祈りの格闘

聖書:創世記32章23-33節, ヨハネの手紙一 5章13-15節

 年の初めと言えば、普段はお祈りのことが全く話題にならない世の中でも、元朝参りから始まるお祈りに関心が集まる季節です。それにしても何気なくテレビを見ていると、マスコミは神社、仏閣の様子を映して一生懸命宣伝をしているように見えますが、このことも海外から観光客を呼ぶために貢献しているのでしょうか。あまりにも多くの人々があちらを拝み、こちらを拝んでいるのを見ているので、わたしたちはそういう様子にとても慣れてしまっております。日本の教会は平日だれでも自由に出入りできるように玄関を開放しているところは少ないと思いますが、教会の北側にあるお地蔵さんを拝むために立ち止っている人々を時々見ますので、教会も戸を開けておくと祈るために来る人がいるかもしれません。

しかし、このように神仏と称するものを何でもかでも拝む人々の祈りと、教会の祈りは全く違うのですが、わたしたち自身、その違いをどこまではっきりと意識しているでしょうか。わたしたちは思うのではないでしょうか。「家内安全とか、無病息災とか、わたしたちも願っているではないか。祈っているではないか。祈る気持ちはだれも一緒ではないか」と。そう思うのは、祈ることについて考えるときに、わたしたちは、まず祈りの内容から考え始めるからです。

本日の信仰問答は「祈るときに大切なことは何か」についてです。み言葉に聴きましょう。わたしたちが祈るときに何よりも大切にしていることは、祈りを聞いてくださる相手です。すなわち祈りを聞いてくださるのは真の神さまだけである、ということなのです。祈ること自体、相手が誰でもいいから四方八方頭を下げるという、まるで選挙の立候補者みたいなことをするのではありません。そうではなく、本当に祈りを聞いておられる方に祈るのです。真の神さまがおられる。そして良いものを与えてくださるのは真の神さまだけだと信じて祈ります。

そうすると、わたしたちにとって良いものが何か、それを本当にご存じなのも神さまだけ、と信じていることになりますから、わたしたちの祈りは、自分の願いを祈るだけでなく、それと同時に神さまにすべてをお委ねして行くことになります。わたしの願いはこれこれだけれども、すべてを御存じの神さまはきっと最良のことをしてくださる、と信じることができる。真にこれよりも平安なことはありません。

けれども、わたしたちの人生には、大きな試練に見舞われることがあります。自分の身に起こること。またそればかりでなく、それまであるのが当たり前であったものが突如、無くなってしまう、あるいは変ってしまうということは、わたしたちを危機的な状況に陥れます。その時、「わたしの願いはこれこれだけれども、神さま、どうぞ御心のままになさってください」と祈ることが、果たしてできるでしょうか。

今日、私たちは創世記32章を読んでいます。これは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの物語で、ヨルダン川のヤボクの渡し場を渡ろうとしたときの不思議な出来事が描かれています。ヤコブは家族と共に旅をして、故郷の兄エサウとの再会を目指していました。彼は若い時、兄エサウの怒りから逃れるために故郷を去り、伯父の家で働く者となりましたが、この伯父も狡猾、また冷酷な人で、ここも平安な居場所はありませんでした。彼は厳しい仕打ちを受け、耐え忍んで20年、ついに故郷に帰る決心をしました。しかし、故郷の兄はそれを知ってヤコブに会いに出て来るというのです。

ヤコブはその夜、家族と召使いと家畜や持ち物すべてを川の向こうに渡らせ、自分は独り残りました。すると何者かが来て夜明けまでヤコブと格闘したというのです。ヤコブのこの目に見える格闘こそ、教会の人々が日々経験している祈りを象徴しているのではないでしょうか。なぜなら、私たちの試練の時も、私たちは正に神さまと格闘しなければならないからです。しかし、一体だれが神さまに逆らって立つことができるでしょうか。神さまと競争しようとすること自体傲慢で無謀なことではないでしょうか。

しかし、驚くべきことですが、また感謝なことですが、神さまは私たちがこのようにご自分に立ち向かって来ることを喜んでおられるのです。だからこそ、見えない方が、従って、立ち向かおうにも、立ち向かうことなどできない方が、こうして見える姿、(夜の暗闇の中でしたが)人のような姿でヤコブと格闘するために現れたのです。わたしたちはこのように神さまの力によらなければ、助けによらなければ、神さまと戦うことなど決してできないのです。神さまはこの戦いへとわたしたちに挑戦し給うのです。「さあ、かかって来なさい」と無言で挑戦してくださるのです。そして、それと同時に、神さまはわたしたちが抵抗して戦う手段を私たちに備えてくださるのです。これは不思議な戦いです。神さまはわたしたちと戦うと同時に、わたしたちのために戦ってくださるからです。

これが祈りの格闘です。要するに神さまは、わたしたちと片方の手で戦いながら、その間に、もう片方の手でわたしたちを守ってくださるというやり方で格闘を行ってくださいます。神さまは、いわば左の手ではわたしたちに敵対して戦い、右の手でわたしたちに味方して戦ってくださり、その結果は、わたしたちがしっかりした力を与えられて試練を克服できるようにしてくださるのであります。このような祈り。このような祈りを神さまは聞いてくださるのではないでしょうか。

32章26節。「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」ここにヤコブの勝利が描かれています。しかし、この勝利は彼に傷を負わせずには、得られなかった勝利でし。前にお話したように、ヤコブと戦うために天使の姿で現れているのは、創世記がわたしたちに理解させるために人間的な表現を取っているからです。そうでなければ人間が神さまと格闘するということは表現できないからです。こうしてヤコブは闘いに勝利したのですが、天使は彼の腿を打ったので彼は生涯足が不自由になりました。しかし、この不自由さは彼の信仰の勝利のしるしとなりました。そして、このしるしによってすべての信仰者は自分の受ける試練において祈り、勝利を得ることができることが明らかになったのです。

祈りが聞かれるということの奥の深さを思うことができるならば幸いです。私たちは祈りの格闘をし、勝利を得るならば、その喜びはどのようなものでしょうか。しかし、喜びのあまり得意になって、有頂天になって神さまを忘れるようなものでしょうか。それはちがうでしょう。神の力は私たちの弱さにおいて完全なものとなります。というのは、本当に救われた者の喜びは、同時に私たちを謙虚にさせるものですから。27節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」ヤコブは祝福を求めました。私たちは礼拝の最後に牧師の祝祷を受けますが、本当に私たちを祝福するのは、神さまだけにあるご性質なのであります。この神さまのご性質を職務としていただいているので、牧師は神の言葉を説教し、また人々を祝福することができるのですし、そうしなければなりません。私たちはこのことから教えられることがあります。それは、あれやこれやの具体的なことを祈ることはもちろん良いのですが、何よりも祈らなければならないことは、神さまの祝福、すなわち聖なる、神さまだけがお与えになることができる恵みをいつも求めることなのです。それは、具体的なあれこれの願い事、無病息災など祈って、それが叶えられた途端に、神さまから遠ざかり、眠りこけたような人生を送るよりもはるかに価値あることではないでしょうか。

祈りの格闘にご臨在される神さまを、聖書はヤコブの物語に証しします。わたしたちは神がご臨在されることを感得しない限り、得意になって自分に満足しているものです。そしてこのことは、人間が地上のことに傾倒している時、愚かにも自分を誇っている空想の命にすぎないのです。新約聖書、ヨハネの手紙一5章13節は語ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」教会はもちろんまだ福音を知らない人々に伝道をしているのですが、決してそればかりではありません。既に信仰を告白し、洗礼を受けて教会に連なっている人々にも、教えを広め続けているのです。なぜなら、わたしたちの信仰は日々成長して行かなければならないからです。一層堅固で確実な信仰を持って、永遠の命に確実に与ることをわたしたちは目指しています。

そのためにヨハネの手紙が勧め、戒めたことは、このことです。キリストの他に永遠の命を求めてはならない。力を尽くしてキリストの恩恵をたたえ、讃美し、彼らがこの恩恵に心満たされて、もはやそれ以外の何も欲しないように。ここでわたしたちはカテキズムの今日の問に立ち帰りましょう。問54 「祈るときに大切なことは何ですか。」そして、その答は「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めることです。」教会はイエス・キリストによって神さまの真実のお姿、ご性質を知らされました。イエスさまによって永遠の命をいただく希望を信じたのです。ですから、「あちらを信じれば良いものがもらえるかもしれない」「いや、こちらにもお願いすればもらえるかもしれない」という祈りでは決してない、ということです。

また、真の神さまならわたしたちの願いを皆叶えてくださると思うことも正しくありません。ヨハネ一、5章14節。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」なぜなら、私たちは本当に自分に何が幸いなのか、良いことなのかを理解していないのですが、神さまは最も良いことを知っておられ、私たちが信頼するならば、それを実行に移してくださる方だからです。ヨハネの手紙は神さまに対する確信について、それがどこにあるかを教えるのです。確信は、キリストを信じて大胆に祈り求めれば与えられるのだと。

イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ14章6節)。真にイエス・キリストこそは信仰の本来の目的です。ですから、イエスさまのお名前を通して、祈ることを実践することこそ、わたしたちの信仰の訓練であり、また試練でもあるのです。祈りが聞かれるということは、本当に信頼して大胆に祈るのでなければ、実感することができないからです。そして、イエスさまによって伝えられた天の父の御心を日々深く知るように努めることがなければ、本当に父、御子、聖霊の神さまを信頼することはできないのです。真に不信仰な世に在って、わたしたち自身も確信に乏しい信者であっても、それでも世界中に教会が建てられ、み言葉が伝えられ、祈りがささげられている現実を見る時、神さまの憐れみと忍耐が、どんなに世界を覆っているかを思わずにはいられません。

私自身は戦争のない真に豊かな時代を70年生きましたが、それでも人々が老いと病と死に苦しんでいる有様を見、ここに神さまの悲しみと救いの熱意を感じて献身しました。自分自身50年生きて後の献身でしたので、ほどなく高齢者の列に加えられました。教会は今、目の前にいるわたしたちで成り立っているように見えるのは無理もないことですが、実は過去の信者の信仰の恵みが祝福されているからこそ、後に続いて行くものです。それぞれの時代にそれぞれの信者に多くの試練があったでしょう。しかし、共に祈った所に教会が残りました。祈りの格闘があった所に、大胆に祈るところに信仰の確信が与えられました。

今、成宗教会は後任の先生方をお迎えしようとしています。同じ信仰告白によって立ち、同じみ言葉の説教によって聖礼典によって教会を建設しようという志を以てお出でになります。お若い教師の方々をお迎えするために、祈りをもって、感謝を捧げて、備えましょう。主が私たちの必要を満たしてくださることを信じて。祈ります。

 

主なる父なる神さま

御名をほめたたえます。本日は祈りについて学びを進めることができ、感謝です。成宗教会に祈りがあり、あなたの憐れみと恵みがありましたので、教会はこの地に立ち続けることができました。多くの人々がここで洗礼を受け、礼拝を守りました。今、教会は東日本連合長老会の一員となって共に学び、教えを受けていますことを感謝します。また8代目の私の退任の後、新年度には新任の教師の先生方を迎えようとしております。藤野雄大先生、美樹先生のご健康とご準備の上にあなたの恵みが豊かにございますように。

また、どうかこの時に私たちを励まし、あなたに感謝を捧げる者とならせてください。高齢の教会員が礼拝に足を運べなくなって改めて、礼拝に心を向けて祈っておられます。どうかすべての教会員が忙しい生活の中で礼拝を守り、み言葉を聴くことを何よりも大切なこととすることができますように。日曜日に休めない仕事の方が増える中でも、神さま、み言葉なるキリストに従うために、すべての教会員がこの志を持ち、そのために祈りを篤くすることができますように、助けてください。そのことによって、主よ、何よりも礼拝を大切にすることによって私たちが次の時代の先生をお迎えすることができますように道を開いてください。

教会長老会の働きを感謝します。教会記念誌編集の歩み、また会堂の整理整頓の歩みが導かれ真に感謝です。どうか長老の方々の健康が守られ、ご家庭が整えられますように。新しい先生方と心を合わせて奉仕する長老、信徒となりますように励まし、また新たに起こしてください。寒さの厳しい季節ですが、教会に連なる兄姉、求道者の方々の健康と生活が守られますように。

すべてのことを感謝し、御心のままに導かれるようにと祈りつつ、この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げします。アーメン。