主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌11番
讃美歌68番
讃美歌494番
《聖書箇所》
旧約聖書:詩篇 107篇28-31節 (旧約聖書949ページ)
107:28 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
107:30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
107:31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
新約聖書:マルコによる福音書 6章45-52節 (新約聖書73ページ)
6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
《説教》『しっかりせよ』
本日のテーマは、弟子たちが、主イエスとは、いかなるお方であるのかを、更にどこまで知ることが出来たかです。
様々な奇蹟を行われた主イエスが、群衆の過剰な興奮を避けるために、弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに行かせるために舟に乗り込ませました。そして、ご自分は群衆を解散させて、祈るために山に退かれました。
マルコは、主イエスがお一人で祈る場面を3回描いています。1章35節のカペナウムでの宣教開始の日、次に本日のこの6章、そして十字架を前にしての14章32節以下ゲッセマネの三場面です。そのいずれの祈りも群衆を避けて、純粋に父なる神の御心を求める大切な時でした。主イエスは父なる神と祈りによっていつも強く結ばれていたのです。
最初の45節は、「それからすぐ」という言葉で始まります。これはマルコ福音書の特徴的な書き方で、44節までの出来事と本日の物語とを強く結びつけており、時間的に「その後」ということだけではなく、五千人の給食という物語と強く結びついていることを表しています。
五つのパンと二匹の魚による五千人の食事、それはまさに偉大な出来事であり、奇跡そのものでした。集まった人々はその奇跡に驚きの声を上げたことでしょう。しかし、そこには、6章34節にあった、「飼い主のいない羊のような魂の飢え」を訴えていた者が、肉体の糧であるパンを与えられた結果、魂の飢えを訴えることを止めてしまった姿がありました。かつて、四十日四十夜、荒野で悪魔の試みを受けた主イエスに、三つの誘惑がありました。その第一が「石をパンに変えよ」でした。それは、「飢えた者にパンを与える社会経済的メシアになること」を意味していました。悪魔は、何故、「パンを与えるメシアになれ」と言ったのでしょうか。それは、経済的豊かさを得る時、人間は魂の飢えを忘れるということを悪魔はよく知っていたからです。
その意味から、主イエスの御言葉を中断し、「パンを与えましよう」と言った弟子たちは、まさに、かつての荒野における悪魔の役割を果たしていたとも言えるでしょう。主イエスの目的は、魂の飢えを訴える人々に応えることでした。満たされぬ魂の苦しみを忘れた人間は、救い主イエスを必要としていないのです。ここに、「弟子たちを舟に乗せ、群衆を解散させた」主イエスは、「もはや、人々は魂の満たされることを求めてはいない」ということを感じとられたことを示しているのです。
私たちは、「私たちを呼び集められる主イエス・キリスト」を知っています。「待っておられる主イエス・キリスト」を知っています。「心の扉を叩かれる主イエス・キリスト」を知っています。そのような主イエスのみが心に焼き付いているかもしれません。しかし、この「解散させる、追い散らす主イエス・キリスト」の御姿を見落としてはなりません。御子のこの厳しさを忘れていることこそ、私たちの信仰の甘さの大きな原因と言えるでしょう。
教会に人々を集められるのは主イエス・キリストであり、人々を散らされるのも主イエス・キリストなのです。何処の教会でも聖日礼拝の出席者の数「教勢」の増減を大きく問題にします。特に、この新型コロナウィルス感染症の世界的な流行下で教会のこの教勢は、大きく変化していると言えましょう。この教会に人々が集まるか否かは、世俗的なこととは根本的に違うのは言うまでもありません。「集め、散らされる」のが主イエス・キリストご自身だからです。「礼拝出席者が減少した」という問題は、その背景に「キリストの怒りと悲しみがある」ということなのです。
教会内では、「交わりの場のあり方が悪い」とか、「牧師の配慮が足りない」とか、いろいろ言われることもありますが、礼拝とは霊的な聖なる御業で、神様のみが導かれるのです。
最近の傾向として、礼拝に様々な試みが見られます。プロジェクターで聖句や讃美歌を投影したり、オルガンは時代遅れだからとギターやドラムを用いたり、礼拝をライブ配信するなど、礼拝出席者の減少に悩む教会の様々な試みが報告されています。しかし、そうではなく、むしろ、信仰告白を固く守り、キリストの福音のみを礼拝堂で語る教会が発展しているのも事実です。主イエス・キリストの救いを伝えることこそが教会の大切な働きなのです。
魂の飢えをキリストに求めて教会に集まる時、主イエス・キリストはいつもその真ん中に立たれるのです。しかし、福音の代わりに「人間が要求する何か他のこと」を置き換えたところからは、主イエスは人々を追い散らされるのです。
主イエス・キリストが山に退かれた時、何が起こるか、その恐ろしさを弟子たちの姿の中に見出さなければなりません。全ての人々を遠ざけ、祈るために山へ行かれる主イエス・キリストの御姿を何と見るべきなのでしょうか。
47節にあるように、「夕方」になって、弟子たちの乗った舟は湖の真ん中に出ていましたが、主イエスだけは祈るために山におられました。
まさに「時は夜」でした。暗い水の上で、キリストから離れた弟子たちが、「自分たちだけで」進もうとしているのです。闇の中にいる彼らの眼には主イエス・キリストが見えていません。ただ眼に入るのは、自分たちを取り囲む強い風と波だけでした
そこには平安がなく、恐れのみで、前も後ろも暗闇の世界でした。生命を脅かすもので周囲は満ち満ちていました。行くべき場所を明示するものも見えず、力の限り漕いでも、舟は進みませんでした。前へ行こうとする人間の意志を無視する力が如何に強いかを思い知らされました。
この「逆風」とは何であったのでしようか。「暗闇」とは何でしょうか。キリストから離れた人間、キリストによって追い散らされた人間を取り囲むのは、常に、この「逆風」と「暗闇」で表現される「恐れと虚しさ」だけなのです。そして、この「恐れと虚しさ」をもたらすものの満ちているところが、神なき世界であると聖書は語ります。福音を必要としない人生の苦しさを、聖書は、弟子たちの姿を通して語っているのです。
48節に、「夜が明けるころ」とあります。正しくは「夜明け前」であり、水の上は未だ暗い時間でした。しかし、主イエスは「弟子たちが逆風のために漕ぎ悩んでいるのを見た」と記されています。弟子たちには何も見えない夜明け前の暗黒の中で主イエスは、ここに弟子たちの姿を見ているのです。一方では、主イエスから遠く離れた荒れる湖の上で、神と断絶する弟子たちの厳しさが依然として「ここにある」と言えるでしょう。
主イエスは、御自身を求めない者たちを追い散らしました。しかし、決して、見捨てられたということではないのです。散らされた者を、御心の外へ追いやってはいないのです。主イエス・キリストは、悩み苦しむ人間を見詰めておられるのです。
ここにこそ救い主としてのお姿が明確に告げられているのではないでしょうか。平安と希望を見失い、絶望の中を虚しく努力する人間を救うため、主は再び近づかれるのです。
さらに、このキリストの御業が如何に私たちの予想を超えているかということは、主イエスが「水の上を歩いて来られた」ということに尽きるでしょう。
「水の上を歩く」。それは人間にとって全く不可能なことであり、考えることも出来ないことです。それ故に、「キリストに救われる」ということは、このように「私たちには不可能と思われることが実現することである」と言えるのです。愚かさ故に遠く神から離れ、神なき世界に苦しむ者に対し、主イエス・キリストはあらゆる隔たりを除かれるのです。「私たちの苦しみを見過ごしに出来ないという愛」によって、不可能を可能にされるのです。
聖書は、この時の弟子たちの心を正直に伝えています。「そばを通り過ぎようとされた」。この物語は、ペトロの思い出に基づいて書かれたものであり、ペトロの立場から主イエスを見て書かれています。ですから、「イエスが通り過ぎようとした」のではなく、「イエスが通り過ぎてしまうように思えた」ということなのです。しかも、こともあろうに「幽霊だと思った」と記されています。何故なら、それはペトロにとっては、予想することも出来ない「有り得ないことであった」からです。
しかし51節の後半から52節には「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちは、主イエスが水の上を歩いて来て、舟に乗り込んで下さったら逆風が止んだことを、驚いたけれども、その本当の意味を捉えることはできなかったのです。彼らは「パンの出来事」も理解していませんでした。彼らが持っていた五つのパンと二匹の魚で主イエスが五千人を越える人々を養って下さったあの奇跡によって、弱く貧しく罪深い自分たちと、自分たちが持っているちっぽけなものを用いて、主イエスが人間の力をはるかに越える救いのみ業を行って下さったのに、彼らは心が鈍くなっていて、その恵みを受け止め、主イエスに信頼して生きることができていなかったのです。だからこそ、水の上を歩いて来て下さった主イエスのことを幽霊だと思って騒いだのです。弟子たちですら主イエスのことをこのように分かっていないのですから、他の人々が主イエスが何者であるかが分からないのは当然です。
ペトロは、主イエスが、嵐の湖を渡ってまで自分を救いに来て下さるとは、考えてもいませんでした。そしてまた、「主イエスが私のところにやって来られる筈はない」と思い込んでおり、期待もしていなかったのです。
自分を救うために近づいて来られるキリストの御姿を見ながら、なお、このように戸惑わざるを得ないのが、神なき世界に生きる人間の姿なのです。
50節の主イエスの語りかけ、「安心しなさい」と訳されたギリシャ語の“サルセオー”とは、「しっかりしなさい」と訳すべき言葉です。しかもすぐ後に続く「わたしだ」という言葉は、ギリシャ語では、“エゴー エイミー”「この私だ」という最も強く自分を指し示す言葉で、主イエスがご自身を表されるときに用いられる言葉です。ですから、あえて直訳すれば、「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という言葉です。そして自ら舟に乗り込み、それと同時に嵐は止みました。
神なき世界をさ迷う人間の中にも、御子キリストは入って来られるのであり、キリストの臨在と共に嵐は止むのです。そしてキリストの「私が共にいるではないか」という御言葉と共に、私たちは初めて平安を取り戻すのです。
キリストなき世界にあったペトロの不信仰の理由が、52節にある、「心が鈍くなっていた」という言葉です。この言葉は本来「石のように硬くなる」という意味であり、霊的な感受性を失うことを示しています。「鈍い・鋭い」という感覚の問題ではなく、「心が霊的なものを完全に受け付けなくなっている」という「魂のあり方」の問題なのです。
祈りを忘れた人間。御言葉を求めることを忘れた人間。魂の飢えより肉体の飢えが気になる人間。霊的豊かさよりこの世的経済性を問題にする人間。そのような人間の惨めさがここにあると言えるでしょう。
「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という御言葉の持つ真の意味が、弟子たちの心の中で、未だ本当の力になっていませんでした。キリストによって与えられた平安の中にありながら、キリストと共にいることの素晴しさに気がつかない弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのです。
主イエス・キリストは私たちを選び、召し出して、教会という舟に乗り込ませ、この世へと漕ぎ出させておられるのです。主イエス・キリストの促しによって教会という舟に乗り込み、漕ぎ出していく私たちの信仰の歩みも、逆風によって漕ぎ悩むことがしばしばです。主イエス・キリストは私たちの霊的鈍さ・頑なさにも拘わらず共に進まれるのです。この「キリストを中心にした舟」、即ち「教会」において、目には見えないけれども聖霊によって共にいて下さる主イエス・キリストが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、私たちを守り導いて下さっているのです。
お祈りを致します。