教会が受け継いで来た信仰

聖書:詩編33篇4-19節, コロサイの信徒への手紙1章15-20節

 今、多くの人が、買い物はネット通販を利用しています。忙しい人々も、時間はあるけれども買い物に出ることが難しい人も、ネット通販で物を手に入れることが出来ます。しかし、それで問題になっていることがあります。一つは今までのような商店街が成り立たなくなって行くこと。もう一つは配達業者が忙しすぎて苛酷な労働を強いられることです。

これは物流の話ですが、では心の問題はどうなのでしょうか。教会まで一人一人が足を運ぶ。みんなで集まって礼拝する。自分の声を出し、皆と合わせて、祈り、讃美する。自分の耳を傾けて聖書の言葉を聞き、その説き明かしを聞く。本当にわたしたちは当たり前だと思ってこれらのことをして参りました。

歴史的に見ても、戦争や、疫病や、政治的迫害、弾圧を別にすれば、そのようにして全身全霊を上げて、具体的に動かして礼拝するために教会に集う。それが当たり前のことだったのです。そして、共に集まることは、大きな喜びでありました。しかし、今ネット通販と同じようなことが起こっているのではないかと思います。本当に働いている人々は多忙を究めています。日曜日の、決まった時間に休みを取ることが難しい時代になりました。

また休みと言っても、文字通り倒れて寝ているだけ。そうしないと疲れが回復しないということもあるのでしょう。まだまだ他にも原因があるのだと思いますが、分かりません。

それに対して、これまで喜んで共に神様の前に出ていた人々が出来なくなる、その理由は大変良く分かるものです。とにかく高齢世代になると、病気やケガ、その他の支障が起こるからです。それで、礼拝に出かけることが困難になるのです。物を手に入れるためには、ネット通販がある。注文すれば、届けてもらうことが出来る。衣食住の問題はそれで何とかなるのでしょうが、しかし、私たちの命の糧の問題はどうなるのでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とは、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。また、主イエスも、悪魔の誘惑に遭われたとき、この聖書の言葉によって戦ったのでした。

私たちが試練に遭うことについても、主はそれを通して命のパンに飢えることについて私たちに考えさせたいと思われているのでないでしょうか。すなわち、肉の糧を得る物流(それはもちろん大切なのですが)、それにもまして大切なもの、命の糧を得るためにはどうしたらよいか、考えなければならないのではないでしょうか。私がこの教会に参りました時に、最も努力したことの一つは、このことでした。すなわち、教会に来られない状況になっている方々に、どうしたら教会をお届けするか、ということでした。教会を届ける、と申しましたが、一体何をどうしたらよいのか、私には分からないまま、暗中模索の日々でした。ただ、聖霊の助けによって、一つだけが分かったことがあります。それは、教会に来られなくなった高齢の方、病気の方は、私が「教会から来ましたよ」と声を掛けると、嬉しそうに相好を崩されたことでした。

その時、私は使徒信条の告白を思いました。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず。」そうだ、私たちは教会を信じているのだと。そして私たちは、教会が受け継いで来た信仰を信じているのです。成宗教会は毎週、使徒信条を礼拝で告白しております。これは、プロテスタント教会とそれを生み出したローマカトリック教会でも告白されて来ました。このような信仰の内容は長い歴史の中で整えられてきたものです。私たちが今日取り上げましたコロサイ人への手紙の中に、使徒信条の信仰の内容の一部が語られています。

読んでみると一見、とても難しいことをバーンと言われたような印象です。しかし、神について、信仰について考えること、そして「私たちはこう信じます」と告白することは、実は大きな、そして真剣な戦いの中から生まれて来たのです。そして、私たち自身もいつ倒れるかもしれない、いつ礼拝を守れなくなるかもしれない、という危機感の中で、このことを考えることの大切さを発見するわけです。なぜなら、教会とは何か。神とはどなたか、という問いの答を見い出さないでは、私たちの救いはどこにあるのだろうか?ということになってしまうからです。

コロサイ人への手紙は使徒パウロによって書かれました。この教会があった場所はフリギアという地方で、今のトルコの内陸です。コロサイの町はラオデキア、ヒエラポリスというこの地方都市と共に、ローマ皇帝ネロの時代に襲った地震のために破壊されたということが5世紀の歴史家によって伝えられています。つまり、パウロがこの手紙を書いてから何年も経たないうちに大災害が起こったことになります。その頃、パウロが手紙を書いてコロサイ人を教えようとした背景には、災害とは別の大変大きな危機感があったのだと思われます。この地方には人々を伝えられていた福音から外れさせようとする力が働いていました。しかし、それは何も暴力的な力ではないのです。

私たちは「暴力でなければ大丈夫だ、平和だ」と思ってしまいがちですが、実は人を唆し、救いから遠ざけるものは、暴力とは限りません。それは、主イエスが福音を宣べ伝える前に荒れ野に行かれ、そこで受けたサタンの誘惑を考えても納得するでしょう。(マタイ、ルカ、共に4章)コロサイ教会の人々を逸脱させようとしたものは、哲学者たちが論じる星、運命、その他さまざまの空想でした。また、そういう興味を引く話の一方、教会にいるユダヤ人たちは儀式的なことにこだわりました。ああでなければならない、こうでなければならないという主張が、次第に律法主義的になって行ったのです。その上、この時代盛んに論じられていたのは、何と天使の階級論でありました。見たこともない天使についてあらゆる空想を加えた結果、その人々は天使をランク付けし、天使を神と人との仲介者として立てて、天使によって神の御前に近づこうと企てたのです。

それに対してパウロは真っ向から否定します。彼の主張は、あらゆるものはキリストに在り、コロサイ人にとってはキリストのみで十分であり、それどころか十分以上であるべきだということでした。まず15節。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」とパウロは述べます。これは、ヨハネによる福音書の主張でもあります。ヨハネ1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(163下)すなわち、神が我々にご自分を表されたのは、ただ、キリストによってのみなのだとパウロは言いました。

また、15節では、神の姿と言われていますが、それでは、神がキリストの人間としての姿をもっておられるということではありません。キリストのお姿は、あくまでも私たち人間、限りある人間の目に認識できるように現れてくださったお姿なのです。つまり、私たちが理解できるように、そうして下さったということなのです。そして神が私たちにご自分を表されたのは、ただキリストによってのみであったのですから、その他の姿形によって神を求めることがあってはならないのです。もし、キリストを抜きにして、神を表そうとするものがあるとしたら、それはすべて偶像に他ならないでしょう。

また、キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」と主張されています。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。万物は神の言葉によって造られたのですから。キリストはまた、死人の中から最初に生まれた者と呼ばれています。なぜなら、私たちもキリストによってのみ、復活の希望があるからです。すべての被造物はキリストによって造られたということは、キリストが万物の基礎であるということですから。

「天にあるものも地にある者も、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」天は、神の居ますところを表しますが、また天使の存在するところをも表します。人々は天使の階級という複雑な空想を造り上げ、人間と神との間の仲介者と考えようとしました。その考え方は結果的にキリストの権威を弱めることになったのです。これに対して、パウロは、天使は体を持たないが、被造物であり、天使の持つ主権も支配も権威も含めて、すべてのものが御子において造られた、と主張しました。

天使がキリストによって造られたその目的は、キリストに仕えるためであります。キリストは天使をその力によって支えておられるのだと。

次にパウロはキリストと教会との関係を教えています。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めのもの、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一のものとなられたのです。」キリストは、人間の体に対して頭に例えられています。なぜなら、人間の体において、頭は、そこから生命力が他のあらゆる部分に流れる司令塔ですから。それと同じように、教会の生命はキリストから生じるからです。しかし、ここでは、主として支配について語っています。キリストは教会を支配する権威を持った唯一の存在です。そうであるならば、信徒はキリストにのみ注意を払わなければならないのは当然ではないでしょうか。なぜなら、キリストはこの栄誉を受けておられる通りに、その職務を真実に遂行なさる方に他ならないからです。

キリストは創造の初めに神と共におられた方であり、甦ることによって神の国を始められたので、初めのものと呼ばれます。私たちは、キリストと共に十字架に死んで、キリストの死と結ばれたように、キリストの命に結ばれて再び生きるものとされる約束をいただきました。そして、新しい命の希望に生き始めているのです。キリストは「復活の初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼ばれています。その結果キリストは、御自分の体である教会にも生命を取り戻してくださったのです。19-20節。

「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「満ちあふれるもの」とは、「あらゆる完全」と訳されることが出来ます。父の御心は、あらゆる完全がキリストに宿ることであったからです。キリストの完全とは何でしょうか。宗教改革者は述べています。それは、「全き義、知恵、力、あらゆる種類の恵みである」と。では、私たちの救いのために何が必要でしょうか。私たちは真剣に考え、真剣に願わなければなりません。そして、私たちが望むすべての善きことを、キリストの完全から引き出さなければならないでしょう。

言い換えれば、「キリストは私たちにとってすべてである。キリストなしには、私たちは何も持たない」ということですこれが私たちが代々の教会から受け継いで来た信仰です。だから、反対のことを考えてみるならば、神から離れること以上に、悲惨なことは在りません。また私たちは、この称賛をキリスト以外の人間に移すことはできない。ましてや、人を神に近づける仲裁者として天使などを考えることも、救いから遠ざかる悲惨につながるのです。

キリストの血は十字架において流されました。それは、私たちと神との和解のしるしです。私たちが神に義しい者とされるために、御子は償いの生贄となり、罪の罰に耐えなければならなかったからです。私たちは平和な時代を生きている間も、教会が受け継いで来た信仰を告白し、礼拝に連なることが出来ました。パウロが大きな危機感を持って書いた手紙、その中に記されたキリストをほめたたえる信仰は、今日にまで続いているのです。この手紙を受け取ったコロサイ人の町はまもなく破壊されました。人々は悲惨な時代を生き抜いたでしょうか。生き抜いた信仰者がいたからこそ、この手紙が残され、聖書正典の中に入れられたのではないでしょうか。

私たちも困難な時代を生きなければなりません。ただいつの時代の教会にも目標があります。時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、福音を生きることです。それは、「礼拝を守れなくなる時まで」ではありません。むしろ、礼拝を守れなくなっている人々の信仰生活のために祈り合うことこそ目標です。祈りによってキリストにを通して神と交わり、祈りによってキリストに通して人々と交わり、これを地上にある限り続けることです。なぜなら、この私たちのために主は地上にいらして労苦の限りを尽くされ、私たちを教会に呼び集めてくださいました。私たちはその愛を思い起こしているからです。だからこそ、キリストの完全の中に、私たちはすべてを期待しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。使徒信条の中に表された教会の信仰を感謝します。私たちはあなたの御心を知らないままに唱えていることが多いのですが、改めてキリストによって示されたあなたの計り知れない御心を思うことが出来ました。どうか愚かなもの、貧しいものの罪を赦し、ただキリストのみを救い主と信じる信仰の計り知れない恵みを悟らせてください。教会に来られなくなった方々を訪ねて互いに喜んだ過去の交わりを今、思い起こします。今、私たちの多くが年を取りましたが、どうかこの恵みのうちに歩むために、あなたの豊かな知恵と力をお与え下さい。

また、若い人々のためにも祈ります。激しく変化する社会にあって、昔の知恵の思い及ばない世界を生きて苦闘している

人々のために、どうかあなたが必要なすべてを備えてくださいますように。一切をあなたに委ねて、教会が祈りをもって世に送り出すことが出来ますように。また高齢の世代にもなすべきことが沢山あることを教えてください。御言葉をもって、知恵をもって励ますために、聖霊の神様、弱い者にも、病気の者にも勇気と愛とを増し加えてください。私たちが御国へと続く道を指し示す者でありますように。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。