聖書:出エジプト16章12-18節, コリントの信徒への手紙二 8章8-15節
コリントの信徒への手紙が書かれた時代に、エルサレム教会の地方では飢饉が起こったと言われます。そのことから考えると、パウロが教会に要請している募金活動は災害支援のようにも考えられます。私たちも最近のところでは、2011年に東日本大震災の被災地救援のための募金に応じて献げました。その時は教区教団に献金を送りました。しかし、昨年起こった熊本大分地震の救援募金については、教区教団に送ったのではなく、全国連合長老会を通じて被災地の教会に届くようにしたのです。
教区教団に送っても、連合長老会に送っても、同じように使われるのかどうかについて、わたしたちは自分の目で確かめることはできません。被災地に対する救援募金は自治体でも、赤十字でも、また報道機関でも行っていました。しかし、教会が、教会の名前で救援募金を集めることは、特別な意味があると思います。それは、今までわたしたちが読んで参りました聖書のみ言葉によって分かるのです。パウロは募金を呼び掛けています。パウロはエルサレム教会の人々に贈り物を送ろうとしています。しかし、それは飢饉があった地方全体の人々を助けようというのではないのです。だれでも助けようというのではないのです。「そんな狭量な、」とか、「心が狭いですね」とか言う人々がいます。「だれでもあまねく分け隔てなく、助けようと、募金するべきではないか」と言う人々もいます。教会の外の人々だけではなく、教区、教団の中にもそういう考えを述べる人々がいます。
しかし、聖書がわたしたちに教えているのはそうではありません。パウロは聖なる者たちを助けようと呼びかけているのです。聖なる者、すなわち神さまが御自分のもの、御自分の民として選び分けてくださった者たちです。何を基準にして選び分けられたのでしょうか。神さまの基準は何でしょうか。能力でしょうか。いいえ。年齢でしょうか。いいえ。人種でしょうか。いいえ。健康状態でしょうか。貧富によってでしょうか。もちろん違います。聖なる者とは、ただ神様にしか分からない基準によって聖なる者とされたのです。では、わたしたちには聖徒と呼ばれる人々は全く見分けがつかないのでしょうか。
いいえ。そんなことは決してありません。聖なる者とされるのは、イエス・キリストに出会い、その福音を聞き、この方こそ真に自分を救ってくださる救い主であると信じることによってであります。更に信じたことを口で言い表し、自分のこれまでの背きを悔い改めて洗礼を受けることによって、聖徒とされるのです。主が御自身の贖いの十字架の業によってわたしたちの罪を赦し、主の命に結んで下さったからです。主に結ばれて、わたしたちはキリストの生きた体の部分、肢と呼ばれます。ですから聖徒を助けるということはキリストの体の一部が他の一部を助けるということに他なりません。
パウロは、正にそのことをコリントの信徒への前の手紙で教会に教えています。コリントの信徒への手紙一、12章26節、27節。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」316下。パウロはエルサレム教会の困窮する人々を援助しましょうと、コリントの教会の人々に呼びかけているのですが、この呼びかけの目的は、実はエルサレム教会が満たされれば、それで終わり、というものではなく、またコリント教会が献金してくれれば、それで終わりというものでもないのです。なぜなら、キリストの教会を建てることは神の御心でありますから、それはある一つの教会だけが建てられればそれで良い、ということであるはずがないからです。然しながら、わたしたちはどうでしょうか。本当になかなかそのことに思いが及ばないのではないでしょうか。
昔、越路吹雪かだれかのシャンソンだったと思うのですが「たとえ、太陽が海に落ちてしまおうとも、あなたさえいれば生きていける・・・」というような愛の歌がありましたが、しかし教会はそうではない。他の教会がひっくり返ってなくなろうが、この教会さえあれば生きていける・・・」と思うのは、全く御心に反逆しています。みんな滅びても、自分だけ生きていることができるなどという考えは全くの非現実的妄想に過ぎません。初代教会の歴史資料を見る限り、迫害があったり、災害があったりする度に、人々はあちこち、移り住み、逃げたり、戻って来たりしながら、交流を続け、援助し合っていたことを知ることができます。教会がこのように現実的に具体的に助け合っていたことこそ、聖徒の交わりとしてパウロが勧めている言葉の内容ではなかったでしょうか。
8節です。「わたしたちは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心さに照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」神は、確かに兄弟姉妹の窮迫に対し援助の手を差し伸べるようにと、わたしたちに対して至るところで命令しておられますが、いつ、どこで、どのぐらい援助しなさい、ということはどこにも言われていないのです。細かい事まできっちり指定され、強いられていやいや捧げるような援助を、神が喜ばれるはずがないからです。ですから、ここで神が求めておられることは、愛の原則です。
9節。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」パウロは、慈愛の最も完全な、最も優れた模範として、キリストを指し示しています。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」キリストは本来神に等しい方であられます。この方がわたしたちのために一切の豊かさを捨てて、マリアに生まれた時、この方がどのような困窮の中にいらしたかを、わたしたちは知らされています。正に、宿る家も枕するところもない中に人となられたのは、なぜでしょうか。「それは、彼の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」とパウロは宣言しました。
更に宗教改革者はこう述べています。「主の貧しさの目的は、キリストを信じる者たちがもはや貧しさを恐れることがないためであった」と。主は御自身の貧しさによってわたしたち皆を富む者にしてくださったのだと。だから、この模範によって励まされ、広い心を持つようになること、兄弟の窮迫を援助することが問題である場合に、物惜しみなどしてはならないこと。このことを悟る人ほど幸いな人は無いのです。
だから、自分たちの有り余る分から切り取って兄弟たちに分かち与えることが、わたしたちに辛いことであるとしたら、わたしたちは本当に不幸ではないでしょうか。くり返して申しますが、これは、世のすべての人々に対する援助を勧めている言葉ではありません。
これは教会を建設するための言葉なのです。だから、この言葉が理解できるためには、教会とは何かが分からなければなりません。主の体の教会。主が私たちのために命を犠牲にして罪の赦しを与えてくださったと信じる者はキリストと結ばれるのです。このことを知る、悟るということは、人間的な思いではできません。このことが分からなければ、自分の懐にあるものを取って、他人に与えることが恵みであるかも理解できないでしょう。
ですから、教会は御言葉を宣べ伝えて、教会の恵みに招いているのですが、この招きを聖霊が行ってくださるように祈るのです。さて、コリントの人々はこの度の慈善の業において、既に相当進んだ段階にいました。だからこそ、もしそれを途中でやめてしまったり、中途半端な状態にしておくならば、それは神の御前に彼らの不名誉となり、神の喜び給う事業であるだけに、せっかくの業が無駄にならないことをパウロは願っています。良い志を持つことは素晴らしいことです。しかし、それを更に実行することは、志すことよりもはるかに素晴らしいことです。
11節で「自分が持っているものでやり遂げる」という勧めによって、パウロは強調しているのです。神は、あなたの力では負うことができないような分までも、「あなたは献げなさい」と要求し給わないと。わたしたちは献金感謝の祈りのなかで、「献身のしるしとして捧げます」と祈ります。献身と言うと、どうやら神学校に入って牧師になる道を進むことをいうのだと理解することが多いのですが、実は、わたしたちすべての信者は、主に従う者となった者であって、本来の意味では、すべての信者が献身者なのです。ただ、私については自発的に教師(牧師)になることを志しました。あれから19年、今日の聖句「進んで実行しようと思った通りに、自分が持っているものでやり遂げることです」を読むと、考えさせられます。
私にとって、献身するということは、進んで実行しようと思ったなどということからは程遠いものでした。むしろひどく急き立てられ、強いられて献身したというのが実感でありました。ですから人の目にはどう映ったか分かりません。よほど無謀か傲慢かと思われたかもしれません。家族にとっては、私の献身は計り知れない衝撃であったでしょう。しかし、一度たりとも後悔したことはありません。なぜならわたくしを厳しく急き立てて、献身せざるを得ないようになさったのは、主なる父なる神様、御子イエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神様に他ならない。私はそのことを確信したからでした。
わたしたちは同じ教会にいます。わたしたちは唯一のキリストの体である使徒的教会を信じています。この使徒的、という言葉は皆様に余り馴染みがないと思いますが、こうして新約聖書に記されているように、キリストの弟子たち、パウロも含めて使徒たちによって伝えられたキリストの教えに従って福音を宣べ伝える教会は、使徒的教会と呼ばれるのです。それは、使徒信条に「われは教会を信ず」と告白している教会です。この同じ信仰を告白していることによって、わたしたちは全国全世界に出て行くことができ、また全国全世界から人々を招き入れて交わりを与えられることができるのです。聖徒の交わりは、同じ信仰に立つ者の交わりであります。そしてこの交わりをわたしたちは今日の御言葉のように聖書を通して教えられています。
同時に、わたしたちは同じ教会にいるとわたしたちが思う時、それは地上の教会、一つ一つの教会を思うことでもあります。このことは大変重要なことです。わたしたちは東日本連合長老会という目に見える近隣の教会との交わりの中で教会形成を目指しています。目に見える、ということは大変重要なことです。教会は目に見えないキリストの体の教会を信じるところに依って立つのですが、同時にわたしたちは限られた命をいただいて地上の生活をし、この限られた時と所を得て、限られた力を尽くして、心から主を礼拝する教会を建てて行くのです。
限られた命をもって献身しているので、わたしたちは罪を免れません。お金にしても、健康にしても、その他の能力にしても、絶えず「わたしにはあれが足りない、これが足りない、もっとあったら…」とぼやいていることが何と多いことでしょうか。牧師である私自身がそうだったので、本当に15年間を振り返った時に、もっと信仰深かったら、もっと主の恵み深さに心を向けていたら・・・」と反省するときに、主に対しても、成宗教会に対しても申し訳ないという思いで一杯です。
しかしこのことは、こうして共に主の戦いを戦って来た兄弟姉妹がここにいらしたからこそ、今率直に申し述べることができるのです。主の戦いは教会を建てる戦いです。主は年老いて行くわたしたちを大切にして下さいます。これまでそうだったようにこれからも、と祈り願っております。しかし、主は教会そのものを限りあるものとなさいません。すなわち、時が来てわたしたちが主の御許に召されるように、地上の教会を無くすことが御心でしょうか。そうではない。地上の教会は世の終わりまで続くのです。ですから、わたしたちの戦いは、自分による自分のための自分だけの戦いではありません。わたしたちは主の戦いを一緒に戦うために呼び出されているのではないでしょうか。地上に生きている限り、共に集い、共に御言葉を聞き、献身の祈りを捧げる教会を共に建てる時、私たちの後ろ向きで、消極的な姿勢も、また疲れ果てた心身も、丸ごと主のものとされ、罪赦され、キリストの豊かさに結ばれるでしょう。祈ります。
教会の主、イエス・キリストの父なる神さま
尊き御名を賛美します。本日、わたしたちは恵みによって成宗教会の礼拝に集められ、御言葉を聞き、賛美を捧げることができました。わたしたちの貧しさを共に担って下さり、キリストの計り知れない豊かさの中に招かれておりながら、わたしたちは自分の貧しさ、乏しさを絶えず嘆くことの多いものでありましたことを懺悔いたします。あなたがわたしたちを愛し、キリストの執り成しによって罪を赦してくださったこと。このことに優る豊かさはございません。このことに優る幸いはございません。わたしたちは、主の恵みによって豊かな者とされ、もはや自分の貧しさ、自分の力が乏しいことを嘆き、恥ずかしく思わなくても良いと知らされ感謝します。どうか必要なものを豊かにくださる主が、わたしたちに互いに助け合い、支え合う心を、知恵と力をお与え下さい。特に目に見える隣人を思いやり、共に教会を建てて、その中に招き入れるために祈る者と、わたしたちをなしてください。
本日は墓前礼拝を守るために、越生の成宗教会墓所に出かけて参ります。真に感謝です。すべてが守られ、主の御名がほめたたえられますように。このお墓は主に結ばれて地上の生涯を終えた兄姉をあなたが愛してくださったことを証しする場所です。どうか、この教会とともにあなたの祝福を注いでください。
今週の主の民の歩みのすべてを導き、教会に集えなかった方々をも顧みてください。そして多くの人々に恵みの福音を聞く時をお与え下さい。
この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。