恐れるな、ただ信ぜよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌257番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 17章21-22節 (旧約聖書562ページ)

17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

新約聖書:マルコによる福音書 5章35-43節 (新約聖書70ページ)

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

《説教》『恐れるな、ただ信ぜよ』

主イエス・キリストの御前には、さまざまな人々が集まって来ます。真剣に御言葉を求めている人もいれば、単なる野次馬に過ぎない人もいました。ある者は喜んで御言葉に耳を傾け、ある者は御言葉を共に聞きながら、何もなかったかのように立ち去って行きました。福音書の時代から現代の教会に至るまで、どれ程多くの人々が集まり、また去って行ったことでしょう。数々の期待と失望が主イエスの前に立つ人間の心の中に生まれ、今の私たちに至るまでそれが続いています。本日の物語も、そのように期待と失望という対照的な人々の姿を語っています。

35節に、「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」とあります。

この「まだ話しておられるときに」とは、先週お話しした十二年間の長きに亘る出血の病を癒された女性が「まだそこにいた」ということです。

彼女には救われた喜びが溢れていました。キリストに見詰められて、キリストの眼差しを全身で受け止めて応えた喜びがありました。「病気が治った」ということだけではなく、主イエス・キリストとの交わりを確認し、「私は見放されてはいなかった」「主は私を御存知であった」ということを教えられて生きる喜びが、この女性の心を満たしていたことでしょう。しかしながら、この女性が感謝の眼差しで主イエスを仰いでいるまさにその時、彼女とは正反対に、絶望的な知らせを受け取った人物もいたのです。主イエスと共にここまでやって来たカファルナウムの会堂長ヤイロでした。

彼は自分の娘を救いたい一心で主イエスのもとに来ました。そのために、自分の誇りも、世間体も、これからの生活も、一切を投げ捨て、主イエスの御前にひれ伏しました。もはやナザレのイエス以外に望みはないと思ったからです。

そこまで追い込まれて来た会堂長ヤイロは、今まさに、救われた喜びに満たされている女性の前で、愛する娘の死を知らされました。

これまでの長い生涯の中で築き上げて来た社会的地位を全て投げ捨てても助けたかった大切な愛する娘を、失ってしまったのです。ヤイロは、「長血を患っていた女性」よりも更に熱心に主イエスを求めながら、ただ「悲しみしか与えられなかった」と思ったことでしょう。

35節の「お嬢さんは亡くなりました」という知らせは、ヤイロにとって決定的と思えるものでした。「先生を煩わすには及ばないでしょう」。主イエスをもってしても「何の役にも立たない」ということです。

私たちも、苦しみの中で幾度この声を聞いたことでしょう。「イエス様に祈ってもどうにもならないのではないのか」「キリストに祈って、いったい何が変わるのだろうか」「所詮、自分ひとりで苦しみに耐えなければならないのだ」。

「絶望は罪である」と言った人がいます。「絶望」とは「望みを絶つこと」であり、希望の源である救い主キリストを、自分の心から追い出してしまうことになるからです。「キリストなしで生きて行こう」という決意こそ、サタンが最も喜ぶことなのです。ですから、娘の死を伝え、「主イエスは無用になった」という報告を主イエスが「そばで聞いていた」と記されていますが、これはむしろ「聞き流す」というくらいの意味で理解すべきです。「先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の声を、主イエスはあえて「無視した」ということです。主イエスの御業は、「キリストなしで生きていこう」というサタンのささやきを覆すものであることを、改めてここに示しているのです。

主イエスは36節で「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。私たちは、常にふたつの言葉を聞いています。現実のさまざまな惑いの中で、「もうキリストに祈っても無駄だ」という声と、「恐れることはない。ただ信じなさい」というふたつの声です。そのどちらかに従うかで、私たちの運命が決まってしまうのです。

しかしながら、私たちに最も重要なことは何でしょうか。私たちが見極めなければならない現実とは何でしょうか。

確かに、私たちの前には苦難や悲しみがあります。それを無視することは出来ません。しかしそれと共に、その試練に直面している私たちの傍らに、主イエス・キリストが居られるということも、また確かなのです。

私たちは、「キリストが共に、その試練に出会っていて下さっているのだ」ということを忘れてはなりません。私たちがキリストを忘れるところにサタンのつけ入る隙があると言わなければならないのです。

「恐れることはない」という御言葉は、単なる言葉の上での慰めではなく、神の御子が、悲しむヤイロの傍らにおられることを、御自身が明らかにしておられるのです。

「私はここにいるのだ。しっかりしなさい」。主イエスは、今もこのように私たちに呼びかけておられるのです。

38節から40節に、「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。」とあります。これが人間の悲しい姿です。「キリストは必要ない」と言った人々の姿がここにあります。

「人々は大声で泣きわめいて騒いでいた」。これは何の涙であったのでしょう。女の子の死を悲しんでいたのでしょうか。当然、そうであったでしょう。愛する者の死に出会って泣かない者はいません。しかし、そこにある悲しみは何を表しているのでしょうか。死は別離です。しかし、もしそれが「愛する者との別れの悲しみ」であるならば、その涙の中には「再会の希望」が込められている筈です。

遠くへ旅立つ人を見送る時、「いつかまた会えるであろう」という微かな期待が別れの寂しさを和らげてくれます。

ですから、死者との別れの悲しみが大きければ大きいほど、「再会の願いも大きい筈だ」と言えます。ヤイロの家に集まっていた人々の心に、どれ程、この祈りが込められていたでしょう。

それにも拘らず、「子供は死んだのではない」とイエスが言われた時、人々は「あざ笑った」のです。「馬鹿なことを言う」と否定しました。

私たちは、愛する者を失った時、その死を、簡単には受け入れられないものです。「もう駄目だ」と言われても、最後の最後まで、「もしかすると」という期待を捨てきれないものです。「なんとか甦って欲しい」と願います。

まして、ヤイロの娘は、今、息を引き取ったばかりです。「まだ大丈夫」という主イエスの言葉を聞いた時、喜ぶのが当然ではないでしょうか。「出来るなら、早速甦らせていただきたい」とお願いするのが普通でしょう。

しかし、彼らは「あざ笑った」のです。主イエスを拒否する人間は、僅かな希望すら見失っているということが、ここにも見られます。神に祈り求めることを知らない人間の悲しみは、もはや決して「喜びに変わることのない悲しみ」なのです。

主イエス・キリストは、悲しみを悲しみで終わらせず、喜びに変えて下さるのです。それが「キリストと共に生きる人間の現実」なのです。

41節から42節には、「子供の手を取って、『タリタ・クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって歩き出した。」とあります。

主イエスの言葉が悲しみを打ち破りました。「タリタ・クム」。これは主イエスが日常話していたアラム語です。特別な呪文ではなく、普段の調子で「静かに話しかけた」ことを示しています。「娘よ起きなさい」。それだけで十分だったのです。ヤイロがどれ程の喜びを驚きと共に味わったかは言うまでもないでしょう。

ヤイロの娘は確かに甦りました。それは確かです。しかしそれと共に、「再び死ぬ運命にある」ということを忘れてはなりません。如何にこれから健康に恵まれたとしても、やがて父と母を見送り、自分もまた必ず世を去るのです。別離を悲しむ叫びが再びそこで繰り返されるでしょう。この世の時を生きる限り、それは変わることのない事実です。

ですから、ヤイロの娘の甦りの奇跡は、ひとつの悲しみを解消することは出来ても、全ての人間が出会う死の悲しみの本質的解決ではありません。私たちの信仰の眼は、ヤイロの娘の甦りの中に「一人の少女の奇跡的生き返り」を見るだけではなく、今ここに、「現実に死者を甦らせる力を持つ方が居られる」ということへ注がれなければなりません。死に打ち勝ち、死の力を滅ぼす方が居られることをここに見るのです

大事なことは、主イエス・キリストによって「新しい命」が、一人の少女に、そしてその家族に与えられ、家族が新しく生き始めることができた、という恵みの出来事として捉えることです。マルコはそういう出来事としてこれを描いているのです。

そしてこの少女の甦りと織り合わされて、もう一人の女性の癒しがここには語られていました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。

ここで、この「ヤイロの娘」と「長血の女」の二つの物語が、どこで織合わさっているかが見えて来たのではないでしょうか。「長血の女の喜び」と対照的であった「ヤイロの悲しみ」は、この喜びに連なっていたのです。私たちは、ここでも「主イエスは求める者を決して悲しみのままで去らせることはない」という聖書のメッセージに出会うのです。

先々週以来申しましたように、この二つの物語は密接に結びついており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって新しく生かされる恵みであり、喜びなのです。

私たちにも、主イエス・キリストの復活の命が与えられ、新しく生き始めました。これが洗礼です。主イエス・キリストによって新しく生かされている恵みです。主イエス・キリストの新しい命に生かされる喜びの日々を覚えつつ、感謝の祈りを捧げ、新しい日々をしっかりと歩みましょう。

お祈りを致します。

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信仰による救い

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌142番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 30章15節 (旧約聖書1,233ページ)

30:15 なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく/罪がおびただしいので/わたしがお前にこうしたのだ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章25-34節 (新約聖書70ページ)

5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

《説教》『信仰による救い』

先々週4月18日には、会堂長ヤイロの娘が危篤になり、命を助けて欲しいと主イエスの前に、ヤイロがひれ伏したお話しをしました。

今日は、この少女の話しと前後して、もう一人の女性の癒しがここに語られています。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。先々週申しましたように、この二つの出来事は密接に結び合っており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって「新しく生かされる恵み」です。

さてこの女性は25節に初めて登場するのですが、彼女に関する話は24節の後半から始まっています。24節で主イエスは、娘が死にそうだから、来て、癒して下さいというヤイロの願いを聞いて出かけました。そこに「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。その大勢の群衆の中に一人の女性がいました。彼女は、十二年間出血の止まらない病気に苦しんでいました。26節に「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。ここには、彼女がこれまで体験してきた様々な苦しみが凝縮されています。病気で全財産を使い果たし、それでも病気はますます悪くなるばかりだったのです。主イエスが34節で彼女に「娘よ」と呼びかけておられることから彼女はまだそれほど年をとってはいなかったと思われます。十二年間というのは、彼女が大人の女性の体になり、生理が始まってから十二年間ということだと考えられます。その出血が止まらないのです。そのために彼女は結婚もできずに家庭を持つというささやかな幸せも得ることができず、しかも全財産を使い果たして貧しさの中にいるのです。さらに彼女のこの病気は、当時のユダヤ人社会においては、宗教的な「汚れ」として忌み嫌われるものでした。旧約聖書レビ記15章19節以下には、生理期間中の女性は汚れているとされています。その間は、彼女に触れた人も、また使った寝床や腰掛けもすべて汚れてしまうとされていました。ですから出血のある間、女性は殆ど人との交わりを持つことができませんでした。そういう状態が十二年間ずっと続いてきたのです。そしてそれは人との交わりが持てないというだけでなく、汚れた者として神様のみ前に出ることができない、礼拝を守ることができない、ということでした。ユダヤ人にとって、主なる神を礼拝する群れに連なることが、神の民の一員である印であり、喜びでした。彼女はその喜びをも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまっていたのです。自分は神様から愛されていない、神様は自分のことなど顧みては下さらないのだ、という絶望が彼女を捕えていました。

更に加えて、ユダヤ人特有の深刻な問題もありました。律法によれば、病気は神の怒りの表れと受け止められ、十二年という異常な長さは、神の裁きの厳しさと受け取られ、「あの人は何か神に呪われるようなことをしたに違いない」と見做されたでしょう。同情どころではなく、病気を理由に周囲の人々から忌み嫌われていたでしょう。また、レビ記15章によれば、「長い間の出血」は「穢れ」と規定され、「神の御前に出ることは許されない」とされ、祭司によって「浄め」を受けなければなりませんでした。この女性は、肉体的、経済的、精神的苦痛を味わったのみならず、信仰的にも「見捨てられた者」として、この時までを過ごして来たのです。

この十二年間は、一日一日が、新たな絶望との出会いでした。「明日は今日より、少しは良くなるであろう」。これが普通の人間の期待です。どんなに苦しくとも、なお「良くなる明日」を信じて行くのが普通ですが、その「明日」が期待できないならば、どう生きて行けばよいのでしょう。

生きる希望を日一日と失って行く人々は数多くいます。周囲の人々の冷たい眼差しに脅え、唯一助けを求めることの出来る筈の神さえも答えてくれない寂しさを味わう人々。多くの苦しみの中で、神に救いを求める者の代表として、この女性を見ることが出来ます。彼女は、果てしない苦しみの連続で、完全な絶望に陥っていました。長く続いた苦しみの後に、何を期待出来るのでしょうか。絶望とは、「望みを絶つ」と書くのです。その「断たれた望み」のなかに主がやって来られ、新しい変化は、そこから起こるのです。

27節と28節には、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。

これは当時の女性としては、大変思い切った行動です。何故なら、先程もお話ししたように、律法によれば、神に呪われ穢れた者は、人々と接触する場所に加わることは許されなかったからです。穢れが移るからです。接触することによって穢れることを恐れ、人々は忌み嫌いました。

穢れた者は人前に出られないといった肩身の狭い思いをして長い間生きて来たのがこの女性でした。その女性が、今、群衆の中に出て来たのです。

ここに、この女性の大きな決断を見ることが出来ます。彼女は、全てをこの行動にかけたのです。人々に何と言われようと、どのような眼で見られようと、恥ずかしさと惨めさとあらゆる劣等感と戦い、主イエスが居られる場に出て来たのです。このことによって、彼女は数々の苦しみの中から、既に「ひとつの苦しみを乗り越えた」とも言えるでしょう。その「一つの苦しみ」とは「絶望」です。

「もう駄目だ」「どうにもならない」という諦めから、「どうにかなるかもしれない」という、最後の勇気を振り絞る姿に変わったのです。そしてこの変化が起きたのは、「イエスが町にやって来られた」という知らせを聞いたからです。絶望からの脱出は、自分の心の持ちようによってではなく、「イエスが来られた」という知らせを聞くことから始まるのです。

しかしながら、未だこの段階では、主イエスと正しく向き合っているとは言えません。何故なら、彼女は正面からキリストに近づくことをせず、病気の癒しという肉体的な苦しみからの解放しか望んでいないからです。

様々な問題に苦しむ者が、今、自分の出会っている問題の解決を望むことは当然のことと言えます。貧しさに苦しむ者は豊かさを求め、受験勉強で苦しむ者は合格することを願い、病気で苦しむ者は健康の回復を祈ります。それは確かに切実な求めです。しかし、ひとつの苦しみからの解放は、その次に控える苦しみに直面することに他なりません。。

この女性のあらゆる苦しみは病気が原因と考えられていました。ですから、「病気さえ治れば・・・」と考えることは自然なことでしょう。しかし、その病気を理由に、苦しみを更に増し加えて来た「社会」は変わりません。苦しみを理解することさえせず、苦しむ人を更に差別によって苦しめる人間社会。傷ついた心を慰め支え合うことをせず、むしろ冷たい裁きの眼によって苦しみを増し加える人間の世界。その世界がなくなることはないのです。

続く29節から32節には、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」とあります。

奇跡が起こりました。十二年間苦しんだ病気が主イエスの服の裾に触った瞬間に治りました。しかし私たちは、「この物語の中心はここにはない」ということに気付いているでしょう。

信仰がない人は、何故、病気が治ったのかと驚きます。少し信仰がある人は、34節の「あなたの信仰があなたを救った。」というところを読み、「一生懸命に祈るなら適えられるのか」と思い、「私はやっぱり信仰が足りないのか」と諦めたりするでしょう。この女性に何が起こったのかを聖書を通して考えることが必要です。確かに病気は治りました。誰にも知られないようにしてそっと後ろから近づいたにも拘らず、病気は治り、彼女の苦痛は解決されたかのように見えます。しかし、聖書が本当に語ろうとしていることは、これから後のことなのです。

主イエスは、服に触れた者を見つけようとして、振り返られました。「私の服に触れた者は誰か」と問われました。主イエスは何も分からなかったのでしょうか。何も分からず、キョロキョロと見回しておられたのでしょうか。

そんなことはありません。主イエスには全てを見通す能力があることは、聖書が常に語ることです。十字架につくためにオリーブ山を越える時、これから行く村に「ロバの子がいる」と弟子たちに告げられました。最後の晩餐の場所を準備する男が、「水瓶を背負って町にいる」と指示されたのも主イエスであり、イスカリオテのユダの裏切りも、主イエスは御存知でした。その主イエスが、ご自分の後ろにいる女性に気付かない筈はありません。

何故、主イエスは全てを御存知でありながら、このようなことを尋ね、このような振る舞いをなさったのでしょうか。

32節に「触れた者を見つけようと」と、ありますが、正確に訳すと「触れた者を見つけるために」という意味です。「分からないから見つけようとした」ということでではなく、「御心に背を向けて生きている者を招くために」ということです。あえて表現を変えるならば、「後ろから触れる」という「非人格的な触れ合う」者と、また「癒しの奇跡」だけを自分勝手に求める者との人格的な交わりを持つことを主イエスは求められたのです。主イエス・キリストは全てを御存知でした。分からなかったのは弟子たちだけです。

主イエスはこの女性の苦しみを知り、彼女を憐れみ、病気を癒されました。しかしながら、その女性にとって、このままでは、その癒しは、後ろからそっと触れた「ナザレのイエスの服による奇跡」でしかありません。「御子キリストの御心に触れた喜び」ではなく、「イエスの不思議な服に触れた結果の奇跡」でしかなかったでしょう。

30節にある「力が出て行った」と訳されている箇所は、詳細に訳すと「奇跡が(ご自身から)伝わったことを知って」となります。これは女性に向けられた「御子キリストの愛」として理解しなければなりません。

主イエスが人々に望んでおられる交わりとは、顔と顔とを合わせ、心と心とを響き合わせる人格的な交わりなのです。

主イエス・キリストの御心を思わず、「病気さえ治れば」という自分勝手な願いのみを抱いて来た女性を、主は、今ここで、改めて、御自分の前に召し出されたのです。主イエスの病気の癒しは、彼女が安心して御前に出て来ることが出来るようにするための、「ひとつの方法に過ぎなかった」と言うべきでしょう。本当の救いとは、キリストの招きに応えることなのです。

34節で、主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

この女性の何処に「信仰」があったのでしょうか。この女性の何が「信仰」という名にふさわしいのでしょう。主イエスを求め、恥を忍んで出て来たことでしょうか。それもあるでしょう。主イエスに触れれば病気が治ると信じたことでしょうか。そうかもしれません。しかしそれらは、「信仰」と表現するにはあまりにも貧しいと言わざるを得ません。

水曜日の聖書研究祈祷会でご一緒に連続して読んできた創世記3章8節から11節に、「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから』。神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』」とあります。

今日の話と実によく似ています。「お前は何処にいるのか」「お前は何をしたのか」。主なる神は全てを御存知の上で呼びかけておられるのです。その御心は「赦し」でした。

主なる神は、告白を求めておられるのです。そして、罪の告白に対し、「赦し」をもつて応えるべく待っておられるのです。

それにも拘らず、あの時のアダムとエバは、神の呼びかけに応えようとはしませんでした。御言葉の意味することを考えようともせず、犯した過ちを告白せず、言い訳しかしなかったアダムとエバは、禁断の木の実を食べたから追放されたのではなく、主なる神の呼びかけに応えず、用意された赦しを拒み、その招きを拒否したために、楽園から追放されたのです。

この女性は、「震えながら進み出てひれ伏した」と記されています。そして、全てをありのままに話しました。自分の苦しさ、惨めさ、悲しさ、その全てを語りました。そこからの救いを求めて主イエスの服に触れたこと、それ以外の方法を知らなかったことを話しました。隠れることによってではなく、キリスト・イエスの御前に出て、御顔の前で真実を告白しました。「信仰とはこうなのだ」と、聖書はそこを語っているのです。

34節の「安心して行きなさい」は、正確に訳すと「平安の中を歩みなさい」ということです。もはや不安から解放され、真実の平安、キリストの愛の中を新しく生きる人生が、ここに始まるのです。

主イエス・キリストは私たちの苦しみをご存知です。私たちの苦しみを見過ごしになさる方ではありません。その苦しみを解消し、断たれた望みを回復するために、「あなたは何処にいるのか」と私たちを呼び出されるのです。

「震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのままに話した」、この女性の姿こそ、キリストに呼び出された者の姿なのです。この震えは、恐怖から生じる震えではなく、大いなる喜びに直面した「聖なる畏れ」と言うべきでしょう。

主イエス・キリストに呼びかけられたその時、もう苦しみはなくなっているのです。「平安の中を歩みなさい」との主の御言葉が、今、私たちのこの身に実現しているのです。

お祈りを致します。

主イエスの栄光

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌148番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 139編23-24節 (旧約聖書980ページ)

139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章14-18節 (新約聖書163ページ)

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

《説教》『主イエスの栄光』

本日はCS合同礼拝の日ですので、マルコによる福音書連続講解から離れ教会学校カテキズム教本の示す聖書箇所からの説教です。

先ほどお読みしたヨハネによる福音書1章14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。この言語の「言(げん)」と漢字で書いて「ことば」と読ませるのは、1節に「初めに言(ことば)があった」と言われていたその「言(ことば)」のことです。1節ではさらに、その「言(ことば)」は神と共にあり、自らが神であったと語られています。また3節には、万物はこの「言(ことば)」によって成ったとありました。天地万物を創造したまことの神である言(ことば)、その言(ことば)が、肉となって私たちの間に宿られた、と14節は語っているのです。この「言(ことば)」とは、ギリシャ語で“ロゴス”と言います。新約聖書では、何と330回も使われていて、大変広い意味に用いられて日本語に翻訳するのが難しい言葉です。この聖書に書かれている“ロゴス”を扱うだけでも、神学論文が沢山書けるとさえ言えるでしょう。ただ、ここではっきり言えることは、このヨハネ福音書1章においての“ロゴス”は、創造の前から存在した、創造主でもあられ、永遠の命をもたらす主イエスが歴史的に出現されたことを指し示しているのです。この「言(ことば)“ロゴス”」とは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、天地の造り主であり、まことの神である「言(ことば)」なのです。その「言(ことば)」が肉、一人の人間となって、この世を生きて下さったのです。

14節の後半には「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。「言(ことば)」が肉となって、まことの神であるキリストが主イエスという一人の人となって、私たちの間に宿って下さったので、私たちは神の栄光の姿を見ることができたのです。旧約聖書によれば、人間は神の栄光を見ることはできない、なぜなら神の姿を見たら罪ある人間は死んでしまう、とされているからです。その神の栄光の姿を私たちは見ることができた。それは、神が肉となって、つまり主イエスという人となってこの世に来て下さったからです。本日の最後の18節もそれと同じことを語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。いまだかつて神を見た者はいない、それは神は本来見ることができない方だからです。神ご自身も、その栄光も、人間が直接見ることはできないのです。しかし、父のふところにいる独り子である神、主イエス・キリストが、肉となって、人間としてこの世を生きて下さったことで、人間が神を知り、神のお姿を見ることができるようになったのです。これは、ヨハネ福音書の大切な主題の一つです。14章9節にも主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいました。父なる神は人間の目で見ることのできない方ですが、主イエス・キリストが人となってこの世に来て下さったことで、私たちも神様を見ることができるようになり、神様と共に生きることができるようになったのです。

しかしそれは、主イエスが人としてこの地上を生きておられた2000年前の話だろう、と思うかもしれません。主イエスと共に生きていた弟子たちは、確かに主イエスを見たことによって神を見ることができたかもしれない、しかし私たちは今、父なる神と同じように主イエスも、この目で見ることができません。従って、私たちは神様を見ることも、神の栄光を見ることもできない、そのように思うかもしれません。しかしそれは違うのです。私たちは今、この地上で、主イエス・キリストを見ることができます。主イエスとお会いすることができます。主イエスによる救いの恵みを受けることができます。主イエスとの交わりに生きる場が、私たちには与えられているのです。それは、主イエス・キリストの体である教会です。教会で私たちは、人となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」である主イエスとお会いすることができ、父なる神の独り子としての、恵みと真理とに満ちている主イエスの栄光を見ることができるのです。その教会とは建物のことではありません。洗礼を受け、キリストと結び合わされた者たちの群れが教会であり、その群れが共に集って礼拝をするところに、キリストの体である教会が目に見えるものとなっているのです。礼拝において私たちは、主イエス・キリストと出会い、父なる神の独り子としての、恵みと真理に満ちている栄光を見ることができるのです。まことの神である「言(ことば)」が肉となって私たちの間に宿って下さったという恵みの出来事は、主イエス・キリストが人間としてこの地上を生きておられた間だけのことではなくて、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後、聖霊が弟子たちに降って地上にキリストの体である教会が誕生した、あのペンテコステの出来事において受け継がれ、その後の教会の歴史において継続されていったのです。肉となってこの世を生きて下さった「言(ことば)」である主イエス・キリストは、教会において、その礼拝において、今も私たちの間に宿って下さり、私たちにご自身の栄光を示し、私たちと共に生きて下さっているのです。

一つの教会が誕生するごとに、神の救いのみ業が、地上においても前進し続け、まさにこの成宗教会も誕生したのです。私たちの成宗教会は、この杉並の地で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という神の救いの出来事を人々に示して来ました。この成宗教会を通して、多くの人々が、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」ということを体験してきました。また16節にあるように、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」ということを味わってきました。その恵みは、17節にあるように、モーセを通して与えられた律法とは違うものです。自分が頑張って律法を守り、正しい良い行いをすることで救いを得る、のではなく、神の独り子である主イエスが人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んで下さり、神様が私たちの罪を赦して下さり、また主イエスの復活によって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、それが「イエス・キリストを通して現れた恵みと真理」です。神様が、独り子の命をすら与えて下さるほどに、罪人である私たちを愛して下さっているという恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現されたのです。

しかし、これは教会の礼拝において自動的に起ることではありません。弟子たちが集まっただけで教会が生まれたのではなく、聖霊が降ったことによって教会が誕生したように、“ロゴス”なる神が私たちの内に宿り、働いて下さってこそ、キリストの体である教会が築かれるのです。そのことが起るために、私たちは、主イエス・キリストを常に指し示し、証ししていかなければなりません。それを最初にしたのが、15節に出て来る洗礼者ヨハネでした。15節にこうあります。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる主イエス・キリストこそが救い主であることを証ししたのです。私たちの教会はこの世にあって、肉となって人となられた主イエス・キリストこそがまことの神であり救い主であることを証しし、宣べ伝えていく群れです。教会がその証しをしっかりとしていくならば、そこに、まことの神である主イエスと出会い、神の栄光を見上げて、その救いにあずかる人々が興されていきます。

今日の14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあるのには、はっきりと目的がありました。それはヨハネ福音書3章21節(新約聖書210ページ)「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と、私たちが新しく信仰によって生きるべきことを語っているのです。

主イエス・キリストの救いの恵みによって人々が新しく生かされていくのです。しかし教会が、イエス・キリストを指し示すことをしなくなり、キリストを証しすることができなくなるなら、教会はこの世に飲み込まれ、この社会の中で何のインパクトもない、教会で神を見ることも、神の恵みと真理に生かされることも起らない、形骸化したただの人々の交わりの集まりに成り下がってしまうでしょう。

私たちに与えられている救いの伝道という使命をしっかりと果していけるように、聖霊の力づけと導きを祈り求めていきたいものです。

お祈りを致します。

主よ、手を置いてください

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌166番
讃美歌205番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨブ記 13章4-6節 (旧約聖書857ページ)

13:4 あなたたちは皆、偽りの薬を塗る/役に立たない医者だ。
13:5 どうか黙ってくれ/黙ることがあなたたちの知恵を示す。
13:6 わたしの議論を聞き/この唇の訴えに耳を傾けてくれ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章21~24節&25~43節 (新約聖書70ページ)

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

《説教》『主よ、手を置いてください』

本日はマルコによる福音書の第5章21節以下をご一緒に読んでいきます。最初の21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」とあります。先週読んだ5章1節以下で主イエスは弟子たちと共に舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、その東南のデカポリス地方、ゲラサ人の地に行かれました。そこで汚れた霊に取りつかれた一人の男を癒されました。そして本日の箇所で再び舟に乗って、もとのガリラヤ地方に戻られたのです。すると今度は二人の女性との出会いが起りました。一人は会堂長の一人でヤイロという人の幼い娘です。もう一人は十二年間出血の止まらない病気で苦しんできた女の人です。この二人とも、主イエスによって、新しい人生を歩み出すことができたのです。しかも本日のヤイロの娘と次回の長血の女の二つの物語は織物の縦糸と横糸が互いに織り込まれるように語られています。本日の21節から24節に、会堂長ヤイロが主イエスのもとに来て、娘が死にそうだから来て癒してほしいと願ったこと、主イエスがその願いを聞いて出かけられたことが語られています。ところが来週の25節以下には、ヤイロの家へと向かう途中で、十二年間出血の止まらない病気の女が、後ろからそっと主イエスの服に触れて、そこで癒しの出来事が起ったことが語られているのです。この話が中に挟まれて、35節から再びヤイロの娘の話になっています。このようにこの箇所では、二つの話がサンドイッチ構造になって語られているのです。マルコ福音書にはしばしばこういう語り方が出てきます。これは、二つの話の内容が密接に結びついているので、両者を一つの話として読んでほしい、という著者のサインだと言ってよいでしょう。そのことを、意識しながら聞いて下さい。

当時、ユダヤ人の会堂で行われていたことは数々ありますが、先ず、何と言っても「安息日の集会」です。犠牲をささげる礼拝はエルサレムの神殿で行われますが、エルサレムから離れた各地の会堂では、律法の朗読を聞き、会堂長が選んだ人の講話を聞き、祈りを合わせていました。安息日の集会、これがユダヤ人にとって最も大切な民族的自覚の確認であり、ユダヤ人のアイデンティティーの中核を占めていました。

会堂は、住民たちの中心であり、地域の核と言っても良いでしょう。ですから、会堂長とは、安息日集会の責任者のみならず、教育の責任者、生活の指導者、行政上の責任者、地域社会の代表者であり、彼は常に住民たちの視線にさらされていました。

さてヤイロの娘の話と言いましたが、むしろ重要な登場人物は父親である会堂長のヤイロです。そのヤイロが、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにやって来て、その足もとにひれ伏したのです。そして23節にあるように、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と「しきりに願った」のです。多くのユダヤ群衆の目の前で、主イエスの足もとにひれ伏してこのように願うというのは、地位も名誉もある会堂長の彼にとっては大変な勇気のいることだったのです。しかし彼は、もはや恥や外聞にこだわってはおれない、切羽詰まった状況にあったのです。十二歳になっていた最愛の娘が死にかけていたのです。勿論これまでに、医者を始めとしていろいろと手を尽くして娘の病気を治そうとしてきたでしょう。しかしもう万策尽きてしまったのです。恐ろしい死の力が愛する娘を、そして彼の家庭を飲み込もうとしており、その力の前で自分が全く無力であることを思い知らされているのです。そういう苦しみ、絶望の中で彼は、主イエスの足もとにひれ伏したのです。おそらく彼は主イエスに今日初めて会ったわけではないでしょう。主イエスがガリラヤでの活動の拠点としておられたのはカファルナウムの町であり、彼はおそらくそこの会堂長の一人だったのだと思います。ですから彼が管理している会堂で主イエスが説教してきたのを彼は何度も聞いていた筈です。1章21節以下には、主イエスが会堂で、汚れた霊に取りつかれていた男を癒したことが語られていましたが、彼はそのみ業を目の前で見ていたに違いありません。しかし今まで彼は、主イエスの足もとにひれ伏すことはありませんでした。それは彼が会堂長という社会的にも宗教的にも一目置かれる立場に立つ者であったからです。ユダヤ人社会の重鎮であり、信仰的にも指導者である、そういう自負、自尊心を彼は持っており、これまではその自分の立場から、主イエスの教えやみ業について、いいとか悪いとか判断していたのではないでしょうか。彼は主イエスとは距離を保ちつつ、その教えやみ業を評価、判定していたのです。主イエスの教えを聞き、み業を見て、この教えは納得できるとか、いやこれはおかしいとか、この業は不思議だなどと言っていたのです。私たちはそれぞれ、自分がこれまでに得てきた知識や体験に基づいて世界観、人生観あるいは信念を持っています。社会的地位に基づく自負や自尊心もあります。私たちはそういう自分の思いを基準にして、聖書の教えを評価し、なるほどと思ったり、それはちょっと納得できないと思ったり、そんなバカなことが、と思ったりしているのではないでしょうか。ヤイロはこれまではまさにそのように主イエスのことをある距離をもって眺めていました。しかし今、娘が死にかけているという人生の危機に直面して、自分の力ではどうすることもできない恐ろしい死の力に脅かされる中で、彼は主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めたのです。地位も名誉も外聞もかなぐり捨てて、自分の人生観や価値観も脱ぎ捨てて、主イエスに「助けてください」とすがったのです。彼は主イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言っています。主イエスが手を置いてくれれば娘の病気は必ず治ると心から信じ、主イエスにしか救えないという確信を持っていたということです。ヤイロはここで、「娘が死にかかっている」という現実の問題だけではなく、「ヤイロ自身が娘と共に死に直面している」と考えるべきです。むしろ、あちこちで癒しの業を行っているという主イエスの評判を聞くだけでなく、主イエスの一言で汚れた霊が追い出されたのを自分の会堂の中で目撃した、その主イエスという方に、まさに溺れる者が藁をもつかむ思いですがった、ということだったのだと思われます。

「死」は人間の避けることのできない運命です。どのような人でも必ず「死」を迎えなければなりません。そしてその「死」は、人間の予想や計画を全く無視して、ある日突然襲って来るのです。

何の予告もなく襲いかかり、ある日突然、大切なもの全てを奪って行く「恐るべき死」の力。その前で、何の抵抗も出来ない人間の限界。この世で築いて来た幸福の儚さが突きつけられる時、私たちは初めて、自分の「生」に対して疑問を抱くのです。自分の生き方について、自分の生涯について、ここに決定的な問い掛けを改めてヤイロは投げかけられたのです。

ヤイロは会堂長でした。恐らく、当時の状況から見てユダヤ教のファリサイ派であったでしょう。旧約聖書の御言葉は殆どそらんじていたに違いありません。そして彼は、その信仰を、会堂長として、地域の代表者として、語り続けて来たに相違ありません。またファリサイ派は終末の日の復活を信じていました。ですから、「死」の問題は「解決済み」であった筈です。それにも拘らず、ヤイロは娘の「死」を恐れました。何故でしょうか。何故、彼の信仰が、彼がこれ迄学び続けて来た旧約聖書の御言葉が、人生の最大の危機に直面した彼の心を支えなかったのでしょうか。

ヤイロが「イエスの足もとにひれ伏した」とありますが、ユダヤ教の会堂長ヤイロにとって大変なことでありました。ファリサイ派は「神の子」を語るナザレのイエスを憎んでいたからです。その憎しみは、今度はヤイロが「裏切り者」として受けることになり、これ迄、地域の指導者であった彼が、人々の前で信仰のなさと無力さをさらけ出すことになるのです。これまでの全てを失うことになると言っても良いでしょう。何故ヤイロは、これほどの行動に出たのでしょうか。

ここはカファルナウムであり、主イエスの活動がこの町の会堂から始まりました。(1章21節以下、3章1節以下参照)。カファルナウムには現在でも立派な会堂の遺跡が残っています。ヤイロは、この会堂の責任者として、幾度も主イエスの説教を「他人事として聴き」、悪霊を追い出す御業を「見物人として見て来た」のです。

しかし今、自分の娘が「死」に直面し、「死」を、「単なる肉体の滅びではなく罪の結果である」と告げた主イエスの説教を思い返した時、かつては「他人事として聴いていた」説教が、真正面から自分に問いかける御言葉として聞こえて来たのです。

「死」とは、私たちには全く分からない神様のみぞ知ることで、人は「死んだ時」には神様の前に立たされるのです。人は生きていた時の神様との関係の歪みを覚えた時、「死」に対しての心の平安はなくなり、神なき世界に生きた負い目を持つ者の心は、乱れに乱れざるを得ません。この時ヤイロは、初めて、主イエスこそが、自分の「死の苦しみ」に直接関っていることに気がついたのでした。

自分の存在の意味が失われようとする時、私たちは、いったい誰に最後の望みを託せるでしょうか。苦しみの中で、心から誰に「主よ、私に手を置いて下さい」と言えるでしょうか。それこそ神様でしかないでしょう。

主イエス・キリストはヤイロと共に娘の居る彼の家へ向かって出かけられました。自分の誇りの全てを投げ捨て、過去の業績の全てを虚しくした人間と共に、主イエスはご一緒に歩まれるのです。

私たちのこの世における歩み、人生には、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみ困難があります。抗うことのできない死の力によって愛する者を奪われてしまうことがあります。また自分自身も、病や老いによって次第に死の力に支配されていくことを体験させられていきます。ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚えるのです。そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。その時主イエスは私たちの願いに応えて、共に歩み出して下さいます。しかし、時としてその歩みにおいても、「もう神様に頼れない」と私たちを絶望させるような出来事が起ります。主イエスはそこで私たちに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけて下さるのです。そして、ヤイロとその家族が体験したように、主イエスによって死の力が打ち破られ、その絶望からの解放が与えられることを体験していくのです。それは主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって実現した恵みです。

十字架と復活の主イエスが、「恐れることはない。ただ信じなさい」、「あなたを脅かしている死は、私の恵みの前では眠っているに過ぎない」と語りかけ、私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。死の恐れの中から起き上がりなさい」と告げて下さっているのです。

お祈りを致します。

墓場からの生還

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌152番
讃美歌352番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 65篇3-5節 (旧約聖書1,167ページ)

65:3 この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
65:4 墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし/豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
65:5 「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな/わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ/絶えることなく火を燃え上がらせる。

新約聖書:マルコによる福音書 5章1-20節 (新約聖書69ページ)

5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

《説教》『墓場からの生還』

本日から、マルコによる福音書の5章に入りますが、最初の1節に「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。「一行」とは、主イエス・キリストとその弟子たちで、「湖」とはガリラヤ湖、「向こう岸」とはその東側の岸です。主イエスと弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡り、東側のゲラサ人の地に着いたのです。ここはイスラエルの民の地ではなく、当時ギリシャ人が多く暮らす異邦人の地でした。最後の20節に「デカポリス地方」とありますが、「デカ」とは数字の十、「ポリス」は町です。この地方には、ローマ人が建てた十の町があったのです。ゲラサも、その十の町の一つです。この船旅は、主イエスのご意志によることでした。4章35節に、主イエスご自身が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったとありました。主イエスが湖の向こう岸、異邦人の地に、一人の異邦人の救いのために弟子たちと共に、あの嵐の湖を渡って来られたのです。

ここで主イエスに救われた一人の異邦人とはどんな人間だったのでしょうか。2節に「汚れた霊に取りつかれた人」とあります。その姿は3節から5節にこのように描かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。現代の私たちはこれを読むとすぐに、ああこの人は重い精神的な病気だったのだ、と思います。彼は墓場を住まいとしていました。地質に石灰岩の多いパレスティナには洞窟が沢山あり墓に用いていました。悪霊に憑かれていた人は、そこを自分の住まいとしていたのです。そこは普通は人が住むような所ではありません。この人は、普通の人と同じ生活をすることができなくなっていたのです。人間社会の中で、人と共に生きることができなくなって、死者の居場所である墓場にしか居ることができなかったのです。

何故この人は人々と一緒にいることができないのか、それは、「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」ということがそれを示しています。人々が彼を鎖でつなぎとめておこうとしたのは、彼が暴れ回り、周りの人々に危害を加えてしまうからです。家族でさえもどうしようもない攻撃的、破壊的な衝動が彼を捕えており、それがひとたび現れると、どんな足枷をも鎖をも砕き、引きちぎって、周りの人々を傷つけてしまうからです。それほどに大きな力が出せるのは、汚れた霊、悪霊の力によるものでした。彼の中には大勢の悪霊が住んでおり、それは豚二千匹を怒濤の如くに走らせるほどの力だったと後の方にあります。そのようなすさまじい力で彼は鎖や足枷を破壊していたのです。彼は悪霊によって鎖を引きちぎるほどの大きな力を得ていたのです。その結果、墓場でしか生きることのできない孤独、深い苦しみに陥って、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」のです。人との繋がりを失い、徹底的な孤独に陥った彼は、苦しみと絶望の叫びをあげながら、我と我が身を傷つける自暴自棄の日々を送っていのです。この悪霊に憑かれた男に似た話は、聖書の中にしばしば出て来ることから、この時代、「よくある話であった」ということが出来るのではないでしょうか。

異常な世界に住んでいる者が、初めて自分の異常性に気付き、正しい生き方を求めて新しい世界に歩み出して行く、これこそがキリストに出会った人間の姿であり、今日のこの人の物語なのです

人々は、もはや彼をまともな人間とは見做さなかったでしょう。まともな人間の世界から脱落した者としてしか考えなかったでしょう。

それは一面において正しい見方でした。この人の姿は、どう見ても、誰が見ても、神様が愛の対象として創造された人間本来の姿ではなかったからです。

確かにこの人は、墓場、即ち死の世界の入口に住んでいました。町の人々は皆、この人を、自分たちの世界では共に生きることの出来ない異常者と断定し、彼が自分たちの世界に入ることを許さないことで、社会の平安を守ろうとしていたと言えるでしょう。

しかしそれでは、この人の周りにいる人々、私たちを含めてこの物語を読む全ての人々は、自分たちが、この男とは全く生きる世界が異なり、「暗黒の世界、死の入口に住んでいるのではない」と言い切れるでしょうか。

改めて、私たちが生きている世界を見詰めるならば、冷たい洞窟の墓場の中も、暖かい家の中も、実は、「死」と隣り合わせであることに変わりはありません。アダムの罪を背負い、楽園を追放された世界に生きる悲しみを、誰でも知っているでしょう。この世を生きる私たちの「時」は、死を迎えるまでの限られた時間にしか過ぎません。

その死を目前にした私たちが、今、手にしている自由を幸福と結びつけることが出来ず、神の裁きから逃れられないとするならば、今生きている暖かく明るい部屋も、所詮は「虚しさの世界、暗黒の世界への入口である」としか言えないのではないでしょうか。

この人は6節で「いと高き神の子イエス」と呼びかけました。「いと高き神の子」とは主イエスをよく知る弟子たちでさえ言わなかった正しい呼びかけです。しかしその言葉には少しも喜びがありません。正しい表現であっても、それは決して、その正しい呼びかけの神の子に自分を委ねる告白にはなっていないからです。

そのことは、呼びかけに続く「かまわないでくれ」という言葉からも明らかですが、この翻訳は、直訳すれば、「私とあなたとはなんだ」という言い回しです。口語訳聖書は、この意味を含めて、「あなたと私と何の関わりがあるのですか」と訳しています。関係の否定であり、完全な対立、断絶、拒否を表す言葉です。岩波訳聖書では、「お前と俺は何の関係があるのだ」と、はっきりした関わりの否定となっています。

また、「後生だから」と訳されていますが、こんな言葉はギリシア語の原語にはありません。ここのところの原文は「神にかけて誓う」という意味です。つまり、「神にかけて誓う」と、神様を引き合いに出すかと思えば、直ちに「私と何の関係があるのか」と拒絶の姿勢をとり、「私を苦しめるな」「勝手にさせてくれ」と叫んでいるのです。まさに支離滅裂な姿と言わざるを得ません。

主イエスを「神の子」と呼びながら、その救い主・キリストと無関係に生きようとしている人間、また「生きざるを得ない」と思っている人間。それこそが、悪霊に憑かれた人間に共通の姿であり、滅びの入口に住みついて虚しい叫びを上げている人間の惨めな姿なのです。自分を目指して近づいて来られる主イエスを「神の子」と認めながら、「私のことなどかまわないでくれ」「私に関ってくれるな」と叫ぶのが、墓場に住む人間の特徴なのです。

9節で、この人は自分の名は「レギオン」と言います。この名前は象徴的です。レギオンとは、人の名前ではなく、ローマ帝国の軍団のことです。レギオンとは六千人のローマ軍を表す最大単位です。そして悪霊は、名前の意味を自ら「大勢だから」と説明しています。これは、「多くの悪霊がとり憑いている」という意味であろうと言う人もいますが、それよりむしろ、自分が「単なる一個人以上のものである」ということを強調しているのでしょう。

11節で悪霊は主イエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったとあります。悪霊は、何故、豚の中に入ることを願ったのでしょうか。

豚は、ユダヤ人にとって、食べることが禁じられている汚れた動物でした。ユダヤ人は、現在に至るまで、豚を飼ったり、その肉を食べたりすることは、決してありません。旧約のレビ記に記されているように、神の民としては絶対に守らなければならない、律法で規定された信仰の問題でした(レビ記11章参照)。

悪霊は、その豚の中なら、主イエスに許されると思ったのでしょう。最低の動物、全く価値無きものと共になら、自分の存続を主イエスが認めると思ったのかもしれません。

神の正義は、いささかも、悪との共存を許すことは有り得ず、神様の愛は、苦しみをもたらす罪の力を放任することは絶対にないのです。悪が隠れる場所は、何処にもないのです。なだれをうって湖の中に落ち込んで行った二千匹の豚は悪霊に対する主イエスの断固とした決意を示しているのです。

14節以下には、「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取り付かれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。・・・・・そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」とあります。

悪霊の支配から解放されたこの人は、「服を着、正気になって座っている」のです。悪霊に取りつかれていた時は裸だった彼が服を着るようになったのは、人間としての生活の秩序の中に戻ったということです。そして彼は「座っていた」のです。どこに座っていたのでしょうか。ルカによる福音書第8章に並行記事があります。そこでは彼は、「正気になってイエスの足もとに座っている」と語られています。彼は主イエスの足もとに座って、弟子たちと共に、主イエスのみ言葉を聞いていたのです。主イエスに対して「あなたと私は関係ない。かまわないでくれ」と言っていた者が、主イエスの足下に座ってそのみ言葉に耳を傾け、主イエスに聞き従う者となる、これが、悪霊の支配から解放され、正気になるということです。悪霊は、自分を縛りつけるあらゆる束縛を断ち切り、勝手気ままに生きるようにと彼を唆(そそのか)し、その力を与えました。その結果彼は自分の言葉を奪われ、悪霊の言葉を語るようになりました。つまり自由になるどころか、悪霊の奴隷となり、周囲の人々を傷付け、自分も孤独に陥り、墓場でしか生きられない、罪と死に支配された者となってしまったのです。その罪と死からの解放は、悪霊に勝利した神の子、主イエス・キリストの下に置かれることによってもたらされます。主イエスの足下に座ってみ言葉に聞き従う者となる時にこそ私たちは、悪霊の支配から解放され、正気になって生きることができるのです。

彼が主イエスに聞き従う者となったことは、18節で主イエスがその地を立ち去ろうとなさった時、彼が「一緒に行きたいと願った」とあることからも分かります。しかし主イエスは彼に「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいました。主イエスは彼を悪霊に取りつかれ飛び出してきた家へ帰されたのです。束縛を嫌い、勝手気ままに生きようとして、共にいることができなくなったその人間関係の中へ帰されたのです。主イエスは彼がその人間関係をもう一度回復することを願って、彼をそこへと新たに派遣なさったのです。

私たちはここに、主イエスによる救いの大事な一面を見ることができます。信仰に生きるとは一方では、弟子たちのように、また彼が主イエスに願ったように、日常の生活を捨て、それまでの人間関係を断ち切って主イエスに従っていくということです。しかしまた同時に信仰者は、主イエスによって、自分の家族の中へと、与えられている人間関係の中へと新たに派遣されるのです。自由を求める思いやプライドを守ろうとする自分の思いに捉われて人との交わりを破壊してしまう私たちが、主イエスによって正気になって、その人々と共に生きる者へと変えられ、交わりを回復されていくのです。

マルコによる福音書は、冒頭の1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた」と、主イエスご自身の「新しい時が来た」とのみ言葉から始まっています。今日の物語は、この一人の異邦人に「新しい時」を与えられる主イエスが示されているのです。

主イエスによって正気になったこの異邦人は、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」と20節にあります。この人は、家族、同胞のもとへと主イエスによって新たに遣わされ、そこから新たに主イエスによる救いの恵みを証しし、宣べ伝えていったのです。

お祈りを致します。