御国が来ますように

聖書:詩編675-8節, ヨハネによる福音書183637

旧約の詩編67篇の詩人は知っていました。神さまが公平な方であることを。公平を行ってくださることを。神さまこそは誠実であられ、真実であられることを。だから彼は祈るのです、神さまのご支配を諸国の人々もこぞって喜ぶようにと。

今日はヨハネの福音書18章。イエスさまは十字架に付けられようとしています。イエスさまを訴え、殺そうとする人々は、神さまの義しさを信じていたでしょうか。喜んでいたでしょうか。公平な神が、彼らにとって有利なことをしてくださるのか、彼らはそうは思わなかったでしょう。彼らは民の指導者。この世の権力者でした。民のような悩みはない。民のような苦しみはない。健康にも、経済にも地位にも恵まれ、却って神の恵みを思わなくなった。まして感謝などしない。そのような人々はイエスさまを理解しないのです。イエスさまが民のために働いている様子が疎ましい。ただの人気取り、としか見えないのです。彼は何をねらっているのか。王になろうとしているのか。人気を博し、民衆を味方につけ、権力に逆らって立とうというのか。それならば、そうならないうちに捕えよう。処罰しよう。それは彼らに好都合な筋書きであったに違いありません。

そう企てる彼らは、自分たちの考えが神さまに逆らっているとは夢にも思いません。むしろ、イエスさまの方が神を冒涜していると決めつけることができました。何の後ろめたさも無く。ついに彼らは時の権力者、彼らの国を支配しているローマ総督ピラトを動かして、イエスさまを尋問させました。「お前が王なのか?」と。イエスさまはお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そうです。イエスさまを亡き者にしようとする人々からは、イエスさまは他の人間と同じように見えるのです。他の人間と同じように、この世の力を持って人間の上に君臨する王になろうとしている、と。

しかし、イエスさまはこの世に属してはいないと仰います。確かにこの時、イエスさまは肉体を持って世に生まれ、私たちと同じように疲れもする、倒れもする、肉体の限界の中を生きておられました。しかし、イエスさまは、たとえ私たちと同じ人間であっても、この世に属していないのです。だからイエスさまはこの世と同じ土俵に上がって、同じ力と力をもって戦ったりしないのです。この世から見ればイエスさまは、何の力もなく、人々の悪意にさらされ、やりたい放題のことをされて、完全な敗北を喫したとしか見えない。それほどまでに、この世の力に対して無力に見えたのでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか。「わたしの国は、この世には属していない」と言われました。キリストの王国はこの世に属していないのだから、だからこそ、イエスさまは仰います。「あなたがたも来なさい」と。「わたしの国に来なさい」と。「信じることによって来なさい」と、イエスさまは招いておられるのです。キリストの王国はこの世の力を持っている人々の支配を妨げたりはしません。イエスさまは仰いました。「神の国は近づいた」と(マコ1:3)。イエスさまは、この世の王たちの支配を転覆させるために来られたのではないのです。だから、どこの国の国民であってもどんな民族であっても、「わたしの国に来なさい」と言われているのです。だから、力のある人もない人もキリストの王国を恐れることはない。不安になることはないのです。ただ、「イエスさまの王国は自分たちの支配を脅かすものではないか、自分たちに都合の悪いものではないか」と考える人にとっては、それは恐ろしいもの、不安にさせられるものなのではないでしょうか。

それでは、イエスさまは何のために王国を建てようとしておられるのでしょうか。イエスさまの王国は、神さまのご支配です。イエスさまは仰いました。マコ1:3「悔い改めて福音を信じなさい。」神さまのご支配こそは、人を救うからです。それは旧約の預言者たちが祈り求めていたことです。今日の詩編67篇5節です。「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように。あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを。」6節。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。」この祈りは、神さまへの讃美の歌です。神さまがどんなに感謝されるべき方であることかを、私たちに教えているのです。なぜなら、神さまの御支配こそが、人を救うからです。

わたしたちの教会のことを考えましょう。わたしたちの信仰生活のことを振り返りましょう。わたしたちの多くは、信仰は個人的なものと考えていたのではないでしょうか。確かにこの世の法律ではそれが正しいのです。わたしたちの国には信教の自由を保障する憲法があります。もしそれがなかったら、この世の王、この世の支配者によって宗教が決められたり、禁止されたりするでしょう。実際、日本の国でも徳川時代にはキリスト教は禁止されていましたし、明治時代以降も太平洋戦争が終わるまでは、政府の監視、統制を受けた時代がありました。そして、そういう国々は現代でもあることをわたしたちは知っています。

しかし、わたしたちの教会のことを考えるときに、この教会がこの社会の中で、決して社会とは切り離されたもの、関係ないものとしてあったのではないことを思い起こします。教会には多くの人々が出入りし、業者の方や近隣の方との交わりもございます。藤野先生は引き継ぎに当たって私に、「ご近所とのトラブルはありませんか」と尋ねられましたが、私はすぐに「とても良い関係ですよ」と答えることができました。このことは、大変幸いなことであり、またそれは大切なことであります。わたしたちは、自分が救われて幸いだということは、自分だけが救われれば良いということには決してならないからです。

この頃の痛ましい事件は小学生の児童が父親から虐待を受けて死んでしまったということがあり、毎日毎日、報道されるたびに、心が暗くならない人はいないと思います。まして身近に、親しい者の中にこのような不幸があるならば、「ああ、自分でなくて良かった。」「自分は関係ない」と思って平気でいられるでしょうか。昨日の藤原姉の葬儀式でわたしたちは「かみともにいまして」という讃美歌を歌いました。「神のお守り、なが身をはなれざれ」と歌う時、それは「天に召された姉妹がいつも神さまのお守りのうちにありますように」という祈りだけではないと思います。「この讃美歌を歌う私にも神さまのお守りがありますように」そして、「一緒に歌うすべての人にもありますように」という祈りでなくて何でしょうか。葬儀式で人々が集まり、久しぶりに本当に何十年ぶりに会う人もいます。一緒に歌い、一緒に祈り、祝福を分かち合って、また去って行くのです。

いつまた会えるだろうか。もう会うことはないかもしれない、というのがわたしたちの現実でありましょう。しかし、もしわたしたちが互いに祈る祝福が、神さまによって与えられるように祈るのであれば、わたしたちは同じ神さまの恵みの下にあるからこそ、祈るのではないでしょうか。神さまはどのようなお方でしょうか。旧約聖書の宣べ伝えます。詩67篇5節のように、神さまは「すべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれる」方だと。神のご支配は愛の支配だと信じていたのです。すなわち、神さまは暴力や人間の力を用いて人々を抑圧するのではない。人を慈しみ、公平に裁くことによって御支配くださる方だと信じていたのです。

そして旧約聖書の人々から見れば、わたしたちは諸国の民、異邦人なのですが、わたしたちはイエス・キリストの福音によって知らされました。神さまはどのような方であるかを。神さまはイエスさまの執り成しによってわたしたちを悔い改めさせ、天の父と呼ぶことをお許しになりました。わたしたちは悔い改め、罪の赦しをいただいて、キリストの体と呼ばれる教会の肢となりました。一部となりました。イエスさまの一部なのですから、イエスさまと同じように、わたしたちもまた「天の父よ」と呼びかけて、神さまから喜んでいただける者となっているのです。ここに一人の信者がいます。昨日葬儀が行われた藤原姉もそうです。今は一族の中でただ一人の信者でしたが、彼女に与えられた祝福は彼女だけにはとどまりません。神さまはイエス・キリストの父と呼ばれる神さまは全世界をお造りになった方。全世界の救いを望んでおられる方に他なりません。

イエスさまはわたしたちの罪のために十字架に掛かり、罪の贖いをしてくださいました。それはすべての人のための罪の贖いだったのですが、現実には自分を罪人のうちに数え、「どうぞこの罪を赦し、汚れを清めてください」とイエスさまのお名前によって祈る者だけが罪赦され、清められたのです。

イエスさまは復活され、天に昇られました。ですからその時からイエスさまをわたしたちが目で見ることができなくなりました。しかし、そのことによって、イエスさまは、挙げられた天から、わたしたちに聖霊を注ぎ、教会と世界に働きかけ、御国の到来を語り伝える務めを教会に与えておられるのです。教会とは、恵みによって救われた人々の群れです。礼拝にみんなで集まることができれば、大勢のクリスチャンがいると、目に見えて実感することができるでしょう。しかし、集まろうとして集まることができない人も、できない時も、教会の主イエス・キリストを思い、心を天に向けて祈ることができる。むしろ祈らずにはいられないならば、その人は何と幸いな人ではないでしょうか。

ここに一人のクリスチャンがいます。ここに一つの祈りがあります。「天におられるわたしたちの父よ」と祈ります。「あなたのお名前があがめられますように」と祈ります。そして「御国が来ますように」と祈ります。一人のクリスチャンが神さまのご支配を祈るとき、それは、決して自分にだけ祈っているのではないのです。一人のクリスチャンの祈る御国は来てくださり、その御支配をその人の周りにいる人々にも及ぼしてくださるでしょう。「あなたがたは地の塩である」と主は言われました。御国のご支配によってわたしたちが塩として用いられる時、わたしたちは御国の平和を持って人々に和らぎを与えないではいられないでしょう。それは私たちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

また、主は言われました。「あなたがたは世の光である」と。イエスさまの霊、父なる神さまの霊がわたしたちに来てくださって、この土の器の中で光となってくださるとき、私たちの内に住まわれた神さまの光、イエスさまの光が周囲を明るくしないでしょうか。それもわたしたちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

わたしたちの生きている限り、地上に悩みは絶えず、残酷な事件がなくなることはないでしょう。神さまの御心に逆らう力が地上を支配しようとしているからです。しかし神さまの愛は、イエスさまのみ言葉に、御業において明らかにされました。神さまの愛のご支配が完全になる世の終わりの日が来るまで、わたしたちは忍耐して祈り続けるのです。「御国が来ますように」と。イエスさまは仰いました。ルカ17章20-21節です「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」今日のカテキズムは問58「主の祈りは何を第二に求めていますか。」その答は、「御国が来ますように」です。悪の力が完全に滅ぼされ、すべてが神さまのご支配のもとに置かれることを心から願い、待ち望みます。祈りましょう。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を讃美します。本日の礼拝、わたしたちは雪になる寒さの中、困難を排して礼拝を守るために集められました。大勢の信者、この教会に連なるすべての者を代表して、あなたが招いてくださいましたので、わたしたちはみ言葉に耳を傾け、罪の赦しを改めて感謝して心に刻み、いただいた恵みを携えて世に出て行こうとしております。どうぞ、御国を求める主イエスの尊い祈りが、わたしたちの祈りとなりますように。主よ、天から聖霊をお送りくださって、今週もわたしたちを照らし、行く道を導いてください。

昨日は厳しい天候が予想される中、あなたは藤原京子姉妹の葬儀式を成宗教会で行うわたしたちを祝福してくださいました。心を込めてお母様を天に旅立たせようと願い続けて来たご子息方を祝福してください。そのご子孫の上に、あなたの愛と慈しみが明らかになりますように祈ります。

成宗教会に最期まで連なろうと努めて来た兄弟姉妹をあなたは豊かに祝し、その方々を用いてあなたの恵み深さ、ご栄光を現わしてくださいました。79年にわたる教会の歴史を振り返り、心からの感謝をささげます。どうか、これからもこの群れに、成宗教会にあなたの慈しみを注いでください。この所を、み言葉が力強く宣べ伝えられ、讃美と祈りが絶えないところとしてください。東日本連合長老会の諸教会と共に助け合い、日本キリスト教団の中で主の体の教会を建てて行くことができますように、新たに赴任される藤野雄大先生、美樹先生と共に主に仕える、長老、信徒の志を励まし、導いてください。

来週は東日本の講壇交換による礼拝が守られます。どうかご奉仕にいらっしゃる清瀬信愛教会の竹前治先生をお迎えして、喜びと感謝の礼拝を捧げることができますようにお導きください。また同じく清瀬信愛教会で奉仕する私の務めをも祝してください。病院で行われる礼拝と問安の奉仕をも御心に適って行われますように。

厳しい寒さの中、健康に不安を抱えている多くの方々を御言葉と御霊によって励ましてください。必要な助けが与えられますように。また、どうか多忙を極めている働く世代の方々をも支えてください。そして、どのような時も主に頼り従う者とならせてください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの尊きお名前によって祈ります。アーメン。