聖書:申命記19章15–19節, ペトロの手紙一 3章8–14節
わたしたちは神の民に与えられた戒めを学んでいます。それは昔、旧約聖書に記されている神の民イスラエルに与えられましたが、今に至るまで、「神を愛し人を愛するとは、どういうことなのか」を教える神の言葉となっています。そして、「これを守る者は命を得る」と教えられているにも拘わらず、戒めを守ることができない人間の罪の現実をも指し示している。それが 十戒 であります。人は自分の力で戒めを守り、自分の力で命を得ることができない。すなわち、救いを得るに至らないのであります。
では、どうしたらよいのでしょうか。人は自分で救いを獲得することはできないけれども、神は人に救いの道を開いてくださいました。それはすなわち、ただ神の恵みによる救いです。神は御子を救い主、キリストとして世に遣わしてくださいました。人の力でできなかった罪の贖いを、真の神の子は、真の人の子として全人類の身代わりになって贖ってくださいました。そのことを信じた者は悔い改め、主の犠牲の死に結ばれた者となりました。主の死に結ばれたわたしたちは、主のご復活の命に結ばれて、教会の生きた肢とされたのです。教会とは、主イエスのご命令によって教えを宣べ伝える唯一の真の使徒的教会であると信じられています。
わたしたちは、自分の力で、聖書に与えられた十戒を守ることができない者でありますが、しかし、他方、キリストによって救いに招かれた喜ばしい者として、どのように生きたらよいかという課題が与えられているのです。それこそが、救われた者の感謝の生活であります。感謝の生活とはどのようなものであるか、という問いなのです。わたしたちクリスチャンは全世界の主の民であり、年齢、性別が違うだけでなく、様々な時代、様々な地域、様々な民族の特徴を持った主の民であります。「甲の肉は乙の毒」というほど、違いの方が際立って見えます。だから昔の戒めは今に通用しないと思っても不思議がないほどの多様性があるのです。
しかしながら、キリスト教徒の教会はいつの時代にも十戒を教え、十戒を学び、これを救われた者の感謝の生活の柱として来ました。わたしたちは、今までに第八戒まで学びました。今日は第九の戒めです。それは「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。今日は旧約聖書申命記19章を読みましたが、これはイスラエル共同体の中でどうしたら公平、公正な裁判が可能となるかを論じているのです。十戒の第九の戒めを見ると、隣人について偽証してはならない、というのですから、確かに裁判に関わっている戒めですから、日常とは違う裁判の被告人のために、あるいは原告のために、証人として立つ場合などが頭に浮かぶのではないでしょうか。19章15-19節をもう一度読みます。
「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」
「あなたは」と申命記が呼びかけているのは、裁判人に対してではありません。むしろ、裁判人を立てている信仰共同体に対して、祭司を立て、訴える者、訴えられる者を立て、証人を立てているこの信仰共同体全体に向かって、「あなたは、責任を持ちなさい」と命じられているのです。もし誰かを殺そうとして嘘の罪でその人を訴えた者がいるとしたら、その偽りの証人となった者は人を無実の罪で殺そうとしたのですから、その悪い企みの報いとして殺されなければならない、ということになります。昔の石打の刑というのも、わたしたちの目にはいかにも残虐な行為と思われますが、一人の死刑執行人が犯罪人を死なせるのではなく、みんなの責任でその人を死なせるという強い決意が共同体に迫られているのです。
このように裁判において偽証することは、共に生きる社会の中で無実の人の名誉を傷つけるだけでなく、誤った裁判を行う事になりますから、社会的な公正を破壊し、共同体を崩壊させる深刻な原因となります。ですから、強い決意をもって悪を取り除かなければならないと命じられているのです。申命記が書かれた時代は、そんなに古くはないと思われていますが、それでもも二千数百年は経過していると考えられますので、裁判の公平、公正さがこのように訴えられていることは、信仰者でなくても驚くべきことではないかと思います。わたしたちは神によって与えられていると信じるのですから、神の公平、公正を命じ給うその熱意を褒め称えずにはいられません。
申命記で取り上げられたものは公正な裁判のための偽証の禁止であります。しかし、そういう公の裁判でのことが守られるためには、ごく身近な人と人との関係の中で偽りが取り除かれなければなりません。ですから、偽証してはならないということは、家族、隣人、教会、地域社会について命じられている戒めです。今日の新約聖書は、ペトロの手紙一、3章です。8節。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」わたしたちはそれぞれの個性あふれる人間であり、異なった様々な意見を持つ自由が与えられているのですが、ところが度を超すと、些細なことでも自分と相手が違うと気に入らないと思い、受け入れられないとなり、嫌悪感を持つことは大きな問題であります。
だからこそ、一人一人、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くような心遣いが勧められています。心を一つにするとはそういうことであります。そして兄弟を愛し、と言われていますのは、天の神さまを「天にまします我らの父」と呼び奉るわたしたちだからこそ、共に神の子とされた兄弟姉妹を愛する愛が与えられているのです。また、「憐れみ深く」と言われているのは、神さまが慈愛に満ちた方であるからです。神さまが憐れみ深い方であるからこそ、兄弟姉妹を救い、その人たちの悲惨さを少しでも和らげ、またその人たちの弱さを支えるようにと、教えているのです。
これらの勧めを実行するために無くてはならないものは何でしょうか。それは謙虚であることです。人と人との心がバラバラになる大きな原因の一つは、傲慢であり気位の高さであります。自分を人より一段と高い者とするならば、そのために隣人たちを低く見るようになり、非常に問題です。そんなことがあってはならないのですが、実際はこの世の価値観が、基準が教会の中にもどんどんと入って来ます。わたしたちはこの世の価値に全く影響されないということはほとんど不可能です。何かの職業に就くためには勉強して試験をパスしなければなりません。また病気になると仕事をすることが難しいので、健康を保持しなければなりません。また家とか何かを買うためには、たくさんのお金が必要です。このようなことが沢山あり、わたしたちは苦労して来たし、またこれからもこの世の価値に関わりなく生きることはできません。
しかし、成宗教会の78年にわたる歴史を振り返ったとき、貧しい時代を生きた人々の言葉が思い起こされます。食べる物が乏しかった頃、牧師先生が畑で作ったホウレン草を分けてくださった、とか。コーヒーを入れてくださった、とか。売らなければならなかった石鹸をママ先生が買ってくださった、とか、本当に小さなことに対する感謝を忘れないでいる方々がいるのです。私の仕えた教会の17年では、そんな感謝は一つも生まれませんでした。感謝というのは、自分が貧しいからこそ生まれるものだと思います。
一方、今の時代にも貧しさはあります。それは健康の貧しさ、特に年を取っていろいろできないことが増える。病気にもかかる、ということで、わたしたちは貧しくなります。すると本当に小さな事にも感謝が生れます。なかなか礼拝が守れなくなった方の所に伺うと、それは喜ばしい出来事になります。何を話すか、世間話では終わりません。このわざわざ出かけて行くこと。わざわざ迎えるために待っていること。その両方がイエスさまの教会を思っているからです。教会の主が会わせてくださる交わりです。すると感謝が生れます。両方とも、主の御前に謙虚にならないではいられないからです。9節。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」わたしたちは神さまの慈しみを受けて生きているのですから、兄弟姉妹にも慈しみをもって交わるのですが、そのためには多くのことに耐え、また多くのことを支えていかなければなりません。時には思いがけなく意地悪な人々がいてわたしたちは腹立たしくなるのですが、その悪口、侮辱にも忍耐するように勧められています。それではやられっ放しで良くないと世の人々は思うことですが、わたしたちは悪に悪をもって立ち向かわないことが、神さまに仕える者の広い心であると教えられます。それは神さまが良い人々ばかりでなく、悪い人々の上にも雨を降らせ、太陽の恵みを注いでくださる広いお心の持ち主だからです。
だから祝福を祈りなさいと勧められます。祝福は他人の繁栄を祈ることです。わたしたちは、侮辱されてもそれに報復しないだけでなく、善を為すことによって悪を乗り越えなければならないと教えられています。そしてそれは、相手の利益のためではありません。わたしたちがクリスチャンとされたのは、神さまの祝福を受け継ぐためだからです。だからこそ、悪に悪をもって報いては、神さまの祝福を断ってしまうことになるのです。10節。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」神さまは残酷な人や、裏切る人々を祝福することを欲してはおられません。そうではなく、善良な人々と善い行いのある人々に臨み給うことを欲しておられるのです。だからこそわたしたちは人の悪口を言ったり、人を侮辱したりすることのないようにしなさいと命じられています。また表裏のある人間、人をだます人間とならないように、舌が犯す罪、悪徳から身を守らなくてはなりません。更に、積極的に努めるべきことは、人を傷つけないこと、だれにも害を与えないこと、そして、すべての人に善くするように配慮を怠らないことです。
平和を願い、追い求めよと力強く勧められています。平和はただ争いが無く何もしなくても良い状態ではありません。ボーっとして居たら平和はわたしたちからいつの間にか逃げて行くかもしれません。ですから常に平和を追いかけて探し出さなければならない。平和とはそのように心配りすべきものであることを教えています。12節。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」わたしたちは困難に直面するとき、まるで主は自分をお忘れになったかのように動揺することが多い者です。しかし、主は適切な時期に我々を救うために、わたしたちを見ておられます。主なる神様はわたしたちの保証人で保護者なのです。
ですから主の喜んでくださることを行っている時にも思いがけない困難、苦難に遭うことがあっても、どのような時にも人を恐れず、神さまだけを恐れて、わたしたちは互いに真実を語る者となりましょう。どんな時にも神を畏れて他人に悪を為すことなく、間違いにも不正にも耐えることが勧められています。カテキズム問49 第九戒は何ですか。その答は、「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。偽りや嘘や悪口を語って人を悲しませたり、困らせたりしてはいけないということです。わたしたちはイエスさまによって真実を語る者とされているからです。祈ります。
御在天の主なる父なる神さま
尊き御名を褒め称えます。今日の礼拝、わたしたちを一週間の旅路から、御前に引き返し、感謝と讃美を捧げる者とさせていただきました。
今日の御言葉の糧を感謝します。第九戒は偽証を禁じる戒めでした。偽証に先立つ小さな嘘、隣人に対する悪意、高慢な心をわたしたちから取り去ってください。あなたの前に低くされ、あなたの恵みを知る者とさせられたことを感謝します。互いに主のものとされ、イエスさまの生きた御体の肢とされたわたしたち、助け合って良い実を結ぶことができますように切に祈ります。今日の礼拝後に行われるバザーの行事をどうかあなたの恵みの下においてください。あなたの祝福を受け継ぐものにふさわしく、この働きを通して兄弟姉妹を祝福し、またバザーを機会に教会を訪れる地域の方々にあなたの祝福をお与えください。どうか思いがけない困難をも乗り越え、怪我無く事故無く行われますよう、最後まで御手の内にお導きください。
また、今週のわたしたちの歩みも御言葉に従うものとなりますように。来週は永眠者記念の聖餐礼拝を守ります。またどうぞ、あなたの豊かな顧みがそれぞれの生活の上に注がれますように。牧師後任の人事に伴う準備をあなたの御手によってお導きください。また東日本連合長老会の働き、日本基督教団の将来に向かう取り組みの上に御心を行ってください。わたしたちの限りある力が豊かに用いられ、あなたのご栄光を現わすために勤しむ者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。