聖書:出エジプト20章1–17節, ローマの信徒への手紙10章1–4 節
教会は福音を宣べ伝えるために、神さまが建ててくださっています。イエス・キリストは、神の言葉と言われます。教会は礼拝の説教において、神さまとはどなたであるか。そしてイエスさまがどなたであるかをお知らせします。それは、聞くわたしたちが神の言葉を信じて生きる者とされるためです。
教会は聖書によって神の言葉を宣べ伝えるのですが、聖書は御覧のとおり、大きな書物で、66巻の文書から成っています。クリスチャンになる前にこれを隅々まで読んで、頭に入ったという人は、多くはないと思います。それどころか、本当に少数と思います。もし、そうしなければ洗礼を受けることはできない、という掟になっていたとしたら、この2千年経った今、20数億ものクリスチャンは生まれなかったでしょう。宗教改革がヨーロッパで起こったのは16世紀ですが、その時代、字を読める人の数は少なくて、その上、聖書も個々人で持つなどということは考えられませんでした。
そこで信仰の教育はどのようになされたのでしょう。人々は使徒信条と、主の祈り、そして 十戒 によって信仰教育を受けました。この三つが三要文と呼ばれています。今、成宗教会では、全国連合長老会の発行している「新・明解カテキズム(信仰問答)」によって、教会の信仰を学んでいますが、それは、三要文を学ぶということです。
さて、わたしたちはちょうど去年の9月から礼拝で使徒信条について学んで参りました。先週、永遠の命を信ずということの意味を知ることができました。「永遠の命を信じます」とはどういうことか。その答をわたしたちは学びました。それは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。この信仰が、使徒信条の最後の告白になっています。最後にして、最も重要な生きる目標が示されている訳です。
わたしたちは今、少子高齢化社会を生きています。そしてこの社会の傾向、潮流は急に変るということは考えられず、あと何十年も続くと思われます。それはたくさんの高齢者が死を迎える一方、若い人々の数は少ないので、日本人だけを考えれば、人口の減少が続く社会です。人の一生を考えれば、高齢になって地上を去るということはごく当たり前なのですが、大勢の人が少数の人を見送るのではなく、大勢の人が世を去って、少数の人が残されるという社会現象は、決して当たり前ではなく、深刻だと受け止めています。しかし、深刻なのは、地上を去る人々ではなく、あとに残される人々ではないでしょうか。
教会は主イエスさまのご命令に従って、福音を宣べ伝えて来ました。神さまから与えられたこの務めを十分に誠実に果たしたならば、世を去ることは平安そのものです。教会は永遠の命を信じると告白しているのですから。わたしたちの人生は、真に至らない罪にまみれたものであっても、最後の最後まで主の憐れみを信じ、主の救いを信じて歩み通すことが大切です。こんな者でも愛してくださる神さまがおられることを信じて、イエスさまに結ばれて年を取ったなら、これほど恵まれた生涯はありません。地上を生きている今も、既にイエスさまと結ばれ、神さまの永遠の命を生き始めているのですから。
しかし、教会にいるわたしたちには、深刻に思うべきことがありましょう。そうでなければなりません。なぜなら、大勢の中高年が地上を去った後に、残される人々の数がたとえ少なくなっていくとしても(そうでなくなる時が来ることを、わたしたちはもちろん希望しなければなりませんが)、その残される人々にも福音が宣べ伝えられなければならないからです。教会が地上に立っているのは、人々が神さまを信頼して地上の生活を神に従って生きるためなのですから。
初めに結論を述べたようになったかもしれませんが、今日からわたしたちは十戒について学ぼうとしております。御言葉に聴きましょう。出エジプト記20章2節。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神さまがモーセを通して人々に与えた十戒、10の戒めは、聖書の今日読んでいただいて出エジプト記20章と、申命記5章の二か所に記されています。来週から3節から17節までを順に学んで行きたいと思いますが、2節は十戒の前文に当たる部分で、大変重要な意味を持っています。
「わたしは主」であると宣言される神さまは、万物の主であります。すなわち天地万物を創造された主なる神である、と名乗りを上げておられます。そして、その神さまはあなたに向かって言われます。わたしはあなたの神であると。では、あなたと呼ばれた人々はどういう人々でしたでしょうか。それは出エジプトの民です。神さまはあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である、と宣言なさいました。
十戒という昔の映画を覚えている方もいらっしゃると思います。その頃教会もイエスさまも知らなかった私でも覚えている映画です。チャールトン・ヘストンのモーセに率いられた民は、葦の海の手前でエジプトの軍勢に追いつかれ、もう絶体絶命というその時、奇跡が起こりました。神さまは、紅海の水を真っ二つに分け、海の道を開いてくださいました。CGも何もない時代のあれだけの奇跡の場面をどうやって撮ったのか、ということが大変衝撃的で、長く人々の印象に残った映画だったと思います。
しかし、これは映画ではなく、聖書が語る言葉であります。わたしたちの命の危機、滅びの瞬間に、御手を伸ばして捕え、救ってくださる神さま。無から有を呼び出し、死を命に変えてくださる神さまが、同時にわたしたちの生きるこの歴史に働きかけて、イスラエルを救い出してくださる方であることが明らかになった瞬間です。この方こそ、真の神なのではないでしょうか。神さまに与えられた十戒は、神さまの救いに応えるために人々に与えられたものです。
救いとは、奴隷の家から解放されることであります。奴隷の状態とは、だれかに支配されている。何かに支配されているということです。人は誰にも支配されたくないと思っています。しかし実際には誰かに、また何かに支配されている。そして支配されていることにさえ気づいていないかもしれません。イスラエルの人々はその支配の苛酷さに苦しんで、叫び声を上げた。その声を神さまが聞いてくださったのでした。
奴隷の家から解放されるためには、自分の苦しみに気づかなければなりません。息苦しいけれども、死にそうだけれども気づかない人々は多いのです。自分は救われる必要があると、そして救われたいと願い求めることが必要です。自分を支配しているものが何かに気づかなければなりません。自分を支配している罪を知って、悔い改めたいと心から願うことが必要なのです。イスラエルの人々の救いの物語は、文字通り、救われるための格闘でありましたが、彼らが自分の力でしたことはほとんど何もありませんでした。彼らにはただただモーセに従って行くこと、神さまを信じることだけが求められました。そして神が自ら勝利してくださったので、彼らは自由にされたのでした。
もしわたしたちが、そのようにして解放されたなら、その神さまに何と言って応えたらよいでしょうか。どんな御礼ができるでしょうか。ただただ神さまのお与えくださる戒めを守って生きること。そのことによって応えるしかないのです。十戒はそのようにしてイスラエルの人々に与えられました。
ところで、このようにして救われたイスラエルの人々は、特別な人々だったでしょうか。いいえ、むしろ普通の人だったでしょう。むしろ、弱い、力のない人々だったけれども、主なる神さまは彼らを愛して、ご自分のものとしてくださいました。教会に来てイエスさまと結ばれる人々も同じです。神さまの秘密の選びによって招かれているので、だれも人間的な評価によって、神さまの選びを考えることはできません。ただ恵みによって選ばれたことを感謝して十戒をいただくのです。
ところが新約聖書ローマの信徒への手紙10章を見ますと、十戒(ここでは律法と言われています)を与えられた人々の中には、自分を誇る人々がいました。十戒を守れる人は偉い人、立派な人。守れない人は罪人と評価し、できる人は自分の正しさを主張しました。1~3節。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
人が自分の正しさ(義)を主張するために、神さまは律法(十戒)を与えられたのでしょうか。全くそうではありません。自分が正しいという人も、実は神さまの前では罪人に過ぎないからです。十戒の目的は、人が自分の罪に気がつき、本当に正しい方は神さまだけだと悟ることにあるのです。4節。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」神さまの正しさは、イエスさまの中に表されました。すなわち、神の子イエスさまは御自分の正しさを誇るために世に来られたのではありません。その全く逆に、正しくありたいと願いながら正しくなれない人間の罪を御自分に引き受け、ご自分の本来持っておられた正しさをわたしたちに与えてくださるために、世に来られたのです。
ですから、ここに主張されているとおり、律法の目標はイエス・キリストであります。十戒をいただいたイスラエルは何とか守ろうとして熱心に務めました。そして中には守ることができたと得意になり、守れない人々を罪人として軽蔑する者もいました。また、十戒を与えられた自分たちの民族は特別優れているからだ、と異邦人を軽蔑する人々もいました。しかし、律法の目標は、律法を完全に守ることができない自分に気がつき、自分の罪を悔い改めて、神さまの恵みにより頼むことなのです。
新約聖書の時代を生きるわたしたちはイエスさまに出会い、この方に表された神さまの深い慈しみを信じる者とされました。教会はイエス・キリストの罪の赦しに結ばれた者として、改めて感謝の内に、父なる神さまより十戒をいただくのです。主に従う者とされたので、依然として罪人ではありますが、絶えざる感謝と悔い改めの思いをもって、新たに十戒の言葉をいただきたいと願います。
今日の学びはカテキズム問39です。「十戒とは何ですか。」答は「十戒は、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。」祈りましょう。
教会の主、イエス・キリストの父なる神さま
尊き御名をほめたたえます。一週間の歩みをお守りいただき、再び礼拝の場に集められましたことを感謝いたします。先週まで約一年にわたって学んで参りました使徒信条の学びを終え、本日から、十戒について新たに学び始めました。どうか、この学びによってみ言葉の力が聖霊によって豊かに発揮され、それぞれの魂が救いの主に向かって成長できますように道を開いてください。
わたしたちの中には、高齢のゆえの困難や病気と日々向き合っている方々が多くいますが、どうかその一人一人のご生活において、主イエスさまと結ばれた豊かさ、救いの御業を現わしてください。特に病院や施設で暮らす方々をあなたの恵みで覆って日々の困難に勇気を以て立ち向かわせてください。また、若い世代、働く世代の方々の困難を顧みてください。皆さんが非常に忙しく、この社会の多くの悩みを抱えていると思います。どうか、あなたの救いを信じ、いつも祈り求める者となりますように。
先週は教会学校との合同礼拝を祝してくださり、ありがとうございました。また一日夏期学校をも豊かにお守りくださり感謝です。来週から始まる教会学校の二学期をお守りください。良い学びと交わりの時が与えられ、成人の礼拝と共に、信仰を告白する者が起こされますように。また来週は9月聖餐礼拝を守ります。どうか聖餐に向かって真の悔い改めで心を清め、整えてください。また、9月8日(土)に近づきました「子どもと楽しむ音楽会」に向けて祈ります。どうか、地域に開かれた教会の務めとして、この行事を祝福してください。
すべての日常の務めの中に、主の聖霊のお働きによって備えられる、来年度の新しい教師の人事が整えられますようお祈り申し上げます。
主イエス・キリストの御名によって、御前に祈ります。アーメン。