聖書:創世記2章18–25節, コロサイの信徒への手紙3章1–5節
本日は説教題を「神と人との正しい関係」と題して、モーセの 十戒 を学びます。十戒のうちの第七の戒めです。それは、「あなたは、姦淫してはならない」という戒めです。姦淫とは、どういう意味でしょうか。古代イスラエルでは、婚約しているかまたは結婚関係にある女性が、婚約者もしくは夫以外の男性と性的な関係を持つことを意味しました。それは殺人と同じ位重大な犯罪で、両方共に死刑を免れないほどだったのです。なぜでしょうか。これは結婚の関係を破壊する悪事であるからです。破壊されるのは、夫婦関係ばかりではありません。親子関係、子供たちとの関係、年老いた親との関係にも計り知れない打撃となるでしょう。だからこそ、「あなたは、姦淫するはずがない」と戒められているのです。
この戒めの根拠は、今日読んでいただいた創世記2章に見ることができるでしょう。18節。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」そこで神さまは野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を形づくり、人に名前を付けさせましたが、自分に合う助ける者は見つけることができ」ませんでした。そこで神さまは人を深く眠らせ、人のあばら骨から取った骨で女を造りました。アダムはすぐに大変喜んで、言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」
この言葉は、自分にふさわしい助ける者を動物たちに見つけることができなかったのとは、対照的な喜びでした。今やアダムは助け手を与えられました。エバはただ肉体的にアダムと共にいるだけでなく、精神的、霊的にも助けとなるものとして共にいる者となったからです。2章21~23節では、神さまは女を男のあばら骨から造られたと書かれているので、これを盾にして女は男より劣った存在とする風潮が長く世界を支配したかもしれません。しかし、これより前の1章27節では、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と宣言されています。神さまは男も女も神の形に創造されたのです。ですから、当たり前ですが、人類は男と女から成り立っています。男がなければ女は存在しないように、女がなければ男は存在しないという相互的な関係であります。
そして2章24節に戻りますが、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。結婚は、人をその妻と一つの体、一つの魂に結びつける絆であります。それは、人間の他の一切の結び付きの中でも、際立って聖なる絆であるということなのです。聖なるとは、神さまが特別に分けられたという意味です。神さまは男と女を創造された時、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。ですから、生殖行動をも祝福されたことは明らかです。しかしそれは、神さまが制定された結婚の関係という秩序を守ることにおいて祝福されているのです。
結婚をこのような聖なる秩序として、絶えず大切にし、守って来た夫婦から生まれた子供たちは、そうでない夫婦から生まれた子供たちよりも結婚の秩序を守ること、すなわち第七戒の「姦淫してはならない」を守ることが当然のことだと感じるでしょう。しかし、長い人生の歩みの中で、この戒めを破る誘惑は非常に多いと言わなければなりません。旧約聖書の中で、有名なのはダビデ王の姦淫の罪です。サムエル記下11~12章に詳しく語られています。ダビデは少年時代から勇敢で忍耐強い人で、戦争で数々の勝利を収めましたが、それがかえって自分の主君の妬みを買うことになり、王を敵に回して命がけの逃避行が何年も続いたのでした。そのような地獄の年月を救ったのは、彼が信頼して止まない神さまであって、そのためにダビデは今に至るまでイスラエルの最も尊敬される王であり、イエスさまもその子孫からお生まれになった、ダビデの子と呼ばれるのです。
しかし、そのような立派な王にも大きな誘惑が訪れました。誘惑は人が苦しみに苦しんで戦っていた時では無く、九死に一生を得て、ホッとした、安心、安楽の時にこそ来るものです。ダビデは何と忠実な彼の部下が戦場で戦って留守の間に、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。しかもそれを何とか誤魔化そうとしてできないことが分かると、部下を戦死させるように画策したのです。
ダビデ王ほど有名ではありませんが、創世記が記している姦淫の事件があります。それは、創世記39章に記されています。この物語の主人公はヨセフという少年で、彼はアブラハムのひ孫にあたります。ダビデの場合とは正反対で、彼は姦淫の加害者ではなく、被害者とされそうになりました。ヨセフは兄たちの妬みと憎しみを受けて殺されそうになったのですが、殺されず、エジプトに奴隷として連れて来られました。彼はエジプトの王ファラオの侍従長の家で働いたのですが、その妻がヨセフを誘惑しました。しかし、当時まだ未成年であったと思われる彼は、毅然として主人の妻にこう言ったのです。
39章8節。「しかし、ヨセフ拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手に委ねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』」68下。
ヨセフのこの気高さは驚くべきものです。彼は純真で人を疑うことなく、人に取り入ることのない人で、神さまから受けた夢をそのままに語りました。姦淫が大きな悪であると宣言したことも、自分の経験や知識から出たことではなく、神さまから受けた啓示であったに違いありません。彼はこのような性質のために罪人たちから大変な憎しみを受け、患難苦難を忍ばなければなりませんでしたが、それはすべて神さまの救いのご計画のためであったことが後に分かります。彼は自分を殺すほど憎んでいた兄弟たちを含む家族、父イスラエルを始め一族全員の命を救う者となる、それが神さまのご計画でありました。
このヨセフの物語は、後に地上に送られた救い主イエス・キリストを指し示すものであります。ヨセフは罪深い自分の家族を救いましたが、イエスさまは御自分を憎み、殺そうと謀った人々を含め、すべての罪人の命を救うために、死に至るまでの艱難苦難を忍ばれました。さて、そのお方御自身、姦淫の罪について語られているところが、新約聖書に二か所あります。その一つは、マタイ福音書マタイ5章の山上の説教にあります。27節~28節。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
このようにイエスさまは、わたしたちの目には見えない、従って他の人には知られない心の中の罪について指摘しておられます。すると、だれも人の前では誇れることでも、自分の中では誇ることができない罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。このように、姦淫の罪は、他の罪と同様、たとえ目に見えなくても私たちの心の奥底にまでこびりついたものなのです。
それでは、一体だれが第七戒を守っていることになるでしょうか。人の心を見ておられる方は、だれ一人正しくないことを知っておられます。だからこそ、罪人を救うためにイエスさまはわたしたちの所に来てくださったのです。ヨハネ福音書8章では姦淫の罪に問われた女の人がイエスさまの前に連れて来られた、という出来事が記録されています。連れて来た人々は、「姦淫の女は律法に従って石で打ち殺すべきである」と、イエスさまが答えるかどうか、試すのが目的でした。
姦淫の罪は、神さまから祝福された結婚の秩序を破壊するもので、重大な罪であります。しかしイエスさまは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に対して石を投げなさい」と。すると、だれも石を投げることができませんでした。これはイエスさまの起こされた奇跡の一つではなりでしょうか。イエスさまの前では、なぜか誰も自分を偽って「わたしは罪がない」と思うことができなかったからです。イエスさまが地上に来られた目的は、罪人を救うためでありますから、イエスさまは第七の戒めを破る者に対しても、死罪に当たる罪を犯した者にも、罪の赦しを与えようとしておられます。姦淫の女のように、罪のただ中でイエスさまに出会うならば、本当に自分の罪を認めない訳には行かない。本当に罪の報いとして死ぬか、罪を認めて心から悔い改め、イエスさまから罪の赦しを受けるか、その二つに一つを選ばなければならないでしょう。
今日の新約聖書はコロサイの信徒への手紙3章です。パウロは、コロサイの教会の人々に語りかけます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と。キリストは復活されたのは、十字架に死んだからこそ、復活されたのでした。ですから、キリストを信じるわたしたちも、キリストと共に罪に死んだからこそ、共に復活させられて、新しい命に生きるものとされたのです。
新しい命は上にあるものを求める生活です。キリストは地上を離れて神さまの右におられます。つまり、神さまと共にすべてを御支配なさる方なのです。わたしたちはこの方の執り成しによって罪赦されてキリストに結ばれ、キリストの体と呼ばれているのですから、ひたすら、イエスさまの執り成しによって、神さまとの正しい関係を求めて生きるのです。それは、神の形として造られた本来の人間の祝福に満ちた関係です。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧められています。
すると、「地上のもの」というところを、何か禁欲的に解釈して、物を持つことを禁止したり、結婚を禁じたり、断食をしたり、そういう目に見える何かをしないといけないかのように考え、勧める人々が力を持つことがあります。また、そういう勧めによって人々の行動を支配しようとする力が働きます。しかし、神さまはこのような偽善をご存じで、決してお見逃しにはなりません。「地上的なもの」とは、5節にその例が示されているとおりで、今日のテーマに関わっています。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。」姦淫もまた情欲であり貪欲の一例であります。お金をいくら集めても飽き足らないのと同様、立派な美しい配偶者がいるのに、姦淫をする人が後を絶たないのは貪欲の罪、偶像礼拝の罪と重なっているからだと教えられます。
このような罪を罪とも思わない人々に満ちている社会に生きています。しかも殺人は禁じている法律はあっても、姦淫にはほとんど無法状態の世の中であります。脅迫されて罪を犯さざるを得ないという危険は沢山あるのではないでしょうか。しかし、ヨセフ物語でヨセフと共にいらして彼を救った神さまは、わたしたちにイエスさまの助けという現実となって勇気を与えておられます。コロサイ3章3節です。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されて見えなくても、そこにある!と力強く言われているのです。ですから、わたしたちの命は、見かけはそうは見えなくても、危険から守られています。神さまに従う約束を神さまは受け入れてくださいました。神さまは誠実な方です。神さまにお委ねし、頼り行くわたしたちを、神さまは欺くことは決してありません。
ですから、わたしたちは上にあるもの、すなわち神さまとの正しい関係を求め、共に生きる人々との関係を、神さまの戒めの下で慎ましく喜ばしいものにしていただきましょう。
今日はカテキズム問47を学びました。それは、第七戒は何かということです。そしてその答は「あなたは、姦淫してはならない」です。わたしたちの心とからだは、神さまのものなので、神さまの御前に純潔を守り、神と人との関係を正しく保つことです。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま
尊き御名を讃美致します。一週間の旅路を守られ、導かれて、わたしたちは礼拝を捧げる幸いに招かれました。代々の教会と共に、主の日の礼拝を守り、地上にある主の教会の民と共にあなたを見上げて感謝と讃美を捧げます。あなたは御子イエス・キリストの執り成しによってわたしたちの罪を赦して下さり、天にある、朽ちず、しぼまない命の希望に生きる者と作り変えてくださいます。地上の日々は大きな変化に絶えずさらされ、自然の営みも人の営みも激しく変わって行くように思われます。
その中でわたしたちは、目に見える幸いを追い求めることに忙しい世に在って、あなたの御心を尋ね求める者こそ幸いであることを教えられました。どうか神さまの喜ばれることこそが、わたしたちの喜びとなりますように。あなたの喜ばれないことから遠ざかる知恵をお与えください。わたしたちの教会で計画され、行われることが、福音を宣べ伝えるあなたのご命令に従うものとなりますように。また、わたしたちが礼拝の場を去って、それぞれの生活のある所に出て行くとき、どうか福音をそこにもたらすものとならせてください。
命の神よ、わたしたちはあなたの御許に隠されているわたしたちの命を思い、感謝します。どうか、苦しみの時、悩みの時、わたしたちの命に至る道を指し示してください。地上に与えられる新たな命を祝し、またキリストの執り成しによって生まれる救いの命を祝してください。また、地上を去ってあなたの御国に目覚める命を目指して歩む教会を祝してください。わたしたちの信仰の旅路を今週もお守りください。
この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。