十字架の勝利

聖書:哀歌3章18-33節, マルコ福音書10章32-45節

 一行はエルサレムに上って行く途中であります。一行とはイエス様につき従って来た人々の一団であります。イエス様を救い主と告白する人々で成り立つ集団であります。そうだとしたら、それは教会ではないでしょうか。イエス様を救い主と信じた人々。まもなくイエス様は栄光をお受けになると信じた人々です。では彼らはなぜ信じたのでしょう。イエス様がいかにも救い主らしい威厳に満ちた、神々しいお姿でいらしたからでしょうか。あるいは天から響くような美しい声で教えられたからでしょうか。聖書にはそのような記述は一つもありません。

では、イエス様は王侯貴族のような地位と身分の方だったからでしょうか。いいえ、わたしたちの誰もがそうではないことを知っています。イエス様は慎ましい生活の中に生まれ育ち、その御姿には取り立てて言うほどの美しさはありませんでした。それにもかかわらず、その教えに人々が集まり、その癒しの業を見聞きして、やがてたくさんの人々がイエス様に着き従いました。彼らはイエス様の平凡な、むしろ貧しいお姿を見上げて、この方に救いの望みをかけたのでした。

わたしたちは聖書の中に登場する最初の弟子たちが、しばしばあまりにも普通の人々のように見えるので、半分驚きながら、半分安心するのではないかと思います。彼らはあまりにもわたしたちの現実に近いということを思うのですが、ではわたしたちもなぜ、他の人々はイエス様について来ないのに、わたしたちはついて来たのでしょうか。本当に自分が他の人々と特別に変わったこともなく、特に立派である訳でもないことを思う時、改めて分かることがあるのです。彼らも、またわたしたちも、こうしてイエス様の教会にいる、イエス様の群れの中にいるその理由は、イエス様が招いてくださったからです。招いてくださったからこそ、イエス様のお言葉を信じることが出来たのです。

イエス様は「神の国は近づいた」と言われました。神の国とは、神の御支配される王国です。悩みのあるわたしたちを神がご支配なさる、と聞いて、それを信じたからこそ、わたしたちは祈ります。『御国が来ますように』と。「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」と。なぜか分からないけれども、わたしたちの悩みを御支配くださり、悩みを平安に変えてくださる神を信じる。その信仰がイエス様の教えによって与えられました。それでは、今はもうわたしたちも悩みなく、憂いなく、生きているでしょうか。そんなことはありません。地上に生きているわたしたちは、今も「神の国は近づいた」と言われたイエス様を信じ、『御国が来ますように』とひたすら祈っています。また祈ることが必要です。それは、わたしたちもまた教会の中にあってイエス様と共に旅を続けている途上にあるからなのです。

さて、一行はエルサレムに上って行きます。イエス様はこの旅路を先頭に立って進まれます。この世の王様のように先立つ者に露払いをさせ、多くの人々に守られて行くのではありません。先頭に立ってエルサレムを目指しておられます。エルサレム、そこに待っている敵対する者がいることを、主に従っていた人々は知っていたでしょう。そこには、主イエスを憎み、陥れようとする者たちが待っている。しかも彼らは権力ある者たちです。だから、弟子たちは驚き、従っている人々は恐ろしく思いましたが、しかしそれでも、彼らは主の後につき従って行った。それは、彼らに信仰が与えられていたからです。神の救いの恵みが何より素晴らしいと思う心が与えられていたからです。

そこで、主は今一度改めて弟子たちに教えられます。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。この苦難と死と復活。これこそがこの旅の目的でありました。この目的を理解させるために、主は繰り返し語られ、弟子たちを励ましておられます。すなわち、これから起こることを前もって知らせることによって、主は彼らを信仰の戦いに備えさせ、彼らが思いがけない悪に突然襲われるような時にも、悪に負けないようにさせたいのです。

主はまたご自分の十字架に対して、弟子たちが短期間ではあっても屈辱を受けられる主を見て心挫けることがないようにさせたい。この方こそ神の子であり、死に勝ち給う方であることを確信するようにさせるためでありました。このために主は三日目の復活を弟子たちに知らせて励ましてくださいました。彼らは臆病になっていましたが、それでも主を離れてしまわなかった。自分たちも主の弟子として迫害や暴力を受ける危険があるかもしれないけれど、それでも主に従って行きました。

これは神の国を来たらせるための戦いだ、わたしたちはイエス様に従って行こうと、弟子たちは決心した。そこまでは良かったのですが、その時です。主に対する熱意と信仰が、思いがけない欲望にとって代わられたのです。それがあからさまに行動に表れたのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネでした。この二人は兄弟で、主イエスが「わたしについて来なさい」とお招きになった最初の頃の弟子たちの二人です。彼らは熱心に主に従い、ペトロと共にいつも主の近くにお仕えしていました。そのうちに彼らは、主はわたしたちを特別にだれよりも大切に思っておられるのだ、という得意になっていたのではないでしょうか。

彼らのように、教会の中でたくさんの奉仕を熱心に行い、主に仕えることが喜びであるという人々は、主にも喜ばれ、教会にとっても大変ありがたいと思われるでしょう。しかし、自分たちは神さまから特別に大切にされて当然だと思うほど働いている、と思い上がってしまった結果、神の国に特別な地位を求めるとしたら、それは大変な問題であります。

ヤコブとヨハネは「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と求めましたが、一体彼らはキリストが栄光を受けるということが何を意味するか知っていたでしょうか。ほとんど知らなかったと思います。主イエスがエルサレムに上って行かれるのは、苦難と死を受けるためです。そして、この苦難は御自身のためではなく、わたしたちが受けるはずの苦難です。この死は御自身のためでなく(神の御子がどうして死ななければならないはずがあるでしょうか)、わたしたちが受けるはずの死なのです。

彼らは主イエスが世に軽蔑され、非難にさらされているのを見ていました。しかし、それでも彼らは主がまもなく偉大な王となるだろうと信じていました。なぜなら、ただ主がそう言われたからです。主の教えを単純素朴に信じた彼らの信仰は素晴らしいと思います。しかし彼らは将来実現されると信じた王国を心に描いた時、たちまち欲望に囚われました。神の国で一番になりたい。二番になりたいと。このように単純な素直な信仰者も、たやすく自分に取りつかれてしまうことを思う時、私たちは自分のためにこう祈らなければなりません。

主よ、どうかわたしたちの心の目を開いてください、そしてわたしたちを導き、常に正しい目的に向かってひたすら進むことが出来るようにお守りくださいと。わたしたちに信仰を起こしていただくだけでなく、その信仰が救いの道から踏み外すことのないようにお守りくださいと。その時イエスは言われたのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。わたしたちは神に従う者とされました。それは、本当に不思議な恵みの選びによるもので、なぜなのかをわたしたちは知りません。しかし、この恵みによる救いだけがいつもわたしたちの喜びであることを思う者は真に幸いであります。

しかし、ヤコブとヨハネはそれだけに満足しないで、神さまがお望みかどうか知ることのできないことにまで口を出し、自分を神さまのお考え以上の者にしようと画策しました。他の弟子たちは憤慨しましたが、実は彼らもまた同じようなことを考えていたからこそ腹が立っただけなのです。こういう態度は決して主に喜ばれるものではないでしょう。更に問題なのは、彼らが、神の王国について、地上の王国のような序列を想像していることです。人間の浅はかな空想で神の国や、天国について好き勝手なことを考え、それを事実であるかのように言いふらす人々は大きな過ちを犯していると言えるでしょう。

主は彼らの願いがまちがっていることを教え、諭そうとしてくださいます。そのために「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」とお尋ねになりました。それは、主イエスの受けなければならない苦難と死を受けることが出来るかと、問うておられるのです。彼らは簡単に「できます」答えました。これもまた、傲慢な態度だと言わざるを得ません。苦難について、一体誰が自信満々に「わたしは耐えられる」と言うことが出来るでしょうか。わたしたちは日頃、なるべく楽に生きたい。苦労はしたくない。災難には遭いたくないと思っています。それにも拘わらず、天の父は思いがけない苦難、苦労の体験をわたしたちにお与えになりますが、それがわたしたちに必要だとお考えだからなのだ、と思わざるを得ません。

わたしたちは愚かにも、自分が病気にならないと病人の辛さを思い遣ることが十分できないし、また自分が苦労しないと他人の苦労が十分には分からない者です。「そうだね、本当だね」と共に悩みを分かち合うことが出来るように、神さまはご配慮くださっているのではないでしょうか。そのようにして主は世にいらしたとき、わたしたちの弱さをいつも担ってくださり、真の神として誰よりも偉い方であられるのにも拘らず、真の人として誰よりも下にお立ち下さり、多くの人々を下から支えてくださったのです。

私は一生の間に多くの教師に出会い教えられました。高校、大学の先生。そして50歳で編入学した東京神学大学の先生方。教区の牧師方や連合長老会の教職の方々。結論から申しますと、優れた先生ほど、謙虚でありました。相手が優秀であろうがなかろうが、質問を喜んで受け、相手に力に応じて熱心に教えてくださったことを思い出します。だからイエス・キリストの苦難の意味に納得させられるのです。キリストはこの上ない高いところにおられた卓越した方だからこそ、地の底にまで降って、救われる値打ちのない者をも、ただ恵みによって、愛によって救ってくださる天の父の御心を表していることが知られるのです。

エルサレムに上って行く主イエスに、教会も従って行きます。この苦難はわたしたちの勝利のためです。主イエスは十字架の勝利を目指して進んで行かれました。主の勝利はわたしたちに対しても約束された勝利です。ただ、わたしたちは主イエスに従って行く途上にあります。そして主イエスは、ご自分の教会に勝利を確信しなさいと言われます。しかしそのことは、「もう勝ったんだ」とか、「どうせ最後は勝利に終わるから」と言って、地上の日々を無為に過ごしたり、好き勝手なことに時を費やして安閑と空しく過ごすことではありません。この日々の労苦が必ず報われると天の父に希望をかけ、日々の思いがけない戦いに備え、そこにわたしたちの努力を傾けることに集中する。それが十字架の勝利を確信する生き方なのです。

では、十字架の主に従うわたしたちの戦いは、どんな戦いなのでしょうか。それは、主イエスがなさってように、仕えられるためではなく、仕える者となるように、すべての人の僕(しもべ)となるように、日々、このことを私たちの祈りとし、与えられた立場において、境遇において、主が望み給う最善を尽くして、主の体の教会にふさわしく生きる戦いではないでしょうか。教会学校の今月の聖句は、次の言葉です。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つです。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」わたしたちは主イエスの命のパンを分けていただいて一つの家族、神の家族とされているのです。一つの体として、だれかの苦しみを共に苦しみ、だれかの悩みを悩みとし、だれかに慰めをもたらすように。だれかに喜びをもたらすように。この戦いが、私たちに絶えず働いてくださる聖霊の神の助けによって十字架の勝利をもたらしますように。祈ります。

 

御在天の父なる神様

あなたは御子をわたしたちに賜り、あなたの御心を十字架に表してくださいました。御子がわたしたちのためにあらゆる労苦を忍んでくださったことを覚え、深く感謝申し上げます。何のとりえもないわたしたちが、ただ恵みによって救いに招かれていることを思い、わたしたち、喜んで主に従う者となりますように。

一筋の救いの道を歩み、あなたがわたしたちに与えられた尊い使命を見い出し、どのような日にも倦むことなく疲れることなく、いただいた務めを果たすことが出来ますように。私たちの教会に与えられている使命を思います。どうか世の終わりまで福音が力強く宣べ伝えられ、恵みの福音を新しい世代もまた聴くことが出来ますように。救いに入れられる人々をこれからもこの教会に起こしてください。また同時に、わたしたち年老いて行く者が、主に従う者として地上の生涯を全うすることが出来ますように。幾多の苦しみ悩みを乗り越えさせていただき、本当にイエス様は神の御子であったと心から告白しますように。

成宗教会のイースターへ向かう日々、また教会総会に向けて準備する私たちの歩みをお守り下さい。また、悩み多い世に在って、またご病気のため、なかなか礼拝に来られない方々を覚えます。どうかその方々の心身共に安らかに今週もお守り下さい。新年度に備えるこの時期、来年度もいただいた賜物を生かし用いてくださる主の聖霊の導きを切に祈ります。この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。