命は神さまのもの

聖書:創世記4章1-16節, ローマの信徒への手紙12章15-21節

 教会の主イエス・キリストの父である神さまは、私たちを教会に招き、恵みの福音をお知らせくださいました。私たちは、教会がこの救いをどのように信じているかを使徒信条によって学びました。そして、この教会の信仰を受け入れた者は洗礼を受け、信者の群れの一員とされたのです。救われることに優る喜びはありません。なぜなら、私たちはこの世の生活がすべてではなく、神の永遠の命と結ばれて生きているからです。そこで、私たちは救われて、神の子とされた者としてどのように生きるべきでしょうか。それは感謝の生活であります。

神さまに感謝して生活するための道しるべとして、私たちは改めて 十戒 の戒めをいただいているのです。さて、本日は十戒のうちの第六番目の戒めを学びます。第六戒は何でしょうか。それは、「あなたは、殺してはならない」です。「殺してはならない」の直訳は、「殺すことはないであろう」とか、「殺すはずがない」という意味です。つまり、わたしたちはそんなことは当たり前ではないか。この戒めに関してだけは、自分は殺す心配もないし、殺される心配もしなくて大丈夫と、何となく簡単に守っているかのような気持ちでいるのではないでしょうか。

今日は創世記4章のカインとアベルの話を読んでいただきました。カインとアベルは最初の人間、アダムとエバの子供です。神さまは人間を神の形に造られたのです。それは、すべての造られたものの中で、人間だけが、神さまの呼びかけに応えるものとして神さまの交わりに招かれたということです。神さまに出会い、神さまと対話をするということは、神さまを礼拝することに他なりません。人間が神さまに出会い、礼拝するのは、神さまへの信頼なしにはできないことです。神さまはわたしたちを憐れんでくださる。その足りないところ、失敗を赦してくださることを信じることが出来るので、全知全能の神さまの前に出ることができるのでしょう。

ところがアダムとエバは神さまとの約束を破った時、神さまが呼んでも応えないで、逃げ隠れしたのです。神さまが自分たちを赦してくれないだろうと思うので、神さまに出会うことは恐ろしいことだったからです。それでも、神さまはこの二人から祝福を残してくださいましたので、二人は労苦して働き、子供が生まれました。エバは「わたしは主によって一人の人を得た」と言いました。生れた子どもを、自分が産んだとか、自分の赤ちゃんだとか言わずに、神さまが一人の人を(口語訳、KJ版ではa man)与えてくださったと感謝しました。この二人は神さまを知らないのではなく、エデンの園から追放された後も、神さまを礼拝する家族であり続けていたことが分かります。

ところが、そのような家族の中で生まれた二人の息子に悲劇が起こりました。カインとアベルは神さまに感謝の献げ物をささげたのですが、神さまはアベルの献げ物は目を留められた一方、カインの方には目を留められませんでした。どうしてこのようなことになったのか、と私たちは原因をあれこれと詮索しますが、目に見えてこうだと言えるようなことは分かりません。しかし、はっきりと言えることは、神さまに感謝を捧げるために無くてならないものは、真心であるということです。形は立派に整っていて、人々の目には何も問題は無く、むしろ素晴らしく見えても、神さまは捧げる人の真心を見ておられます。

で預言者サムエルは次のように言いました。(サム上15:22、452頁、上)「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに優り、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」正しい礼拝とは、私たち自身の真心を霊的な供え物として神さまに捧げることであります。ですから、カインの献げ物が神さまに喜ばれなかった原因は、何よりもそこにあったのです。そうだとしたら、カインは自分自身を責め、悔い改めるべきではなかったでしょうか。カインが目に見える形だけの供え物によって神さまをなだめようと考え、自分を全く神に捧げ切ろうとは少しも思わなかったに違いありません。ところが彼は自分の間違いに気がつくどころか、自分の願いがかなわないのは自分の罪のせいだとは考えないで、こうなったのは皆アベルのせいだとしました。そこで、たちまちアベルに対する妬みが火のように燃え上がったのです。

主はカインに呼びかけられました。これは神さまの叱責です。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

妬みに燃え上がっている者は、もし自分が罪を犯したら、直ちに罰を受けるということに思い当るならば、罪を支配することもできるのですが、恐ろしいことにはそうではないのです。良心に責めさいなまれることもなく、自分の気にいることを何もかもできると思い込み、自らを欺くことになります。

私たちは神さまを礼拝する家族の中でさえ、このような妬みに駆られた恐ろしい罪が身近に起こることを教えられました。しかし、私たちはカインのようになってはならないことを、しっかりと心に刻まなければなりません。そのためには、十戒の第六の戒め「あなたは、殺してはならない」が命じていることは、単なる殺人の禁止ではないことを理解する必要があります。神さまは人を御自分の似姿として創造されました。そして罪に陥った人間の救いのために、自らの独り子を世に遣わしてくださり、人の罪を贖ってくださったほど、人の命を大切にされました。

そうすると、何があっても、殺人には至らないから良いだろうなどとどうして言えるでしょうか。たとえば人を蔑ろにする言動。いじめや人を疎んじる行動。その人格を否定するような行為のすべてを、神さまは咎めておいでになるのです。罪のない者の命が脅かされることを神さまは決して見過ごしにはなさいません。たとえ犯罪行為を告発する者がなくても、神さまは人が犯した罪について御自身が知っておられることを、聖書は示しています。神さまにとって、人間の命は罪なき者の血が流されて罰せられずには済まないほど愛すべきもの、その救いのために罪なき御子を贖い主としてお遣わしになるほど、貴いものであるということを、私たちは畏れを以て悟らなければなりません。

新約聖書はローマの信徒への手紙12章15節から読みました。十戒の『殺してはならない』という命令は、この世界で味わう苦難や試練ゆえに生じる憎しみや憤りを克服して、互いに愛し合う積極的な生き方へと転換することをわたしたちに求めています。14節から読みますと、「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と。ここに非常に高い目標が与えられています。イエスさま御自身、この勧めを私たちにくださいました。要求されていることが難しくあればあるだけ、私たちはこれを切実に追い求める努力を傾けなければならない。なぜなら、主は私たちが主に従わなくても簡単にできるようなことは、お命じにならないでしょうから。私たちは自分を守ることに必死ですから、自分を苦しめる相手に同情することはとてもできないのが常です。しかし、相手は神さまに従っている者を不当に苦しめることで、ますます自分に滅びを招いているのですから、神様はそのような者に心を配ることを、わたしたちに欲しておられます。それが救いの主に従う教会の民にふさわしい高い目標なのです。

15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」兄弟姉妹の繁栄を見て喜ばないのは、羨(うらや)み、ねたみであります。また兄弟に不幸があるのを見て悲しまないのは不人情でです。私たちは、できる限り互いに他と一致し、一人の人に何が起ころうとも、他の人たちはそれを同じ思いで受け取り、艱難に遭っては彼とその深い悲しみを共にし、あるいは、繁栄に遭っては喜びを共にする。これが教会に与えられている目標です。

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」ここは身分の低い人々と訳されていますが、人々と言うより、低いもの、慎ましさを意味します。高ぶった思いと対照的に心の謙りが強調されているのです。たとえば、誉れを人から奪って自分のものにするのではなく、誉れを人に譲ることこそ、イエスさまに従う者にふさわしいのではないでしょうか。17節。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」すべての人の前で善を行う目的は、人々が私たちの行いに感心し、私たちが称賛されることではありません。イエスさまは言われました。マタイ6章4節。「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」18節。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧められています。できるならばと言われていますのは、この世がサタンを頭としている以上、この世と永久的な平和を維持することはできないからです。私たちは平和のために、できる限り多くを忍びますが、しかし必要に迫られる時には、厳しい戦いをする備えをしなければなりません。そして、19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。サタンに支配されている者と同じ土俵に立って仕返しをすること自体、サタンの支配下にさらされる非常に危険なことなのです。それを避けなさいと主は言われます。

更に、復讐どころか、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」と勧められています。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と。悪に報いるに悪をもってしようとすることは、この悪に負けたことになります。それに対して、悪に善をもって報いるならば、これによってわたしたちは神に従う者の一貫性を証明することになります。これこそが悪に対する勝利ではないでしょうか。真に、悪によって悪に勝とうとする人は、その行いそのものによって悪魔に仕えているになってしまうからです。

イエスさまはおっしゃいました。マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」11下。

今日の学びはカテキズム問46「第六戒は何ですか」でした。その答は「あなたは、殺してはならない」です。わたしたち人間の命は神さまのものです。その命はイエスさまが十字架にかかって贖ってくださったほどに値高いものです。だから、自分の命も含めて、誰の命も粗末にしたり、殺してはならないばかりか、それを愛することを神さまは求めておられるということです。

教会の主と共に生きるわたしたちは高い目標を与えられています。私たちは自分の好きな人と共にいたい。そして敵対する人はもちろん、自分の気に入らない人はなるべく遠ざけたい。自分にひどいことをする人には仕返しをしたい。この世の考えに従って生きて来ました。しかし、救われた者には高い目標が与えられています。それは教会の主イエスさまの与えられた目標です。

「私の羊を飼いなさい」と主は言われました。私も伝道者としてこの教会に招聘された時、この人々がわたしに任された羊と思って、万難を排して教会にとどまり、牧会を続けて参りました。当時の教会の人々の中には私を受け入れがたい様子が感じられました。しかし、私を知って私を憎んでいるからではないことを私は知っておりました。昔の牧師、前の牧師が懐かしいあまり、後任者を受け入れがたいのだと理解しました。しかし、その当時対立したことが嘘のように、今は教会に残っている方々と新しく加わった方々と助け合って主に仕えています。それは私たちの人間的な懐かしさとか、好き嫌いを超えて、私たちを一つにしてくださる主の聖霊の働きによるのです。

私たちは今、新しい教師を迎えるために準備を始めております。私たちはどんな備えを為すべきでしょうか。それは、祈りです。ふさわしい教師をお与えくださいと、祈りに祈ることです。真心から祈るなら、主は私たちの祈りに応えてくださるでしょう。そして準備して、迎えることができたならば、その先生が主の教会の働きのために遣わされたことを確信することが大切です。決して、後ろ向きになってはならない。必ず、前を向いて小さな群れを愛して命を捨ててくださった主に従って参りましょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

本日の聖餐礼拝を感謝します。主イエス・キリストの恵みによって立てられた救いが私たちにも与えられていることを確信し、ただ感謝を以て本日の聖餐に与らせてください。礼拝に参加できない方にも、主の日を覚えさせ、聖霊の助けによって私たち、心を一つにさせてください。また年々年を取って行くわたしたちが最期の日まで、安らかに健やかに主を仰ぎ見る生活を送るために、私たちの決意を新たにさせてください。

成宗教会は後任教師の招聘を求めております。どうかこのために備える祈りを篤くしてください。ふさわしい道が開かれますように。招聘委員会である長老会の働きを強め、また教会員一人一人が、自分の教会の大切な働きを覚え、主の御業がこれからもこの教会を通して行われるように祈る者となりますように。主よ、祈りをもって支え、主の与え給う教師を感謝を以て迎え、喜んで支えていく決意に至るまで、どうぞ私たちの日々をお導きください。どうかあなたに仕える教会の群れを今週も守り導き、あらゆる困難、労苦の中にあっても、災いから救い出して命を得させてください。本日行われる長老会の上にあなたの恵みのご支配を祈ります。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

人は神を忘れるけれども

永眠者記念礼拝説教

聖書: 創世記4章1-16節, マタイ27章15-26節

 成宗教会は本日の礼拝を、永眠者記念礼拝として守ります。写真の大きさで区別しているのではありませんが、1940年にこの教会が創立されて以来、この教会に仕えて地上の生涯を終えた教職の方々の姿を、私たちは大きな写真によって思い出しております。太平洋戦争の起こる前から始まった集会です。欧米の宗教であると敵視された時代も、戦後のキリスト教ブームの時代も経験しました。そしてまた人々が物質的に豊かになり、心の豊かさを求めなくなり、魂が飢え渇いて行く時代をも経験してきました。

ここに写真によって見ることができる方々は、そういう時代を経験したのでした。そういう激動の時代を生きて、福音に出会った方々。そして福音から遠ざからなかった方々です。教会にとどまり、教会の主であるイエス・キリストを仰いで、生涯を終えた方々です。

福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったことです。私たちの身代わりであるということは、わたしたちはもう罪は問われない。罪赦されたということに他なりません。罪人にとってこれより良い知らせがあるでしょうか。イエス・キリストは御復活され、わたしたちのために成し遂げた救いの御業を、全世界の人々に告げ知らせるために、信じる者を世に遣わし、福音を宣べ伝えさせてくださいました。キリストは天に昇り、今もわたしたちの祈りを聞き上げて、主なる父なる神様に私たちを執り成して下さいます。私たちの日々の過ち、小さな罪から大きな罪まで、わたしたちの救いの妨げになるものを、取り除いてくださるのです。

この福音を信じて教会にいるということは、どんなに計り知れない恵みであるであることでしょうか。私たちは、今、先に召された方々と兄弟姉妹とされています。それは主イエスを信じて神の子とされ、主の兄弟姉妹とされているからです。しかし、わたしたちの内には、先に召された方々と血縁の関係、または姻戚関係の子孫もいることでしょう。そのような方々は、特別な恵みを受けている喜ばしい方々です。わたしたちは家族を看取り、見送り、神さまの御許に召されるために、できるだけのことをすることができますが、しかし、わたしたち自身についてはどうなるのか、自分で決めた通りにできるという保証はありません。私たちがそれぞれ、召される日まで歩み、生涯を安らかに全うすることができるのは、一重に家族、隣人、社会の人々の誠実さによって支えられてのことなのです。そのために、わたしたち自身が主の御前に誠実に立ち、人々を執り成して祈り続けることがどんなに必要であることでしょうか。

今日読まれました創世記4章はカインとアベルの物語。彼らはアダムとエバの最初の子らです。最初の人アダムは神に禁止された実を食べた結果、神との隔てない交わりを避けるようになりました。すなわち、罪とは人が神に背を向ける。呼びかけに答えない、ということです。出来れば神を忘れて好きなように暮らしたい、ということであります。

そのような罪に陥った二人は楽園から追放され、苦しんで働き、苦しんで子を産むことになりました。それでも彼らは神から子孫を与えられたと言って感謝しました。神は背いた人を滅ぼさなかったのです。そして彼らは息子たちに教えたのでしょう。カインとアベルは成人してそれぞれ働きの成果、収穫を手にしたとき、神に献げ物をしたのでありました。すなわち収穫感謝の礼拝です。感謝を捧げることは、「わたしたちが受けているものは皆あなたからいただいたものです」と告白するその言葉を形に表すことです。

ところが聖書は、「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と語ります。人は見た目でいろいろと評価しますが、神は人の心を見る方です。献げ物を捧げるアベルとカインの心を見ておられたのです。主イエスは礼拝についてヨハネ福音書でこのように語られました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24…170上)「霊と真理をもって」とは、「心から」、「真心を込めて」、「誠実の限りを尽くして」、という意味です。また、ヘブライ人への手紙の記者はアベルについて次のように述べました。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4…414下)

そうすると、神に目を留められなかったカインの方は、献げ物に問題があったというより(そういうところにも表れたのかもしれませんが)、彼の、神に献げる態度に問題があったと考えなければならないでしょう。形式的にはいかにも整って立派な礼拝を捧げているようであっても、その心を神は問うておられます。すなわち、礼拝者が神を畏れ、喜んで神に従う心をもっているのかどうかです。世に偽りの礼拝というものは後を絶ちません。それは、表向き神を敬っているように見えながら、心の中では神を侮り、何とか宥めすかして、自分の思いどおりに神を動かそうとするのです。

カインの献げ物は正にそのようなものであったのでしょう。ところが、彼は自分の心の罪に気がつかない。従って自分を反省するどころではありません。神に対して激しい怒りを発するのでした。神は不公平だ、自分は不当な扱いを受けている!と。常日頃、真の神を尋ね求めることをせず、まして聞き従おうなどとは夢にも思わず、全く神を無視して生きているのに、何か悪いことが起こると、神などあるものか、神はひどい!と罵詈雑言の数々を並べたてる人々がいます。彼らは自分を顧みず、間違いに気がつかず、悔い改めからは程遠いのであります。

恐ろしいのはその次です。そういう人々は神に対する怒りを、隣人にぶつける。罪もない隣人に猛烈に当たり散らすのです。その結果であるアベルの死は人間が神から離れることの恐ろしい結末を表します。もし、わたしたちにこの世界のことしか希望がないならば、アベルのように悪の犠牲となる人々に慰めは全くないことになるでしょう。

それでも神はカインがしたように、カインを不意に襲って滅ぼすなどということはされませんでした。カインは神を忘れ、神を無視して行動しました。しかし、神はそうではありません。カインを思い、カインの心に語り掛けます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」恐ろしい居直りであります。まるで「わたしは弟を守るように頼まれたことはない。だから殺そうが何をしようが構わないでしょう」と言わぬばかりです。そう口答えしながらも、彼は気がついて行きます。これは人と人との問題ではない。自分と神との問題なのだと。神が言われたひと言、「お前の弟の血が土の中から叫ぶ」この一言によって、神は彼のしたことを赤裸々に示し、その犯罪の恐ろしさを強調し給うたのです。

神と争って神から離れて生きようとする者の至る不幸な結末がここに示されました。彼は地上を放浪する者となりました。神を信頼せず、神を離れ、神を忘れて勝手に生きたいのですから、自分の都合で生きるより他はありません。聖書は、それでも神はカインが殺されないように守ってくださったと語ります。ひどい犯罪、理不尽な殺人事件などが社会に後を絶ちません。裁判員裁判で裁かれると一般に量刑が重くなる傾向が報告されています。無理もないことで、素人の目にはこんなひどい人が平然と生きているとは許せない、という思いがあるでしょう。

しかし、神の思いは計り知れません。神はカインが犯罪者として打ち殺されないように、しるしをつけられたのでした。神から離れてさまよう人生。従って神の御許に安らう希望を持たない人生。彼のそのものが、神の厳しい裁きであったのでしょう。しかし、重ねて申しますが、神の思いは計りしれません。このような人の子孫にも救いの道が開かれたのです。私たちは今日、マタイ福音書27章を読みました。主イエスを十字架につけようとする人々は一体誰でしょう。私たちは皆、自分はカインのようではない、と思いたいのです。まして、世の人々は、自分は違うと言うことでしょう。

カインは形の上では、立派に献げ物を捧げて礼拝したように見えます。そして自分でもそうした、と信じています。主イエスを十字架につけようとした人々、そのために画策をした人々も同じではなかったでしょうか。彼らは表向き、神を礼拝していました。立派に献げ物を捧げ、人々から尊敬されていました。ところが心は神から遠く離れていました。救い主、メシアを待っている人々の指導者であったのに、実はメシアを待っていなかった。神の恵みが現れる時、自分たちの権威を捨て、神にひれ伏さなければならないことを知っていたからです。神が遠く離れていてくださる方が良い。神が遠くにおられるなら、自分たちが神に成り代わって権威ある支配者として人々の上に君臨出来たからです。

そのためには、今自分たちを属国として支配しているローマ帝国に対しても、お世辞を言い、うまく取り入り、宥めすかして、自分たちの要求を実現するために利用することもやってのける。本当に神を畏れ、神を礼拝することとは程遠い偽善がそこにありました。

ローマ帝国の役人であるポンテオ・ピラトは、この彼らの醜い企てを見抜いていました。彼らはメシア・イエスを十字架に付けるためには、犯罪者、殺人者であるバラバ・イエスを解放することを要求したのです。ここで起こった本末転倒は、人間の罪の深さを証しします。異邦人であるピラトが理不尽だと、できれば阻止したいと思ったこと。異邦人であるピラトの妻が夢によって(当時夢は神の啓示として重んじられた)義しい人と証言したことが、偽善の罪の深さを示しています。

しかし、だれも主イエスの十字架を止めることはできませんでした。弟子たちもできませんでした。だれもが主イエスに罪はないと知りながら妨げることはできなかったのです。それは、だれもが神の差し出された真心を受け止めることができなかった罪を表しています。そして同時に、だれもが阻止できなかった十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う尊い犠牲でありました。私たちはこの主の福音を受け入れて、教会を建てた方々と共に、主の罪の赦し、復活の体に結ばれています。今、わたしたちが永眠者として思い起こしている方々の多くは、戦争の時代、復興の時代、いろいろな時代を生きて、教会にとどまっていました。それは主の霊がわたしたちと共にいらしてくださったからです。

人間は、神の被造物として造られ、神に似たもの、神のかたちとして造られました。善いものとして、祝福されたものなのです。神さまが呼びかけ、人が応える関係、本当に親しく喜ばしい関係に生きるために、人は造られました。しかし、人は神さまから離れてしまいました。神さまのことを忘れてしまいました。神さまに背を向けて生きている結果は、人と比べ、人を妬み、人を憎み、孤独になりました。すべての人と人との善い関係は、本当は神との関係を回復すること無しには築けないのです。なぜなら、人が与えられている持ち物も、能力も、健康もすべては神から与えられているように、人との善い交わりも神から与えられるものだからです。

人は神を忘れ、神を無視して生きていようとも、神は人をお忘れにならず、イエス・キリストを救い主と信じて執り成される者の罪を赦してくださいます。罪人をお忘れにならず、罪から救ってくださる神をほめたたえましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。本日は地上での働きを終えて御許に召された成宗教会に連なる永眠者の方々を御前に覚えて、感謝の礼拝を捧げました。私たちは目の前の悩みに日々を過ごして折る、貧しい者でありますが、あなたはここに主に仕えて生涯を全うされた教職の方々、信仰の先輩の兄姉を憶えて、わたしたちを励まし、慰めてくださいました。時代が移り変わり、わたしたちの力も知恵も移り変わりますが、わたしたちはただ代わることのないあなたの慈しみとその御力に信頼して参ります。

真に自分の背きの罪に気づくこと遅く、日日の小さな事にとらわれて思い煩ううちに年月が飛ぶように去っていきます。主よ、どうか私たちに自分に残された時を数える知恵をお与えください。真にご高齢の方々が示してくださった善い歩みを見上げ、信仰の道を歩み、あなたから与えられた務めを家族の中で、職場で、病院や施設においても果たすために、わたしたちをお用いください。それぞれの年代の人々に対して、慰めとなり、励ましとなる生き方を私たちにお与え下さい。

なによりも、主イエス・キリストの良い知らせ、福音によって教会が立てられますように、どうか成宗教会を東日本連合長老会の諸教会と共に伝道する群れとしてください。あなたの御旨は広く深く、全世界に広がっています。どうか主の平和を教会に打ち立て、全国全世界の教会と共に、主イエス・キリストの御支配の下に、世界の平和を実現して下さい。今、東アジアの政情が緊迫していると伝えられます。貧しい人々を顧み、主よ、憐れんでください。戦争の悲惨から人々を救ってください。国々の為政者が主の御支配の下により良い道を選ぶことができますように助けてください。

本日のすべてを感謝し、主の聖餐に与ります。どうか、主の聖霊によって私たちの隣人である家族、友人が福音を聞き、キリストを救い主と告白する日が来ますように。特に召天者の方々のご家族のために、豊かな祝福と顧みをお願い致します。

最後に、2週間後に迫りました、今村宣教師ご夫妻の上に、主の豊かな助けが聖霊によって与えられますように。ご健康とご準備が祝されることを祈ります。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。