主は天に昇られた

聖書:詩編6819節, エフェソの信徒への手紙4716

 あまり実感がないのですが、世の中は好景気なのだそうです。その証拠に今は人手不足だということで、若い人々の就職活動も順調と聞いて、まずは良かったと思っています。考えてみれば、少子高齢化社会では、人手不足は慢性的なものと思われます。私のおばあさんは、私の両親が結婚することになった時、「さあ、これからはご飯炊きから洗濯から縫物まで、全部嫁にしてもらって遊んで暮らしましょう」と言ったと聞いたことがありますが、その時祖母は40代前半だったのです。今頃それを思い出して驚きます。昔は40代半ばぐらいの年から何も労働をしないで老後を暮らそうと言えるほど人手があったのだ、と。

それから祖母は40年以上生きたのですが、今の高齢者はそうはいきません。「長生きするなら、だれにもあまりお世話をかけないように、自立した心構えで生きなくては」と互いに励まし合う時代です。そして、これからはますますそうなるでしょう。高齢になっても、できることは自分で何でもするようになります。このことは、教会の歩みに一番よく表れていると思います。地上の教会はその時代、その地域に建っているのですから、その時代、その地域の社会の姿を映し出さないはずはないからです。そしてその社会の中で、その社会が抱える問題のただ中で、教会は建てられて来たからです。

今日のエフェソの信徒への手紙4章7節は、教会のわたしたち一人一人にキリストの賜物が恵みとして与えられていることを語っています。教会もまた人手不足。奉仕する人々が足りない。礼拝に出席する人々が不足している。そういう不足を嘆くわたしたちに、子の手紙は語りかけています。キリストの賜物は、恵みとして与えられているのだよ、と。わたしたちの思い煩いにもかかわらず、わたしたちの努力を超えて、恵みとして与えられるのだよ、と諭されているのです。

8節の聖句は、旧約の詩編68篇19節の引用と思われます。「そこで、「高い所に昇るとき、捕われ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」ここには主語が語られていませんが、イエス・キリストのことを証ししているのです。この方は高いところ、すなわち天に昇られた方であるというのですから、それなら、天に昇る前は地上におられたことになります。キリストは地上に来てくださり、福音を宣べ伝え、神の国、天の国にわたしたちを招いてくださった方です。そしてキリストはわたしたちが天の国に入るために、わたしたちの罪を清めてくださった。それが十字架の贖いであります。

主イエスさまはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。キリストの死は、わたしたちの罪の死であります。そして、キリストの復活はわたしたちの罪が赦されることを証しするものにほかなりません。さて、主イエスは御復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、使徒言行録1章によれば、弟子たちの見ている前で天に上げられました。それならば、キリストは御自分の御体をもって天に行かれたということではないでしょうか。「主イエスが天に昇られた」という天、新共同訳聖書では「高い所」と言われているこの言葉は、空の果て、宇宙の果てという空間を意味しているのではありません。天とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。

ところで、マグダラのマリアは、ご復活の主に出会った時、喜びのあまり主に駆け寄ってすがりつこうとしました。その時主イエスは彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」しかし弟子たちもまた、マリアと同じ思いだったかもしれません。地上で主イエスに出会った人々は、「いつまでも主と共に地上で暮らしていたい。今までのように、目で見て、耳で聞くことのできる先生と」と思うのは無理もないことではなかったでしょうか。

しかしキリストは、ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの利益について教え諭しておられます。その言葉は、ヨハネ16:7にあります。200上。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主が天に上げられる意義は、何と言っても、その事がわたしたちのためになる。利益となるからなのです。主イエスが天に昇った時、主は地上に残っている弟子たちに、弁護者を送ると約束されました。弁護者とはだれでしょうか。弁護者とは聖霊の神であります。

主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右におられることによって、父なる神と共に、全能の力をもって、わたしたちを救いに導いてくださいます。そのために主イエスは父と共に聖霊の弁護者を送ってくださり、わたしたちと共にいてくださると約束してくださったのです。思えば、キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという世界のごくごく狭いところで起こったのでした。そして時間の限られた間に起こった出来事です。歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、限られた時間と空間の中に限られた命の中に御自身を現わされたということに他なりません。しかし、御子イエス・キリストは限られた命に死んで限りなき命に復活されました。そうして主は天に昇られました。このことによって、主は全世界の信じる者すべてと共に生き、昔も今もそして今より後の時代にも、信じる者と共にいてくださるのです。聖霊が教会の人々に送られるのは、「すべてのものを満たすため」なのです。

弟子たちの上に聖霊が降った最初の出来事は、ご存知のようにペンテコステの日として聖書に書かれ、人々に語り継がれました。すなわち、聖霊は、主を信じる者が皆集まって共に祈っている所に来てくださいました。聖霊によって聖書の言葉が神の言葉として与えられました。聖霊によって、語る者も聞く者もキリストが共にいらしてくださることを知る者とされたのです。このように聖霊は教会に降ったのでした。その頃は、教会堂も礼拝堂もなかったでしょう。人々は仲間の家に集まって聖書を読み、祈り、讃美しました。今も同じです。礼拝堂があれば教会なのではありません。礼拝堂に人々が集まって礼拝するから教会なのです。イエス・キリストの恵みを分かち合うために、聖霊の賜物が与えられました。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、主は今、わたしたちの目には今は見えない離れたお方となっておられるように思われますが、しかし実際は却ってそのために、聖霊の力によってすべての者を満たしてくださっています。つまり、キリストの霊的な力は、神の右に及ぶまで、広げられました。そして、キリストは天にあっても地上でも、その無限の力によって、至る所に現存しておられるのです。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」このように、教会のいろいろな役職、役割が書かれています。これは初代教会の話でありますから、今日の諸教会の教師や長老の役職とは一致しません。しかし中でも牧者は羊飼いを表す重要な役職でありまして、その務めは羊飼いです。常に先頭に立って羊の群れを導き、牧草地に連れて行って食物を与え、流れのほとりで水を飲ませ、野獣などの外敵から身をもって羊を守ることそのものであります。もちろん、絶対的な意味では、キリストがすべての信徒の牧者であることが前提となっています。

福音がその職務に遣わされたある一定の人々によって説かれるということは、教会が完全にこの世に存続して最後に全く完成されるに至るために、主が教会に、統治と、秩序を保つことを望んでおられるからです。わたしたちは自分に能力がない、力が不足していることを、大変痛感することがあります。特に高齢化社会の教会は、若い人が溢れ、我も我もと奉仕を申し出たような時代とは全く違っています。果たして自分に出来るだろうか、という思い。自分ばかりが大きな期待をかけられたらどうしようかといった不安や消極的な思いが先立つのです。

しかし、教会での奉仕においては、聖霊の助けによって賜物が与えられていることを信じることが大切です。人が神に奉仕するよう呼ばれる時には、必ずその務めに必要な賜物が与えられるのです。教会はキリストの体と呼ばれるのですから、その体は非常に多種多様な部分をもっていることは当然のことであります。もしも皆が同じ顔、同じ賜物、同じ特徴しかないなどという教会があるなら、それこそは異常なこと、異様なことではないでしょうか。キリストの体全体は多様性によって保たれております。このことによって、主イエス・キリストは求めておられるのは、おかしな競争意識、異常な妬み、世の人々が追い求める野心が蔓延らないように、教会から取り除かれることではないでしょうか。

そしてキリストの体である教会は、その部分の一部が大切にされたり、一部がないがしろにされたりすることはあり得ない。皆がキリストに呼び集められた者として大切なのですが、教会の統治については、はっきりと理解しておかなければならないことがあります。それは、教会を総べ治めるのは、キリストであるということです。キリストはみ言葉によって、統治なさるのです。この世のように鞭と飴によって、脅しとおだてによって統治されることはあり得ません。ですから教会の統治はみ言葉を語ること、聞くことによってなされることを常に覚えなければならないのです。

すなわち、教会の統治は御言葉への奉仕によって成り立っています。それは、人の考え、人の力によって造り出されるものではありません。ただ神の子イエス・キリストによって立てられるものなのです。この務めを果たすように教会に任命された者は、その務めを果たすのに十分な責任も能力も二つ同時に授けられることを信じましょう。厳しい言い方をするならば、御言葉の説教者であろうと、または御言葉を聴く会衆であろうと、この務めを拒否する者、あるいは軽蔑する者があれば、その人は、キリストを侮辱し、それに叛く者となってしまっているのです。なぜならキリストは、その務めを立てた方なのですから。

だからこそ、わたしたちの教会が後任の教師を招聘するために、連合長老会にお願いしている最も大切な条件はここにあります。それは、日本基督教団信仰告白にも唱えられている通り、御言葉を正しく宣べ伝え、聖礼典を正しく執り行うための教師です。教師が与えられる職務はキリストに励まされなければ、この務めを全うすることはあり得ないのですから、わたしたちはひたすら祈って主に委ねて参りましょう。祈りこそ、わたしたちに求められている第一の奉仕でありますから。

13-14節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

大変厳しいことに、今、礼拝を守るだけの体力がなくなっている信仰者がたくさんおられます。そしてそうなってますます礼拝に集まることの大切さを痛感しておられるのを、わたしたちは知っています。逆に教会に来ようと思えばいつでも来られる人々の中に、「教会に集まる必要はない、家で聖書を読んでいれば良い。教会の共同の奉仕などは全く必要ではない」と思っている人がいるとしたら、それは傲慢と言わなければなりません。

主が天の昇られたのは、教会に連なる人々に賜物を与えるためでした。互いに足りないところを助け合い、礼拝を捧げて御言葉を宣べ伝え、御言葉を聴くために、讃美の声を合わせるために、すべてが整えられるのです。教会は信仰者すべてに共通の母であります。信仰者はキリストの中に生まれ、大きい者も小さい者をも教会の主が養い始められます。それがみ言葉によって、説教と聖餐に与ることによってなされるのです。同じ教えに呼ばれ、集められるということは一致を保つための訓練なのですから。

わたしたちは本日、主が天に昇られたことの意味を学びました。「頭であるキリストに向かって成長していく」希望を与えられているのは天の昇られた主から教会に注がれている聖霊の賜物であります。主はこうしていつまでも教会と共にいてくださいます。祈ります。

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。今日の礼拝にもわたしたちに天から聖霊を注いで下さり、御言葉で養ってくださいました。小さな群れですが、あなたのお支えは決して小さくはなく、目に見える恵みと共に目に見えない恵みを豊かにいただいておりますことを感謝します。ここに集まる兄弟姉妹ばかりでなく、集まることのできない方々が、この礼拝を覚えて祈り、あなたの御前に静まっていることを私たちは思います。御言葉の恵み、主の愛を形に表すべく、わたしたちは今週も教会から出かけて行って働きたいと思います。

非常に苦しんでいる人々の苦しみがそれだけではないことを、どうかわたしたちに知らせてください。イエス・キリストが地上で非常に苦しまれましたが、その御苦しみがわたしたちの救いのためであったように、わたしたちは困難と向き合っている人々によってあなたを思い起こし、人々のために祈り、わたしたちも勇気と愛を主からいただけるように、祈ります。そしてどうぞ、教会に連なっている方々とあなたの恵みの下に再会することが出来ますように。

わたしたちの弱さ、思い煩いをご存じの主が、どうか絶えずわたしたちを励ますために聖霊を送ってくださいますよう。そして父、御子、御霊の豊かさに与り、喜びと感謝を以て従って、教会を建てて行くことが出来ますようにお助け下さい。本日も、遠くから困難を乗り越え、あなたに勇気を与えられて礼拝に集められ、奉仕された方々のゆえに感謝します。どうぞ帰りの道をも祝福の中にお守りお導きください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。