独り子によって

聖書:イザヤ50章4-11節, ヨハネの手紙一、4章7-16節

新年度がスタートしています。幼い子は幼稚園、保育園に入り、小学生にも中学生にも入学と進級の季節であります。それぞれが親子で新しい目標をもってスタートしていることでしょう。社会人となる若い人々にとってはどのような春が巡っているのでしょうか。厳しい競争を勝ち抜いて希望する仕事や地位を得るという目標がスタートしている人々もいるでしょう。しかし、一方、わたしたちは社会の今を支える役割を果たしている人々を見る時、非常に苦労しても報われない姿を見ることがあります。またその反対に、高い目標を掲げて刻苦勉励した結果、高い地位を得、名を揚げた結果は、目標を失い、転落の道をたどる人々もいて、そのあまりに情けない姿を見て驚くことも多いのです。

しかし、本当はわたしたちには、年齢に関わりなく、幼子から老人に至るまで目標があるのです。それは幼稚園から小学校へという目標がある子供にも、学業を終えて仕事を選ぶという目標がある青年にも、結婚や子育てという目標がある壮年にも、そして、仕事をリタイアして年金生活者となる高齢の世代にも、共通の同じ目標です。それは神を知ることであります。カテキズム、信仰問答の最初の問でありました。つまり、教会が代々にわたって信じ告白して来た神とは、どのようなお方であるかを知ることこそ、わたしたちすべての人間に共通の目的であります。目的(ギリシャ語ではテロス、英語ではエンド)という言葉そのものが、ゴール、最後を表しているのであって、わたしたちは、このゴール、すなわち最後を目指して走るのですから、今歩き始めた幼子でも、いよいよゴールが近づいている高齢者でも、わたしたちは皆、共通の終わりを目指していることには、全く変わりがないのです。

わたしたちの教会は小さな群れですが、うれしいことに、教会学校には毎週、にぎやかな生徒さんたちの声が聞こえます。そして近年は、生徒さんと一緒に親御さんも礼拝を守って、活動時間も親子一緒に参加する方々がいるようになりました。たくさんの子供がひしめいていた時代とは違って、若い世代は少数者になって来ました。このような時代に生きる若い人々に、教会は伝えたいと思います。神様はどのようなお方であるかを、しっかりと正しく伝える教会になりたいと思います。

さて、今日の聖書、ヨハネの手紙一において、神様について、次のように紹介されています。4章7節、8節。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」神とはどのようなお方でしょうか。それに対する答は、「神は愛である」というのです。だから、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と勧めています。

つまり、神のご性質は人間を愛することだというのです。そうであるならば、神を知れば知るほど、神の愛がわたしたちの内に神を愛する愛を生み出すことになるでしょう。反対に言えば、わたしたちの内にもし愛が見い出されないとすれば、わたしたちはまだまだ神とはどういうお方かを知らないということになります。「愛することのない者は神を知りません」と聖書ははっきりと述べているからです。すなわち、神様がわたしたちを愛してくださることは分かったけれども、わたしには神様を愛する気持ちが湧きませんということにはならない。そして、神様がわたしを愛してくださることは分かったけれども、わたしには隣人を愛する気持ちが湧きません、ということにもならないのです。

神を知る知識が増し加われば加わるほど、神を愛さずにはいられない。神を知る知識が増し加われば加わるほど、隣人を愛さずにはいられなくなるというのです。こう言われると、本当に自分を振り返って、わたしたちは本当に神が愛であることを知っているとは言えないと思わずにはいられません。少なくともわたしたちは隣人を愛することにおいて、いつも足りなかった。また、今も足りない者であることを思わずにはいられません。それどころか、わたしたちは自分自身でさえ、本当の意味で愛することができていないのではないでしょうか。隣人どころか、自分に対してさえ、最善のことをしているだろうか。自分を酷使したり、自分をいい加減に扱ったりしてはいないだろうか。自分を見捨ててしまうようなことがなかったか、と反省させられることも少なくないのではないでしょうか。

そのように、隣人を愛するどころか、自分さえも粗末に扱い、真心を尽くすことができないのは、最も深刻な問題を抱えているからではないでしょうか。それは、わたしたちは、神様が自分を愛してくださることを信じることが本当に出来ていないからです。また、ある時は信じられても、何か状況が変わって、思いがけない困難、苦難が起こるとすぐに不安になってしまう。神様はわたしをお忘れなのではないだろうか、とか、神様は本当に最良のことをしてくださるのだろうか、と疑ってしまうのではないでしょうか。

このようなグラグラした信仰者であるわたしたちに御言葉は語ります。神の愛の証しはこれである、と。9節。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」わたしたちは洗礼を受け、教会に入れられ、神の子と呼ばれます。しかし、わたしたちは生まれながらの神の子ではありません。本当に初めから神の子であられたのは、イエス・キリスト。この方お一人です。神様はわたしたちを愛しておられたので、わたしたちが生きる者となるために、御自分の独り子を世にお遣わしくださいました。愛する独り子であるイエス様を、わたしたちの救いのためにくださったのです。

それは、わたしたちが神さまを愛して従順な者だったので、「よし、それなら救ってあげよう」ということだったのではありません。ヨハネの手紙ははっきりと申します。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」つまり、わたしたちは神を愛していなかった。それなのに、神はわたしたちを愛してくださったということです。愛していなかったということは、わたしたちは神に敵対する者であったということです。「神様なんか・・・と思っていた」か、あるいは神様を無視していた、ということです。そうであるのに、神はわたしたちに御子を賜ったのであります。

自然神学というものがあります。自然界を見る。するとその美しさ、その秩序によって、被造物、中でも人間がどれだけ神に愛されているかということを推察することができるというものです。しかし、神の驚くべき愛は御子において現わされました。ローマの信徒への手紙でも、次のように言われています。5章6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」279下。

わたしたちの目から見れば、より良い人、より正しい人がいます。また上に立つ人々に良く思われようと、お追従を言い、自分をよく見せようと鋭意奮闘する人もいます。しかし、神様はそういう人にも気を許すことも騙されることもありません。神様は人間のこうした愛情にも、あるいは偽善にも心惹かれることも動かされることもありません。ただ、御自分のご好意からその人を愛しておられるのです。それに対してわたしたちの心はしばしば神様から離れ、自分の力によっては、決してわき目も振らずに神様を愛し続けることはできないのです。

このことから教えられる重要なことは、神の愛は無償で、恵みによって注がれるということです。わたしたちは何か資格がある、値打ちがあるから、救われるのではありません。わたしたちは弱い者、神に背く罪人であって、神様に罪を赦していただかなければ、救いに入れられることはできません。本当にこのことを疎かにしては、あるいは無視したり、棚上げして考えないでままでは、わたしたちは目標、目的である終わりを迎えることはできないのではないでしょうか。子供たちが、受験の目標を達成することはできるかもしれません。あるいは若い人々が人生途上の具体的な目標を達成することはできるかもしれません。しかし、最後の目標、目的地を目指して行くことこそ、わたしたちに大切なことです。

教会は救いの目標を高く掲げて、福音を宣べ伝えます。わたしたちの生きる目的は神を知ることであると。そして神は愛であると告げ知らせます。この知識を本当に知るならば、わたしたちは、新たに造り変えられるのです。これは洗礼を受けたから一度に変えられるというのではありません。神は愛であるという知識を福音の言葉によって日々聞くことによって変えられて行くのです。どのように変えられるのかを申しましょう。それはもちろん、神に倣う者と変えられる。すなわち、神がわたしたちを愛されたのだから、わたしたちも互いに愛し合うように変えられることです。

ヨハネの手紙は更に勧めます。12節。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」わたしたちは日々の生活に大変な目標を与えられていることが分かります。これは受験勉強のような目標ではありません。世は超高齢化社会です。年を取り、今まで出来ていたことができなくなって行く。若い時なら、互いに愛し合うということは、何か奉仕活動に加わることだ、と解釈して頑張った人々もいたことでしょう。それはそれで大変幸いなことだったと思います。しかし、何もできないと感じても、まだまだ生きなければならない年月があります。否、むしろ、生きなさい、と命じられているのです。わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。

しかし、ここにこそ、神がご自身を証しされる命があるのです。13節。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」わたしたちは神の愛をどこに見るでしょうか。教会は神の愛を、独り子であるキリストを世にお遣わしになったことに見るのです。この方によってわたしたちの罪が贖われ、清められ、罪赦された者として神の御前に出ることができるようにしてくださった。ここにこそ、神の愛が現れたのです。自分の罪を悔い改め、救いを求める者は、イエス・キリストによって知られるようになった神を愛し、慕い求めるでしょう。そしてその人には聖霊が来てくださり、とどまってくださるのです。

隣人を愛することが十分でないと、わたしたちはまだまだ嘆いているかもしれません。しかし神様は聖霊によって、わたしたちを造り変えて、隣人を愛するようにしてくださいます。愛こそが、聖霊の結ぶ実であります。聖霊によらなければ、わたしたちは隣人を真の純粋な愛で愛することはできません。神は聖霊によってわたしたちの内にいまし給うのですから、わたしたちは若い者も、老いた者もこの希望、互いに愛し合う者となる、という希望の道の途上に生かされているのです。

この希望は大きな、ほとんど限りない希望です。「神がわたしたちを愛されたように、わたしたちも互いに愛し合う」という目標よりも大きな目標が一体あるのでしょうか。神の偉大さ、神の輝かしさ、神の美しさは何によって明らかにされたでしょうか。空に輝く星でしょうか、オーロラでしょうか。この頃の最先端の映像。目を奪い、息をのむような美しい壮大な自然の映像でしょうか。神の偉大さは、その輝き、その美しさは、貧しく弱い罪人のために命を捨てて、罪の縄目を断ち切ってくださった神の独り子、イエス・キリストに明らかにされた。これが教会の信仰です。15節。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。春の嵐が吹き荒れる日も、わたしたちに主の日を覚えさせ、御許に

を守るために集めてくださいましたことを感謝します。

本日は独り子を世に遣わしてくださったあなたの愛について学びました。わたしたちは御子によってわたしたちの罪が皆赦され、地上の生活を恐れなく歩むことができます。あなたが必ず助けてくださると信じ、ひたすらより頼みます。また地上を去る時もあなたの恵みによって安らかに感謝して守られますように祈ります。地上にある間、地上の教会の一員として、あなたを信頼し、あなたに従って参ります。どうか、わたしたちの拙い生活の中で、目だって良い業をすることもままならない生活の中で、しかし聖霊の神様の愛に溢れるお働きによって、わたしたちを満たしてください。

わたしたち自身の健康が守られ、今日、このように礼拝を守ることができました。しかし、わたしたちの群れの中に、また東日本の諸教会の中に、ご高齢のため、ご病気のため、礼拝に来られない困難な日々を送っている多くの方々を思います。どうぞ、あなたがみ言葉に与るために道を開いてください。また、わたしたちの家族に多くの困難があります。主よ、聖霊のお働きによってわたしたちが乏しい時にも助け合って主のご栄光を表す者とならせてください。主は罪の赦しのために苦しんでくださいました。わたしたちも何より、主に倣って互いにその罪を赦し合う者となりますように。聖霊の助けを常に祈り求めます。

来週は2018年度の教会総会が行われます。主よ、どうかこの総会に多くの教会員が覚えて出席できますように。そして、御心に従ってすべてのことが行われますように。上程されている議案を顧みてください。そして長老選挙が正しく行われ、この教会の長老会が真に主の御支配の下に整えられますように。

この感謝と願いとを我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。