聖書:詩編116篇12-19節, ルカによる福音書18章1-8節
わたしたちが礼拝説教の中で、信仰問答(カテキズムと申します)によって、教会が受け継いで来た信仰を学び始めたのは、2017年の9月でありました。その内容は、使徒信条と十戒と主の祈りでありまして、三要文と呼ばれます。今年の待降節の前に使徒信条と十戒について学びを終えましたので、本日、2018年最後の礼拝から主の祈りを学びます。そして、ちょうど年度末までには学び終えるでしょう。
本日の問52は、「なぜわたしたちは祈るのですか」です。大変、率直な、素朴な問いです。そしてそれに対する答もまた、大変単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるからです。」これが答です。私たちはよく、お祈りは苦手だなどと言うことがあります。どう祈っていいか分からないと思うこともありますが、人前で祈るということを考えれば、なおさらです。私は40代の頃、ある教会の長老を務めたことがありましたが、長老の務めが重荷だったのは、「どう祈ったらよいか分からない」という単純な悩みのためでした。
一方、洗礼も受けていないのに、また教会を離れて久しいのに、滔々と人前で祈る人がいることにも驚きました。牧師の娘だったという、ある年取った信者の方が「わたしはお祈りができないので、オルガンを弾いて讃美します」と言うのを聞いて、わたしも気持ち分かるなあと思ったことです。こんな私が献身して牧師になったのですから、私は成宗教会の皆さんに祈りについて具体的な勧めをしたことはほとんどありませんでした。ただ、わたしたちは祈りが必要であることだけは、身をもって感じているのではないでしょうか。
私に洗礼を授けてくださった仙台東一番町教会の田中従夫牧師は多くを語らない人でしたが、一つだけはっきりと勧めておられたことがありました。それは祈りを止めてはならないということだったことを思い出します。「悪魔は、わたしたちの計画することに何でも賛成します。わたしたちが、「あれがしたい」と思っても、大賛成。「これがしたい」と言っても、大賛成です。ただし、一つだけ賛成しないことがあります。それは神さまに祈ることです」と田中牧師は言い、だから悪魔に支配されないために、祈りを止めてはいけないと勧められました。長い人生を振り返ったとき、この言葉を思い出します。何かの理由で教会を離れざるを得なかったときも、戻って来ることができたのは、祈りによって神さまの助けを求めて来たからでしょう。
このような体験は、おそらく皆様にもおありのことでしょう。神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから、わたしたちは祈るのだと教えられました。聖書は、人間が神さまのかたちに造られたと教えています。それは神さまの呼びかけに応える相手として造られたということなのです。ですから、人は神さまとお話ができる、祈ることができるように造られたということです。人が見えない神さまに祈りをささげる姿こそは、神さまがお造りになった本来の人の姿だということができるでしょう。
本日の新約聖書のテキストはルカ18章です。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえ話をなさいました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」
ここには神を畏れず、人を人とも思わない傲慢不遜な裁判官が登場します。彼が貧しい寡婦の弱い立場を守ってくれそうな期待は到底持てないのです。しかし、やもめはどうしたでしょうか。見込みがないのであきらめたでしょうか。絶望したでしょうか。彼女に最善の方法は何でしょうか。たとえ傲慢で情け容赦のない相手であっても、彼女は訴えを諦めるより、訴え続ける方を選びました。そしてとうとう不正な裁判官を根負けさせたという話です。
イエスさまはこの傲慢不遜な裁判官を神さまに例えておられるのでしょうか。そんなことは決してないでしょう。ただこんなにひどい相手であっても、この人に訴える他に方法はない、となったとき、この女の人はもう絶対にあきらめないで訴え続けた、ということを強調しておられるのです。まして、あなたたちが祈り求めている相手は神さまではないか。神さまはどのようなお方か、あなたたちは知らないのか、とイエスさまは問われているのではないでしょうか。神さまは憐れみ深い方です。神さまは御自分を次のように言い表された方です。出エジプト記34章6節。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」151上。
このような神さまの慈しみを知っているならば、どうして祈り求め、祈り続けないでいられるのだろうか、とイエスさまは問われているのです。あきらめるなどということは論外ではないかと。本当にその通りなのです。ところが、私も冒頭で正直に述べました様に、「お祈りは苦手だ」とか、「何をどう祈って良いか分からない」という理由で「人前で祈るのは・・・」とためらう人がいるかと思えば、まるで神さまに向かって大演説をするような人も出て来る。また、それを見て、大いに驚いて躓く者まで出て来るという現実があります。そんなことなら、自分の言葉で祈らないで決められた祈祷文にすれば簡単だ、等々、あれこれと百でも理由を作っては、祈りから遠ざかろうとするのではないでしょうか。わたしたちはそれこそ、サタンの思う壺にはまりかけているのです。
ところが、イエスさまは何と言われたでしょうか。それは「あなたがたは、あきらめずに祈りなさい!」とのご命令です。「あきらめないで、」です。「自分の拙い言葉や自分の情けない祈りにがっかりしないで、」です。神さまは立派な日本語でないと、立派な英語でないと聞き取れないとはおっしゃらず、忍耐強く聞いてくださる方なのです。また、神さまはわたしたちのひそかな不平不満もご存じです。あれをお願いしたのに、聞いていただけない、わたしの祈りは聞かれないと思い、がっかりしたり、悲しんだりするわたしたちがいます。
わたしたちからすると無理もないことです。重い障害や難病に苦しんでいる人々を思うとき、いつもイエスさまが手を取って起こしてくださった奇跡、目に泥を塗って見えるようにしてくださった奇跡、耳に指を入れ、つばを舌に付けて、開けと言って聞こえ話せるようにしてくださった奇跡が、起こったらどんなにうれしいことかと思うのです。そしてこれ以上良い願いはない、祈りはない、とまで思い、叶わないことを悲しむのです。
しかし、「がっかりしない。あきらめないで祈りなさい」と、今もイエスさまはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちは、幸いなことにあきらめない者として教会にいます。私はこの教会で祈りについてほとんど指導することはありませんでしたが、ほとんどいつの間にか、祈りに満ちた教会になっていました。兄弟姉妹が集まり、礼拝を守り、共に主に祈って来たからです。そして礼拝が終わると皆、教会の外に出て行きました。また会えるだろう、また集まれるだろうと思って別れるのですが、二度と会うことはなかった人もいます。いつまでも元気でいるのが当たり前のように思ってお別れするのですが、思いがけない困難に直面することもあります。その折々に、わたしたちは祈り合って来ました。
もちろん、お互いのことが十分分かっている訳ではないので、「あの人はこうすれば良いのに」「ああしない方が良いのに」と心配しても、わたしたちの考えが正しいかどうかも分かりません。そういう限りある知識の者たちが、限りある力の者たちが集まって祈る祈りなのですが、この拙い、貧しい祈りを神さまは喜んで聞いておられる。だからイエスさまは「祈りなさい」と言われます。ちょうど何も分かっていない幼子のようであっても、その祈りを喜んでくださる神さまがおられるのです。
成宗教会が祈りに満ちていると思うのは、わたしたちに沢山の困難や課題があるからです。この教会に限ったことではなく、教会はこの社会の、また全世界の悩みを映し出しています。悩む人々、悩む社会、悩む世界の中に建つ教会は、祈りの務めを与えられているからです。今日のイエスさまの例え話には悩みある人の訴え、という祈りが取り上げられましたが、わたしたちは礼拝で感謝の祈りを捧げています。御心を尋ねる祈りもあります。そして、これから主の祈りで学ぶことですが、神さまの御心が行われるようにと祈る祈りに導かれます。自分の願いだけを一方的に願うばかりの時は気がつかないことですが、祈りは毎週の礼拝の中だけでなく、個々人で、毎日、時間を決め、一人で、あるいは家族と共に祈ることによって、思いがけない導きが与えられます。それは、自分がこれまで本当に神さまに守られ、恵まれて来たのだ、という発見です。
詩編116篇の詩人は言います。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」神さまがわたしの祈りを聞いてくださったことに気がつく、ということは非常な恵みなのです。なぜなら困ったときに神さま助けてくださいと祈る人は多くいたとしても、災いが過ぎ去ると、神さまが助けてくださったとは思わず、祈ったこともすっかり忘れてしまう人も非常に多いからです。そのような中で、「わたしはこんなに神さまの恵みを受けた」と気がつく人は幸いです。そして人から助けられたとき、何か御礼の贈り物をしようと思うのですが、相手は神さまなのですから、どのように御礼をしようとしてもできないことが分かります。
また、神さまは助けられた人が無理をして献げ物をしてほしいと思ってはおられません。神さまは本当に豊かで恵み深い方なので、ただ人が祈り求めることを喜ばれ、その人を救うことを喜びとしてくださいます。それを信じる人にできることはただ一つ。それは感謝の祈りを捧げることです。喜びの集いを開いて、集まった人々の見守る前で、捧げる献げ物は何でしょうか。それこそが感謝の祈りなのです。
主の慈しみに生きる人、すなわち信仰者の命を神さまは貴いものとして思われるからこそ、これを御心に留められ、必要な助けを与えてくださいます。わたしたちが弱り果てる時、わたしたちは自分で自分を低く見積もり、「わたしは何の値打ちもない」と自分を決めつけて、神さまのせっかくのご好意を蔑ろにするのではないでしょうか。そんなことにならないように常に注意しなければなりません。
こうしてわたしたち主イエスさまに結ばれた者たちは、初めは祈ることが分からず、人前を気にかけたり、自分中心な願い事だけを祈っていたとしても、主はわたしたちをお見捨てにならないのです。なぜなら、主はわたしたちのために命を捨ててくださった方ですから。この方が聖霊によってわたしたちを守り導いてくださったことによって、わたしたちはどんなに前進させられたことでしょうか。わたしたちは時が良くても、悪くても祈り、自分の願いをはるかに超えて善きことを成し遂げることがお出来になる方にすべてを委ね、御名をほめたたえて生きる信仰生活を整えて頂きましょう。2018年が終わろうとする今、わたしたちの歩みを振り返ると、真に人生の一部が祈りの時だったのではなく、わたしたちの人生そのものが祈りの中にあるように、導かれて来たことが思われます。感謝して新しい年を迎えたいと願います。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま
本日の礼拝に集めて頂きましたことを感謝申し上げます。2018年を振り返り、成宗教会を通して主と結ばれたわたしたちを守り導いてくださいましたことを、思います。世は移り変わり、人々は変わって行きますが、変ることのない主イエスによっていただいた救いの御業、あなたに対する信仰を感謝し、慈しみとご忍耐の神であられるあなたの御名をほめたたえます。
この年、成宗教会は連合長老会より新たな教師を推薦され。臨時教会総会においてお二人の先生を招聘することを決議しました。真に小さな群れが招聘するにふさわしい教会として整えてください。あなたの御名を汚すことなく、御心に適った道筋が備えられますように切に祈ります。どうかお二人の先生のお働きがあなたのご栄光を現わすものとして貴く用いられますように。先生方のご健康をお支えくださいますようお願い申し上げます。
また成宗教会の長老会の働きを強めてください。長老、信徒の方々のご健康を支えてください。多くの方々が高齢になっておりますが、なお健やかにあなたに支えられ、用いられますように切に祈ります。
どうかこの教会を用いてあなたが招いてくださった方々の上にあなたの御心があり、慈しみ深い主の下に集められますように。来るべき年にも、世の災いを避けることが出来ますように。そして、み言葉を力強く宣べ伝えられる教会としてくださいますように。今、お病気の方、お怪我をしておられる方を思います。どうぞ、その場に共にいらして励まし必要な助けをお与えください。
言い尽くせない感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。