幸いな人

聖書:申命記6章4-15節, マタイによる福音書5章1-11節

 主の年、すなわち西暦2018年が始まっています。世の中は大変好景気といわれております。1980年代のバブル期のようだという人もいます。しかし、東京の街中の様子を見ると、どうしてもあの頃とは違うと感じてしまいます。違いを感じることの一つは、車です。外国車の数が圧倒的に増えています。日本の車は性能が良いのに、どうして買わないのだろうかと思います。また、自動車産業は関連する産業のすそ野が大変広いのですから、国産車が売れると、日本の労働者の生活を安定的に支えることに繋がります。そうして多くの人々が恩恵を受けることが出来たのが、以前の好景気でした。

ところが、今車を買わない若い人々が多いと言われています。そして高収入の人々は外国車を買う傾向にあります。これが好景気なのか?と思いたくなるのは、昔と比較する私の考えが古いのでしょうか。しかし、車がなくても生活できるのは若い時代だからだ、と私は思います。遠くに出かけるのに、時間も体力も使うことが出来るからです。私が成宗教会に赴任してから16年。浴風園キリストの会という老人ホームでの集会に出かけたり、病院のお見舞いに遠出するのは、バスや電車を乗り継いで行けばよいのですが、より多くの時間と体力が必要です。教会の墓前礼拝について考えても、やはり車を出すことが出来なければ、なかなか困難です。

二十年前、三十年前と今を比べた時、明らかに分かるのは、好景気ではないでしょう。以前は体力があった。車もあるのが当然だった。時間も取ることが出来た。それが、今は大変乏しくなっています。これは何も私たちの教会に限って言えることではありません。日本の社会全体が、好景気といわれているにもかかわらず、いろいろな意味で貧しくなっているのではないでしょうか。そしてこれは日本だけの問題では決してない、世界の多くの地域でいろいろな貧しさが進んでしまっているのではないでしょうか。

とはいえ、私たちが過去を振り返って、現在と見比べるのは、せいぜい50年、100年のことでありましょう。私たちが知っている昔とは、その程度の長さだからです。主イエス・キリストが地上に来てくださった時、神の御子は神の国の限りない豊かさから、限りない貧しさの中に降り立って下さいました。しかし、主の地上での御使命は、私たちと同じ貧しさを共にするためではありません。もしそれが目的なら、ああ、イエスさまは私たちと同じ人間の苦労をして下さったということに尽きることになります。もしそれだけが目的なら、確かに感謝は生まれるかもしれませんが、それだけで、人は救われるでしょうか。

主イエスの目的は、私たちの貧しさの中にいらして、天の御国の豊かさを教えることではありました。神の国について教え、そして私たちを神の国の豊かさに招くことであったのです。ですから、今日の聖書、山上の説教として有名な教えを、主イエスは教えられたのです。主イエスは群衆を離れて山に登られました。そして近くに従っておりました弟子たちに教え始められました。弟子とは、どういう人々でしょうか。弟子とは先生の教えに聞き従う人であります。ここでは、キリストに従う人々であり、キリストを通して神に従う人々であります。神の御心を知った時、それは、「ちょうど私の考えて同じです。喜んで従いましょう」ということではないのです。「えーっ!」と驚き、「とても信じられない」と思いながらも、自分の考えを捨て、御心に従って行った人々です。

思えばマリアもそうでした。主イエスの誕生に先立って、マリアに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、マリアはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」またマリアの夫となるヨセフもそうでした。主イエスの誕生に先立って、ヨセフに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、ヨセフはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。このように、キリストが世に生まれてくださるために、神は地上に従う人々をすでに備えてくださいました。

そのようにして人々の貧しさ、乏しさの中にキリストは来られました。そして従う者を集め、教え始められます。それは、幸いな人とはだれか、という教えです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心の貧しい人々とはだれでしょう。それは、自らを空しくし、神の憐れみに頼る人。苦悩にさいなまされ、押しつぶされても、それでも神に全く服従し、そして、心から謙遜であり、神に救いを求めてやって来る人々。そういう人々は幸いだと主は言われます。そうです。母マリアがそうでした。ヨセフもそうでした。常識では考えられないことが起こった時、自分に頼らず、他人に頼らず、ただ神に全く服従する。私たちもそうでありたい。だから神に救いを求めて教会に集まるのです。

しかしこのことは、何か他の人々と比べて、「救われる」特権を持っているかのように得意になることではありません。主イエスは従う人々が天の国に入れることを確信させ、だからあらゆる困難を忍耐するようにと、励ましておられるのです。また主は教えられました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。世間の常識では、悲しみは幸いとは程遠い。むしろ不幸なことではないでしょうか。しかし主は悲しみに暮れる人々は悲惨ではない、と仰るのです。それどころか、涙を流すことそのものが幸福な人生の助けとなる、と教えられました。

私は教会に在って、皆様と共に多くの悲しみを経験しました。それは、多くの方々が教会を去って行ったからです。ある方々は高齢になり、また遠くに行ってしまったので、教会に足を運ぶことが出来なくなりましたから。また、他の理由で教会に来られなくなった方々もおられます。その方々はどうしていることか、主がどこかの教会に招いておられるだろうか、などと思います。しかし、私たちはその他の方々を天に送りました。召された方々とのお別れには一番涙を流しましたけれど、それは不幸ではありません。私たちには愛する人々がいるからです。ですから愛する人々と別れる悲しみは確かに幸いなのです。この悲しみが天の国の希望に続いているからです。私たちの悲しみはただ神によって慰められると信じるなら幸いです。

主イエスはまた教えられました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と。柔和な人々とはだれでしょうか。それは侮辱されてもすぐに立腹しない。人々にひどいことをされても同じことで仕返しをしない。何事にも忍耐強い、穏やかで温和な人々のことです。この教えもまた信じがたいのです。むしろやり返さないとますます相手は傲慢になって悪事を重ねるだろうと思うからです。その不安が争いに争いを巻き起こすのです。私たちは命じられています。主イエスだけが私たちをお守りくださると確信しなさいと。確信して、その救いの翼の陰に隠れなさいと。そうするためには、私たちは悪人に悪をもって報いる人であってはならないのです。主は羊飼い。そして、私たちは主のもの。主の羊なのですから。

多くの土地を所有するために力を振るう人々は、いかにも繁栄しているようですが、実は、他から力で奪われないように絶えず警戒しなければならない、従って絶えず不安なのです。反対に私たちは、地上に僅かなものしか持っていなくても、確かに地上に住むところが保証されています。なぜなら私たちは神の恵みをいただいているからです。そしてやがて地上を去る時、神の国に住まいが用意されていることを思えば、主に従って生きる者が地を受け継ぐのです。

6節。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主は教えられました。飢え渇くという言葉は、生活必需品にも事欠くような貧困に苦しんでいることを表します。さらに義に飢え渇いている人々は、大変な侮辱、屈辱を味わって苦悶にうめいているのですが、しかし彼らは、「生きて行くためには、もう何でもするより他はない」ということにはならない。どんなに苦しんでも道を踏み外さず、節操を守っている。そしてそのために苦しみ、弱り果ててしまっているのです。

人々の目には、このような人々は愚かに見えるかもしれません。しかし、主は言われます。これは、幸福への確かな準備であると。なぜならついに、彼らはついには幸福で満たされるようになるからです。母マリアは次のように神をほめたたえる賛歌を歌いました。ルカ1:53「(主は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」このことを神がなしてくださる。いつの日か神は彼らのうめきを聴き入れ、彼らの正しい願いを満たしてくださるからであります。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えもまた、4節の悲しむ人々と同様の幸いではないでしょうか。世の人々は、他人の不幸など顧みないで、彼ら自身の安楽を計っている人々を「幸いな人々」と思っているかもしれません。

しかし、キリストの言われる幸い違います。幸いな人とは、自分の不幸を担おうとするだけでなく、苦しんでいる貧しい人々を助けるために、他人の不幸をも担い、苦しんでいる人々を助けるために、喜んでその人々の中に進んで入り、その不幸を共有する人々であります。そういう人々は、神からばかりでなく、ついには人々の間でも憐れみを受けるだろうと言われるのです。争いが絶え間なく起こるこの世に在って、ついに人々は心に何のゆとりも無くなり、すべて恩知らずとなりかねないのです。その結果、親切な人々を利用し、受けた善意にも悪をもって報いるようなことも起こるでしょう。しかし、憐れみ深い人には神によって恩恵が備えられています。なぜなら神こそが恵み深く、憐れみに満ちておられるのを知るからです。それを知る人々は心満たされると、主は教えられるのです。

そして8節。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と主は教えられました。清い心とは、何でしょうか。それは、人々の交わりにおいて常に純真であり、心の中に思っていること以外は、言葉にも表情にも全く表さない。すなわち二心がない。二枚舌を使わない、ということではないでしょうか。それは、だれもが「美しい心」だと一応認める性質でしょう。しかし軽蔑する人々は、このような純真な人のことをあたかも思慮が足りなくて、物事を十分見ることが出来ないかのように思っているのであります。ところがキリストは改めて心の清い人々を高く評価なさいました。二心がない、たとえ悪人に騙されることがあっても、人を欺くことが出来ない人々は、天の神の御前で神に喜ばれることだろうと。

そして「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主は教えておられます。人々の間でも、あるいは組織、国家の間でも、不和の状態、戦争状態にある者たちを仲直りさせるのはやっかいな骨の折れる仕事であります。平和を作り出そうと努める善意の人々は、双方から侮辱されたり、不平不満や非難を受けても、それに耐えなければならないことがしばしばです。なぜなら、人々はだれもが、執り成す者に、まず自分を守ってくれるよう期待するからです。そこで主は何と言われたでしょうか。主は私たちが誰よりも、何よりも、父なる神の調停によって平和を作り出すように努めるように教えておられます。だから人々の平和のために働く者は、人の思いどおりにではなく、神の正しい裁きが行われるように祈り働く者となりなさい。そうすれば、あなたがたは、たとえ人々から良い評価は受けなくても、それどころか、いわれのない悪評を受けることになっても、大丈夫。主は私たちを御自身の子と数えてくださると約束して下さいました。

2018年最初の礼拝、私たちは主イエス・キリストの教えを聞きました。主イエスは、この世の人々の繁栄の幸いではなく、神に従う者の幸い、神と人を愛して生きる道を教えてくださいました。私たちは新しい年に改めて、主の教えに従い、幸いな人に数えられたいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

新年最初の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。あなたは私たち成宗教会の群れを守り導き、新しい年を迎えさせてくださいました。多くの方々が高齢となり、病気やお体の不調に悩み、仕事や家庭に困難があることをあなたはご存知です。しかし、目に見えてここに、あなたの御前に集まる者は少ない者ですが、その生活の所々に在って、あなたの御名を覚え、心を合わせて祈る群れであることを感謝します。

私たちは主が恵み深く、地上に在って、私たちの乏しさを神の国の豊かさに変えてくださるために教えてくださることを感謝します。今多くの悩みがある中で、あなたがどうぞ私たちになすべき務めを教えてくださいますように。あなたが聖書によって、主イエスによって、恵み深さを表してくださいました。今、私たちは聖餐によって、主イエス・キリストが私たちになしてくださった救いの恵みに与ります。主イエスは山上の説教の教えを身をもって生き、十字架にご自分を捧げ、私たちの罪を赦し、平和の礎となってくださいました。私たちは主に感謝し、主の御体の教会にしっかりと連なる者となりますように。

高齢化少子化が進む社会にあって、あなたの御心が成り、私たちの罪が赦され、福音が日本の社会に伝えられ続けるために、この年も私たちの教会を、連合長老会の教会と共に、また日本基督教団をはじめ、全国全世界の主の教会と共に、一つなる教会が形成されるために用いてくださいますように。成宗教会の長老会の働きを強め、教会学校、ナオミ会、ピアノ・オルガン教室の働きを豊かに祝して下さい。また明日行われる東日本の日曜学校研修会と長老会議から、2018年の連合長老会の諸行事が始まります。すべてを祝し導いてください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。