神の栄光に包まれて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌352番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 19篇8-18節 (旧約聖書566ページ)

19:8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
19:9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

新約聖書:マルコによる福音書 9章2-8節 (新約聖書78ページ)

9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

《説教》『神の栄光に包まれて』

ご一緒に読んで参りましたマルコによる福音書では8章のペトロの信仰告白に続いて主イエスご自身による受難予告と続きました。本日の9章2節には、「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」と、あります。この「山」とは、これまで続けて来られた旅の経過から考えて、ヘルモン山と見るのが妥当でしょう。ヘルモン山は、フィリポ・カイサリア地方の北にあり、海抜2,850m、一年中雪を残す高山です。
主イエスは、三人の弟子たちだけを連れて、何のために山へ登られたのでしょうか。本日の物語は、極めて象徴的かつ神学的であり、信仰の知恵を巡らせて読まなければならない特殊なものと言えましょう。
私たちは、毎週、聖日の礼拝に導かれ、御言葉を聞く時を与えられています。それは、この世の生活の中にある私と、神の御業の中にある私、この両者の正しいあり方を、神は、礼拝という出会いの場に於いて教えられるからです。主イエスが「山に登られた」ということも、当時のこの世での生活に厳しく生きる弟子たちのために、特別に用意された恩寵の時と理解すべきでしょう。「山」とは、旧約聖書以来、神が用いられた恵みの場、教えの場でした。
改めて振り返って見るならば、旧約聖書で、モーセが十戒を授けられたのは「シナイの山の上」でした。バアルの預言者と闘ったエリヤがアハブとイゼベルに追われた時、彼は「神の山ホレブに逃れた」と記されています(列王記上 19章8節)。新約聖書でも、十二使徒を選出したのは「山の上」(マルコ福音書3章13節以下)であり、祈る時、「イエスは山に登られた」とさまざまな箇所で記されています。さらに、甦られた主イエスは、ガリラヤの山の上で弟子たちに出会い(マタイ福音書28章16節)、再臨を約束して天に帰られたのもオリーブ山からでした(使徒言行録1章9節以下)。「山に登る」とは、信仰的に特別な場面を示しているのであり、聖書に於いては、「神との出会いの場」「神とのふれあいの場」「聖なる御業の行われる場」を象徴的に示唆するところです。聖書に記される「山」は「天上の出来事と地上の出来事との接点である」とも言えるでしょう。それ故に、私たちは、「その山」が「何処の山か」ということを考えることが大切なのではなく、「そこで行われていることが何であるか」ということを、改めて聖書から聴き取らなければならないのです。
この時、主イエスが、弟子たちを連れてヘルモン山に登ったことは確かでしよう。しかし、そこで起こったことは、「ヘルモンという山の上で起こった出来事」ということではなく、「神の国の秘密を垣間見せて頂く、特別な出来事であった」ということなのです。それは、2節以下の、「イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」とあることからも分かります。
物語はここから純粋に信仰的表現の世界に入ります。私たちの世界にない出来事を語っているのです。
そもそも、私たちが用いる言葉は、この世界に存在しないものを表現することにはまったく向いていないのです。何故なら、言葉というものは、私たちが現実の世界の中で体験し、考えた事柄を「説明するために」造られたからです。
神を正しく表現する言葉は、私たちの世界には存在しません。聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ福音書 1章18節)と記されています。見たこともないものを語る言葉は、当然、「ない」のです。
それ故に、聖書は「本来表現することの出来ない神の出来事」を「私たちが知っている言葉」を用いて語らざるを得ません。聖書を読む時、常に心得なければならないことは、信仰の出来事、神の出来事は、「私たちの日常的な世界を超えるものである」ということです。そしてそれ故に、言葉で示される出来事を、言葉を超える知恵をもって理解しなければならないのです。ここで、「イエスの姿が変わり、服は真っ白に輝いた」と記されていますが、ルカ福音書はここを「顔の様子が変わり」(ルカ福音書8章29節)と記し、マタイ福音書は「顔は太陽のように輝き」(マタイ福音書17章2節)と述べています。さらに、十戒を受けた時のモーセの姿は、「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」(出34:29-30)と記されています。
この「顔が輝いた」という表現は、「神との出会い」「神の栄光」を表す信仰的な表現なのです。「白い服」も同じです。「神の義・正しさ」「神の聖・聖さ」を表すための表現です。「これ以外表現しようがない限界」とも言えるでしょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、今、ここで、主イエスの御姿の中に、紛れもない「神の栄光」を見たのであり、神御自身と出会う驚くべき体験は、「このように表現せざるを得なかった」ということなのです。4節には、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。
モーセは旧約聖書の「律法の象徴」、エリヤは旧約聖書の「預言者の象徴」です。これまでも主イエスを妨害していた律法学者・ファリサイ派、また神殿で権威を誇示している大祭司や祭司たちは、この律法の象徴モーセと預言者の象徴エリヤに自分たちの権力の根拠を置いていました。イスラエル固有の信仰は律法と預言者によって与えられており、律法と預言者に従うことを「何よりも大切なこと」と考えていたために、新しい福音を告げる主イエスを排撃し、抹殺しようとしたのです。
しかし、ルカ福音書9章31節は、この時の語り合いの内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」であったと記しています。律法と預言者が告げて来たことの結論が「イエスの十字架と復活である」ということを、この場面は示しており、見方を変えるならば、全聖書が語ること、父なる神の御計画の全てが、この「山の上の一場面で明らかにされた」と言うことが出来るのです。この幻の場面こそ、神の御業の奥義の開示でした。
すると、5節から6節で、「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とあります。
大いなる神の秘密に初めて直面した弟子たちが声も出なかった時、ペトロだけが、ようやくこれだけのことを口にすることが出来ました。驚くべき出来事に直面した混乱の中ではあっても、ペトロには口を挟む余裕があったことは確かでしょう。移住生活を基本とする荒野の民にとって、「小屋を建てましょう」とは、「何時までもここに留まって欲しい」という強い願望を表現しているのです。
神に出会った者。神の御姿を仰いだ者。神の栄光を身近に接した者、その人たちの眼は、一体、何を見るのでしょうか。それは、これまで生きて来た世界と余りにもかけ離れた潔さであり、純粋さです。そして私たちの誰一人として、その潔さに憧れない者は居ません。
悲しみも苦しみもない世界。面倒臭い人間関係も、もはやなくなっている世界。傷つける者もなく、傷つけられることもなく、憎しみや陰口もなく、ただ、永遠なる神と共にある純粋な世界。それこそ、私たち誰もが憧れる世界であり、「神の国こそ、そのような世界である」のです。
パウロは、その素晴しさをフィリピ書1章23節で告白し、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい」とさえ記しています。
ペトロもそうだったのです。彼は、ここに「自分の幸福」を見ました。「此処こそ、私が留まるべき世界だ」と思ったのでしよう。「再び、あの面倒臭い『山の下』へ戻って行きたくない」と考えたのも無理はありません。
主イエスの時代、町や村を離れ、荒れ野の中に清潔さを求めて住んだエッセネ派と呼ばれる人々。社会から完全にかけ離れて純粋な信仰に生きようとした後世の修道士たち。皆、考えたことは同じでした。その気持ちは分かりますが、しかしながらそれが「現実から遊離したもの」と言わざるを得ないのは、いったい何故でしょうか。それは、大切なことを忘れているからであり、ペトロもまた、最も大切なことを見落としているからです。それは、幻で示されていた内容です。
この語り合いが「イエスの受難に関してであった」とは、先に述べたようにルカが記している通りです。父なる神は、全ての御業の結末を「御子キリストの十字架と復活」とされているということであり、この幻は、その御心を明らかに告げるものでした。
ペトロが願ったように、もし、主イエスがこの場に永遠に留まるならば、十字架と復活はどうなったでしょうか。全ての人々の救いとなる贖いの御業はいったいどうなったでしょうか。
7節には、「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」とあります。これは、ペトロの願いに対する神の拒否です。突如わき起こった雲は、「神の臨在」を表す信仰的表現です。そこに居られた父なる神は、ペトロの願いを退け、「すべてはキリストに聞け」と言われたのです。
信仰に於いて最も大切なことがここにあります。キリスト者の姿勢は、「自分がどのような気持ちになったか」「自分が何を望むか」ということではなく、「主なる神が、今、何をされようとしておられるのか」を聞き取ることであり、「御子キリストは、何を実現しようとしておられるのか」を聴くことでなければならないからです。
ペトロは、そのことを考えていませんでした。この直前、フィリポ・カイサリアに於いて、主イエス御自身がお教えになった受難の予告を、彼は心に留めていなかったのです。(マルコ福音書8章1節以下参照)。
主イエスの十字架を抜きにしてエデンの園を回復しようとする試みとは、荒野に於いて、サタンが主イエスに働きかけた誘惑です。そして、主イエスは、四十日四十夜の祈りの後、「それを拒否し、退けられた」と聖書は記しています(マタイ福音書4章1節以下参照)。キリストの御心、御業の中にこそ、父なる神が喜ばれるすべてのことが備えられており、キリストに従うことこそが、信仰者の行くべき唯一の道なのです。
それ故にパウロは、「この世を去ってキリストと共にいたい」と言いながら、同時に、「生きるとはキリストである」即ち「十字架を背負って生きることこそ、キリストの御旨である」と告白しているのです。
8節には、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」とあります。まさに象徴的光景と言うべきでしょう。幻は消えるのです。その後に残るものは何でしょうか。「ただ、イエスだけが彼らと一緒におられた」と聖書は記しています。「ただイエスだけが」です。そして、主イエス・キリストがおられるところこそ、私たちが生きるべき場なのです。
この「山の上」の出来事を、主イエスのお姿が変わったということから「山上の変貌」とも呼びます。しかし、「変わった」と言うならば、どちらが本当の姿なのかということを先ず確かめるべきではないでしょうか。ペトロはここに「神の栄光」を見ました。真実の御姿がここで教えられました。
そしてこの瞬間、示された「栄光の神」こそ、御子キリストの本当のお姿だということに気付くべきです。弟子たちと共に旅をして来たナザレのイエスは、神の御子が人間の姿をとったものであり、普段弟子たちの見慣れたお姿は、逆に人となった「変貌の姿であった」と言わなければならないのです。
たとえ、一瞬ではあっても、「山の上」でペトロが味わった真実を見た感激と喜び。パウロが苦難の中で生涯憧れ続けた「神の国の平安」。その喜びと平安を現実にするために、神の御子は敢えて御姿を変え、この世に来られたという信仰の奥義を、本日の聖書は語っているのです。
栄光に満たされた方が、何故、人の姿をお取りになったのでしょうか。それまでして、実現しようとされたことは一体何であったのでしょうか。
山の上の栄光を見た者は、このことにこそ眼を向けなければなりません。「栄光を自ら捨てて世に降られた方の御心」を、今、私たちは、正面から受け止めなければならないのです。
「御心に従って生きる」とは、自分の希望を最優先して、「山の上に留まること」を願うのではなく、それほどまでにして私たちを愛して下さった方のそばを離れず、「何処までもついて行く」こと、これこそがキリスト者の生き甲斐と言うべきです。
8節の、「イエスだけが彼らと一緒におられた」。これこそが「山」を下りた者に対する神の恵みであり、私たち、この世を生きる者に対する「力と勇気の源」の恵みの知らせなのです。

お祈りを致します。

恐れるな、ただ信ぜよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌257番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 17章21-22節 (旧約聖書562ページ)

17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

新約聖書:マルコによる福音書 5章35-43節 (新約聖書70ページ)

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

《説教》『恐れるな、ただ信ぜよ』

主イエス・キリストの御前には、さまざまな人々が集まって来ます。真剣に御言葉を求めている人もいれば、単なる野次馬に過ぎない人もいました。ある者は喜んで御言葉に耳を傾け、ある者は御言葉を共に聞きながら、何もなかったかのように立ち去って行きました。福音書の時代から現代の教会に至るまで、どれ程多くの人々が集まり、また去って行ったことでしょう。数々の期待と失望が主イエスの前に立つ人間の心の中に生まれ、今の私たちに至るまでそれが続いています。本日の物語も、そのように期待と失望という対照的な人々の姿を語っています。

35節に、「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」とあります。

この「まだ話しておられるときに」とは、先週お話しした十二年間の長きに亘る出血の病を癒された女性が「まだそこにいた」ということです。

彼女には救われた喜びが溢れていました。キリストに見詰められて、キリストの眼差しを全身で受け止めて応えた喜びがありました。「病気が治った」ということだけではなく、主イエス・キリストとの交わりを確認し、「私は見放されてはいなかった」「主は私を御存知であった」ということを教えられて生きる喜びが、この女性の心を満たしていたことでしょう。しかしながら、この女性が感謝の眼差しで主イエスを仰いでいるまさにその時、彼女とは正反対に、絶望的な知らせを受け取った人物もいたのです。主イエスと共にここまでやって来たカファルナウムの会堂長ヤイロでした。

彼は自分の娘を救いたい一心で主イエスのもとに来ました。そのために、自分の誇りも、世間体も、これからの生活も、一切を投げ捨て、主イエスの御前にひれ伏しました。もはやナザレのイエス以外に望みはないと思ったからです。

そこまで追い込まれて来た会堂長ヤイロは、今まさに、救われた喜びに満たされている女性の前で、愛する娘の死を知らされました。

これまでの長い生涯の中で築き上げて来た社会的地位を全て投げ捨てても助けたかった大切な愛する娘を、失ってしまったのです。ヤイロは、「長血を患っていた女性」よりも更に熱心に主イエスを求めながら、ただ「悲しみしか与えられなかった」と思ったことでしょう。

35節の「お嬢さんは亡くなりました」という知らせは、ヤイロにとって決定的と思えるものでした。「先生を煩わすには及ばないでしょう」。主イエスをもってしても「何の役にも立たない」ということです。

私たちも、苦しみの中で幾度この声を聞いたことでしょう。「イエス様に祈ってもどうにもならないのではないのか」「キリストに祈って、いったい何が変わるのだろうか」「所詮、自分ひとりで苦しみに耐えなければならないのだ」。

「絶望は罪である」と言った人がいます。「絶望」とは「望みを絶つこと」であり、希望の源である救い主キリストを、自分の心から追い出してしまうことになるからです。「キリストなしで生きて行こう」という決意こそ、サタンが最も喜ぶことなのです。ですから、娘の死を伝え、「主イエスは無用になった」という報告を主イエスが「そばで聞いていた」と記されていますが、これはむしろ「聞き流す」というくらいの意味で理解すべきです。「先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の声を、主イエスはあえて「無視した」ということです。主イエスの御業は、「キリストなしで生きていこう」というサタンのささやきを覆すものであることを、改めてここに示しているのです。

主イエスは36節で「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。私たちは、常にふたつの言葉を聞いています。現実のさまざまな惑いの中で、「もうキリストに祈っても無駄だ」という声と、「恐れることはない。ただ信じなさい」というふたつの声です。そのどちらかに従うかで、私たちの運命が決まってしまうのです。

しかしながら、私たちに最も重要なことは何でしょうか。私たちが見極めなければならない現実とは何でしょうか。

確かに、私たちの前には苦難や悲しみがあります。それを無視することは出来ません。しかしそれと共に、その試練に直面している私たちの傍らに、主イエス・キリストが居られるということも、また確かなのです。

私たちは、「キリストが共に、その試練に出会っていて下さっているのだ」ということを忘れてはなりません。私たちがキリストを忘れるところにサタンのつけ入る隙があると言わなければならないのです。

「恐れることはない」という御言葉は、単なる言葉の上での慰めではなく、神の御子が、悲しむヤイロの傍らにおられることを、御自身が明らかにしておられるのです。

「私はここにいるのだ。しっかりしなさい」。主イエスは、今もこのように私たちに呼びかけておられるのです。

38節から40節に、「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。」とあります。これが人間の悲しい姿です。「キリストは必要ない」と言った人々の姿がここにあります。

「人々は大声で泣きわめいて騒いでいた」。これは何の涙であったのでしょう。女の子の死を悲しんでいたのでしょうか。当然、そうであったでしょう。愛する者の死に出会って泣かない者はいません。しかし、そこにある悲しみは何を表しているのでしょうか。死は別離です。しかし、もしそれが「愛する者との別れの悲しみ」であるならば、その涙の中には「再会の希望」が込められている筈です。

遠くへ旅立つ人を見送る時、「いつかまた会えるであろう」という微かな期待が別れの寂しさを和らげてくれます。

ですから、死者との別れの悲しみが大きければ大きいほど、「再会の願いも大きい筈だ」と言えます。ヤイロの家に集まっていた人々の心に、どれ程、この祈りが込められていたでしょう。

それにも拘らず、「子供は死んだのではない」とイエスが言われた時、人々は「あざ笑った」のです。「馬鹿なことを言う」と否定しました。

私たちは、愛する者を失った時、その死を、簡単には受け入れられないものです。「もう駄目だ」と言われても、最後の最後まで、「もしかすると」という期待を捨てきれないものです。「なんとか甦って欲しい」と願います。

まして、ヤイロの娘は、今、息を引き取ったばかりです。「まだ大丈夫」という主イエスの言葉を聞いた時、喜ぶのが当然ではないでしょうか。「出来るなら、早速甦らせていただきたい」とお願いするのが普通でしょう。

しかし、彼らは「あざ笑った」のです。主イエスを拒否する人間は、僅かな希望すら見失っているということが、ここにも見られます。神に祈り求めることを知らない人間の悲しみは、もはや決して「喜びに変わることのない悲しみ」なのです。

主イエス・キリストは、悲しみを悲しみで終わらせず、喜びに変えて下さるのです。それが「キリストと共に生きる人間の現実」なのです。

41節から42節には、「子供の手を取って、『タリタ・クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって歩き出した。」とあります。

主イエスの言葉が悲しみを打ち破りました。「タリタ・クム」。これは主イエスが日常話していたアラム語です。特別な呪文ではなく、普段の調子で「静かに話しかけた」ことを示しています。「娘よ起きなさい」。それだけで十分だったのです。ヤイロがどれ程の喜びを驚きと共に味わったかは言うまでもないでしょう。

ヤイロの娘は確かに甦りました。それは確かです。しかしそれと共に、「再び死ぬ運命にある」ということを忘れてはなりません。如何にこれから健康に恵まれたとしても、やがて父と母を見送り、自分もまた必ず世を去るのです。別離を悲しむ叫びが再びそこで繰り返されるでしょう。この世の時を生きる限り、それは変わることのない事実です。

ですから、ヤイロの娘の甦りの奇跡は、ひとつの悲しみを解消することは出来ても、全ての人間が出会う死の悲しみの本質的解決ではありません。私たちの信仰の眼は、ヤイロの娘の甦りの中に「一人の少女の奇跡的生き返り」を見るだけではなく、今ここに、「現実に死者を甦らせる力を持つ方が居られる」ということへ注がれなければなりません。死に打ち勝ち、死の力を滅ぼす方が居られることをここに見るのです

大事なことは、主イエス・キリストによって「新しい命」が、一人の少女に、そしてその家族に与えられ、家族が新しく生き始めることができた、という恵みの出来事として捉えることです。マルコはそういう出来事としてこれを描いているのです。

そしてこの少女の甦りと織り合わされて、もう一人の女性の癒しがここには語られていました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。

ここで、この「ヤイロの娘」と「長血の女」の二つの物語が、どこで織合わさっているかが見えて来たのではないでしょうか。「長血の女の喜び」と対照的であった「ヤイロの悲しみ」は、この喜びに連なっていたのです。私たちは、ここでも「主イエスは求める者を決して悲しみのままで去らせることはない」という聖書のメッセージに出会うのです。

先々週以来申しましたように、この二つの物語は密接に結びついており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって新しく生かされる恵みであり、喜びなのです。

私たちにも、主イエス・キリストの復活の命が与えられ、新しく生き始めました。これが洗礼です。主イエス・キリストによって新しく生かされている恵みです。主イエス・キリストの新しい命に生かされる喜びの日々を覚えつつ、感謝の祈りを捧げ、新しい日々をしっかりと歩みましょう。

お祈りを致します。

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