生命の御言葉に生かされて

説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)

聖書:テモテへの手紙二 3:14-17, 詩編119:129-136

今日は、私たちに与えられている御言葉について改めて聞いていきたいと思います。そう思った理由は、6月に目黒原町教会の親子合同礼拝で玉川聖学院の安藤理恵子学院長が説教に来られたことがきっかけです。説教の中で安藤先生は、ご自分と御言葉の出会いを語られました。中学一年生の時、初めて聖書を手にして、マタイ福音書による福音書から読んでみた。10ページくらい進んだところで、無性に腹が立って聖書を閉じた。その頭にきた理由は、とにかく人間はみんな罪人であると断言し、イエスを通してでなければ救われないと述べているところ。上から目線で語っているような気がして、それで腹が立って聖書を本棚の奥の方にしまったそうです。しかしその三年後、高校一年生の時、また聖書を読む機会が与えられた。もう一度読んでみようと思って、本棚の奥から取り出し、やはりマタイによる福音書から読み始めた。すると今度は、まったく違う印象をもった。イエスさまが徹底して自分を無にして、人を救おうとされていることに気付いた。上から目線ではなく、本当に自分を無にしたイエスさまの姿と出会い、そこから教会に通い、洗礼へと導かれたと話されました。クリスチャンホーム育ちのわたしにとっては、聖書はとても身近な存在で、安藤先生のような劇的な出会いはなかったので、印象深く聞きました。

しかし、劇的な出会いはなくても、わたし自身、聖書と共に歩んできたと思います。自分の将来について考えた時、教会のことで悩んだ時、子育てのことで迷った時など、御言葉に支えられ、道を示され、立つべきところを教えられてきたと思います。たぶんみなさんも、それぞれに聖書との出会い、御言葉との出会いがあると思います。また、御言葉と共に歩んできた歴史があると思います。今日の手紙の宛先であるテモテも、同じように御言葉によって生かされてきました。パウロは語ります。3:14「だがあなたは、自分が学んで確信してきたことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。」テモテは、祖母ロイス、母エウニケの信仰の下育てられました。しかしただ、家庭だけではなく、教会という信仰共同体の中で育ちました。聖書の時代は、家庭も教会も信仰を教育する場という側面を持っていましたので、テモテが幼い頃から御言葉に親しんできたと言うなら、家庭と信仰共同体の両方で養われてきたと考えられます。テモテは幼い頃からずっと御言葉を聞き、御言葉から学びながら、信仰生活を送っていました。私たちと同じ信仰生活をテモテも送っていました。

そしてパウロは、ここで殊更に「御言葉から離れてはならない」と述べています。それはこの手紙、テモテへの手紙一と二、またテトスへの手紙は合わせて「牧会書簡」と呼ばれますが、はっきりとした目的を持って書かれた手紙だからです。「テモテへの手紙」と個人に宛てた手紙でありながら、教会の中で読まれるように意図して書かれました。それは、この時代の教会は、直接主イエスを知らない世代ばかりの教会、パウロの弟子ともいえるテモテが中心となっている言わば第二世代の教会です。教会が組織的に確立し始め、教会の誕生の物語も知らない世代がいるような教会に向けて、教会として立ち続けるために大切なことを改めて述べているのが、この「牧会書簡」です。その大切なものとは、「自分が学んで確信してきたことから離れてはならない。」また、「御言葉から離れてはならない」ということです。「自分が学んで確信してきたこと」、それは、神の子、主イエス・キリストによる救いです。主イエスの十字架によって私たちの罪は贖われた。十字架にかかって死に、葬られた主イエスは、確かに復活された。そして復活によって、新しい永遠の命を与えられたということです。そして、そのように信じる信仰も、神から与えられた賜物であり、今与えられている純粋な信仰を守りなさいと語ります。

正しい福音を継承することが、教会が教会として立つために必要です。自分が聞き、教えられた信仰、教会で伝え聞いた信仰をそのまま継承していくことが、教会を存続させることになります。伝道不振の世の中、次を担う世代の減少、自分たちの教会を見ていると果たして10年後も存続出来ているか分からない、そのような現状があります。しかしそのような現実だからこそ、教会が立ち続けるために、自分が受け取った福音を次に手渡していくこと。代々の教会が信じ、告白してきた信仰の言葉を継承することが特に求められています。そしてそのために、土台である聖書の言葉を御言葉として聞き、その御言葉に立つ。親しんできた聖書から絶対に離れることなく、聖書と共に生き続ける。このことが、求められています。

それは、御言葉こそが救いに導く知恵を与えるからです。テモテへの手紙二3:15後半「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く書物です。これと同じことを詩編の詩人はこう語ります。詩編119:129-130「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」御言葉から光が射し、無知な者に知恵と理解を与える。御言葉は理解するのに難しい書物ではなく、御言葉の方から理解するための知恵と力を与えてくれます。私たちは、ただ待ち望むだけでいいのです。詩編119:131「わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」このように、御言葉を慕い求める。また119:135「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください」と祈ればいい。御言葉を慕い、教えてくださいと祈る時、神はそれに応え、御言葉を開き、心の中に届かせてくださいます。

御言葉は、私たちのすぐそばにあるものです。申命記30:11以下では「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」と語り、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と告げています。まさに御言葉は、私たちのごく近くにあります。今年はちょうど、宗教改革500年の記念の年ですが、宗教改革によって、ルターによって、聖書が母国語に翻訳されたことはとても大きな意味を持っていると思います。もちろん、印刷技術の発達も重要だった訳ですが、今は各家庭に一冊以上の聖書があり、気軽に母国語で読むことができる。聖書の時代は御言葉を聞いて覚えたわけですが、私たちは何度でも読み返すことができる。聖書を読もうと思えばいつでも読める恵みの中におかれています。そして聖書に親しむことによって、信仰が養われていきます。日本基督教団信仰告白では、こう唱えます。「我らは、信じかつ告白す。旧新約聖書は神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」ですから、この御言葉から離れてはなりません。教会にとっても、信仰者一人一人にとっても、御言葉から離れては立つことができません。まさに聖書は「生命の御言葉」であって、教会も信仰者も御言葉によって生かされます。神について、キリストについて、完全な知識を与える御言葉、また信仰と生活を正しく導く御言葉は、この聖書です。パウロが第二世代のテモテに御言葉から離れてならないと改めて語ったように、この生命の御言葉から絶対に離れてはいけない。その思いを強くしたいと思います。教会の拠るべき唯一の正典は御言葉。私たちの信仰を養い、導くのも御言葉。近いからこそ当たり前のように受け取っている聖書のメッセージを、今日新たに神からの賜物として、感謝して受け取りたいと思います。