成宗教会・聖霊降臨日聖餐礼拝
聖書:ヨエル2章23-3章2節, 使徒言行録2章1-11節
今年も聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができますことを、真に感謝します。成宗教会がこの地に礼拝を始めて、今年で78年。日本の地にプロテスタント教会が建てられて150年になります。(現在も残る横浜海岸教会です。) 今では全世界の津々浦々に教会があり、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていることを私たちは知っております。しかし、多くの人々は不思議に思うことでしょう。一体どのようにして教会が存在するようになったのか。かつては臆病だった弟子たちが、自分たちの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったのか、と。
毎年、教会が復活祭イースターを祝う時には、その前にわたしたちは、主が十字架にお掛かりになったご受難の道を振り返ります。そして、その中で、主の弟子たちがどんなに臆病であったかを思い出すのです。主は弟子たちを深く愛しておられ、弟子たちもまた主の愛を知っていました。それでも、主の十字架に従うことはできませんでした。ペトロをはじめ皆それぞれが逃げ出してしまったのです。
ところが、このような弟子たちが福音を宣べ伝えたのです。全世界に神の良い知らせを告げ知らせたのです。この世に奇跡が起こるとしたら、この不思議な出来事こそ、奇跡です。奇跡は人によって起こされるのではなく、神の力によって起こされるからです。これは宣教の奇跡です。それまでは、弟子たちは「神の偉大な業」を語るための「舌」(言葉)をもっていませんでした。しかし、その人々が、今や説教を語る者となりました。
創世記2章7節で語られている人間の創造の話を思い出しましょう。神は御自分の霊を、塵を吹き入れて、人間を創造しました。神の霊とは命の息であります。そして、使徒言行録2章4節では、神の霊はかつて臆病であった弟子に命を吹き入れられました。その結果、主は今や新しい人間を創造されました。新しい人間。それは伝道する弟子たちです。彼らは、大胆に語ることのできる賜物をもった新しい人間として造られたのでした。
最初に、主なる神は弟子たちに聖霊を、一度、耳に聞こえ、目に見える形でお示しになりました。2節。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」わたしたちは神の賜物について考えるには、あまり熱心ではなく、面倒くさがる傾向があります。だから、神の力がはっきりと分かるために、神が前もってわたしたちの感覚を目覚めさせてくださらなければならなかったのです。さもないと、神の力はわたしたちに見落とされてしまうことになるでしょう。
また。突然状況が変えられることについても、大きな意味があります。それは弟子たちが勇気を出して伝道する者になった理由を考えて、「偶然こうなった、」とか、「自分の努力のせいだ」と思わないために、必要だったのです。また、風の激しさも重要です。それは人々に恐れを与えるためなのです。人は自分の知恵や力、常識など自分の判断に頼っている間は、決して神の恵みを恵みとして受け入れるようにはならないのです。神の恵みによって立つのでなければ、決して福音を宣べ伝える教会は建てられないでしょう。ただ個々人の常識を信じ、力を信じるだけの教会は、決して主イエスの教会ではありません。わたしたちは自分の限界を知り、打ち砕かれる体験をして初めて直に神の恵みのすばらしさを受け入れるようになるのです。
神の霊は、聖霊、御霊とも言いますが、それは風を意味する言葉です。それは神の本質を表します。しかし、神の本質は私たち人間には測り知られないものです。聖霊降臨日とはペンテコステと呼ばれます。それは過越しの祭から50日目を表すギリシャ語です。主イエスが十字架にお掛かりになったその時も過越しの祭でありました。そして、もう一つのユダヤ教の祭が五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。それは春の収穫の恵みを感謝する祭でありました。
主イエスに従う者たちは集まって祈り、待っていました。上からの力が与えられるのを待っていたのです。その時、新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まりました。最初は音だけを聞いたのでしたが、次に目に見えるものが現れました。それは、炎のような舌であります。舌とは何でしょう。英語でもそうですが、ギリシャ語でも、舌は同時に言語、言葉を表します。「炎のような舌」とは、5節以下に表現されているように、天下のあらゆる国の人々が使っているさまざまな言語を表しているのでしょう。一か国語ではなく、万国に神の恵み伝えるための万国の言語であります。
創世記8章には有名なバベルの塔の物語があります。かつて人間同士の言葉が通じなくなったのは、人間の傲慢に対する神の懲罰であったと言われています。しかし、この時、神はその懲罰を祝福に変えられました。人は互いに言葉が通じない、心が通じないために、ちりぢりバラバラにされてしまったのでありました。しかし、この人々を一つの祝福に入らせるために、神は主の福音を宣べ伝える使徒たちに各種の国語を語らせました。ここに集まっているのは、天下のあらゆる国々に散らされていたユダヤ人たち。彼らは他国で生まれ育った人々でした。
実にユダヤ人の国は何百年にもわたって、戦争に次ぐ戦争によって荒れ果て、その度に人々は他国に寄留する者とされたのでした。その苦難の歴史の中で彼らがどうして生きて行ったのか、それは奇跡としか言いようがないことです。中には、弱小国の民であることを捨てて、エジプトや、ペルシャや、マケドニア、ギリシャ、ローマに住み着き、地元の神々を拝み、自分たちのルーツを失ってしまった人々もいたかもしれません。しかし、しかし、他方では自分たちがアブラハムによって神の民とされた子孫であることを忘れない人々も全世界に散らばって存在していました。そして一方では、異なる国の言語を話し、異なる国の住民、市民でありながら、他方では、イスラエルの神を真の唯一の神として礼拝するために、ユダヤ教の祭にはエルサレムに集まって来るのを常としていたのです。そして、出エジプトの時も、それ以前も、このイスラエル人が神の許に帰って来る時には、その群れの中に異邦人たちもいたのでした。
今、大勢のユダヤ人と異教徒も含む全世界の人々がエルサレムに集まるこの祭りの時に、主はその霊を弟子たちに注いでくださいました。聖霊は、教会が福音を持って「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆をひきつける力であります。聖霊は教会に聞く価値のあることを語らしめる力を与えているのです。この霊の力こそが福音を宣べ伝えることを可能にします。その一方では、福音を宣べ伝えることは、人々に疑問を抱かせたり、戸惑いや嘲りとを呼び起こします。聖霊の力を受けて人々が力強く福音を宣べ伝え始めました。すると、そこには信じる者が起こされます。と同時に、意地悪くあざけっている人々が現れます。また真剣に尋ねている人々も現れます。このことの繰り返しが、最初の教会から始まっているのが分かります。決して一喜一憂すべきではありません。教会の働きは、すべて聖霊の力にかかっているのですから。
五旬祭、収穫の恵みの初穂をささげるこの日に、聖霊の恵みが人々にもたらされたことは大変大きな意味を表しています。旧約聖書では、聖霊が降ってくださるということは、神の預言が成就することを意味していました。それに対して新約聖書では、聖霊が来てくださるということは、復活の主・イエス・キリストの約束なさった救いの御業が、ここに完成したことを意味するのです。
神の驚くべき慈愛はここに輝き渡りました。では、この奇跡は何のために、だれのためになされたのでしょうか。これは皆、神の、わたしたちへの愛のためになされたことなのです。ところで、燃える炎のような舌、という表現の炎とは何を指し示すのでしょうか。使徒たちは元々、ただの人間、弱さと欠点を持った人間に過ぎません。しかし、彼らの上に聖霊の助けが降ったのは、彼らが全く新しい者として用いられるためです。ですから、彼ら、使徒、宣教者たちの声の中に、神の尊い力が示されることを、決して疑ってはならないのです。彼らの声、彼らが語った福音は、聖霊の臨在を証明するしるしでありました。このしるしは、わたしたちを真理に与らせるために、真理を示すのです。わたしたちの感覚によって理解できるように示しているのです。
主は彼らの語る神の偉大な業をほめたたえる言葉を、その声によって、人々の心を燃え立たせようとしておられます。ですから、彼らの言葉は、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するために燃える火に他なりません。使徒たちの教えは空気中で雷鳴のように鳴り響いたのではありません。そうではなくて、それらは人々の心に奥にまで入り込みました。心を天の熱い思いによって満たしたのです。そして、この力は、2000年前の使徒たちだけに与えられたのではありません。そうではなくて、今も日ごとに全世界の教会で証明されているのであります。
後に活躍することになる使徒パウロも5つの言葉で話すことができたと言われていますが、これを彼は勉学によって行ったのではなく、聖霊によって与えられたと言われています。これらの異なる言葉が用いられる目的は、もちろん、多くの異邦人に理解できるようにという配慮です。パウロは、ギリシャ人にはギリシャ語を、イタリア人にはラテン語を話したほど、言葉の多様さと理解力とを授かっていたからこそ、聴衆との真のふれあいが出来ていたのだと分かるのです。
ここに、離散していたユダヤ人たちの出身となる国々、地方の名前が並べられています。東はペルシャからカスピ海、南はアラビア、エジプトといった当時のほとんど全世界とも言える地方が書かれています。ユダヤ人は離散し、ほとんど全く滅ぼされたかのように見えるが、異国に在っても彼らの間に信仰の一致を保持したのは、神の奇跡であります。「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここには二つの驚きが語られています。その一つは、最初の教会を形成した使徒たちが、実はガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったことでした。そしてもう一つは、それなのに彼らは、大勢の人々の前で一斉に異なった言葉の人々に理解できるように神の偉大な御業を語り出したことでした。ある者はラテン語を、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したと思われます。これこそ神の素晴らしい奇跡の御業ではなかったでしょうか。
わたしたちは、昨年、カンボジア伝道に召命を受けておられる今村宣教師ご夫妻をお招きして礼拝を守り、宣教活動を伺いましたが、やはり伝道をするために第一に取り組むことはその地方の人々の言語を学ぶことなのだと教えられ、感銘を新たにしました。明治の初めに日本に宣教した人々の傾けた努力もどんなであったことかと思います。しかし、改めて思いますことは、それは人々の努力によらず、聖霊の力強い助けによって遂げられたことです。聖霊は、主イエスの上には鳩のように降ってくださったと言われます。その姿はキリストの執り成しの職務を表すものであったでしょう。キリストはわたしたちの平和であります。キリストによって一つとされるところにこそ、平和が打ち建てられるのです。
わたしたちの努力では到底成し遂げられない、気の遠くなるような働きを、主は成し遂げてくださったのですから、わたしたちの努力すべきことはただ一つだけです。それは、キリストの執り成しに頼り、キリストに結ばれて平和を求めることです。家庭で。またそれぞれのいるところで。それぞれが与えられているこの地上の持ち場で。しっかりと主に結ばれて生きましょう。わたしたちの上に聖霊の助けを待ち望みましょう。炎のような舌に表される聖霊は、主の愛の炎です。わたしたちの汚れを清め、救いの福音を、神の賛美をこの唇に与えてくださる主の霊を待ち望みましょう。
ヨエル書は、打ちのめされた人々に神の救いを語ります。この救いは食い尽くすいなごからの解放。命を支える食糧をたちまち食い尽くすイナゴの大襲来からの解放に匹敵する救いなのです。この救いをあなたがたの子孫に語り伝えよとヨエルは叫びます。そのように、わたしたちにも主は命じておられるのではありませんか。神が主イエスの生涯と死と復活を通してなしとげてくださった神の力強い御業を彼らに語りなさい、と。
主なる父なる神様
聖霊降臨日の礼拝、あなたの尊き御業が成し遂げられたことを感謝します。わたしたちは、2000年前、主に従う民にあなたは主の霊をお遣わしくださいました。弱い者も力ない者も共に主の体の教会の肢とされ、あなたの霊で燃え立たせていただいたことを感謝します。多くの者にどのようにして救いの恵みを宣べ伝えることができるのか、それぞれの時代、それぞれの地方で、困難がございました。今、わたしたちに与えられている課題は少子高齢化の社会の課題です。しかし、あなたはいつでもどこでもあなたに信頼し、従う教会を助けてくださいました。わたしたちは自分の力を頼らず、あなたの恵みにより頼みます。どうぞ、わたしたちを用いて力強い御業を行ってください。この教会に新しい教師を遣わしてくださることを信じます。わたしたちに善き備えをする知恵をお与えください。
また、本日行われます東日本連合長老会教会会議の上に御心を行ってください。
この教会を今日まで守り導きくださったあなたの慈しみに感謝します。本当に小さな信仰しかない者をも憐れみ助けてくださいました。わたしたちは将来を見通すことはできませんが、これまでの歩みを振り返る時、たくさんの慎ましく美しい証しを残してくださった兄弟姉妹がいることを誇りに思います。あなたの恵みの足跡です。先週も江村姉の最愛のご家族が地上の生涯を終え、安らかな眠りについたことを伺いました。どうかご遺族の上に豊かな慰めと平安をお与えください。また今週26日に行われます焦 凝兄の結婚式に主の豊かな祝福を注いでください。あなたの恵みによってご家庭が導かれますように。