聖書:申命記7章6-7節, ルカによる福音書15章11-32節
教会が告白してきました救い主、主イエスは、多くの例え話を語ってくださいました。ルカ15章の放蕩息子の話はその一つですが、15章にはその前にも、失われた羊の例え話、また無くした銀貨を探す話が収録されています。それらは皆、一つのテーマ、目的をもって語られています。そのテーマは、15章7節で主が語られておられます。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
全世界の教会が代々に言い表している信仰は、人間は皆、神から離れ、神に背を向けている罪人であるということです。しかし、実際には自分の罪を知らない、自分は人ではないと思う人々がおり、確かにこの世の法律から見れば、法を守っている人と、法を犯して犯罪者となる人との間には大きな隔たりと区別があります。しかし、教会が告白している信仰は、人と人との間のことを語る前に、人は神に対して背いたために恵みを受けられない状態を人自らが作り出している、ということなのです。
そこで、そういう人間を(つまり人々の目には互いに、あの人はひどい人だという、この人は素晴らしいと言う、比較をして裁いている訳ですが、実は皆、神に背いている罪人である人間をです)、神さまはどのように思われているのか、ということです。神さまはお姿が見えず、わたしたちの尺度で、推し量ることもできない方です。しかし、そこに主イエスが地上に来られた目的がありました。主イエスはヨハネ福音書でこう言われました。(ヨハネ5:19ー20)「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」
すなわち、神さまは主イエスをわたしたちの所にお遣わしになり、その言葉と御業によって、神さまの御心、御旨をお知らせくださっているのです。その御心とは、「わたしたちが皆、神さまに背いていたにもかかわらず、神さまはなお私たちを愛していてくださる」という、信じがたいこと。これが神さまの御心なのです。主イエスが人々に今日の例え話を話されたのも、そのために他なりません。ですから、この話を聞いて、自分の親と自分との関係などを思い返すのは筋違いでありましょう。神さまと人間の関係を、この目に見えない、従って多くの人々には想像することもできない関係、むしろ想像なんかしようとも思わなかった関係を描き出すために、主イエスは神を父親に例えておられるのです。
本当に神さまを父親として持っていると考えるなら、父の財産は無限というより他はないはずです。ただ、わたしたちは自分に今与えられているものを数えると、いかにも少ししかない、そして自分がもらえるはずのものも限られている、と思うばかりであります。そこでとにかく漠然と父の財産をいくらあるのかと想像し、将来はもらえると想像するだけで、満足することができればよいのですが、弟息子は、そうおおらかに安らかに思うことができませんでした。それはとにかく父の許を離れたいという希望があるからです。父のことを頭にのしかかった重荷のように感じているので、とにかく父のちの字も感じないような遠くに離れたい、そこで好きなように自分のしたいことをして暮らしたい、と思ったのでした。
夜逃げ、駆け落ち、というのは個人的には昔からあります。出エジプトの物語でも、集団大脱走です。脱出して自由になりたい、ということです。しかし、同じ逃げ去ることに天国と地獄の違いがあります。父の許を逃げ去るということは、エジプトの王の奴隷状態から逃げ去ることだったのでしょうか。それとも、天の父なる神さまから逃げ去ることだったのでしょうか。その答は逃げて自由になった結果を見れば分かるでしょう。弟息子は自由になったと思ったとたん、放蕩の限りを尽くしました。そして何もかも使い果たしてしまいました。
この愚かで思慮の無い若者は神さまを信用できない、不信仰な人々の例えであります。せっかく神に豊かな持ち物で恵まれていたのに、神から離れて全く自由になるというありえない欲望を持った人々です。それは、まるであらゆる生き方の中で最も望ましいものは、父のような神さまの心遣いと御支配の下に生きないことであるかのようです。さて、それに対して神さまはどうなさったでしょうか。神さまである父は、この息子の行く先が必ず失敗であることを知っていました。わたしたちは親としても子としても愚かな者であって、行く末を知ることができませんが、主イエスが話された父は天の父です。
神さまを離れてしまっては立派に生きることができないとご存じでも、息子を引き止めることはなさらなかった。なぜでしょう。罪ある人間は本当に困り果てない限り、万事休すとならない限り、自分の間違いに気がつかない。それほど愚かであることを見ておられたのです。しかし、人間の愚かさ、罪がこの例え話のテーマではありません。そうではなくて、人が自分の愚かさに気付き、心から悔い改めるために立ち帰って来る。それを熱心に待ち望んでおられる天の父のお姿を、主イエスはお知らせくださっているのです。
父よ、わたしはあなたに罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませんと謝罪を述べる子を赦そうと、今か今かと待っておられる。それが天の父なのだと。そして、息子を見つけると、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻してくださる。それが天の父なのだと。それだけではありません。子のこれまでの罪を赦すだけでなく、喜んで子を新たに支えようとしておられるのです。父は言います。「急いでいちばん良い服を持って来てこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と。
衣服は、それを身に付ける人の栄誉を表します。同様に指輪は権威を表します。そして、履物は、それを履いている者が、奴隷の子ではなく自由人であるのしるしでありました。奴隷は、はだしであって、自由人だけが靴を履いていたからです。こうして天の父は、わたしたちの罪の記憶を消し去ってくださり、我々から失われてしまっていた賜物を回復してくださるのです。神の憐れみがどのようなものであるかが、こうして示されました。そして、この物語の中で奇跡的に思うことは、この弟という罪人が自分で招いた困窮に苦しんでも、父の家に帰って、悔い改めの告白をするならば、父は赦してくださるという希望を持ったということではないでしょうか。ひどく背いていたと分かったとしても立ち帰るならば、必ず赦してくださるという希望を持たなければ、この人は決して惨めな姿で立ち帰って来ることはできなかったでしょう。罪人が自分を待っていてくださる天の父の憐れみを信じる。それは人間の能力を超えた信仰の賜物です。このことこそが、その人に注がれた恵みの第一歩なのではないでしょうか。
ところが、父親にはもう一人の息子、兄がいたと、主イエスはお語りになりました。いつも父の家に居て、家の仕事に勤しんでいた息子です。この兄は、いつも父の傍に居ながら、父の本当の心、すなわち子供たちに対する豊かな憐れみ、慈しみを、実は理解していませんでした。普段は忠実な者として天の父に仕えているようでも、罪人を憐れんでくださる父の御心は、全く分かっていなかった。放蕩息子が帰って来た時にそのことは実に赤裸々な感情として現れたのです。父は憐れんで、遠くから走り寄って「よくぞ、帰って来た、帰って来てくれた」と言って抱擁なさった。もうこれからは子ではなく奴隷の身分でも良いですから、と謙る弟の言葉に対して、直ちに父の息子としての身分と栄誉を回復させてくださったのです。
それを知った時、兄も喜ぶべきでした。父と共に暮らし、父の悲しみと喜びと痛みと慰めと、すべての根底にある天の父の偉大な善意とを一番理解しているはずではなかったでしょうか。何しろ、いつもそばにいて父に仕えていたのだから。ところがあろうことか、放蕩息子を失って以来悲しんでおられた天の父の喜びを見た時、思わず宴会を開こう、飲んだり食べたり、躍ったり、歌ったり、楽しもうではないか、と呼びかけている父を見た時、何とこの親孝行息子は激しく怒ったのでした。
この孝行息子とは、主イエスの時代のファリサイ派、また律法学者たちの例えでありましょう。しかし、この孝行息子はいつの時代にも、どこの地域にもいるでしょう。神殿にいて、教会にいて、日々神さまの御用に勤しんでいます。一方放蕩息子は非常に多く、神さまから遠ざかって生きることが、何よりの望みであると神さまを忘れて、自分の理想の実現に夢中になっています。ところが放蕩息子が困窮の末に悔い改めた時、孝行息子の怒りは爆発。彼の本心が暴露されてしまうのです。
放蕩息子の立ち帰りこそ、父にとって待ち望んだ喜びの時であったのに。父はしかし、この時、新たな慈しみをお示しになりました。それは、放蕩息子に注がれたのに優るとも劣らない慈しみであります。救い主キリストは、罪人を探し求めて救うために地上にいらしてくださいましたが、ファリサイ派、また律法学者たちは、そのことを快く思わなかったのです。しかしながら、父なる神さまは、この人々に対しても、父の心から離れ去った者、失われた者として、彼らを捜しに、家から出て来られる方なのです。
そして父は何をなさったのでしょうか。表向きの孝行息子の不平不満を聞いてやるほど忍耐してくださったのです。自分はいかに親孝行をして来たか、と神さまに自画自賛を並べるこの傲慢な態度を御覧ください。兄の息子は偉そうに言います。自分は「未だかって一度も背いたことはない」と。弟は父の御前に罪の告白をしました。それに対して兄の告白は「未だかって一度も背いたことはない」です。この傲慢こそ、神の戒めの最大のものに背いている証拠ではないでしょうか。天の父の戒め、それは愛の戒めであります。
申命記でモーセが民に証ししていることは、「あなたがたが神に選ばれたのは、数が多かったからでもなく、力があったからでも、豊かであったからでもない」ということです。むしろ他のどの人々よりも貧弱であったのだと。それでも主は心引かれてあなたがたを選ばれ、御自分の宝とされた、と。それはただ主の愛のゆえにそうされたのだ、と。わたしたちがもしこの方を天の父と呼ぶことが許されるとしたら、本当に謙って、ひれ伏して、喜んで、そう呼ばせていただくより他はありません。そして、この父の思いを知らせていただくならば、隣人を自分のように愛しなさい、という戒めを押しいただいて生きる者とされるでしょう。どうやら、自称親孝行息子はその戒めのことは全く知らなかったようであります。
この兄の方もまた、父をひどく悲しませている親不孝者であったのでした。しかし、父はこの、弟とは真逆のことを行う息子に対しても優しく忍耐強く「子よ」と呼びかけておられます。この天の父の御姿。優しさが深まれば深まる程、その御姿は自分の正しさを主張するあまり、弟を弟と呼ぶのも腹立たしい、父を父と呼ぶのも忌々しくなっていく兄の息子の罪の姿と対照的に際立っています。
これは放蕩息子の物語ではありません。放蕩息子の兄、自称孝行息子の物語でもあります。しかし、イエス・キリストの例え話によって、神さまがお知らせくださっているのは、人間の罪がいかに深いか、ということなのでもないのです。このように神さまを無視して生きようとする放蕩息子に対しても、神さまの傍にいて正しく生きているように見えながら、その心が神さまから遠く遠く離れて傲慢に生きている自称孝行息子に対しても、神さまは忍耐の限りを尽くして、悔い改めを待ち望んでおられる。その豊かな、深い神の愛、慈しみをほめたたえている。
この善い知らせをイエス・キリストはわたしたちにくださいました。そしてキリストはわたしたちが悔い改めて神に立ち帰るために道を開いてくださったのです。最も望ましい生き方を教会は提示致します。それは神がこのような方であることを知り、イエス・キリストを信じて神の子とされ、神を離れず、神の御支配の下に、神の子に対しての子のようなご配慮の下に生きることです。祈ります。
主なる父なる神さま
尊き救いの御名を賛美します。あなたはイエス・キリストの御言葉によって、尊き御旨を表してくださいました。わたしたちは真に心狭く、自分の物差しで兄弟姉妹を測り、あなた様の御心さえ、推し量ろうとする愚かで惨めな者です。しかし、このような罪にもかかわらず、あなたの慈しみは深く、御旨は天を超えて高く、正しい者も、正しくない者も、賢い者も、今日の放蕩息子のように後先を考えない愚かな者さえも、救いに入れようと待ち構えておられます。
本当に驚くべき恵みによってわたしたちの教会をも今日まで守り導いてくださいました。わたしたちは過去の方々に与えられた慈しみを思い起こすことで、また新たな道が開かれていることを感謝します。永眠者記念の聖餐礼拝も捧げることができました。来週は今村宣教師ご夫妻をお招きして、伝道礼拝と宣教報告会を計画しております。主よ、今村先生ご夫妻のお働きを祝して下さい。どうか小さな群れに知恵と力をお与えになり、あなたにお仕えし、福音を聞くことの喜び、伝えることの喜びを教えてください。わたしたちは家族、友人を招くことに消極的になりがちな時代、社会におります。しかし、わたしたちが目を使い、耳を使い、手足を使って人々をあなたの恵みにお招きするために、あなたが聖霊によって力をお与え下さいますように祈ります。
そして、どうぞこの教会を東日本連合長老会、また全国連合長老会と共に励まし合い、協力し合って教会を建てる務めへと励ましてください。今、ご高齢やご病気のため、いろいろな事情のため礼拝を守ることのできない方々に特別なお支えを祈ります。
この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。