聖書箇所
詩篇 22篇2a,b~41節 (旧約聖書852ページ)
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
マルコによる福音書 15章33~41節 (新約聖書96ページ)
◆イエスの死
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
説教
今から約2000年前の西暦33年、ユダヤの暦でニサンの月の14日、金曜日の午後、全地は「暗黒」に閉ざされました。マルコによる福音書15章33節には、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。
この日、朝の9時に十字架につけられた主イエスは、午後3時までの6時間、苦しみ抜かれ、遂に息を引き取られました。ローマ帝国の極刑であった十字架刑は処刑者を苦しませるためもあって、死ぬまでに数日かかる残酷な処刑でしたが、主イエスはその直前の苛酷な鞭打ち刑もあって短い時間で息を引き取られました。この聖書が記す「全地の暗黒」は、この主イエスの苦しみの頂点で起きました。
この「暗黒」とは何であったのでしょうか。ある人は日食があったのであろうと言います。またある人は、東の砂漠から吹いて来た砂嵐によって太陽が隠されたと説明したりします。聖書は、「全地は暗くなって、三時まで続いた」と記していますが、聖書が告げることを裏付ける記録はどこにもなく、このときの「暗黒」を聖書以外には誰も記してはいません。
1951年度のノーベル文学賞に輝いたスウェーデンの作家ラーゲル・クヴィストは、受賞作品「バラバ」の中で、このように書いています。
イエスの十字架刑がローマ総督ピラトから言い渡され、その時、イエスの代わりに赦されたバラバは、自分の身代わりになった男はどんな男かを見るために、ゴルゴタへやって来ました。十字架上のイエスを見上げていると、突然、暗くなり、その闇の中で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という声を聴きました。三本の十字架がボンヤリ見えるだけの真昼の暗黒の中で、バラバは怖ろしくなりました。やがて、明るさが戻って来た時、すべては終わっていたのです。バラバは自由でした。「身代わりの男は死んだ。もう自分の罪を咎める者はいない」。ところが、エルサレムの街の中に帰って来て、今、自分が見てきたイエスの死の様子を話すと、誰も「暗くなった」ことを認めません。何も変わらなかったと言います。太陽は何時もの通りでした。ここからバラバの悩みが始まります。「あの時の暗黒は何であったのか」。そしてバラバは、彼の生涯を賭けて、その「暗黒の意味」を尋ね続けるのです。
聖書は、この時の「暗黒」を明確に語っています。しかし、この世の記録は、それについて何も記しておらず、あたかも何事もなかったかのようです。この食い違いに直面するとき、私たちもまた、あのバラバと同じ場に立たされていることに気付かなければなりません。
あの「暗黒」が日食であったのか、砂嵐によるものなのか、そんなことが問題なのではありません。
大切なことは、バラバのように、ナザレのイエスを、自分の罪の身代わりになって死んだ方として仰ぐ者だけが認める「暗黒」なのではないでしょうか。そして、十字架の下であの声を聴いた者が、「あれはいったい何であったのか」と、生涯をかけて尋ね求めるべき「暗黒」なのです。古代の記録の何処にも記されていない「暗黒」。それにもかかわらず「全地が」と告げている聖書。私たちは、ここに、聖書の明確な主張を読み取ることが出来ます。
太陽が出ていようが隠れていようが、暗くなったと認めても、認めなくとも、それに関わりなく、全地の、即ち、神によって造られたものすべての「暗黒」が、ここに宣言されているのです。光を失った世界。それが主イエスが叫んだ言葉によって表されているのです。34節には、「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。この言葉は、先程お読みした詩編22編の冒頭の言葉です。この詩編22編は、確かにこの嘆きの言葉をもって始まっていますが、全編を貫くものは神への信頼であり、神の栄光を讃美する喜びの歌です。そのことから、十字架の主イエスの言葉は、「信仰者の勝利を叫んだのである」と解釈する人もいますが、そうでしょうか。
むしろ、主イエスご自身が日頃から親しまれていた詩編の中の一つの聖句を、十字架上で死を目前にした絶望的な苦しみの中で、主イエスの口をついて出たとみるべきではないでしょうか。主イエスの十字架は、この言葉の通りでした。御子イエスは、ゴルゴタにおいて、まさしく「神に捨てられた」のです。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙 3章13節で、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」と記しています。
私たちクリスチャンは、主イエスの十字架の死を、どんな意味においても英雄の死のように美化してはなりません。主イエスの十字架の死には、恥ずかしさと惨めさと醜さと神に見捨てられた絶望を見なければなりません。神の怒りが主イエスに対して徹底的に向けられたものに他ならないのです。主イエスの十字架において、私たちの罪のすべてが、神の眼の前に曝け出され、徹底的に罪が糾弾されたのです。もはや、どこへ逃げることも出来ず、隠れることも誤魔化すことも出来ず、自分の身に負う罪を、神の裁きの前に曝すのが主イエスの十字架なのです。そしてこれこそが、神から見捨てられた人間の本来の死の姿です。
私たちは、この世を生きる間、この恐ろしさをしばらくは忘れて過ごすことはできるでしょう。生活の慌ただしさによって、職場の厳しさによって、また、さまざまな趣味や娯楽によって、本来の死の姿を忘れ、罪の重荷を考えないようにして、ひとときを過ごすことはできるでしょう。しかし、本当に死に直面した時、それまでのすべての誤魔化しは無駄です。もはや、恐ろしさを紛らわすものは何一つなく、裸の自分がただ一人、神の裁きの前に立たされるのです。これこそが死の恐怖です。死に際して出会う神は正義の神であり、御心に逆らって生きて来た者の罪を、どこまでも追及する裁き主である神です。神の怒り、神の呪い、神からの完全な絶縁。「もうお前のことは知らぬ」と告げられるのが、罪の下における死です。十字架における主イエスの『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』との叫びは、この絶望を表すものと見るべきです。私たちすべてが受けなければならない苦しみを、主イエスが受けられたことを現しているのです。肉体の苦しみは死と共に終わります。しかし、魂の苦しみは、そこから始まるのです。主イエスの叫びに「真実の暗黒」を見るとは、こういうことを現しているのです。
そしてこの主イエスの十字架から、まさに「この時」から、新しい時代が始まりました。それは、人間の苦しみ、その「暗黒」を、「神の独り子・主イエス・キリストが引き受けられた」ということです。
「全地は暗くなった」と聖書は告げています。すべての人間が、例外なくすべての人間が、この怖ろしい神の裁きの下で絶望を味わわなければならない、と告げる聖書が、同時に、この「暗黒」を主イエス・キリストもお受けになったと記しているのです。私たちは、その「暗黒」を自分一人で負うのではなく、その「暗黒の絶望」の中でも、キリスト・イエスが共にいて下さるということです。さらに、その「暗黒の絶望」が、私たち自身では負えない怖ろしい「暗黒」であることを知っておられる神の御子が、私たちに代わって引き受けてくださったのです。御子イエス・キリストは、私たちと共に歩まれ、寄り添われるだけではなく、私たちに先立って、その「暗黒の重荷」を担われる方なのです。
まさに、主イエスが十字架に架かられたあの日は「暗黒の日」でした。すべての人間が絶望を見るべき日でした。しかし、その後の歴史が語っていることは、この世界はその「暗黒」に気付かなかった、ということです。
聖書が、「全地は暗くなった」と告げているのに、それに気付いた人はいなかったのです。神の御子が、私たちの絶望を代わりに引き受けて下さっている時にも、自分たちは明るさの中で生きていると思っていたのです。
旧約聖書1,150ページ、イザヤ書 53章6節から8節をお読みします。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わされた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼は神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
これこそが、聖書が告げる「暗黒」です。そして、この「暗黒」に気付くとき、聖書が伝えようとしているメッセージが明らかになるのです。それは、この「暗黒」が、主イエスの死と共に終わったということであり、むしろ、主イエスの死が「暗黒」を追い払ったと言うべきです。37節には、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。
並行箇所にあたるヨハネ福音書では、この主イエスの最後の言葉を、「成し遂げられた」と記しています。神の怒り、神の裁きは、主イエスの死によって、まつとうされたということです。また、口語訳では、ここを「すべてが終った」と訳しています。この訳の方が聖書の告知を正しく伝えていると言えるでしょう。「すべてが終った」。これは驚くべき言葉です。「すべてが終った」即ち「神の裁きが終った」と御子イエスは最後に言われたのです。
私たちの罪は、「もう追及されることはなくなった」と主イエスは、この世の生命の最後の言葉でおっしゃったのです。小説のバラバが、主イエスの死を見て「これで自分は本当に自由になった」と感じたように、主イエスの死によって、私たちに対する神の怒りは終わり、私たちの罪は赦されたのです。
旧約聖書(1,237ページ)エレミヤ書31章31節から34節で、預言者エレミヤは次のように語っています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」
「わたしは新しい契約を結ぶ」という主の御言葉をエレミヤは記しています。「わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。これが、エレミヤを通して語られた「新しい契約」であり、「新約」の新しい約束とはこのことなのです。何も知らず、何も気づかず、無知の中に日々を過ごして来た者の犯した罪のために、神の御子は、贖いの小羊となられたと聖書は語るのです。そして、主イエスの十字架の死で、象徴的なことが起こりました。38節に、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。「神殿の垂れ幕」とは、至聖所と聖所との間にある幕のことです。普段は祭司と言えども、人はその幕の内側に入ることは許されず、年に一度、大祭司だけが「全イスラエルの罪の赦しを祈るために、入ることが出来る」と定められていました。「幕」は、神の神聖さの象徴であると共に、聖なる神の御前に出られない「罪の下にある人間」の惨めさの象徴でもあり、神と人を隔てる「隔ての象徴」でした。「その幕が無くなった」というのです。私たちが神の御前に出ることを妨げていたものが主イエスの死によって取り払われ、私たちと父なる神を隔てるものを、主イエス・キリストは、御自身の生命と引き換えに取り去って下さったのです。そして「その幕が無くなった」ということによって、はじめて神と人の交わりが回復したのです。エデンの園から追放以来の長い間の苦しみが今や終わり、神を「父」と呼び、「子よ」と呼ばれる神と人間の関係が、ここにようやく回復したのです。
そして、このキリストの十字架の御業は、私たちと神との関係を回復しただけではなく、同時に、人と人との交わりをも正しくされたのです。それを、新約聖書354ページ、エフェソの信徒への手紙 2章14節から20節でパウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」と告げているのです。
私たちの幸福のすべてが、十字架に基づいていることが明らかです。39節には、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」と記されています。
神に選ばれたユダヤ人が主イエスを憎んで十字架に追いやり、異邦人であるローマの百人隊長が主イエスを「神の子」と告白したとは、実に皮肉なことです。私たちは、ここに神が、すべての人を救いに招き、キリストを信じる信仰のみによって、新しい民を誕生させられたという、新しい時代の始まりを見ることができます。
この告白をする者のみが神の国の民であり、神の家族なのです。主イエス・キリストの十字架の下、たとえ「絶望の暗黒」を味わったとしても、私たちは、「すべてが終った」というキリストの宣言に守られ、無知と無力にも拘わらず、今、御国へ招かれていることを感謝しようではありませんか。
新しい神の家族。それが、主イエスが流された「十字架の血」によって誕生したのです。
お祈りを致しましょう。
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