聖書:歴代誌上16章7-13節, ローマの信徒への手紙11章33–36節
新しい年も、寒い寒いと言って過ごしているうちに、早くも2月を迎えました。わたしたちは恵まれて月の初めの聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。私の成宗教会の牧師としての務めも二カ月を切りました。本当のところ、私の願いとしては、17年前、減少していたこの教会の礼拝出席者の数を回復させて、もう少し多くなったら次世代に受け継いでいただこうと思っていたのでした。ですから、「私の願い」という点では、願いは叶わなかったことになります。しかし、主は私の間違いを指摘してくださいました。「本当に願うべきは、果たして自分の願いが叶うことなのか」と問われているのだと思います。
わたしたちは今、日本の人口減少が進んで行く社会に生きています。地方の市町村の過疎化が進んでいるとき、被災地ばかりでなく、一部の地域に人口が集中する一方、立ち行かなく自治体も増えて行くと予測されます。このことは日本キリスト教団の諸教会をはじめ、他教団の教会でも同じことが言えるでしょう。しかし、その時人々はどのように行動するのでしょうか。だれも、「こうすればきっとうまく行く」という方法論を持っているとは思えません。ただ、自治体と教会とは、方法論で比べることはできないのです。
わたしたちの中には、家族や、友人、また隣の人が教会に行っているから、という理由で教会に来た人もいるでしょう。昔はそういうことがよくありました。しかし、教会は地上にだけ立っているものではありません。もし、そうであるならば、人が変り、時代が変り、教会はとっくの昔に廃れてしまっていたはずです。私の学生時代には社会主義、共産主義思想が栄えていました。一方、それ以外の思想は非常に軽蔑されました。私も「キリスト教なんて古いんじゃない」と友人に言われましたが、それから十年も経たないうちに、栄えていた思想が衰退して行ったのは非常に不思議に思われます。
唯物論的な思想が廃れると、一転して、今度は若い人々が怪しげな新興宗教に取り込まれ、それらがキリスト教主義の学校、大学にまでも浸透して、人々を悩ます時代が来ました。その結果、「宗教は怖いもの」という印象がこの社会に植え付けられました。教会はこれらの思想や宗教から見えない攻撃を受け続けて今日に至っています。ですから、わたしたちの教会も、もし地上に立っているだけの教会であったならば、もし人々が集まっているだけの教会であったならば、この時代に、この社会に立って行くのは難しいでありましょう。あれだけ栄え、あれだけ社会を席巻するかに見えたものが、いつの間にか廃れてしまっているのですから。
しかし、わたしたちが今日も守っている礼拝、今日も与ろうとしている聖餐は、この世の流行はやり廃すたりをはるかに超えて、この二千年の間に世界中で行われている教会の営みであります。自己実現の大流行の時代も、人々が自己実現の果てに頼るものを見い出せなくなった時代も、変ることなく守って来た教会の信仰をわたしたちは受け継いで参ります。この信仰はイエス・キリストの体なる教会を形成する信仰に他なりません。
私は自分の願いとしては、こうだった、と先ほど申しました。「多くの人々に伝道したい、多くの人々を教会に招きたい、というわたしの願いは、断然正しいはずだ」と息巻いていたのかもしれません。しかし、主は弟子たちに、そしてわたしたちにも教えてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさい、と。そして「あなたの御名が聖とされますように」と祈りなさい、と。これが主の祈りの第一の祈りです。
御名、すなわち神さまのお名前が、崇められますように、とわたしたちは日本語で祈っています。崇めると訳されているこの言葉は、「聖別する、神聖なものとする」という意味です。つまり、単に恐れ多い、とか、尊いとか、大切にする、ということではありません。神さまのお名前は、神さまのご性質、お姿を表すお名前です。神さまは「父なる神さま」であります。また「天地の造り主」であります。また「贖い主」であり、「救い主」であるのです。神さまのお名前は、この方がすべてを造り、すべてを父の心をもって愛し、保ち、すべての罪を贖って救われる方であることを表しています。
では、この方の御名を聖とする、とはどうすることでしょうか。それは、わたしたちのかけがえのない命を創造し、また命を終わらせる神さまを信じ、讃美することに他なりません。わたしたちは、もし自分中心に考え、自分の利害損得にかかわることしか見ていないならば、神さまに心を向けることも讃美することもできないでしょう。しかし、その反対に、わたしたちがこの世界に目を向け、心を向けて、しっかりと見れば見るほど、讃美の思いが深まって行くのです。詩編8篇を読みましょう4-9節です。840頁。
「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によってつくられたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路うみじを渡るものも。」
このように、天の偉大さと大きさに比べれば、「なぜ神さまは一見して取るに足りない人間に関心を抱かれるのだろうか?」とわたしたちは思わずにはいられないのです。そして改めて人間を思うとき、すべてを造られた主なる神さまが、取るに足りない人間を心に留めることを良しとされたことは、本当に驚くべきことです。そこで遠く広く造られた世界を尋ね求めるならば、わたしたちは神さまの御名をほめたたえずにはいられないでしょう。詩8篇10節。「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」と。
今日読んでいただいた旧約聖書、歴代誌上16章はダビデ王が神さまに捧げた讃美です。8節から読みます。「主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌を歌い、驚くべき御業をことごとく歌え。聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人々よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。主の僕イスラエルの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。」
ダビデは少年の頃から神さまだけを頼りに戦って来ました。しかし、彼がこの時このように賛美をささげたのは、激しく長い戦いの年月が終わりに近づいた時でした。神さまはどこまでもご自分を頼って救いを叫び求めていたダビデの祈りに応えてくださったからです。わたしたちにも戦いがあります。それは具体的には、槍を持って自分の命をつけ狙う王の軍隊と、いつ果てるともない戦いをしなければならなかったダビデとは比べものにならないでしょう。しかし、わたしたちの戦いも決して安易なものではないことを、わたしたちは知っております。
なぜなら、わたしたちは人生の先輩、信仰の先輩の方がtを沢山見ているからです。先に生れ、先に労苦し、先に年取って行きますから。明治以来、日本に稀に見る戦争のない時代が続き、戦争で苦しんだ世代も高度経済成長の時代を謳歌しました。戦後の教会に集い、教会を支えた多くの人々はこの世代の人々です。わたしたちは誰もが年を取って行きます。肝心なのはその時です。それからです。わたしたちはダビデ王のようにたくさんの献げ物をして礼拝を捧げ、主なる神さまにこの歌を讃美することができるでしょうか。
大多数のわたしたちには出来そうもありません。わたしたちはますます貧しく、小さく、もろいものになって行くでしょう。しかし、教会に足を運ぶことの大切さ、礼拝を共に捧げることの大切さを証ししてくださったのは、わたしたちより先に弱り、先に小さくなり、もろいものとなったわたしたちの人生と信仰の先輩の方々なのです。
老いて行くわたしたちの最後は大きな意味を持っています。ダビデ王には及ばなくても、わたしたちも多くを見聞きし、多くを体験し、多くの試練を通って来ました。そして今、年を取ることそのものが、誰にとっても大きな試練であります。しかし、よく考えてください。誰にとっても試練である高齢化の中で、生涯の終わりに至るまで神さまの御名をほめたたえる人々がいるのです。「振り返ってみれば、何もかも感謝というより他にはないのです」という言葉。私はこの教会に仕えて、この言葉を数えきれないほど聴きました。真心から生まれる、主をほめたたえる言葉です。それは神さまの御名をほめたたえる人々の命の尊さを表すものでなくて何でしょうか。なぜなら、人間に与えられた命の目的は、神さまをほめたたえることだからです。人間に与えられた使命、神さまの目的が、成宗教会に生涯の最期まで連なっておられる方々において全うされるのを、私たちは見ることができました。そして、これからも見ることができますように。
このように「神の御名が聖とされますように」という祈りはいつでも、どこでも、心から献げられるように、とわたしたちは求められています。私が自分の願いを正しいと思うときにも、特に自分のこの願いは断然叶えられるべきだという思いに捕らわれる時にも、神さまの御心のみが広く、深く、恵みに満ちた救いを実現されることを確信して、心砕かれるのが、この祈りなのではないでしょうか。
恵みに満ちた救いと申しましたが、ダビデ王の時代にはまだ誰も見ることのできなかった救いの業を、神さまはイエス・キリストにおいて成し遂げてくださいました。人間とは、死すべき者、弱い、罪人に過ぎない者ですが、神さまは初めにこれを御自分に似せてお造りになり、神の形としてくださいました。そしてその破れにも拘わらず、罪人の救いのために、御子は謙って地上に降られたのであります。罪人のために苦難を耐え忍び、罪人のために十字架に死んで、罪の贖いを成し遂げてくださいました。こうしてイエスさまは、すべての人のために死んでくださったのです。しかし、そのことによって、すべての人が自動的に救われる訳ではありません。そうではなくて自分が罪ある者と知り、悔い改めてイエスさまの執り成しを受け、神さまに従うならば、その人を救ってくださると、約束されたのであります。
今日読んでいただいた新約聖書、ローマの信徒への手紙11章33節ですが、一つ前の32節から読みましょう。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と書かれています。わたしたちはこんなに心を込めて伝道したのに、信仰を受け入れる人々が少ないと嘆いているでしょうか。私は何度も申しましたように、「辞める前に、少しでも教会員を増やして…」などと、俄かに大きな望みを持ったりするのですが、全体としては、何も考えずに呑気に教会に仕えていたのだ、と思います。それはなぜかと言えば、伝道は神さまのなさることという実感があったからです。どんな困難な時にも、なぜか平安であり、理由もなく楽しかった、と振り返ることができるのは、聖霊の神さまが励ましてくださったからこそ、と感謝します。
あれほど一生懸命努力したのに、全く実を結ばないという出来事もある一方、私自身が蒔いた種ではないところから神さまの救いという思いがけない収穫があったこともあり、むしろこちらの方が多かったので、やはり、恵みによる救いは本当だったと、うれしく証しします。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」
私たちは過去から計り知れない恵みを受けたことを証しし、神さまの御名をほめたたえます。そしてこれから大きな困難に立ち向かう時にも、この恵みの神の御業を思い起こし、主の祈りを共に捧げて、成宗教会に連なり、天地に唯一の教会を告白したいと願います。本日は主の祈りを学びました。「カテキズム問57 主の祈りは何を第一に求めていますか。」そして答は「み名が聖とされますように」です。祈ります。
恵み深き天の父なる神さま
尊き御名を讃美します。二月を迎えました。あなたの憐れみと恵みにより、私たちは御前に集められ、み言葉をいただきました。深く感謝申し上げます。どうか私たちに悔い改めの心を新たにさせてください。ただあなたの憐れみと恵みによって罪の赦しをいただいたことを覚え、聖なる御名をたたえる者となりますように。礼拝を去り、一週間の日常の生活に出て行くわたしたちをお支えください。その中でも、いつもあなたを覚え、イエスさまの執り成しによって祈り、謙って従って行く者でありますように。
私たちは自分の生活に追われるように年月を過ごしました。考えること少なく、祈ること少なく、思い煩うことの多い日々を悔いております。どうか主よ、私たちの弱さを覚え、私たちのために信仰の戦いを戦ってください。多くの人々は年を取ることに何の喜びも見出しませんが、私たちは、主に出会い、主と共に生きることこそ喜びであることを証ししたいと願います。どうか私たちを主の御体の肢として活かし用いて、どのような時にも聖なる御名を証しし、ご栄光を現わすものとならせてください。
今、お病気の方々、忙しい日々の労苦を負っておられる方々を覚えます。主の恵みがその方々の上に注がれますように。本日は聖餐に与ります。私たちの救いのためになされた主の御業の全てを感謝して与るものとならせてください。また本日予定されている長老会議の上に御心が成りますように。藤野先生ご夫妻の陪席をいただいて行われるこの会議を、最初から最後までお導きください。すべてのことを感謝し、御手に委ねます。
この感謝と願い、尊き主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。