教会に集められた人々

聖書:ヨエル3章1-5節, 使徒言行録2章37-42節

 私たちの教会は只今、カテキズムによって教会が受け継いで来た信仰について学んでいます。カテキズムとは信仰問答とも訳されて来ましたが、必ずしも問と答えという形式をとるものではなかったようです。カテキズムという言葉の語源はカテケーシスという「響き合う」、「再び響かせる」という意味です。古代教会の時代から、洗礼志願者が洗礼を受け、聖餐に与るために、教会が伝えて来た信仰の言葉をくり返し学ぶことが熱心に行われて来ました。私たちはキリストの福音を宣べ伝えるために、共にキリストの救いの秘儀と信仰を伝え、共に救いに招かれていることを、繰り返し心に響き合いたいと思います。

さて、先週の新年礼拝では、「幸いな人」と題して、イエス・キリストの教えの一つ、山上の説教について学びました。主イエスは私たちに何を教えてくださったのでしょうか。それはこの世のことに忙殺され、目をくらまされ、この世の幸福と不幸を押しつけられて生きている人々には、――そして私たちもその中で苦しむことがしばしば、なのですが――驚くばかりの、そして信じがたい教えでありました。なぜなら、私たちを圧倒している価値観は、「豊かな人は幸いであり、喜んでいる人は幸いであり、あらゆる能力を発揮して人々を支配する人は幸いである」というものだからです。そしてそのような幸いを追い求める結果、身近なところから、全世界の隅々まで、不幸の種は尽きず、戦争の火種はつきません。

だから、それを見れば分かるのではないでしょうか。私たちの世界で通用している価値観がどれだけ間違っているかが。そして主イエスが教えられたことが、どんなに私たちにはそうは思えなくても、真に正しいのだと。キリストは神の御心を私たちに教えておられるのだと。神の御心は、私たちを御自身の国に招くことであると。神から遠く離れていた私たちを御自身の救いに招くことであると。神に造られた私たちであるのに、造り主を知らない私たち。人間は神に似る者として造られました。神の似姿に造られたのです。それなのに、神から離れ、神に背を向けて生きている人間は皆、罪人であります。

その人間を罪から解放するために、救い主は世に遣わされました。この方の贖いによって私たちの罪が赦されるためです。このようにまでして、罪人を愛しておられる神がおられる。キリストはこのことを知らせてくださいました。この愛の神を信じることが、どんなに幸いなことであるか。この神を、この愛を信じきって、神にすべてを委ね切って、神に従う人だけが、本当に幸いな人なのです。その人はだれでしょうか。それは主イエス御自身ではないでしょうか。主は本当に神の御心をご存じでした。主こそは本当に神を愛し、人を愛して愛し抜かれた方でした。

さて、今日の聖書は主イエスの弟子、ペトロが語った説教です。これはペンテコステの日、すなわち聖霊が弟子たちの上に降った日の説教です。主イエスは山上の説教をはじめ、たくさんの教えを下さり、その教えが真実であることを奇跡の御業で示してくださいました。しかし、弟子のうち、だれ一人として最後まで主イエスに従い切った人はいなかったのでした。皆、十字架に付けられた主から逃げ去ってしまいました。このことは、人間の力では、だれも主に従うことが出来なかったことを表しています。

しかし、十字架に死に三日目に甦った主イエスは、弟子たちを愛して、彼らに御自身を現してくださったのでした。では、弟子たちが本当に主イエスを神の子と、救い主と信じる者、本当に従う者となったのは、いつでしょうか。それは、ペンテコステの日、すなわち、聖霊が弟子たちの上に降った時だったのです。

人々はその時、弟子たちが言葉の壁を超えて神の偉大な業をほめたたえるのを聞きました。その時ペトロは立ち上がって旧約の預言書ヨエルの言葉を語り始めます。預言の言葉が実現したのだと。今日読んでいただいたヨエル3章1-5節です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」1425頁。

聖霊の奇跡の御業は、言語の壁を乗り越えることばかりではありませんでした。聖霊は頑なな人々の心を打ち砕いて、ペトロの教えに耳を傾けさせたのです。だからこそ「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言ったのです。これこそ、悔い改めの始まりでした。なぜなら、ペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言し、「あなたがたは、この方を十字架に付けて殺してしまった」と追及したからです。しかし最後に、「神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と証ししました。聞いていた人々は、自らの間違い、不幸に胸を突き刺されました。そして彼らは神への恐れに満たされたのです。それは、悔い改めの始まりであり、聞いていた人々に福音が訪れた瞬間でした。

ペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。悔い改めとは、何よりも人が心において新たにされることです。ローマ12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」291下。主に教えられ、主に従って、今までとは全く別人のように心新たにされたい人を、神は決して拒まれません。主イエスはまた、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」(ルカ11章9節)と約束しておられます。

人々の言葉「わたしたちはどうしたらよいのですか」は、直ちに神に服従する彼らの志を意味します。一方では、聖霊が教えるものに神のご意志を与え、他方では聞く者に悔い改めを起こしてくださる。どちらにも聖霊の御業が働いているのです。福音の訪れの第一歩は、ペトロが人々に自らの罪に思い至らせ悔い改めを促したことです。しかし、それと同時にペトロは人々に罪の赦しの確信を与えました。罪を知らされただけでは救われる希望はありません。ですから罪の赦しがキリストによって備えられていると、ペトロは語りました。それによって伝道者は罪人を正しい道に立ち帰らせることが出来たのです。

ですから、悔い改めと赦しは、主イエス・キリストの名によって宣べ伝えられなければなりません。私たちのために死んでくださったキリストの死に、私たちも結ばれなければ、私たちは神と和解することが出来ない。すなわち、キリストの復活の命に結ばれることはできません。このことが教えられ、受け入れられる時、信じる者には、バプテスマを受けることが勧められます。バプテスマは救いの恵みを約束する保証であります。

そうすれば、賜物として聖霊を受けると、人々は教えられました。聖霊の恵みはイエス・キリストが天に在って父と共に私たちに与えられる賜物です。聖霊によって、私たちは心に信じていることを真心から告白することが出来るのです。聖霊によって私たちに賜物が与えられます。また聖霊によって私たちはサタンとこの世の誘惑や脅しに対して立ち向かうことが出来、勝利することが出来るのです。

このようにわたしたちは溢れるばかりの救いの恵みを受けるのですから、家族、友人、社会のあらゆる人々が、主イエスの福音を聞くことが出来るように、悔い改めに至り、罪の赦しの確信を得て、キリストを救い主と信じて、神に従う者としてバプテスマを受けることが出来るように、日々祈りを篤くしようではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と宣言されているからです。

ペトロは、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。この勧めも、私たちはしっかりと心に留めなければなりません。神の愛を信じる者の一番の困難は、キリストに敵対する人々、また神に背いている者が絶えず仕掛けて来る有形無形の攻撃なのです。ペトロはこういう危険から離れることを命じました。私たちにも警戒が必要です。私たちが世に在って生きることは、邪悪な人々に従うか、それとも、善良な人々と共に神に従うか、という選択をしながら生きることなのですから。

ペンテコステの日、ペトロの初めての教えを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったということです。ここに聖霊の御支配により教会が始まりました。福音はイエス・キリストによる恵みの救いです。この主の死につながれ、主の命に結ばれ、主イエスが例えられたように、真のぶどうの木に接ぎ木された人々が教会であります。教会と訳されたギリシャ語エクレシアとは、元々は呼び集められた人々、のことでありました。招集された議会のことです。

それでは最初の教会、キリストに呼び集められた人々は何をしたでしょうか。そのことが、2章42節に書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」最初の教会は、自分たちの信仰を確かなものにするために役立つことを絶えず熱心に努力することでありました。説教者の教えを聞きました。なぜなら、教会の魂がここにあるからです。神の御子が使徒たちを通して与えてくださった教えがあるからです。人々は教えを聞いて自分たちの生活に役立たせることに努めました。

次に信徒同士熱心に交わりをし、共にパンを裂いたとあります。パンを裂いたのは、一緒に食事をしたということよりもむしろ、聖餐式を執り行って主の体の教会を建てていることを意味します。信徒同士の交わりは、教えを聞いている結果、起こっていることです。共に集まっているところに、キリストを通して祈りの扉が開かれるのです。ここでは当然のことながら、共通の信仰の告白も整えられて行ったことでしょう。最初の告白は、「イエスは主である」という短いものであったそうです。それを皆で唱える。そして皆で祈るのです。もし皆が共に祈るために集まらないとしたら、一人一人が特に自分の家の中で祈りを捧げても、それは十分であるとは言えないのです。

今日の聖書から、私たちは教会にはどのような人々が集まって、何をしていたかを学びました。それは二千年経った今日の教会と変りありません。建物とか、規模とか、言葉とか、讃美歌とか、そういうことを別にすれば、変わりないのです。なぜなら私たちもまた真の教会を建てることを目指しているからです。真の教会のしるしとは何でしょうか。少なくとも、そこには、教え、聖餐、交わり、祈りがなければなりません。それは、共に集まり、教えを受け、聖餐に与り、主に在る交わりの中で祈る教会です。

わたしたちは今、厳しい時代にいると言わなければなりません。教会に集まることが難しくなかった時代と比べているからですが、子どもたちや若い世代が大勢いた平和な時代がありました。家が狭いので、日曜日は親が子供たちを教会に追い出してくれ、教会は溢れるばかりでした。また、大人も日曜日は休みという職業も多かったのではないでしょうか。今は介護、養護、病院、など24時間、365日の交代勤務。休日があってないような仕事も増えました。高齢者が出来なくなった仕事を下の世代が担って行く。本当にゆとりのない時代。しかしそういう時代でも教会は続いて行きます。それは、「続いて行かなければならない」という義務ではなく、たとえ私たちには非常に困難でも、主が続けてくださるからです。集まることが困難な人々が増える度に、私たちは改めて思います。主に在る交わりの尊さを。互いに祈り合うのは、主が私たちを恵みによって集めてくださったからです。主が大切に思ってくださる兄弟姉妹だから私たちもそう思うのは当然です。私たちは弱い。しかし、主は私たちを励まして聖霊の助けによって支えておられます。私たちは困難の中にこそ、主が幸いだと言ってくださる教会の交わりの喜びが生れているのを感じるのではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き主イエス・キリストの父なる神様

本日の礼拝を感謝し、あなたの尊き御名をほめたたえます。今日も私たちを呼び集めて下さり、恵みの礼拝に与りましたことを感謝いたします。真の教会の姿を、私たちは追い求めながら、日々困難と向き合っています。しかし、あなたが私たちに御言葉を聴き、交わりを持ち、祈りをささげる教会としてくださいました。どうか、今、力弱くなっている方々をお支えください。共に御前に出ることが出来ますように。また、どうか、私たちに与えられた福音を後の時代にも伝えるために、この教会を用いてくださいますように祈ります。成宗教会が東日本連合長老会に加盟して以来、共に学び合い、助け合って歩んでいる諸教会を覚え感謝いたします。小金井西ノ台教会の引退教師の青戸歌子先生が召されました。残された青戸宏史先生の上に慰めが豊かにございますように。

本日は今年最初の長老会を開きます。この教会、また東日本の教会の諸行事を通して、また長老、信徒の方々を通して、主の恵みの御業が現れますように、生かし用いてください。特に少子化の時代に教会を建てようと、連合長老会のみならず、教区、教団、更には他の教派との間にも協力が生れていると聞きます。主よ、どうか心を低くして共に祈るこれらの働きを祝福して下さい。

今、病気やお怪我のため、療養しておられる兄弟姉妹を特に顧み、またご家族を祝して下さい。癒しの御手を祈り求めます。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。