聖書:詩編118篇22–25節, 使徒言行録3章1–10節,4章10–12節
今年も恵まれてイースターの礼拝を守ることができました。主イエスのお墓はからっぽだった。このことによって弟子たちは、自分たちの罪が赦されたことを信じたのでした。それだけではありません。主イエスの復活という奇跡は、神が、差し出しておられる救いへの招きであります。主イエスの復活を信じるなら、その人の罪を赦されると、信じたのでした。私たちは礼拝の中で、世界中の教会が代々信じて来た信仰とは何かを学んでいます。それは古代教会から今に至るまで教会が受け継いで来た信仰告白で、それに基づいて明治時代に制定された日本基督教会信仰告白があり、また日本基督教団信仰告白も制定されております。
わたしたちの教会は洗礼式の際には日本基督教団信仰告白を告白しますが、1954年に制定された教団信仰告白の元になっているものが日本基督教会信仰告白なので、元々連合長老会に所属している教会では、この信仰告白を合わせて告白しているところもあります。
わたしたちが今取り上げて学んでいるのは、使徒信条です。本日は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白している、このところであります。この言葉は、教会の中ではイエスが名前でキリストが名字だと思っている方はいないと思いますが、世の中ではそういう誤解もあるそうです。
これは、イエス様は救い主キリストであると、私たちは信じ、主と崇めます、という意味であります。世の中にはたくさんの宗教があり、たくさんの神々と称するものがありますが、そのことを受け入れているのではありません。他の人々はどうであろうとも、私たちはイエス様こそ、救い主。私たちを救う御力のあるただお一人の方、神であると告白しているのです。今日の聖書はよく知られた神殿の前で起こった奇跡物語です。
この神殿を立てたのはヘロデ大王。マタイ福音書の2章に登場する異邦人の支配者であります。彼は壮大な神殿を建てましたが、その入り口の一つに「美しい門」という名の場所がありました。大層豪華で美しい装飾で飾られた門は当時の人々の目を奪ったことでしょう。ところがその入り口には一人の乞食が座っていました。境内に入る人々に施しを求めて生活をしていたのでしょう。美しい門とみすぼらしい乞食。それは全く不釣合と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。神殿が豪華であろうと質素であろうと、ユダヤの人々には神殿に来る目的は別にありました。
それは言うまでもなく、神を礼拝することです。では、復活の主にお会いし、主イエスはキリストであると信じた人々はどうしたでしょう。彼らもユダヤ人でした。主イエスを十字架に付けたのもユダヤ人。主イエスの復活を信じ、罪の赦しを信じた最初の弟子たちもユダヤ人でありました。では弟子たちは、主イエスを十字架に付けた憎き人々の指導する、仕える神殿には行かなくなったのか、と言えば、決してそうではありませんでした。彼らは家に集まって主を賛美し、パンを裂き、主の制定された聖餐を守ったことでしょう。しかし、彼らがこれまでしていたことを止めませんでした。それは毎日2回か3回、神殿に出かけて行ってこれまで通り、礼拝を守ることでした。
そういうわけで、ペトロとヨハネは神殿の美しの門を入ろうとしました。すると物乞いをしている人が目に留まりました。この人の方は、毎日大勢の人々が出入りするので、一人一人を見上げたりしなかったでしょう。ただ下を向いてお願いして居れば、中にはお金を落とす人がいる。それで良かったのです。彼はそれ以上、だれにも何も期待してはいなかったでしょう。
ところが、ペトロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。その人はびっくりしたでしょう。でも彼は自分が人に期待していること以外のことは考えませんでした。期待していること。それは、何かもらえることです。ところが彼の期待は裏切られました。しかし、彼の期待を全く打ち破ることが起こったのです。ペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。弟子たちの持っているもの。それは主イエスのお名前でした。イエス・キリストへの信仰でした。
金銀を持っている人々は、そうだれにでも分けて上げたいとは思わないものです。分けたらなくなってしまうと心配します。どこかに隠してでも取って置こうとします。食べ物でも沢山あったら、みんなに分けてしまわないで、何とか保存食にして取って置こうとするでしょう。ところが本当に良いものを持っている人は分け与えずにはいられない。本当に良いもの。それは、人に分けても無くならないのです。むしろますます豊かになります。それは何でしょうか。それがイエス・キリストの福音です。ペトロが持っているものは、しまいこんでおくことができないもの・・・それは福音です。福音は人から人へと伝えられてこそ福音である。福音は人々に伝えてこそ、その本当の意味、本当の力が現れるのです。
ペトロは彼が持っている福音を言葉によって、この人に伝えました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命令したのです。この命令は、決してペトロ自身の力や権威によって命じたのではありません。彼は、ナザレの人であり、私たちの救い主である主イエスの名を呼んで、その名を信じて、その名によって命じたのでした。言葉は力となり、結果を生み出します。それだからこそ、主イエスの力と権威は、命じられた人の上に現れることとなったのです。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行ったのです。
こうして、乞食の期待は全く裏切られました。彼はただいくらかの施しを求めただけだったのですが、思いがけないもの、立ち上がって、歩く力を与えられるという、全く信じられないほどの主の恵みに与ることになりました。「立ち上がる」というギリシャ語は、座っている状態から立ち上がるという意味ばかりではありません。人が眠っている状態から「起き上がる」、あるいは死んでいる状態から」「甦る」という意味をも表します。また「歩く」というギリシャ語は、「生活する」、「生きて行く」という意味でもあります。
エフェソの信徒への手紙5章14節(358ページ)に次のように言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」キリストの御名によって、私たちは死者の中からキリストと共に復活したのです。これからもキリストに照らされて恵みの道を歩みましょう。
何年も前から「美しい門」にいるこの足の不自由な乞食は人々に知られていました。人々が驚き怪しむ中で、彼は今やすべての参拝者の中で、一番喜びにあふれた人となったことでしょう。こうして、この出来事は証言したのです。救い主イエスの御名が真に権威あるものであることを、だれの目にも明らかなように証言するものとなりました。
福音を聞いた人々の一方は、他方に向かって呼びかけます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。すると呼びかけられた人は立ち上がり、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美するのです。素晴らしいことではないでしょうか。主イエスの名によって立ち上がる。そして神を賛美する。そのために私たちは教会に集まるのです。さて、私たちは今喜んで神様を賛美しているでしょうか。イエス・キリストの救いを自分だけのものにしておくことができずに、他の人に呼びかけずにはいられない人でしょうか。神の不思議な業としるしとは、このような人々の間に現れるでしょう。どちらも主イエスの御名の権威を証ししているからです。そしてこのような私たちが教会の門の内側に入って主イエスの名によって教会を建てることができるのです。
しかし、私たちはしばしば福音を忘れてしまう者ではないでしょうか。門の前に座りながら、入って行くことを忘れてしまっている。神様に溢れる恵みをいただきながら、感謝と賛美と祈りのために教会に集まることを忘れてしまう。神様の恵みを忘れてしまう恩知らずの罪深い者である私たち。しかし、だからこそ、福音はいつも繰り返し聞かなければならないのです。主イエスの名によって語られる罪の赦しの言葉を新たに聞いて立ち上がって行かなければならないのです。
小さなたとえ話をしましょう。これは古代教会の神学者が語ったものではないかと思いますが、今は覚えていません。世界という名の一人の乞食がいました。その名は「世界」というのです。彼が天の国の門の前に横たわっている。それを神さまは見ました。ところで、神様にはご自分の中に隠してしまっておくことのできないものがありました。それは御自分の命と愛でありました。世界という名の乞食はただ施しと冷たい飲みものを求めました。しかし、神さまは御自分の愛する御子を彼にお与えになりました。御子は人が従うべき真の人、人が求めるべき命でありました。御子は世界の萎えた身体の内に住んでくださいました。そして、世界が再び歩き、飛び跳ね、賛美できるようにして下さいました。それは、イエス・キリストの物語であります
ところで、イエス・キリストの名によって癒された人のことでペトロたちは非難中傷されました。しかしこのような迫害も、神様はキリストの名を高めるためにお用いになってくださることが分かります。ペトロは公の場で宣言する機会を与えられたからです。4章10節。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ペトロはさらに詩編118編を根拠として、人間の罪、特に人の上に立って人々を導いている指導者の罪を告発しました。
「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」ペトロは人間の罪と神の恵みを恐ろしいまでに対比させています。「あなたがたはイエス様を殺したのだ。しかし、神さまはその方を復活させられたのだ」と。すなわち、人間が価値のないものとして軽蔑して捨てた方を、神さまが用いられるということが起こりました。隅の親石とは、建物が建てられる時の、最も端にある土台の石のことであります。隅というのは、大変不思議な二つの特徴があります。まず、建物の隅といえば、目立たない場所ですが、逆に建物の外から隅を見ると、いろいろな方向からよく目立ち、建物の根幹を支える要の石がそこに置かれているのです。
では主が隅の親石となって下さる目的は何でしょうか。それは、わたしたちがキリストを信じて、キリストの体の教会に組み込まれ、教会の生ける石となるためである。「私たちを救うことができるのは、イエス・キリストの御名によるしかない」という宣言を私たちは聞きました。代々の教会はこのお名前を信じ、告白しているのです。私たちはこのような確信をもって、信頼を以って、日々、主を見上げているでしょうか。この告白において、ペトロや使徒たちと同じ立場に立っているでしょうか。そうでないか、ここが私たちの決定的な違いとなる。この告白によってのみ、私たちはイエス・キリストの教会を建てることができる。
主なる父なる神様
皆をほめたたえます。先週はイースター聖餐礼拝を豊かに守ることができ、感謝でございます。私たちは新しい姉妹を教会に迎えることができました。どうかあなたの祝福に満ちた教会を建てるために、互いに主の御旨を行い、ご栄光を表す教会となりますように。教会総会をまじかに控え、様々な問題を解決していくことができますように。多くの兄弟姉妹が高齢のため、奉仕を続けることが困難です。若い方々も非常に忙しく困難を極めていますが、どうか助け合って礼拝を守り、奉仕を捧げ、あなたのご栄光と御心とを表す教会となりますように。総会の準備を祝し、また導いてください。長老選挙の上にあなたの恵みの導きを祈ります。長老、信徒の皆様のご健康をお支えください。教会学校はじめ、若い方々の信仰の教育が発展し、良い実を結ぶ教会となりますように。教会学校に与えられている生徒さんとご家族がイエス・キリストの福音を豊かに聞くことができますように。
東日本連合長老会に加盟して5年になります。この間のお導きを心から感謝します。長老会もますます忙しくなりますですが、どうか長老ばかりでなくすべての教会の奉仕者が恵まれ、支えられますように。御言葉によって良い学びが出来、共に教会を建てて行くことができますようにお助け下さい。
今、お病気が重く、お見舞いもできない方がおられます。どうぞ、また共に集い、主の御顔を仰ぎ賛美を捧げることができますように、ご回復を切に祈ります。また特にご高齢の方々の日を平安で満たしてください。
この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。