神とはどなたか

聖書:出エジプト記3章11-15節, マタイによる福音書6章25-34節

 成宗教会は、8月の末に夏休み一日教会学校を開きました。今年は、教会は全く初めてという方々がお子さんを連れて参加され、大変にぎやかでした。そして私たちは、その人々に初めてのキリスト教に出会っていただく、という喜ばしい体験をしたのです。ペトロの手紙という名前の文書がありますが、その中にこういう勧めの言葉があります。(ペトロの手紙一、3章15節)「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」私たちはどうでしょうか。「キリスト教って何?」とか、「どういう宗教?」とか、聞かれた時、私たちはどう答えたら良いのでしょうか。

そこで、私たちは聖書の御言葉によって私たちの信仰について学びたいと思います。私たちの信仰と言ったのは、私たちが個々人で思い思いに信じている信仰ではありません。「わたしの信仰はこうだ」とか、「あの人の信仰はああだ」とか、ユニークな考えを持っていることではありません。私たちの信仰というのは、主イエス・キリストの弟子たち、使徒たちによって教会の伝道が開始された時以来、代々受け継いで来た信仰の内容を意味します。皆さんの中には洗礼準備や信仰告白の準備をするときに、『ハイデルベルク信仰問答』によって教えられたという方々がおられると思います。それは、宗教改革の時代に編纂されたものですが、教会がキリストの体の共同体を建てるために、何を信じて来たか、ということを教えるものなのです。それは、カテキズム(信仰問答)という形式を取ります。すなわち、毎週ひとつの問と答えを学ぶことによって、教会の信仰、私たちの信仰の共通の土台について学んでいくのです。そして、私たちがキリスト教信仰を持つということは、教会の受け継いできた信仰を知り、その同じ信仰を自分も告白し、洗礼を受けて同じ信仰共同体である教会の一員となる、ということに他なりません。

そういうわけで、本日は第一のカテキズム問を取り上げます。それは「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」という問いです。もしこの問を教会の外で聞いてみたら、いろいろな答が返って来るでしょう。家族が大切とか、友達とか、仕事とかいう答が返って来るかもしれません。しかし、家族がある人もない人も悩む。友達がある人もない人も悩む。仕事がある人もない人も、悩みは尽きません。今日の聖書、マタイ福音書からキリストの言葉を聞きましょう。

25節。「だから,言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと,また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり,体は衣服よりも大切ではないか。」経済的に貧しい人々にとっては衣食住の問題は切実なものです。家族に何とか十分な食事を食べさせるために、着るものを与えるために、必死で働かなければなりません。住まいはもっと深刻で家賃が払えなければ住むこともできないのです。では主イエスは生活のための労苦を、心遣いを一切してはならないと言われたのでしょうか。そんなはずはありません。私たちの多くは、多少の差はあれ、皆不足しているものがあり、不自由なところがあり、それを何とか補おうと、改善しようと、心を用いるのであります。まして家族のためであり、友人のためであるならば、補い合うために気を遣い、心遣いをするのはむしろ喜ばしいことではないでしょうか。

しかし、ではゆとりのある人々は思い悩むことがないのか、といえば、決してそうではないでしょう。それが問題なのです。衣食住に限らず、自分が手に入れたいものがある。それをどうやって自分の思いどおりにするか、求め出したらその願望、欲望はとどまるところがないのです。そこに多くの心配が生れます。思い煩いが生れます。そして、自分のことだけしか考えなくても済む立場の人は、実際にはほとんどいないので、大部分の人々に心配事は尽きません。

自分が手に入れたいもの、というと自分勝手なように聞こえますが、そうでないことも沢山あります。安全や安心な社会を守る務めの人もそうです。健康や衛生を守る務めの人もそうです。出来る限りのことを自分の力でしよう、と努力します。しかし、自分の力しか頼ることができないなら。どんなに自信のある人々でも、どんなに万全を期す能力のある人でも、最後は思い煩いに押しつぶされてしまわないでしょうか。

私たちが生きるために一番大切なものが、家族だとしたら、友人だとしたら、あるいは仕事だとしたら、私たちは一番大切なものを守るために、思い悩み、思い煩いに押しつぶされてしまうのではないでしょうか。まして、世の多くの人々の本音が、実は生きるために一番必要なものはお金であるというなら、それを守るためには家族も友人も何もかも敵に見えるほどの思い煩いに取りつかれることでしょう。

どうやら、生きるために一番必要なものと思っている人々も仕事もお金も、一番必要なものではない。これさえあれば幸せに生きられるというものではないことが分かります。イエス様は「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切」と仰いました。そしてこの命はどこから来たのか。この体はだれが与えられたのか、と問われるのです。私たちははっきりと答えられるでしょうか。この命は神が造られたもの。この体は神が与えてくださったものと。これが教会の信仰です。

主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、借り入れもせず,倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」主は天の父と仰って、神を私たちに紹介して下さいました。神とはどなたか?神は私たちを造られた方。空も鳥もすべてのものをお造りになった方です。そしてキリストを世に遣わして、神の言葉によって、私たちに御自身をお示しになりました。神は鳥も花も小さな生き物も、ご自分のお造りになったすべてを養ってくださる、と主は言われます。神は造られたものを愛し、慈しんでくださる。ご自分の造られたものが生きるために何を必要としているか神は御存じなのだ、と主は教えてくださいました。

一方、異邦人は何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と求めて思い煩うと主は言われます。なぜなら異邦人は、造り主である神を知らないからです。彼らは神がどんな方であるか知らないのです。全然神はいないと思ってはいないとしても、造り主が造られたものを愛し、慈しんでくださるとは夢にも思わない。造りっ放しで放置して、「後は自己責任。自分で何とかしなさい」ということだと思うか、あるいは「神は天で昼寝をしているのだ」と思う。さあ、そういう考えでは、いても立ってもいられないでしょう。

それでは、もう一度、最初の問いに戻りましょう。それは、「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」という問いです。教会の信仰は、神は天地を造られて、すべてを愛し、養い導いておられる方であると信じます。この信仰を受け入れる時、私たちは初めて極端な思い煩いに走ることから解放されるのではないでしょうか。この私たちを愛してくださる神は、私たちに必要なものをご存知です。また人間を愛しておられるけれども鳥や花はどうでもよいと放置される方でもないのです。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草も、ユーカリのように何百年の樹齢を保つ植物も、その命を美しく装ってくださいます。

このことを教えてくださり、すべての思い煩いから自由にしてくださるためにキリストを地上に遣わしてくださった神は、私たちに良くしてくださらないはずがありましょうか。生きるために一番大切なことは何でしょうか。それは神を知ることであります。神とはどなたであるかを知ることであります。神の愛を知ることであります。この方を知って、この方を信頼するかどうか、ここに私たちの生きるか死ぬかがかかっているのです。

私たちは日々多くの心配事に襲われると言っても過言ではありません。私たちはこの体をもって生きているのですから、日々物理的な必要を満たして生きていきます。体に限界があり、若い時は日々成長するように、年を取れば日々衰えることは免れません。しかし、その限界の中で神はわたしたちを活かすことを良しとされました。私が母から教えられた植物があります。ミセバヤという名前の植物ですが、新芽の時から美しく、花も美しく、紅葉も美しく、枯れても美しい。私たちは、多くの試練に遭ってどうしたらよいか途方に暮れることがあっても、キリストによって天の父を知り、この方に信頼する人生を生きましょう。日々選び取って生きましょう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」という主の御言葉は、だから何もしなくてよいということではありません。怠惰に安閑としていても養っていただけるということでは決してないのです。今日読んでいただいた旧約聖書出エジプト記は、モーセが神の命令に従ってに帰って行くときに、主から与えられた言葉です。モーセは神の与えられた使命を行う自信が全くありません。彼は思い煩いで押しつぶされそうになって、できることなら、この使命から逃れたいと思うのでした。しかし、神はモーセに言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

神はわたしたちに生きる使命をお与えになって、そのまま放置なさる方ではありません。必ずあなたと共にいる、と励まされるのです。だから大船に乗ったつもりで何もしないでいればよいというのではありません。私たちは与えられた知恵と力を用いて常に最善のことを語り、行う事を目指すべきであります。何よりもまず、私たちはこの神を知ることを求めましょう。マタイ6章33節。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

神の国と神の義、それは「神はどなたであるか?」という問いと切り離して考えることができません。それは、神はわたしたちを造られた方、慈しみ深く守られる方であると信じることから始まります。私たちの必要を満たしてくださる神を仰ぎ求め、他のものに目をそらさない者はだれでも、衣食住についての心遣いは適度にしか持たないでも済むことでしょう。しかし、その反対に必要なすべてを満たしてくださる方に目を注がないで、あれこれと思い煩い、他に助けを求めて駈けずり回るような生き方は偶像礼拝に他なりません。たとえひとたび神の国に招かれた者でも、そのような状態に陥ったならば、その惨めさは測りしれないでしょう。しかし、申命記の御言葉をお聞きください。4:29「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めなければならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」287下。

成宗教会に永くとどまって、神に従う者として証しをしてくださる方々がおられることは、何よりも力強い励ましであり、教会の誇りであることを思います。その方々は神の国と神の義を求めることを知っておられ、「神とはどなたか」を知ることが何よりも大切であることを証ししておられるからです。先週、私は100歳になられるF姉をお訪ねし、聖餐式を守りました。礼拝に出席することができなくなっておられるF姉は聖餐を受けられることを何よりも喜び、待ち望んでおられ、「罪深い者だから聖餐を受けなければなりません」と言われました。社会的に見れば、また信仰者としても本当に立派な方ですが、この方がこのように仰った時、私は、この方が何より望んでおられることはキリストの罪の赦しと永遠の命に結ばれることなのだと知らされたのでした。教会の信仰は、生きるために一番大切なことは、神を知ることであると告白します。祈ります。

 

恵み深き天の父よ、

本日もまた私たちに礼拝を与えてくださり、罪の赦しの御言葉を聴くことができました。深く感謝いたします。

私たちは礼拝のみ言葉をとおして、この二千年の教会の歴史に受け継がれた信仰を学ぶことを始めたいと思います。どうか、力弱い私たちを励ましてみ言葉を豊かに聴くことができますようにしてください。そして主の体に教会に連なり、この教会を建てて行くことができますよう、御心を示し、道を開いてください。

東日本連合長老会に加盟して、歩み始めてから、多くの学び、教えを受けましたことを感謝します。全国連合長老会、また改革長老教会協議会の活動を通して、教会を形成するために小さな教会をも共に歩ませていただくことを感謝します。人口減少社会に転じようとする今、地方の教会の抱える困難は、私たちの困難をはるかに超えるものではないかと心配します。どうぞ、同じ信仰に立つすべての教会、教派を用いてくださる主が、この社会を憐れみ、慈しんで福音を伝え続けることができますよう、道を開いてください。

あなたを知り、あなたの御心を尋ね求める者に、主の憐れみは尽きないことを信じます。どうか、この群れに、従う心を与え、すべての思い煩いを超えて、与えられた使命を果たすために、私たちすべての弱い者、貧しい者、主に頼る者を活かし用いてください。

教会学校、音楽会の行事を祝していただき感謝です。10月にはバザーの行事を予定しております。東日本の教会修養会、婦人会の委員会なども予定されています。ピアノ・オルガン教室も守り導かれて感謝です。どうぞ、私たちを励まして健康を支えて下さり、主の恵みをたたえる活動として私たちが奉仕することができるよう、お導きください。

礼拝に参加できないでいる方々も主に結ばれて、あなたの恵み深さを証しする生活ができますよう。疲れている方々、悩みにある方々、病気治療中の方々を顧みてください。カンボジアから帰国された今村宣教師ご夫妻に、主の備えられた休みが与えられますように。また、仕事で旅をする方々を顧みてください。

この感謝、願い、我らの尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。