主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌9番
讃美歌310番
讃美歌512番
《聖書箇所》
旧約聖書:創世記 25章24-33節 (旧約聖書39ページ)
25:24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。
25:25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。
25:26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。
25:28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
25:29 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。
25:31 ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
25:32 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、
25:33 ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。
新約聖書:マルコによる福音書 8章34節~9章1節 (新約聖書77ページ)
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
《説教》『キリストに従う』
先週は夏休みを頂き、感謝のうちにゆったりとした時間を与えられました。皆様も久し振りに私以外の牧師から御言葉を聞く機会が与えられ、如何でしたか、本日から「緊急事態宣言」も解除され徐々にいつもの生活に戻りますが、まだまだ油断はできません。引き続き、当面の間、このライブ配信を続けますので、感染に不安のある方は、どうぞ続けてYoutubeによるライブ配信をご視聴ください。
聖書には、思いがけないところに思いがけない言葉が使われていて、しばしば読む者を困惑させることがあります。本日のマルコによる福音書8章34節に突如現れる「群衆」という言葉もその一つです。
「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」とあります。
本日の、この物語は、8月29日にお話しした8章27節からのペトロの信仰告白に始まる受難物語の一部分であることは明らかです。この時主イエスは、ユダヤ人たちの憎しみをしばらく避けるために、遙か北のフィリポ・カイサリアの地方へ弟子たちを連れて行かれました。27節以下を辿れば、そこにいたのは弟子たちだけであり、他には誰もいなかった筈です。
ところが、34節では、突如「群衆を呼び寄せた」と記されているのです。表面的に読むと、「弟子たちに教えておられる間に、群衆が集まったのであろう」と思われますが、ここ迄のところを改めて読み返してみると、もっと深い意味があるように思われます。
27節から振り返ってみますと、聖書は、「主イエスへの信仰」について、三段階で発展的に語っていることが分ります。
第一段階は、27節から30節に記されていた「ペトロの信仰告白」です。「あなたはメシアです」というペトロの決断の表明、ペトロの個人的な信仰告白がなされました。
第二段階は、31節から33節で語られていた「第一回目の受難の予告」で、「ペトロの個人的な信仰告白」に主イエス御自身が、その信仰内容を明確にされたのがこの箇所でした。信仰告白は、個人の主観によるものではなく、主イエス・キリスト御自身がその内容を決定されるのです。信仰告白の内容に関するこの部分では、もはやペトロ個人だけでなく、弟子たち全員が主の御言葉の対象になっています。
そして最後の第三段階が、本日の34節から38節です。この部分の主題は「信仰の実践」と言えるでしよう。キリストの甦りを告白する人間は「どのように生きるべきか」が教えられ、あらゆる時代の全てのキリスト者の「生き様」がここに告げられているのです。ここに突然、「群衆」という言葉が出て来るのです。
このように見て来ると、以上の三つの段階は、極めて意味深い内容を備えていると言えるでしよう。正しい信仰とはこの全てを備えていなければならず、第一段階の信仰告白を欠いては信仰の意味を成さず、第二段階の主イエスの宣告を聞かなければ第三段階の信仰の実践は不可能です。
ですから、ここで突如現れる「群衆」が、もし「この時やっと集まって来た人々」であったならば、34節以下の御言葉を正しく理解することは不可能です。そこで私たちは、この「群衆」という言葉を、「その場にやって来た人々」という以上の「象徴的意味」で考えることが必要になって来ます。
信仰とは、何よりも先ず、一人の人間の決断が根底になければなりません。歴史の中で、ナザレのイエスを「神の子キリストである」と告白した一人の人間ペトロがいたのです。そして主イエスは、その「一人の人間の告白」を用いて幾人かの人々に福音の何たるかを教え、信仰を「一般的」で「普遍的」なものにされました。これを公に同じと書いて「公同信仰」と呼びます。この「公同性」が教会を形作り、キリスト信仰を世界共通の「普遍的」なものとしたのです。
27節以下の一連の物語は、主イエスがお話になっている間に「だんだん人が増えていった」というような自然発生的なことではありません。ペトロの信仰告白を、その傍らで単なる聴衆として聞いていた人が、主イエスの言葉によって明らかにされた教会の信仰へ導かれ、そして「あなたもその道を行くべきではないのか」という問い掛けを、自分に向けられた課題として受取ったということです。
ですから、ここで「呼び寄せた」と言われている「群衆」とは、このとき自然に集まって来たフィリポ・カイサリアの人々だけではなく、実は、同じように「主に呼び寄せられて」、この礼拝に集ってきた私たちでもあるのです。
信仰とは、他人の告白を聴いたり、教理の内容を学ぶことではありません。主イエスに促されて「私もその道を行く」と告白し人生の旅路を歩む人のことです。それが、34節にある、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との御言葉です。
それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。キリスト者の生き方の根本が三つの条件で記されています。
先ず第一に何よりも大切なことは、自分を「捨てる」ということです。「捨てる」と訳されている「アパルネオマイ」という言葉は、ギリシャ語で、強く「否定する」という意味です。主イエスは十字架につけられる前夜、最後の晩餐の際、ペトロが主イエスを「否定:アパルネオマイ」することを予告されました。主イエスが捕らえられた大祭司の家の庭で、ペトロは三度にわたって「私はあの人を知らない」「私はあの人と関係はない」と強く否定しました。この一連の場面で用いられている「知らない」(マルコ福音書14章30節、72節)という言葉も34節の「自分を捨てる」の「捨てる」(アパルネオマイ)「否定する」という同じ言葉です。
大祭司の庭でのペトロは、死の恐怖の前で自分の命を惜みました。自分を否定出来ませんでした。惨めな姿をさらしている主イエスに従って行くことが出来ませんでした。それ故にペトロは、自分を守るために主イエスとの絆を自分から切り離そうとしたのです。
キリストの復活を信じ、キリストの御言葉に自分の将来を見るならば、先ず「自分自身を捨てよ」と主イエスは教えておられるのです。誇りに満ちた自分の生き様、これまで辿って来た人生の目標、何よりも大切にして来た価値観、その全てを意味なきものとして投げ捨てる決断が必要なのです。
罪に塗れた自分自身を捨てることが、「信仰の第一歩なのだ」と主イエスは教えておられるのです。
そして、信仰にとっての第二歩は、「自分の十字架を負う」ということです。キリストの十字架は罪の贖いでした。ですから、私たちはキリストと同じ十字架を背負うのでは有りません。ただキリストが、どのようなお姿で十字架への道を歩まれたかを思い起こすべきなのです。それは、この後のマルコ福音書14章36節に、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とあります。
この「わたしが願うことではなく」とは、当然「自己否定」を意味します。そして「御心に適うことが行われますように」という祈りこそが、「自分の十字架を負う」ということで、「父なる神が示された道を歩む」ということです。生涯の目的を自分の考えによって選び取るのではなく、「神が、私に何を期待し、何を望んでおられるのか」を祈り求めて行くことなのです。
このような生き方は簡単なものではありません。絶えず襲って来るサタンの誘惑との闘いが生涯続くのです。しかし、神の御子イエス・キリストが、この生き方の見本となってくださいました。荒野に於いては40日40夜の全てを費やして祈り、ゲッセマネに於いては血の汗を流して祈り。十字架は、その生き方の頂点にあったのです。
ひたすら祈ることだけがサタンへの勝利であることを、主イエスは、地上に於ける全生涯を通してお示しになりました。私たちの祈りもまた、「神の御心に従うこと」へと向けられなければならないのです。
信仰にとっての第三歩とは、「わたしに従え」ということです。「従う」という言葉は、しばしば「服従」という意味でとらえられます。それは決して間違いではありませんが、それでは「言うことをきく」という低い次元で終わってしまいます。「従う」(アコルーセオー」とは、「ついて行く」という意味なのです。主イエス・キリストは「私について来なさい」と言っておられるのであり、34節ではこの言葉が二度も繰り返されています。
主イエス・キリストは、私たちに対し「あれをしろ」「これをしろ」と言われるのではなく、「私と一緒に歩きなさい」と言って下さるのです。
雪国の生活や冬山登山を経験したことのある人なら分かるでしょうが、雪の積もったところでは、人は必ず「誰かが歩いた跡」を行くものです。誰かが歩けばそこは固められて自然に道が出来ます。誰も踏み入れていない深い雪の中にわざわざ入る人はいません。前を歩いた人のおかげで、後を行く人は楽に歩けるのです。
主イエス・キリストが「私について来なさい」と言われた時、私たちは、「主イエス・キリストが開いて下さった道を行く恵み」を知ることか出来るのです。キリストによって間違いなく神の国へ到達する道が用意されているのであり、私たちが歩きやすいように、主イエスが踏み固めて下さったのです。
主イエス・キリストが御自分の生命を犠牲にして与えて下さった永遠の生命は、キリストに従う者全てに与えられるのです。そして用意された永遠の生命は、この世の如何なるものにも勝って素晴しいものなのです。
36節では「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」とあります。「永遠の生命」を「全世界」と比較して「なお余りある」と語られています。神の独り子の生命と引き換えに与えられる賜物なのです。
私たちは多くのものに心を奪われています。数知れない誘惑が私たちの欲望を刺激します。あたかも「人生の全てを費やしても悔いがない」と思わせるようなものが、次々に私たちの前に姿を現します。その時こそ、しっかりと信仰の眼を開いて、その価値の違いを見定めなければなりません。先程ご一緒に読んだ旧約聖書で、エサウは、たった一杯の豆の煮物と神の祝福とを交換したのです。あのエサウの過ちを、私たちは如何に多く繰り返しているでしょうか。
しかし、神の独り子主イエスがが、御自身の生命をも惜しまないで与えて下さった恵みが、私たちに何ものにも代え難い豊かな喜びの人生を用意しているのです。
パウロは新約聖書273ページ、ローマの信徒への手紙 1章16節で「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と記しています。
このパウロと共に、同じ告白をする者は、神の裁きから赦されることが、38節で保証されているのです。38節には、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使と共に来るときに、その者を恥じる。」とあります。
これは、いったい誰が神から受け入れられるかという問題提起ではありません。神は、主イエスの言葉を恥じない私たちを必ず受け入れて下さると告げられているのです。これが決定的な赦し、主なる神の救いの保証です。
栄光に満たされた神の国は、主イエスに呼び集められ、御言葉に従う群衆のために用意されています。
永遠なる神の国での栄光を求め、主イエス・キリストが用意して下さった道を真直ぐ辿る群衆でありましょう。
お祈りを致します。