聖書:ルカによる福音書第22編54-62, 詩編第51編5-17
今日の週報にもお知らせしましたが、7月3日(日)の伝道礼拝の説教の原稿を、川村先生にいただきましたので、皆さんにも改めて御覧いただきたいと思います。川村牧師は説教の冒頭で、「教会にとって伝道は最も重要な働きの一つである。教会が伝道をしなくなったら終わりである」と話されました。正直に申しますと、私はこれを聞いて非常にびっくりし、また大変納得させられたのです。
なぜかと申しますと、私たちは伝道を全くしないで良いと思っている人はいないと思いますが、ほとんど伝道をしなければならない、と自分のこととして考えていない教会にいて、それが普通になっていたからです。それは私の以前教会生活をしていた所についても、ほとんど当てはまると思いますし、少なくとも日本基督教団の諸教会に共通の問題であると思います。「教会が伝道をしなくなったら終わりである」と断言されて、私たちは本当にひん死の重傷の病人のようである、と気が付かないではいられなかったのです。
しかし、皆さんは牧師になる人は、伝道したいから牧師になるのではないかと思っていらっしゃると思います。もちろん、広い意味では福音伝道する教会に仕えるために、私も献身しました。しかし、献身の決意を述べる時に東京神学大学に提出した聖句は、主イエスが、「わたしに従いなさい」と言われたことではなく、マタイ福音書の9章36節〜38節でありました。(17ページ)「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
飼い主のいない羊のような教会を私は眺めて来ました。世は自己実現を追い求めており、その風潮は教会の中にも深く浸透していたと思います。だれもかれもが自分の主張をし、それが受け入れられることは良いことだと信じているようでした。そうして教会の中に無秩序が持ち込まれ、声高にしゃべる者の主張が通るようになったとき、教会の群れは弱って行ったのです。しかし、自分たちが弱っていることに多くの人々は気が付いていなかったと思います。自分たちの飼い主は誰か、あの先生、この先生と思っていた。あるいはあの長老、この役員がいれば大丈夫と思っていた。そして、教会の主を忘れて行ったのではないでしょうか。そして群れを飼っているつもりのリーダーたちも、牧師、長老、役員たちも同じことです。自分たちが本当に教会の主に従って、教会を建てようとしているのか、それをどれだけ問うていたでしょうか。
上に立つ者の罪が大きいことは、聖書を読めばよく分かります。主イエスを十字架に付け、殺すことを企てたのは、他ならぬ神の民イスラエルの指導者たちであったからです。そして、それに手を貸して主イエスを裏切ったのも、弟子たちの中でも重要な人々の一人、主から信頼され、用いられていたユダでありました。このように、神の民は、教会は自分たちの弱さと落ち度によって、自己実現によって、主の民であることを忘れ、人間の支配に陥るとき、大変に弱り果ててしまいます。しかし、その人々を主はどう思われるか、ということです。そのような私たちを主は憐れんでくださる、と聖書は語っているのではないでしょうか。そこで、伝道ということの中身を理解しないままに、ただ、主の憐れみを信じて、主の助けを祈りなさいと言われたことを信じて、献身した私のような者をも、用いてくださる方が、教会の主であることを感謝しながら、主の恵みによって今日の聖句を説き明かしたいと思います。
ペトロは熱心に主に従う者でありました。何とかして主のお役に立ちたいと思っていました。その熱意と愛に私たちは心を動かされずにはいられません。主が十字架の苦難と死と復活を予告された時に、大衝撃を受けて、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と苦難の道を妨げようとしました(マタイ16:22/マルコ8:33)。また、主がペトロをはじめ弟子たちの躓きを預言なさった時には(ルカ22:31−33)、彼は「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と断言したのです。彼は心の底から、主と共に生き、共に死んでも本望だ」と思っていたのです。
しかし、主は真実を知っておられた。主は神に等しい方であるならば、どうしてそれを否定することができましょうか。ペトロに欠けているもの、そしてもちろん、私たちに欠けているものは何か、主イエスを真に主と、恐れをもって信じ、告白しているかどうかではないでしょうか。主を親しく信頼する。それは良いことです。私たちと等しく悩み、苦しみ、痛みを知っておられる方であると知る。私たちを御自分のように愛しておられると信じる。それは素晴らしいことです。しかし、それだけでは十分ではありません。主はわたしたちを知っておられる。主はわたしたちの弱さ、私たちが自分はそうではないと信じて疑わない弱さを知っておられる。このことを信じ、告白することが大切です。なぜなら主は人となられた神であられるのですから。主イエスは御自分が敵の手に渡されるその直前まで、弟子たちと共にいらして弟子たちを守り抜いて下さいました。すなわち、敵の手下である小さな者に切りつける、という無謀な暴力をもカバーして下さり、その上で、弟子たちが危害を加えられることなく自由にされるようにしてくださったのです。弟子たちが処罰を免れるように。それは、主のご配慮でした。それなのに、ペトロは主が捕まえられ、自分が何もされないというのでは、気持ちが収まりません。主が捕えられ、引かれて行く所は大祭司カイアファの館でありました。彼は手を尽くして何とか、その中庭に忍び込むことに成功しました。これからどうなるか、事の成り行きを確かめずにはいられないと自分に言い聞かせて、主がせっかく弟子たちを自由に逃げられるようにしてくださったのに、その御好意に逆らったのです。
季節は春先で夜は冷えました。庭の中央に炭火が起こされ、人々はその周りに座って火にあたっていました。ペトロは用事もないのに、そこに居て他の人々に紛れていられると思っていたようです。ところが一人の女中が、この人はヨハネ福音書によれば、門番をしていた人のようであります。彼女も、それから中庭にいた人々も、なぜ、主イエスが捕まえられなければなかったのか、この事件については何も分かってはいなかったと思います。まして、彼らの指導者たちのように、主イエスを憎んでいたわけではなかったでしょう。しかし、彼女は、ペトロの顔を覚えていました。そして主イエスの仲間がここにいることを他の誰も知らない、わたしだけが知っている!ということに得意になったのでしょうか。思わず、この大ニュースを暴露せずにはいられなかったのかもしれません。「この人も一緒にいました」と。ペトロは、突然群衆の中から、人前にさらされました。大勢の視線に身の危険を感じ、パニックに陥ったのです。彼は嘘をつく以外にどうしようもありませんでした。彼のように向こう見ずな者、そして自分こそは、という思い上がりの強い者に、悪魔は好んで突然襲いかかり、足もとをすくうことをするのです。ペトロは主を知らないと言ったこと。この出来事はすべての福音書に記されています。しかも、十二使徒の筆頭と自認していた者にこの重大な罪を犯させたのは、名もない下働きの女性の一言であったのです。
「この人も一緒にいました。」彼女の一言で主イエスに対する崇高な英雄的な訴えも消えうせました。この彼女の一言でゲッセマネの園で剣を振り出した勇気のすべてが、彼の心からも、手からも消えうせました。そこにいるのは、主イエスを天から遣わされた神の子、救い主を告白することができず、嘘をついてまで否認する愚かな卑怯者でしかなかったのです。「わたしはあの人を知らない」と。そうしてこの否認によってペトロはまた次々と否認を繰り返すこととなったのです。58節以下。「少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは、『いや、そうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことはわからない』と言った。」ルカは親切にも、ペトロが相手の言うことの意味が分からないという言葉によって、主を否認したと述べている。それは知らないというより更に悪いものになりました。ペトロは「主を知らない」と言ったとき、自分をキリストによって結ばれていた神との関係を断ち切りました。それは自分自身を呪うことだったのですから。そして更に、人と人との普通の言葉が通じないふりさえして、対話の関係さえ断ち切ろうとしたのであります。
ペトロは疑わしいと言われても、まだ捕縛されてもいないし、裁かれるために拘束されてもいない訳ですが、今や彼は群衆の中に、隠れているためには、何でもする用意ができているような者でした。こうしてついに彼はごく普通の人間性さえ失い、今や見るに堪えないあわれな臆病者になり下がってしまったのであります。しかし、ペトロが「あなたが何を言っているのか分からない」と必死に言い訳を叫んでいるその時に、突然鋭く叫んだ者がありました。それは夜が明け、空が白み始める前に、時を告げる雄鶏の叫びでありました。
夜明けを告げる鶏の声、当たり前の朝の知らせに、注意を払う者はいませんでしたが、ペトロだけは違いました。主が振り向いてペトロを見つめられたからです。私たちは不思議に思います。広い大祭司の中庭で、主はこの時ペトロを見つめるほど近くにおられたのでしょうか。おそらくはちょうどその時、神殿警察が裁判場から主イエスを引き出して来たのではないかと思います。そして、次に召喚されるまで留置するところに連れて行くために、中庭を通って行く。ペトロの近くを通り過ぎる時、それはペトロが否認をし、鶏が叫んだ、ちょうどその時だったのではないでしょうか。61節.「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」この時すでに、主の御顔は受けられた傷で、黒く青く変わり果て、唾をかけられて汚されていたことでしょう。しかし主はその御顔を向けて、哀れなペトロを見つめられたのです。主の受難。恐ろしい苦難のただ中にあっても、救い主イエスの心は、ペトロのことを想い、彼を見られたのである。ペトロの唇は主を知らないと言い、仲間でないと言い、恐ろしい否認を繰り返して、いまだに震えていたのでありましたが、その彼を主は見つめられたのであります。哀れなペトロの魂に届くように。そして彼を救うために。そのお顔は、ペトロには、たまらなく堪(こた)えたことでしょう。この偉大なことをルカだけが報告しました。
そのお顔に彼は思い出させられました。ペトロの状況を主は予見しておられたからこそ、鶏についての言葉を語られていたのです。何のために。預言の通りになった今こそ、ペトロがその言葉を思い起こして、立ち直るように。彼は恐怖に取りつかれ、緊張に引きつっていましたが、この時ついに解き放されました。主の愛の警告が本当であったことが今、彼の魂に戻って来たのです。今こそ、自分を捨てて主を真の救い主と告白する悔い改めの道は開かれました。彼は外に出て、激しく声を震わせて泣いたのでした。
ペトロの否認と悔恨の物語は二つのことをわたしたちに知らせています。その第一は、主はペトロの否認を預言され、そのとおりになったことです。その第二は他の弟子たちも同様に主と切り離されてしまいましたが、ペトロが悔恨に至ったことで、他の者も回復しました。主を告白する教会の群れとして新たに建てられて行きました。私たちは主に仕えるために、自分の思いと行いを捧げたいと思うのですが、主が本当の羊飼いであり、私たちの思いと行いが中心ではない、ということをしばしば忘れてしまわないでしょうか。だから、一生懸命教会のためにと思いながら、主の御心を思わないということがしばしば起こるのであります。
主は地上に弟子たちを残し、主の体の教会を形づくってくださいます。ここにおいて、真の救いに、主の御支配の中に、人々を招き入れるために。信仰は見えない神の御心を世に現わしてくださったイエス・キリストを信頼し、この方を主と告白する教会の信仰を受け入れることです。自分こそ、自分だけは、という思いを捨てて、礼拝に参加し、神の言葉に聞き従うために、牧師も長老、信徒も心を一つにしたいと願います。主イエス・キリストはペトロの出来事に伝えられている私たちの罪を予めすべてご承知の上で、苦難を受け、罪人たちのために、執り成しの務めを果たされました。そして今も後も、天にあって私たちのために弁明をしてくださっていることを信じましょう。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま
主イエスが苦難のただ中でも、ペトロを憐れんで見つめてくださったことを、私たちに教えて下さり、感謝いたします。主の愛に打たれ、真に思い上がった心を砕かれ、新たに主に従う私たちとしてください。私たちが対岸の火事を見るように世界中の人々の苦難を見ないように。また日本の中にある虐げられた人々を他人事と思わないように。どうか主の御目で私たちを見つめてください。そして私たちがどんなに弱く小さな者にすぎないかを悟らせてください。小さな者を大切にし、小さな者と共に歩み、あなたの喜びとなる生活を、私たちに今週くださいますようお願いいたします。
私たちの教会の中にある計画、個人的な計画も、社会においての計画も、すべて主の教会の恵みのもとに治めてください。不法を働く者、究極の自己中心である戦争やテロの攻撃からお守りください。善悪の見えにくい世界にあって、真の正しさを知る者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン