私の軛(くびき)を負いなさい

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌352番
讃美歌312番

《聖書箇所》

旧約聖書 申命記 1章29b~31節 (旧約聖書280ページ)

1:29b 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28~30節 (新約聖書21ページ)

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《説 教》

今日、示された新約聖書の御言葉は、教会では度々「招きの言葉」・「招詞」としても大変良く用いられる御言葉で、キリスト者にとっては、諳んじて覚えられているほど馴染み深い聖書箇所と言えるでしょう。

本日のこの聖書箇所の少し前の11章20節から振り返って見ましょう。主イエスは、ガリラヤで伝道を始められてから沢山の奇蹟をされましたが、ここには、悔い改めなかったガリラヤの町を主イエスが叱り始められたとあります。それらの町の人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかしながら、ティルスとシドンの人々は主イエスの御言葉に耳を傾けても悔い改めることをしませんでした。主イエスは、これらのガリラヤの町は旧約聖書に引用されている「ソドム」や「ゴモラ」などより重い罰に値すると言われたのでした。これらのガリラヤの町は、神の御子主イエスの御言葉を直接聞くことができ、すぐにも、悔い改めて主に聞き従えるという有利な立場にありながら、旧約聖書に出て来る町「ソドム」や「ゴモラ」と同じように、主イエスの御言葉に応答しなかったからなのです。ガリラヤの地で伝道を開始された主イエスの御言葉には力がありました、その最初の御言葉は4章17節にある、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。この御言葉を聞き信じた人々は、最も大切なこととして、主イエス様ご自身が言われた「わたしの軛を負いなさい」という御言葉に聞き従ったのです。今日の御言葉の直前の25節以下で主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われています。自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者には神の国の真理は隠され、幼子のように素直に心を開き信頼する者に、神の国の真理は明らかにされると主イエスは語られたのです。

人間にとって神様を信じる信仰という霊的な行為は、人間の常識とは別のものであることを主イエスは語られたのです。主イエスが「父」と呼ぶ神様が、御子である主イエスを通してご自身を現したのであり、主イエスは神様のひとり子として父なる神様と特別で密接な関係にあることを話されたのが、主イエスの伝道の御言葉でした(2:15、3:17、4:3、6、8:29)。御子イエスが父なる神様を人々に知らせなければ、人は父なる神様を知ることは出来ない、人は主イエスを通してしか神様を知ることが出来ないことを語られたのです。

28節で、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられます。この「疲れた者」とは、当時の律法学者やファリサイ派の人々によって、律法の重荷を負わされていた民衆です。毎日毎日さまざまな掟によって縛り付けられていたユダヤの人々のことでした。

律法とは、ユダヤの人々が生きて行くこと、日々の生活を神様の恵みと喜び、感謝しながら過ごす中にあるもので、本来人々に知恵を与えるものでした。しかし、当時のユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は多くの律法の規定を作り出してしまい、かえって律法を重荷にしてしまったのでした。そして、この「疲れた者」に対する聖書の御言葉と主イエスの約束は、今ここに生きている私達に向けられた御言葉でもあるのです。

私たちの人生にはさまざまな労苦があります。重い重い、重荷があります。私達を疲れさせるものが沢山あります。疲れ果ててしまっている私達に対して、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられるのです。

これは私達疲れ果てた者に対する主イエスの呼び掛け・招きです。ここで主イエスが私達に与えようとされている「安息」とは一体どんなものでしょうか。また、それは本当に必要なものであるということを、私達が充分に理解しているでしょうか。世の中には、重荷を負っている人は沢山居ますが、その重荷は、主イエスによってのみ軽くして頂けるものなのでしょうか。本当にそうなのか、どうしたらそうなるのか、ということだけでなく、その内容を私達がどれだけ知っているのでしょうか。例えば、世の中の多くの人々は酒を飲むことによって、重荷をおろそうとしています。もしかすると、キリスト者でありながら、キリストのところへ行って重荷をおろすより、一杯やったほうが気が晴れると、心の奥底の何処かで思っている人も居るのではないでしょうか。私なども、長いサラリーマン生活の中で、ついつい深酒をしてしまったこともありました。こんな一例に限らず、私達は「重荷を負っている者こそ、この私達なのだ。」と思っています。それほど重荷は何処にでもあるのです。そして、何と自分が重荷を負っていることは当然分かり切っているのですが、その「重荷の正体」を実は何も分かっていないのではないでしょうか。「重荷の正体」とは、いったい何なのでしょうか。今日、私達に示された28節の御言葉を読んで気付かされるのは、実は私達が重荷だ、重荷だと思っていたものを、主イエス様が「そうだ、それがお前の重荷だ。」と簡単に受け入れて下さっているのではないということです。

そうではなく、私達が「これは苦しく悲しい、大変な重荷だ」と考えるよりも、ずっと深い思いで、本当の重荷とは何か、私達を苦しめている本当の重荷とは何であるかを主イエスは見抜いておられるのです。

私達を、疲れ果てさせて、絶望の淵にまで追い込んでいるものは、いったい何であり、どんな重荷なのでしょうか。それを本当に取り除いてしまう道はどこにあるのでしょうか。その重荷を取り除くことに関連する御言葉として29節には「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主イエス様は仰っています。口語訳聖書では、主イエス様は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と若干違った訳になっていますが、29節のこの日本語に訳されている「得られる」と「与えられる」との言葉は元来「見出す」という言葉です。

苦しく重い「重荷」を放り出したり、下ろしたりするのではないのです。そうではなく「安らぎを見出す」と主イエスは言われたのです。私達は人生において、苦しい時や悲しい時に、得てして「ああ、休みたい、ここで荷を下ろして休みたい。」と思います。しかし、主イエスは言われました。重荷とは放り出したり、下ろしたり出来るものではない、また、主イエスによって与えられる「安らぎ」とは、その重荷を負った者に、重荷を負ったままで与えられるものなのだと、言われているのです。この主イエスの与えられる「安らぎの約束」は、その前にある2つの御言葉を前提としています。その二つの御言葉は「わたしの軛を負いなさい」と「わたしから学びなさい」の2つです。そうすれば主イエスは重荷を負ったまま「休ませてあげよう」と言われているのです。「安らぎ」を与えられるのは、主イエスの軛を負って、主イエスに学ぶときであると、はっきりと言っておられるのです。主イエスは「その重荷を下しなさい」とか「わたしが重荷を下ろしてあげよう」と言われているのでは決してないのです。実に、この人生の重荷は下ろすことも、外すことも出来ないのです。言ってしまえば「重荷は死ななければ下ろせない」のです。この下ろせない重荷を軽く担えるようにして下さるのが、主イエスが言われた「わたしの軛」なのです。

現代社会、それも都会に生きる私達にとってまったく馴染みのない、「軛」とは何でしょうか。「軛」とは、通常2頭の牛などの家畜の首の間に渡され、運搬や農耕の作業時に家畜の力を使うために装着された道具です。2頭の家畜の間に渡して鋤を引かせて畑の畝起こしをしていたと言われれば想像することができるでしょう。日本の田畑は土が柔らかく通常1頭の家畜で鋤起こししていましたが、荒れ地で固い土が多かったパレスティナでは左右2頭の家畜に渡した「軛」が使われていたのです。この軛は、家畜を傷めないために1頭づつのオーダーメードで作られていました。この軛は家畜にかかる負担を下げて、皮膚が剥けたりしないよう上手く作られないといけませんが、公生涯前の若きイエス様はこの軛制作の匠でもありました。そのイエス様の経験が、「軛」という御言葉に現れているのです。また、そればかりではなく、当時のユダヤ人は、元来家畜が重荷を負う時に用いられた道具である「軛」という言葉を比喩的に『掟』を意味するものとして用いました。当時のユダヤ人の世界では、重荷を背負いながら、生きていく時の最も優れた生き方として、掟である律法、例えて「軛」によって生きることが求められていたのです。その「掟」である「軛」を主イエスは「軛なんかいらん」「軛は外してしまえ」と仰ったのではないのです。「わたしの軛を与えよう」すなわち「わたしの新しい掟を与える」と仰っているのです。この主イエスの新しい掟である「軛」は、明らかに主イエスによる、新しい教えであり、新しい律法であり、新しい約束なのです。主イエスの「新しい掟」とは、『山上の説教』に代表される福音です。主イエスの「新しい掟」である福音とは律法を廃止するためではなく、“律法を完成させるため”に主イエス様が与えられた「軛」なのであると、『山上の説教』で高らかに宣言されています。

私達は、この世に生きるとき、人生の重荷が、軽重の差は別としても、間違いなく厳然と存在するのです。

その人生の重荷のために、「安らぎ」を得られるのは、死ぬ時しかないとさえ考える人もいます。ここに自殺の誘惑が生じているとも言えましょう。もちろん、この「安らぎ」を自ら命を絶つこと、自殺することによって得られると考えることは、大変悲しいことです。そんな、不幸な現実から主イエスは私達を救い出して下さるのです。それは、私達の担いきれない重荷を主イエスが担って下さるから私達は生きることが出来るのです。自分に与えられた重い命、重い人生を軽々と担って生きられる、そんな生きる道があるのだと、主イエスは言われているのです。「わたしの軛を負いながら、生きなさい」と言われているのです。

それでは、「主イエスの軛」はなぜ軽いのでしょうか。それには2つの理由があります。その一つは、「軛」とは、2頭の家畜をつないで2頭の首に掛けられ重荷を引くものです。2頭の家畜が軛で一つとなって重荷を引くのです。その軛が軽くなるためには、あなたが自分の首に掛けた一方の軛、そのもう一方は主イエスご自身が担ってくださるのだ。だから主イエスの軛は軽いのだ。大変分かり易い話です。もう一つは、私達が生きる際の重荷をすべて主イエス様に委ねることが、この聖書箇所で許され約束されているから、重荷はすべて神様にお委ねする。私達の重荷を主イエス様が背負って下さるというのです。

昔は作者不詳と言われていましたが、現在は作者の分かった有名な詩があります。私の大好きな詩です。お読みします。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
まして、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

30節にある「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束されている理由は、まさに主イエスご自身が、私たちの苦しみや試みの時に、主イエスが私たちを背負って歩いて下さるからです。

あの『山上の説教』の中で主イエスが力強く言われておられる「思い悩むな」と約束は、私たちの生きるための労苦のすべてを、主イエスが共に担って下さり、背負って歩まれるからなのです。

また、「私に学びなさい」とは、父なる神様の御心をすべて従順に受け入れられたことを主イエスに学ぶということです。人生のすべてにおいて、神様に聞き従うすべを主イエスに倣って学ぶのです。それは、自分のすべてを神様に委ねてしまうことでもあります。そして、その結果、主イエスが、あなたに代わって人生の重荷を背負って下さるのです。従って、あなたは軽くなった人生の重荷を喜びをもって担うことが出来るのです。

今日の、この28節から30節のたった3節の間には、「わたしは」「わたしに」「わたしの」と、合計6回も主イエスの「わたし」が出て来ます。ここには、「わたしを通らなければ誰も・・・できない」を強調して、父なる神様へのとりなしをされる主イエスの重要な役割が述べられているのです。しかも、29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるように、主イエスは神の柔和と謙遜そのものです。私達にとっては、倣うべき見本なのです。

主イエスは神と等しい者であることを好まず、ご自分を無にして、僕の身分になり、私達に仕える者となって下さり、2頭立ての軛の一方を、共に担って下さるだけでなく、時として疲れ切った私たちを背負って歩かれるのです。しかも、「疲れた者」である私達のふらつく歩みに合わせてゆっくりと、また背の高いイエス様は私達の背丈に合わせてかがむように軛の一方を担って下さるのです。

神様と等しい者でありながら、私達に仕える者となられた主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と、この苦しみ悲しむ私達を優しく招いておられるのです。

主イエスのご生涯は、ただ私達のために“安らぎ”を与えるためのものでした。そして、主イエスが私達の人生を、ただ重く、苦しく喘ぎながら生きるのではなく、軽やかに神の恵みの中に生きる人生に変えて下さったのです。私達もまた、主イエスに倣って、柔和と謙遜に生きることが出来るのです。主イエスの掟が軽いことを知っているからこそ、主イエスと共に「軛」を負いつつ柔和で、謙遜に生きることが出来るのです。主イエスから、人に仕えることの軽やかさを教えられるのです。

それでは、お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>