること。すべての言葉は、すべての業、活動に向かわせるための言葉であり、それは教会共同体を建てるためにあなたがたに語られている、ということなのです。

最近、成宗教会にある郵便物が送られて来ました。それはある小さな教会の創立70年を記念する冊子でした。失礼ながら、以前から礼拝出席も大変少なく創立以来の教師もご高齢で、将来どうなるのか、と思われましたが、最近新しい教職が与えられ、きれいな装丁の記念誌が発行されるに至ったようです。高齢の教会員の群れの中に、優しい笑顔の先生が映っていました。主の慰めに満ちた御言葉、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)を思い起こしました。

しかしまた、もう一つの文書が教会に届きました。それは秋田楢山教会からで、牧師館建築の献金のお願いでした。その文書の差出人は飯田啓子先生。去年の講壇交換で成宗にいらしてくださった大曲教会の牧師先生でした。飯田先生は無牧になった楢山教会の代務者となっていらっしゃることが分かりました。何年か前には楢山教会は礼拝出席が四十数名の教会でした。日本の社会全体に少子高齢化が進んでいますが、東京にいるわたしたちには理解が決して十分ではない深刻さが地方の教会にあります。わたしたちが教会を建てようとするとき、この教会のことだけを考えるとか、自分たちの教会だけを建てようとする各個教会主義では、もはや教会は建てられないということを知らなければなりません。

そして、主キリストが建てられる教会を思います時に、弟子たちに命じられて、宣べ伝えさせた福音を思います時に、本来、各個教会主義はありえないことでした。わたしたちは聖書に聞き、この事実を教会の歴史から学び、そして福音の本質に立ち帰らなければならないのであります。

使徒パウロが伝道した各教会、また個人に宛てた手紙の中で、最も分量が大きいのが、コリント教会への手紙になります。パウロが各個教会主義であることはあり得ないことです。彼は各地に出かけて宣べ伝え教会を建てました。そしてその教会を去りました。もし、前の教会のことはもう考えない、後に残された人々にすっかり任せたというのであれば、これらの手紙は書かれなかったはずです。ところがそうではありませんでした。パウロはその後の教会を心にかけていました。たくさんの問題が起こったこと。小さな群れには小さな群れの悩みがある以上に、大きな群れ、力ある人々がいる群れには、また大きな様々の問題が起こることは想像ができます。主に従う群れをかき乱そうとする力、群れの中心にいる人々を堕落させて教会を主イエスの体から根こそぎ引き離すことは、悪に仕える者の大きな目標になるからです。

パウロは彼らに手紙を書き、一つ一つの教会の問題について悔い改めに導く教えを送りました。その中で、主の教会を建てるために労苦する自分の働きこそ使徒にふさわしいものであることを証ししたのです。コリントの人々の中、悔い改めた人々は少なくなかったでしょう。パウロに遣わされて彼らを訪れたテトスが、人々の悔い改めに出会い、パウロに対する人々の愛を見出して、喜びと感謝の報告をしたのです。パウロが手紙のすべてに込めた福音の説き明かし。人々を思えばこそ言葉を尽くし、思いを尽くして説得し続けて来た労苦、涙ながらの訴えは報われました。(Ⅱコリント7章)

そこでパウロはコリントの人々に奉仕の業に加わるように呼びかけました。それは個々の教会が心を一つにして支え合い、仕え合い、喜び合うキリストの体の形成を目指すものでした。しかし、それは具体的には、困窮にあるエルサレム教会の支援の募金でありましたから、このことが、また陰からパウロを攻撃する者たちの格好な中傷の種となったようであります。主イエスは言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」と。(マタイ6:24)

裏切者ユダの例からも分かることですが、キリストを愛している教会の群れの中に、実は金銭を愛して、主を軽んじる者がいるのです。しかもやっかいなことには、自分がそうであるばかりでなく、他の人々も自分と同じではないかと疑うのです。そういうわけでパウロは何とこの募金活動のことでも不正をしているように中傷されたのではないかと思われます。パウロが「コリント教会の人々には負担をかけません」と、頑ななまでに主張していることの背景に、教会の一部の者たちからの中傷があったのではないでしょうか。

12章15節に、「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」と言いました。自分はあなたがたを生んだ親だから。コリント教会を生み出したのだから。親が子を思うように、子のためにできることを何でもし尽したいと思っているのだと。しかし、「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」この愛を誰が理解できるでしょうか。それは、キリストの愛を知った人です。本当にキリストがわたしたちを愛して、命を捨ててくださったと分かった人、それはキリストに出会った人なのです。

そうでなければ、人は皆、自分の物差しで人を測るより他はありません。ある人は、「あなたがたを愛している」と言っているのは、何かそうすることで利益を得ようとしているのだろうと考えるでしょう。また別の人は、「あなたを愛していると言っているのは、よほどわたしにほれ込んでいるのだ。それほどわたしは素晴らしい魅力があるのだ」と勘違いするでしょう。パウロの場合は、悪意ある人々がおそらくこう言ったのではないかと思われます。「パウロは表向きは格好つけてコリント教会に負担はかけないと言っているが、テトスともう一人を派遣して献金を集め、をの一部を自分の利益としているのではないか。」

パウロはこれまでも、自分に対して言われた誹謗中傷に反論してきました。それは、自分自身を弁護するのが目的ではなく、自分が福音のために主に遣わされている使徒であることを証明するためです。このことができなければ、本当に名誉を傷つけられるのは、自分を遣わしてくださった主、その方に他ならないのではないでしょうか。神の栄光を汚さないために、本当にわたしたちは日々、パウロの弁明を思い起こす必要があります。私自身お金に執着している人間ではないことは、家族はもちろんですが、15年間この教会で共に労苦してくださった役員、長老の方々のほとんどはよく理解して下さっています。その私も、実状を知らない人からは誤解されることがありました。浴風園に教会員を問安するときも重い鞄を下げて行きましたが、ある人から、大金を持ち歩いているのですかと言われたことがあり、大変驚きました。その人は、牧師が教会員のところに集金に回っていると考えたようです。

パウロは自分が誹謗されるばかりでなく、自分から指示されてコリント教会に派遣された弟子たちのことまで悪く言われた時、きちんと反論しました。18節後半から。「テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」

「わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだ」と、「神の御前で、キリストに結ばれて語っています」と、嘘偽りない言葉を誓っております。自分の責任において仕事をさせた人々の名誉を敢然と守ること。これは主に結ばれた者の使命です。そしてこれらの弁護、弁明は、批判された者たちを守るために行われているように見えるかもしれないが、実はそうではない、とパウロは主張します。「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなの」ですと。そもそも神の御前に心を低くして福音を宣べ伝えたパウロの教えを、コリントの人々も心を低くして聞き従うことができていたなら、多くの問題も起こらなかったのでしょう。

パウロは言葉を尽くして手紙を送り続けました。すべてはあなたがたを造り上げるために。造り上げるとは、個人の徳を主に従って高めていただくことです。しかし、これは決して個人の別々のことには終わりません。必ず、それは主に在る交わりが豊かなものとされることなのです。パウロの宣教の業が軽んじられないで、彼が当然受けるべきだった尊敬を受けているということは、パウロ自身の利得のためではありません。それは、何よりも誰よりも、コリント教会の人々自身の益、利益になることにちがいないのです。20節でパウロは心配しています。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」

パウロが心配するのはもっともなことです。なぜなら、彼が軽視されるようになった結果、多くの者がはめを外してしまって、ここに上げられているような放埓(ほうらつ)に耽っていたからです。もしも、彼らが彼を敬っていたならば、パウロの戒めに服従したに違いなかったと思われるからです。こう考えると、パウロの心配は愛から出たものに他なりません。もしパウロがコリント教会を去った後、自分は使徒としての務めを果たしたのだとして、彼らの救いのことなど一向に気にかけていなかったのなら、心配しても何ら自分の益にもならない心配はしなかったことでしょう。ところが、事実は非常に問題を起こす教会があったわけです。そこで使徒は後々まで非常に心配したわけです。そのために教会に起こった問題の一つ一つを事細かに伝える手紙、そしてそれを信仰に従って教会がどのように解決し、教会の徳を高めるか。すなわち、主に結ばれた教会の姿を地上の教会に表すべきかを論じる手紙が遺されたということになります。

わたしたちは、神が今朝わたしたちに与えてくださった御言葉として、今日のこの手紙を聞きました。悪い行いは、要するにその源は同じなのです。すなわち、そこにあるものは利己主義です。各人が自分のことだけに執着する、そこから論争も、口論も、ねたみも、悪口も起こります。そして、そこに無いものは愛です。福音宣教を進めるために無くてならないものはキリストの愛です。それが、パウロが耐え忍んで来たすべてを支えた力です。わたしたちは過去の教会の罪を赦して福音の言葉、教会を造り上げるための生きた言葉としてくださった主の恵みに感謝しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたの恵みにより、憐れみにより、わたしたちは今日も礼拝に招かれ、主の教会に与えられた御言葉を聴くことができました。どうか過去の教会にあった数々の罪を赦してくださって、救いの主に結んでくださったように、今あなたの御前に立つわたしたちの至らなさ、その罪のすべてを赦し、御国の世継ぎにふさわしいものと造り変えてください。

私たちは福音によって新たにされた者として、世に出て行き、この悩み多い社会に在って、あなたの愛、あなたの戒め、あなたの救いを宣べ伝える者となりますように。私たちに与えられた賜物を活かし用いてください。決して世の人々の判断によらず、あなたが尊い知恵と力とを、わたしたちに必要に応じてお与えくださる方であることを信じる者でありますように。

主のご命令はイエス・キリストを通して表された救いを世に知らせることであります。どうかわたしたちがそのことをいつも心に思い、人々の救いのために絶えず祈る者となりますように。悩みにある人、労苦している人、あらゆる困難を抱えている人々に主は近くいますことを知らせることができますように。小さな群れを祝福してください。そして特に、本日行われる教会学校の行事をあなたが祝して下さい。集められる子どもたちが、ここに主がおられることを感じ取ることができますように。奉仕する方々、支える方々を祝して下さい。

今週の歩みを御手に委ねます。来週の聖餐礼拝を皆が心に覚えますように。また来週の長老会、また9月9日に迫った「子どもと楽しむ音楽会」の行事をもお導きください。

この感謝と願いとを、われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。