《賛美歌》
讃美歌68番
讃美歌499番
讃美歌512番
《聖書箇所》
旧約聖書 箴言 16章1節 (旧約聖書1,011ページ)
16:1 人間は心構えをする。
主が舌に答えるべきことを与えてくださる。
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章12~14節 (新約聖書197ページ)
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
《説 教》
4月から全国連合長老会と東日本連合長老会のお世話で、この成宗教会に主任担任教師として赴任させて頂いた齋藤正でございます。
新型コロナウィルス感染症の世界的な蔓延と政府の「緊急事態宣言」が出されて、4月の赴任当初から集会自粛で皆様にお会いすることも出来ずに2ヶ月が経ってしまいました。改めてご挨拶申し上げます。宜しくお願い致します。
既に自己紹介や4月からの説教原稿を教会ホームページに掲載させて頂きましたので、ご存知の方々も居られるでしょうが、1944年(昭和19年)5月生れ76歳の後期高齢者です。生家は明治維新以来のクリスチャン家庭で私で四代目でしたが、私が洗礼を受けたのは定年まで勤めた大手化学会社に勤務中の43歳の時でした。受洗以来、御言葉の伝道を心掛けてきましたが、子育てにも追われて、献身を決意して東京神学大学を受験した時には69歳になっていました。
東神大では若い神学生は少なかったものの、それでも私よりずっと若い二十数名の同級生と共に2年前に大学院を修了し、文京区の根津教会の主任担任として奉仕させて頂き、今年の4月にこちら成宗教会へ招聘頂いた訳です。
そんな晩生な私が年齢も顧みず伝道者になろうと思った理由は、主イエスに救われるとは、私自身にとって、まったく予想出来なかった驚きを通り越した喜び・感謝があったからでした。この神の御恵みを少しでも人々にお伝えしたいとの思いからでした。その神の御業の不思議な有難さは、単なる日常の些細な時だけではなく、日々祈り、聖書に聞き、そして交わりの時に覚える事が出来ます。
しかし一方では、こんな年になって、物忘れが物覚えに先立ってしまう程に、信仰の学びの足りない私に神の御旨を充分に皆様に伝えて行けるだろうかとの心配もあります。
そんな時、主なる神は先ほどお読み頂いた旧約聖書「箴言」の御言葉を私に投げかけられました。「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。」と励まされました。
パウロがコリント書3章で言う、キリストとの関係が‟乳飲み子“の様な私に対しても主なる神は、この箴言の御言葉で私たちを支えて、語るべきことを与えて下さるのです。このことこそが、主の御言葉を語るすべての者に与えられた恵みであると確信しています。
今日お読みした新約聖書のヨハネ14章の、この聖書箇所は、読み方によっては少々難解というか。場合によっては誤解を招きやすい箇所です。
と、言いますのは12節にある「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と記されている聖書箇所です。キリストを信じる私たちが主イエスの行われた業を見倣って行う、までは分かりますが、キリストよりもっと大きな業を行うようになるとあります。キリストの御業より‟大きな業を行うようになれる“と取られかねない言葉があるからです。
その為に、ヨハネによる福音書のこの聖書箇所に至る主イエスの足跡を、少し前に遡って辿ってみたいと思います。後に弟子たちの中の使徒としても第一人者となるペトロが‟イエス様のためには自分の命をも捨てます“と言い切る、そのペテロでさえも主イエスから離反してしまうことを、主イエスご自身が直前の13章36節から予告しています。
そして、迫りくる十字架の前の晩、精神的にも極めて重い気持ちでおられた主イエスが残った弟子たちにされた最後の説教の初めの部分で語られたのが、この御言葉なのです。
主イエスご自身が苦難の死を予告される中で、それを聞いた弟子たちは共に大変な不安の中にあったことでしょう。そんな状況の中での主イエスご自身による弟子たちへの発言でした。
この様な状況を考えても、主イエスが心を込め、ご自分で予知しておられる十字架の死を見詰めながら、弟子たちに丁寧に愛をもって話されていること分かります。しかし、残念なことに、弟子たちにはそんな主イエスのことは、まったく分かっていなかったのでした。
14章にはいると、フィリポとトマスの弟子二人だけが登場しますが、実際には裏切ったユダを除いた、他のすべての弟子たちが一緒に居て主イエスの話を聞いていたと思われます。ここで、主イエスは、ご自身が地上を去る日の近いことを弟子たちにお話になりました。そして、それを、聞かされた弟子たちが動揺するのを見越して主イエスは、「心を騒がせるな。」しっかりしなさいと言われました。
ここで、主イエスはご自分の復活と弟子たちの先行きにも極めてはっきりとお答えになっておられるのです。
その主イエスのお話しを弟子たちには、まったく理解出来ていませんでした。
5節には、「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』と、トマスが主イエスに聞いたとあります。トマスは、主イエスが弟子たちから離れてどこかへ旅立って行くのかといった、不安の中からちょっとピント外れな質問をしています。
このトマスの質問に対して、主イエスはあの有名な真理の教えである御言葉を返されます。6節以下に、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』とあります。
この主イエスと弟子たちとの遣り取りでは、天の神から遣わされて、再び天に帰っていく主イエスは、弟子たちと信じる者たちのために、天に場所を用意し、彼らを父と子の交わりの中に入れようとされているのです。そして、その交わりの用意が済み次第戻って来られることを約束して下さいました。この主イエスの語られた、主イエスがすぐに戻られる再来の約束は、ヨハネ福音書の特徴でもあるのです。
そして、続く8節では、今度はフィリポが、トマスと同様に主イエスを充分に理解しているとは思えない質問をしました。「主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのです。
これは、ある意味ではすべての人間の思い・願望を代表しているとも言えます。フィリポは直接神を見たいと願ったのです。我々人間は例え信心や信仰心がなくとも、はっきりと神を見たい、直接神に会いたいという気持ちがあるものです。そのフィリポの質問に対して、十字架が直前に迫りながらも主イエスは丁寧にフィリポにお答えになりました。9節以下に“イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内(うち)におり、父がわたしの内(うち)におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。”とあります。このフィリポの質問に対して、主イエスはキリスト信仰の本質である父なる神とご自分の関係をフィリポにお答えになりました。主イエスを見た者は父なる神を見たのです。これは、ヨハネ1章の初め(18)から繰り返し語られている重要な真理なのです。御子イエスが御父におり、御父が御子イエスにおられるという一体性が主イエスご自身によって語られているのです。主イエスの御言葉と御業とが主イエスをお遣わしになった父なる神の言葉であり、教えなのです。
そしてこれからが、今日の問題の12節以下です。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」とフィリポに丁寧に話されました。この12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と記されています。
この12節を別の日本語訳の聖書で読んでみますと、口語訳聖書では、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。」とあります。
また、新改訳2017聖書では、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。」とあり、大きな意味の差ははありません。この12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と明確に記されています。この様に、日本語訳聖書を読むと、主イエスを信じる者が、主イエス以上の大きな働きをする様になると記されているのです。
使徒たちや弟子たち、初代教会の信者たちだけでなく、2000年後の私たち信仰者にいたるまで、凡そ主イエスを信じる者達が主イエスを越える働きが出来ると言われているのです。三位一体の神であられる主イエスを越える働きが出来るとは、どの様な意味で主イエスが語られたのでしょうか?
主イエスより大きな業がいったい私達に可能なのでしょうか?
古来、この聖書箇所の解釈には様々なものがありましたが、どう考えても、神であり数々の奇跡を行われ、天に上られた主イエス以上の大きな業が出来るとは思えませんし、また聖書原典をひっくり返して詳しく読み直しても主イエスの行った業を越える、大きな業はどこにも具体的に記されていません。そこで、再度よくよく12節を読んでみると、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」とあります。
ここで注目すべきこととして、「もっと大きな業」とは主イエスの御業より大きいと明確に書いてあるのではない上に、注目したいのは、12節の終わりに『わたしが父のもとへ行くからである。』と「もっと大きな業」が切り離せない主イエスの言葉として語られている言葉ではないでしょうか。
この2つの言葉の密接な繋がりをみてみますと、主イエスを信じる者は、主イエスが行った業、例えば愛の業を主イエスに倣って出来るようになり、更に加えて、その人自身で行った業を更に越える業を行うようになっていく、主イエスに倣って行った業が進歩していく、発展していくと解釈もできます。
つまり、主イエスの行う業を越える業ではなく、主イエスに倣って信じて行った業が、主イエスによって更にもっと大きな業を行うことが出来る様になると約束していて下さるのです。
その理由が、主イエスが父なる神の御許に行かれ、聖霊を送って下さり、その聖霊が「弁護者」として働いて下さるからなのです。
「もっと大きな業」とは、主イエスが私たち信じる者を、神として天上から導かれると同時に、その主イエスが聖霊を遣わす働きが、2000年前のユダヤの地にて真の人であった主イエスご自身がこの地上でなさった神としての御業を除く、人としての御業を越える御業とも、限定的に考えられるのです。
また、「もっと大きな業」とは、弟子たちの働きが、主イエスがこの地上でなさったより、もっともっと広い地域に拡がり、パレスティナだけでなく、全世界的に広がると言った意味も含んでいるとも考えられます。
この、主イエスよりも「もっと大きな業」を弟子たちがすることができるのは、主イエスが父なる神の御許へ帰られて、来たるべきこの世の終わりに再びこの地に来られ神の子たちを全世界的に集められることにおいてなされ、それが、世界の歴史全体の終末論の目的であり、弟子たちの働きにおいて、それがなされることだとも言えるでしょう。
今、既に信仰を与えられている私たちは、自分は主イエスを三位一体なる神として受け入れている筈です。しかし、私たちはキリスト者であっても、案外この時のトマスやフィリポのように、主イエスが語られる教えを守って行くことで真理に到達し、命が得られると思い込んでしまうのではないでしょうか。
そのような思い込みの中で、日々の教会生活が真の平安の内に置かれずに、心を騒がせてしまうことがあるのではないでしょうか。「わたしは主イエスのために死ねる」と、そこまでは言えなくとも、自分の信仰の道が、救いを得るために十分であろうか、言い替えれば、キリスト者として充分に働いているのかと言うことに関心を集中させていないでしょうか。
その結果は、自分の奉仕の至らなさを嘆き、隣人の欠けを裁いたりするのです。それは、本当に救いに至る道とは違い、自分の働きで救いに至ろうとする道です。
そのように時として道を踏み外す私たちに、主イエスは、わたしこそ道であるとおっしゃっているのです。私たちではなく主イエスが、父の御許へ行く道を歩んで下さり、救いを成し遂げて下さった。それ故、私たちは、主イエスこそ、神であることを信じ、神によって成し遂げられた救いの御業に信頼して主イエスの道を歩めば良いのです。そのような歩みをする時、12節で記されているように、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」のです。
主イエスこそ真の道であると信じて、その道を歩き出す時、その道を歩く者は主イエスの業を行う者とされていきます。それは、自分の救いを自分の力で確かなものとするために、道を求め、道を究めて行くような自分の業ではありません。私たちが、自分の業によって救いを得ようとするのではなく、主イエスこそ神であり救い主であるという信仰に生きる時に、自然と、主イエスの救いが証しされて行くのです。そのようにして、私たちが、道である主イエスを指し示して行くのです。主イエスの救いに生かされる信仰者が、道そのものである主イエスを指し示して行くのです。
14節には、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とあります。これは、主イエスを信じれば御利益として、願い事がかなうと言うことではありません。真の道を歩み、主イエスの御業を行って行く歩みを通して、主に栄光を帰して行く時、真理、命にあずかっていると言う真の平安が与えられると言うことです。
私たちは、私たちが父なる神のもとに行くための道となって下さった主イエスを、自分自身の主、神と受け入れつつ歩む時に、真に神と結ばれる者とされます。自分自身の力で神の御許へと行く道を捜し求め、そこを歩いて行こうとすることによってではありません。私たちではなく主イエスご自身が、父にいたる道を歩き、それによって私たちが父と結ばれていることに信頼して、道であり、真理であり、命であるキリストを通して父のもとへと歩んで行くのです。そのような歩みをする時にのみ、私たちはどんな困難な力が迫る時にも、たとえ自分の命が取り去られてしまうような死の力が襲う時にも、心を騒がせることなく、平安の内に歩む者とされるのです。その道が、神であられる主イエスが歩んで下さった道であるが故に、必ず、父のもとへと通じているからです。
主イエスを信じる私たちは、御霊によって、日々導かれ、主イエスに倣った業をすることが出来ると、主イエスご自身によって約束されています。そして、その業は聖霊の力によって、主イエスに倣って行うごとに、より大きく、より深く、より良くなっていくのです。
その結果、私達信じる者が、「さらにもっと大きな業」ができると、『すばらしい約束』を私達にして下さいました。
お祈りを致します。
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