聖書:詩編110篇1節, エフェソの信徒への手紙1章20–23節
先週は、教会の信仰告白使徒信条の中で、主イエス・キリストは天に昇られた、という告白について学びました。歴史のある時、ある所に神は人となり給いて、人の罪を負って罪の贖いを成し遂げられました。救いは、神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられたのです。こうして主イエスは御自分を信じる者に救いをもたらしてくださったのですが、ご復活の体をもって天に挙げられたと、弟子たちは証言しました。そして代々の教会は使徒たちの告白を受け継いで来たのです。主イエスはなぜ天に挙げられなければならなかったのか。それはこの救いが、ある時代の、ある人々の救いのためだけではなく、歴史を超えて、地域を超えて全人類の救いとなるためでありました。
主は使徒たちに約束されました。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(213下)そして主が天に昇られた後、この約束の通りに、教会は聖霊を受けました。そして聖霊の力を受けて全世界に福音を宣べ伝え、今日に至ったのです。
さて、今日はその後、主イエスは「全能の父である神の右に座しておられます」という教会の告白を学びます。わたしたちはこの告白が、新約聖書エフェソの信徒への手紙1章20節に語られていることを知りました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と記されています。「神は、この力をキリストに働かせて」と言われるこの力とは、その前の19節の言葉によれば、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」力と言われます。つまり信じる者に対して、神が絶大な働きをなさる力であります。
わたしたちの信じる神は、全能の神です。全能というと、何かスーパーマンとか、ドラえもんではありませんが、何でもわたしたちの願いを適えてくれる力なのかと思うかもしれませんが、それは神を知らない人間の願望に過ぎません。神の全能とはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださるということなのです。だからこそ、わたしたちは、神の全能は、独り子を罪人の中にお遣わしになられるほどの愛の中に、表されたのだと信じるのです
さて、エフェソ1章20節の言葉は、今日同時にお読みいただいた詩編110篇1節を前提としています。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」これはダビデの歌とされているものです。この詩の中で、ダビデは自分の子孫のことをなぜか「わが主」と呼んでいます。なぜでしょうか。その質問は主イエスからも出されました。マタイ22章41節-46節(44下)
「ファリサイ派の人々が集まっていた時、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシア(ギリシャ語でキリスト)のことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。このようにダビデがメシア(キリスト)を主と呼んでいるのであれば、どうしてメシア(キリスト)がダビデの子なのか。』これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」この問いの答は、それはダビデの子孫からメシア、すなわちキリストがお生れになったからです。ここで主イエスが自ら証ししておられるように、主イエスこそは、ダビデが「わが主」と呼んだキリストであり、天に昇られ、神の右にいます方なのです。
それでは、神の右とはどういう意味でしょうか。このことは先週も少しお話ししました。それは、主イエスが全能の神さまと等しい力をもって、あらゆる権威や勢力を御自分の御支配の下に従わせることを意味します。その御支配はこの世の勢力の支配とは全く違います。この世の勢力の支配しか、思い当たることがない人々は、支配と言えば、お金や暴力の支配などを考えてしまいます。しかし全能の父の右におられるキリストの御支配は全く違います。その支配は愛の支配に他ならない。悪霊どもでさえ、キリストの愛の力にたじろがざるを得ない。この愛を受け、この愛を信じ、この愛に支配されている人々を、彼らはどうすることもできないのです。
その愛は、神を裏切り、キリストを裏切った人々をさえ追い求めて、滅びの穴、絶望の淵から救い出そうとする熱意です。これが人間の力ではない、全能の父の右におられるキリストの力であるならば、だれが逆らうことが出来るでしょうか。主は地上を去る前にこう祈られました。ヨハネ福音書17章21節(203上)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」と。この方が天におられるのですから、わたしたちがどこにいてもわたしたちを愛し続け、救いへと導いてくださる。教会が告白しているのは、正にこの信仰です。
わたしたちが常に立ち帰らなければならないのはこの信仰です。主イエスが神の右に座しておられ、わたしたちに全能の御力をもって聖霊を送り助けてくださっている、その絶大な力、お働きを、わたしたちは本当にどれだけ真剣に信じ、告白しているでしょうか。ただ、習慣的に(それでも、告白することが許されていることは、それだけでも真に幸いなことですが)、機械的に告白するのではなく、一字一句に込められた告白の言葉に込められている教会の信仰を、わたしたちは改めて心に深く受け留めましょう。
更に21節に宣言されています。神はキリストの権威、力を「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と。反省させられることは、わたしたちの視野があまりにも狭いということです。私達は、良い意味で一人一人の人権が尊重される時代を生きたと思っていましたが、自己実現型の人間の視野はひどく狭くなってしまいました。極端な言い方をすれば、自分のことしか考えない。自分で稼いだものは自分のものだという考えを良しとしましたが、自分の働きの成果を用いて社会全体の幸福のために還元することを考える人々がどんどん少なくなったのです。高額所得者は税金を逃れるためにこの世のあらゆる知恵を駆使する一方、貧しい人々は自分が仕事を奪われているから貧しいのだと考え、不満のはけ口を自分以外にぶつけようとする有様です。
教会の中には昔から多くの貧しい人々がいました。そして少数ではあったにせよ、豊かな人々、この世の力を持った人々もいたのです。また奴隷の身分(広い意味では労働者階級の人々)もいれば、自由人もいました。要するに、この世の身分、階級においては様々であったのです。そして教会の中でみんなが全く同じ身分、同じ力を持つということにはなりませんでした。貧しい人々への配慮ということは神のご命令と受け止められていたでしょうが、教会には当初から、いろいろな意味ででこぼこがあったのです。
しかし、すべての優劣、経済的優劣、健康の優劣、社会的優劣、能力的優劣に生まれる力関係の上にイエス・キリストの恵みの御支配があったということは間違いありません。その上に、この社会の変動がありました。今地中海を粗末な船で難民が押し寄せる様子がテレビで映し出される。昔、古代ローマ帝国の衰えと共にゲルマン民族が大移動して来たことを思いました。民族の大移動は決して過去のことではなく、また欧米に限られたことではないでしょう。絶え間なく、世界のどこかで戦争が起こり、また地震や山崩れなどの災害も起こります。人類の歴史には人口が激減したという疫病が、これからの時代には核施設の起こす人災の危険があるでしょう。
それにもかかわらず、この二千年、目に見える教会が地上に建てられているということです。わたしたちの視野の狭さ、取りあえず自分だけ生きられれば良い的な、貧弱な幸福感。自分の夢が叶えさえすれば良い的な、低いことこの上ない人生の目標。あるいはせいぜい自分の家族、自分の好きな仲間だけ守られれば良い的な視野の狭さが、わたしたちの社会の貧しさであり、その貧しさが教会の中にも浸透してきているのではないでしょうか。
そして気がつけば、超高齢化社会であります。少子化社会であります。ごく一部の人々をのぞけば、心身共にゆとりある人々はますます少なくなるばかりです。このような歴史の中の今、日本という社会の今、その中にわたしたちは生きています。狭いところで考えれば考えるほど、困難ばかりが見えます。希望が何も見えないように思われます。しかし、視野を広げましょう。この二千年の教会の旅路を。その歴史は嵐に荒れ狂う夜の闇にのみ込まれるばかりの漂流船のようであります。明日をも知れない。いつどうなるか。明るい日の光を果たして見ることが出来るのか。しかし、その時にも教会は信仰告白を唱え続けました。なぜなら、教会は主イエス・キリストの御支配の下にあるからです。
22節、23節。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」すべてのものとは神の造られたものすべてを意味します。嵐を鎮める主イエスのお姿を、地上のご生涯で弟子たちは見ておりました。その時は限られた所で、神の力を表してくださいました。天に挙げられ、神の右におられる主は、全世界の教会に、また昔も今も、そしてこれからも、その御力を表してくださる。わたしたちは、この信仰を受け継いでいるのです。
その力は、わたしたちの計り知ることのできる力をはるかに超えています。教会は全能の神と等しい御力をもって御支配くださるキリストの体である。この表現をわたしたちは初代教会から、使徒たちの信仰から受け継いで来ました。私は、今直面している困難な時代から、視野を広げて初代教会から今に至るまでの教会に、どんなに大きな恵みが注がれて来たかを考えていただきたいと申しました。そして、そこからわたしたちが理解すること。すなわち、神の右にいますキリストが、全能の父と同じ力、万物を支配する力が注がれていることを知るならば、わたしたちは教会として、キリストの体に結ばれる者として、しなければならないことがあります。
それは、この方の全能の御力を信じ、この方をいつも見上げることなのです。全能の力、それはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださる力です。こんなにありがたい、慰めに満ちた信仰があるでしょうか。しかしこれは、信じなければ信仰告白にはならないのです。信じなくても信じても救われるということではありません。ですから、この信仰告白を受け入れ、いつも新たに信じることが大切です。キリストがわたしたちの頭であることをいつも告白して従って行くこと無しに、教会は建てられません。
わたしたちは人間の業、自分の業にこだわっています。しかし、わたしたちの救いはただ神の全能の御力、いつでもどこでもわたしたちを愛して救ってくださる神の力です。だからこそ、無力となった者も、貧しくなった者も、希望をいただいて、天の父の右にいます神の御子イエス・キリストを見上げ、その執り成し、その助けを待ち望むことが出来るのです。祈ります。
御在天の主なる父なる神様
御名をほめたたえます。わたしたちは主イエス・キリストがわたしたちに先立って天に昇られ、わたしたちの罪を赦すために、執り成しの務めを担ってくださっていることを感謝します。そればかりでなく、地上で罪の誘惑、試練にさらされながら、困難な道を歩む教会を御自分のものとして助けるために、聖霊を送ってくださっていることを感謝します。
わたしたちは豊かにゆとりある生活をしている時には、理解が及ばなかったあなたの愛を日々教えられる思いです。生活の困難、仕事の困難、家族の困難、そして健康の困難を多く抱える度に、どうか教会の主に結ばれているわたしたちが心からあなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従って行くことが出来ますように。
わたしたちは礼拝を思いながら、様々な事情で教会に来られない多くの方々のことを思います。どうか御心ならば、その困難を取り除き、教会に集まるために道を開いてください。また、わたしたちも福音を運んで行き、その方々のおられるところで礼拝を守り、聖餐式を行う事が許されますように。真に老いも若きも、明日はどうなるか分からないという思いを他人事としないで、あなたの御前に立つことが出来るように、主イエスの執り成しを受けることを切に望ませてください。
東日本連合長老会の一員として教会の歩みを与えられておりますことを感謝します。どうかこの教会が、この地で福音を宣べ伝えるために、次の世代への伝道を前進させることが出来ますように。そしてどうか新しい教師があなたの御旨によって与えられますように。
今日も教会学校から、ナオミ会の活動に至るまで、主の御導きを感謝し、御手に委ねます。どうか教会に与えられて来た伝統、恵みを受け継ぐ教会として、信仰者を増し加えてください。今、苦しんでいる兄弟姉妹を御力によって慰め、救い出してください。
この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。