貧しさと飢え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:民数記 27章16-17節 (旧約聖書262ページ)

27:16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、
27:17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

新約聖書:マルコによる福音書 6章30-44節 (新約聖書72ページ)

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

《説教》『貧しさと飢え』

本日は、マルコによる福音書第6章30節以下の「五千人の給食の奇跡」をご一緒にお読みします。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは先々週の6章7節以下の、主イエスが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという所を受けています。「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた使徒たちが、主イエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章12節と13節に語られています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。彼らは主イエスに遣わされてこのような働きをしてきたのです。そして帰って来て自分たちのしてきたことを主イエスに報告しました。「残らず報告した」という所に、彼らの喜び、あるいは驚き、そして興奮が感じられます。「私たちはこんなふうに語りました。その言葉を人々が聞いてくれました。そしてこんなふうに悪霊を追い出し、病を癒すことができました」と、堰を切ったように報告したのでしょう。「あれも言いたい、これも報告したい」というすばらしい体験を彼らは沢山与えられたのです。

そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。それは、「ご苦労だった。さぞ疲れただろう。しばらくゆっくり休んで英気を養いなさい」ということだったのでしょうか。ここに「人里離れた所へ行って」と言われています。主イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられるのです。それは一つには31節後半にあるように、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」です。しかし主イエスがこのようにおっしゃった一番の目的は、このマルコ福音書の1章35節を読むと分かります。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身がしばしば「人里離れた所」に行って祈っておられたのです。それはただ休むためではなくて、祈るためでした。主イエスは人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持っておられました。そのことを、今弟子たちにもさせようとしておられるのです。弟子たちには今こそ、そういう祈りの時が必要だと主イエスは判断なさったのです。

「あなたがただけで」人里離れた所へ行けとおっしゃった主イエスは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行かれました。このことは、弟子たちだけでは本当に休み、祈ることができない、ということを示しているのかもしれません。主イエスに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、働きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じではないでしょうか。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなる、「奉仕」をしたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。

人里離れた所へ行くために、主イエスと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々は主イエスがしばしば祈りに行っておられた場所を知っていたのでしょう。一行の先回りをして待っていたのです。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていたのです。それほどまでに人々は、主イエスのみ言葉とみ業とを求めていました。主イエスはその大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。人里離れたこんな所にまで主イエスを求めて押し寄せて来るということは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないのです。それはある意味では誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らは、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる主人を求めていたのです。主イエスはそのような人々を見て、「深く憐れまれ」ました。これはただ「可哀想に思った」というのではありません。この「憐れむ」という言葉は「内蔵が揺り動かされる」という意味であり、新約聖書では、主イエスご自身にのみ用いられています。主イエスが、苦しんでいる人を、内蔵が揺り動かされるように深く特別な思いを示されたという意味の言葉です。そういう深い憐れみによって主イエスは、人々にいろいろと教え始められ、み言葉を語っていかれたのです。

主イエスの説教が続いて行く間に、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは街中ではなくて人里離れた場所です。そこに、男だけでも五千人の人々が集まっているのです。まもなく日が暮れる。そうしたら、こんなに大勢の人々が腹をすかせたまま一夜を過ごさなければならなくなる。そうならないためには、そろそろお開きにしないと、このままではみんな家に帰り着くことができなくなる…。それで彼らは主イエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と言ったのです。すると主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。「そんな無理なことを…」と弟子たちは思いました。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。ごく簡単に例えれば時給千円で、一日8時間働いて、8千円です。200デナリオンは約160万円になります。ですから、それくらい多額の金がなければ、この多くの群衆に食べ物を与えることはできないのです。「二百デナリオンもの」と金額を出しているのは、「そんなお金が私たちにないことは、先生あなたもよくご存じでしょう」ということです。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいました。あなたがたは今どれだけのものを持っているのか、と主イエスは問われたのです。「五つのパンと魚が二匹」それが弟子たちの持っている全てでした。その五つのパンと魚二匹で、主イエスは、男だけで五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行われたのです。

そもそも主イエスが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは何のためだったのでしょうか。そのことと、32節までに語られていたことには関係があります。彼らに、自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためだったと言えるでしょう。弟子たちは、我々は素晴しいことができた、良い働きができた、神様の救いを人々に分け与えることができた、と喜んでいます。自分たちにはこんな力があったのだ、とある意味で有頂天になっていたのです。その弟子たちに主イエスは「それではあなたがたがこの群衆に食べ物を分け与えてごらん」とおっしゃったのです。弟子たちは「そんなことはできません」と言うしかありません。素晴しい働きが出来た、自分たちにはこんなに力があったのだ、と思い上がっていた彼らは、このみ言葉によって、自分たちの力がどれほどのものだったのかを思い知らされたのです。

私たちの心には不思議なバランスがあります。それは霊的なものと肉的なものです。心が霊的なものに満たされて行くにつれて、自分の思いである肉的なものは減少します。しかし、霊的なものが失われて行くと、直ちに肉的なものが勢力を盛り返してしまうのです。伝道者にとって最も大きな危険がここにあります。与えることに熱心なあまり霊的なものを受けることを忘れた時、どんな惨めさが待っているかは言うまでもありません。

主イエスが、弟子たちの喜びを見詰めながら考えたのはこのことでした。それ故に、先ず何よりも「祈りの時」を持つことを命じられたのです。

主イエスはこのようにして、有頂天になっている弟子たちの目を覚まさせたのです。それに続いて主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃっています。弟子たちが今持っているものを確認させておられるのです。パンが五つと魚が二匹、それが弟子たちの持っている全てでした。彼らが人々に分け与えることができるものはそれだけなのです。それは五千人もの人々の前では、何の役にも立たないちっぽけなものです。しかしそのことを確かめた上で主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、魚も皆に分配なさったのです。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。

彼らが持っていたパンと魚が用いられただけではありません。39節で主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて座らせるようにお命じになりました。そして41節には、主イエスが賛美の祈りを唱えて裂いたパンと魚を弟子たちに渡して配らせたとあります。主イエスの恵み、憐れみによって与えられたパンと魚を、実際に人々に配ったのは弟子たちだったのです。このように弟子たちは、主イエスの恵みが人々に与えられるために用いられました。飼い主のいない羊のような人々に対する主イエスの憐れみは、弟子たちを通して人々に伝えられ、こうして人々は主イエスという羊飼いの下に養われる羊の群れとなったのです。「すべての人が食べて満腹した」という42節の言葉はそういうことを表していると言えるでしょう。そして43節には「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを集めたのです。ここに集められた全ての人々が、十二人の弟子たちの手を通して、主イエスの恵みによって養われ、有り余るほどに満腹したのです。

主イエスの権限を受けて悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来た弟子たちでさえ、霊の賜物が与えられることを祈り求めなければ、自分自身を誇るだけの何者でもないのです。私たちは、ここに神様の豊かな恵みと同時に自分自身の本当の姿を見るべきではないでしょうか。常に祈り、常に御言葉に聞き従い、霊的に満たされていなければ、まともなことは何一つ出来ない自分の貧しさを知るべきです。

そして、この貧しさに気付き、霊の賜物が与えられることを必死に祈り求める時、マタイによる福音書5章3節以下にある、あの有名な「心の貧しい者は幸いである」という御言葉が実現するのです。

主イエス・キリストこそ真の羊飼いであり、飼う者のない羊のような魂の飢えに苦しむ者を、決して見捨てられることはないからです。主イエス・キリストは、祈り求める者に、有り余る程の愛をもって応じられます。

それが、今朝、私たちに与えられたメッセージです。

お祈りを致しましょう。

おそれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌338番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 18章1-5節 (旧約聖書190ページ)

18:1 主はモーセにこう仰せになった。
18:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
18:4 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。

新約聖書:マルコによる福音書 6章14-29節 (新約聖書71ページ)

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

《説教》『おそれ』

本日のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネが殺された時のことが語られています。洗礼者ヨハネは、この福音書の1章の始めに登場した人物です。1章1節から8節をお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。”』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる』」。

このように洗礼者ヨハネは、「後から来られる方」、救い主イエス・キリストのために道を準備する働きをしました。1章14節に、主イエスがガリラヤにおいて神の御国の福音を宣べ伝え始めたとありますが、それはヨハネの逮捕の後でした。主イエスは、ご自分のために道を準備したヨハネが捕えられて舞台から退場した後に登場して来られたのです。そして本日の箇所には、捕えられたヨハネがその後どうなったかが語られているのです。ヨハネを捕えたのはヘロデ王でした。このヘロデ王は、クリスマスの話に出てくる、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにした、あのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれた人です。父親のヘロデは「大王」と呼ばれるに相応しい権力を誇っていましたが、この息子のアンティパスは、正式には「王」とは呼べないような、ローマ帝国の権力の下で、ガリラヤとペレアの領主として認められていただけの人です。このヘロデがヨハネを捕えて監禁していましたが、ある年のヘロデの誕生日にヨハネの首を切って殺した、そのいきさつがここに語られているのです。

14節に、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」とあります。

主イエスの活動は、ガリラヤ各地で多くの人々に強い印象を与えました。そしてその評判は、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの耳にも当然入っていました。

ガリラヤの人々は、主イエスを「バプテスマのヨハネの再来だ」と言い、「エリヤだ」と言い、「預言者だ」と言いました。その全てが的外れであったとは言え、少なくとも、彼らの期待がそこに表されていたとも言えるでしょう。

16節には、「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」とあります。ここに、ヘロデ・アンティパスの罪の自覚そのものがあるのです。彼が何を根拠にして「バプテスマのヨハネだ」と思い込んだのかは明らかではありませんが、人々の噂を聞いただけで、忘れようとしている自分の罪が甦ってくるのです。罪への恐れとはこのようなものだと言えるでしょう。

また、多くの場合、「おそれ」は「罪が発覚することに対するおそれ」と言えます。私たちは、「罪そのもの」を恐れることより、罪が発覚することを恐れるのではないでしょうか。何故なら、私たちは無数の過ちを隠しながら生活しているからであり、互いにその過ちを追求することをしないようにしています。それぞれが罪を隠しあっていることを互いに知っており、「それを追求しない」という一種の「暗黙の了解」によって、赦し合っているのではないでしょうか。

しかし、心の中まで見通す神の御前にあって、何を隠せるのでしょう。ヘロデ・アンティパスの姿は、神の御前に立つ人間の厳しさを示しているのです。

ヘロデ・アンティパスがこのように悩むいきさつは、17節以下に記されています。彼は父ヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを受け継ぎましたが、ローマ帝国の支配の下、王という称号は許されず、植民地の領主という不安定な立場にありました。自分の地位を守るために生涯心を痛め続けたヘロデ・アンティパスは、強力な隣国ナバテヤの王女と政略結婚をし、安全を図りました。

しかしながら、こともあろうに、母違いの兄弟フィリポの妻ヘロディアを見染め、兄弟であるフィリポを毒殺してヘロディアと結婚、ナバテヤの王女とは離婚して国へ帰してしまいました。このことに怒ったナバテヤの王と戦争になり、ユダヤ人民衆からは不道徳の謗りを受け、さらに洗礼者ヨハネは、主の御名によってヘロデ・アンティパスの罪を非難し、神の裁きを警告しました。

「領地の民は殺すも生かすも自由」という古代世界で、ヨハネは死を恐れず、ヘロデの罪を公然と責めたため、民衆はヨハネの姿に自分たちの不満の代弁者を見たとも言えるでしょう。そのため、領主としての自分の権威を守るためにヨハネを放置することは出来ず、彼を捕らえ、死海東岸マケラスの城の地下牢に幽閉してしまいました。

しかし、ヘロデはヨハネを殺せませんでした。先ず、ヘロデはユダヤ民衆を恐れていました。不満が大きくなれば暴動になるかもしれませんし、もしそれがローマ帝国に知られたら失脚の危険もあります。さらに、ヘロデ自身に大きな負い目もありました。ヘロデ家は、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人であり、そのためユダヤの支配者としてことさらに「ユダヤ的」であろうと務めていたのです。そのユダヤの伝統的な保護者・主なる神への畏れを捨て去ることは出来ません。

さらにまた、20節でヘロデが、「ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていた」とは意外です。律法に背き、兄弟の妻を奪ったことを責めるヨハネの言葉を恐れ、それ故に、彼を捕らえ地下牢に閉じ込めたのです。そのヘロデがヨハネを正しい聖なる人として、その言葉を喜んで聞いていると記されていますが、ヨハネはヘロデの耳に快い言葉を語った筈はありません。

「非常に当惑しながら」と記されています。ヘロデは自分の罪に苦しみながら、なお一筋の光をそこに感じていたのではないでしょうか。自分にとって、遥かに隔たりのあることではあっても、「神に従う人生」という希望を、微かでも夢見ることが出来たのではないでしょうか。取り巻きに囲まれた宮殿では味わえない一人の人間としての自分を、そこでは見出すことが出来たのではないでしょうか。

ヘロデ・アンティパスは、マケラスの城の地下牢でヨハネの前に立つ時のみ、虚飾から解放され、「本当の自分を取り戻しかけていた」と言うことが出来るかもしれません。

それでは何故、牢の外ではそれが出来なかったのでしょうか。ヨハネが「聖なる正しい人であることを知っていた」と述べられているのに、何故、その「正しく聖なる人」を地下牢の外へ出すことが出来なかったのでしょうか。ここに、「密室の中でのみ神の御言葉に従う人間」の姿が明らかに示されていると言えるのです。

実際の生活から離れたところ、他の人々との関わりを断ったところ、誰にも見えないところ、「そのようなところでのみ神様に従う人」がいるのです。反面、神の御言葉への服従は、決して自分の親しい人々の中では表しません。何故なら、神の御言葉は必ず私たちの罪や醜さを明らかにするからです。自分の罪や醜さを公然と明らかにされることを人は嫌がります。ヘロデも、自分の弱さを、マケラスの地下牢ではさらけ出せたのではないでしようか。神様を求める自分の魂を素直に表せたのでしょう。しかしヘロデは、自分の妻や義理の娘、まして部下の前では表せなかったのです。

権力者は自分の弱さを決して民衆の前では示しません。権力の座にある者は、真実の自分の姿を隠し、偽りの姿をとらなければりません。より大きな力に脅かされ、不安定な地位にあるヘロデはなおさらです。たとえ見せかけのものであっても、あらゆる手段を用いて、自分の力と権勢を誇示して来たのがヘロデ・アンティパスでした。

それ故に、彼は民衆の前で自分の真実をさらけ出すことが出来なかったのです。そしてヘロデにとっては、支配する民衆だけではなく、律法を犯してまで結婚した妻を始めとする家族の中にさえ、彼の悲劇があったと言えるでしょう。自分の誕生日のパーティーにおいて、義理の娘サロメに約束した軽率な言葉が彼の生涯を決定してしまったのです。

「欲しいものがあれば何でも言いなさい」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。その言葉は深い意味もない思い付きであったかもしれません。もともとローマの植民地の一領主に過ぎなかったアンティパスに、本国の許可もなく国の半分を与えることなど出来るはずはありません。

しかし、その、深い意味もなく虚勢を張っただけの軽率な一言が、主なる神の御前に残された最後の望みをも打ち砕く結果になったのです。見せかけの強がりをした者は、後戻りすることが出来ずに苦しむのです。その一言のために、自分で自分を苦しいところに追い詰めてしまうのです。

ヨハネを恨んでいたヘロディアは、娘のサロメに知恵を与え、サロメはヨハネの首を要求しました。そしてヨハネの死によって、ヘロデは密室におけるささやかな希望をも捨て去ることになりました。僅かに残された救いの望みを、自分の虚勢のために自ら打ち砕いたヘロデの姿は、神様の恩寵を、強がりを言いつつ台無しにする全ての人間の代表と言えるでしょう。ヘロデの罪は、真実を裏切り、見せかけの強さを誇ろうとするところに現されていたと言えるでしょう。まさに、滅び行く者の悲劇の典型です。

ヘロデは、伝え聞いた主イエスに、洗礼者ヨハネの姿を見たのです。ヨハネを通して彼に語りかけられていたあの神の御言葉が、今イエスを通して再び語られ、宣べ伝えられていることを感じたのです。彼はヨハネを殺しました。それによって、語りかけられていた神様のみ言葉を拒み、まさに抹殺したのです。み言葉によって開かれ、示されていた新しい世界への扉をぴしゃりと閉じて、元の自分の部屋の中に閉じ籠ったのです。それで事は終った、と彼は思っていたでしょう。ところがそこに、主イエスが、あのヨハネ以上の権威と力とをもって現れました。その主イエスによって、抹殺してしまった筈の神様のみ言葉が再び姿を現し、自分の心の扉を再びたたき始めたのです。「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」という愛のこもった語りかけが、再び自分に向けて語られ始めていることをヘロデは感じたのです。あのなつかしい当惑が彼の内に再びよみがえって来たのです。

このヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。神様からの愛を込めた語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神様の独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへの招きです。ヨハネにおいては、バプテスマは悔い改めの印でしたが、主イエスにおいては、つまりキリスト教会においては、罪人である私たちが主イエスの十字架の死と復活にあずかって生まれ変わり、神の子として新しく生き始めることの印です。

洗礼者ヨハネは道備えであり、主イエスは来るべき救い主であるというのはそういうことです。

墓に納められるヨハネの姿で終わるこの物語は、人間の愚かさの時代が「ここに終わりを告げる」ことを暗示していると言えるでしょう。

私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、今この礼拝において、み言葉において私たちに出会い、愛を込めて語りかけて下さっている「救いの時代」「救いの時」を私たちは生きて、新しい命へと、喜びをもって歩み出していくことができるのです。

お祈りを致します。

キリストと共に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌270番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:サムエル記 上 9章9節 (旧約聖書440ページ)

9:9 昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。

新約聖書:マルコによる福音書 6章6b-13節 (新約聖書71ページ)

6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

《説教》『キリストと共に』

私たち教会に集う者は全て、「主の御心を受け」て、「全員が福音の宣教者として神様の招きを受けている」のです。
「救われた喜び」を、私たち一人ひとりが言葉で語り、生きる姿で表す、これこそが更に多くの人々の心を開かせるのです。父なる神が、人間の救いを御自身の直接的な御業によらず、「教会に委ねた」と言われる時、選ばれた誇りと共に背負う責任の重みを、ひしひしと感じます。それこそがキリスト者の生き甲斐です。本日の礼拝では、与えられたキリスト者の使命の重みと共に、如何に意義ある人生が用意されているかを、お話ししたいと思います。
6節から9節に、「それから、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」とあります。
ここで呼び寄せられた十二人とは、言うまでもなく、主御自身が選び出されたペトロ以下の十二人のことです。少し前の3章14節で、彼らは「使徒」と名付けられました。
「使徒」ギリシャ語で「アポストロス」という言葉は「遣わされた者」という意味ですが、基本的には「使命を与えられて遣わされた者」ということです。務め・使命を与えられた「神様の意志」が最も大切なことは言うまでもありません。ですから、「使徒」という言葉は、常に「遣わされる」という受け身で理解されなければならないのです。
それに対し、通常用いられる「弟子:マセーテース」という言葉は、「教えを受ける者」という意味であり、十二人だけではなく、使徒言行録によれば、後にキリスト者全てが「弟子」と呼ばれています。
何故、このようなことを初めに述べるのかというのは、十二人が「使徒であった」から遣わされたのではなく、遣わされたことによって、「使徒になった」ということが大切だからです。
キリストに従う者は、ひとつの固定した身分や地位で生きているのではなく、「そこで何が命じられているか」ということを考え続けていかなければなりません。そして私たちが、そのキリストの御言葉に対してどのような応答をするかによって、私たちの呼び名もまた決定されるのです。十二人は「遣わされた者」として相応しく行動したため、「遣わされた者」即ち「使徒と呼ばれた者」と表現されているのです。
初代教会の信徒たちは、何事においても「キリストを第一」にするので、「キリストに従う者」(クリスティアノス)と呼ばれるようになり、それが「クリスチャン」という言葉になったということはよく知られている通りです。つまり、クリスチャンとは、自分たちが付けた名称ではなく、日々の生活があまりにも独特だったために、周囲の人から付けられた「あだ名」でした。
私たちが「何をなすべきか」を考えることは、自分自身のキリストの御前における姿を決定することなのです。自分に出来ること、自分がしたいこと、それらを考えるのではなく、主イエス・キリストが「私をどのような使命に用いられるのか」、それを聞き取ることが大切なのです。
では、主イエスは、遣わされて行く者にどのような使命を与えられたのでしょうか。
先ず第一に、7節に「二人ずつ組にした」と記されています。伝道は孤独な作業ではなく、常に、祈る友を持たなければなりません。そして祈りも、信仰の仲間の支えなしには出来るものではなく、御言葉を宣べ伝える中でこそ、キリストを主と信じる者の交わりが確認されるのです。
更に、申命記19章やルカ7章にあるようにイスラエルでは昔から証人は二人以上と定められています(申19:15、ルカ7:18)。伝道者とは御言葉の証人であり、決して個人的な作業ではなく、神に代わって御言葉を語り、神の代理者として人々の応答を聞かなければならないのです。このことは、7節の「汚れた霊に対する権能を授けた」ということからも明らかでしょう。これはキリストが持っておられる権威を代行することを示しています。遣わされた者は、遣わした方の権威を代行する者なのです。
伝道者は、自分が救われた個人的体験を語るだけであってはなりません、自分の救われた喜びを伝えるだけであってもなりません。キリストに代わって、「神の赦しの福音」を語らなければならないのです。
更に8節に「何も持つな」とも言われました。
こんなことを言った人がいました。「貧しい姿をしてこそ、貧しい者は耳を傾ける」。確かにそれは人間の心理です。しかしこのような場合、しばしば「持つな」という言葉は「持っている」ことを前提にしているのです。持っているものを隠す意図があるのです。しかし、心理的効果を高めるために、「わざわざ貧しい姿をせよ」と主イエスが命じられたとは思えません。御言葉の意図するところは、「ことさらに貧しい身なりをして語れ」ということではなく、「この世を見詰められる主の御心」を見なければなりません。仕えられるためではなく仕えるために来られた主イエスの低さと同じようにならなければなりません。
主イエスは弟子たちが宣教することが、ただ主なる神にのみに依存しているということのしるしとして、軽装で旅に出るように彼らに命じられたのです。それは、彼らが唯一の頼みとするものは、主イエスから受けた権威だけだからでした。弟子たちは村に入ったときに提供されるもてなしは何でも受けること、そして、よりよい便宜を計ろうとする者を探しに行ってはならないことを、主イエスは彼らに命じたのです。それは、与えられた仕事の達成に彼らの精神と力とを集中し続けることができるようになるための訓練でした。
私たちは、「伝道に出る」ということを「汚れた世界へ福音を伝えに行く」と考えがちです。しかし、主イエスの見方は正反対です。キリストの眼には、もともと汚れている場所はひとつもありません。主イエスの眼差しの下では全ての土地は聖なるものでした。何故なら、全ての人は神様に愛されており、主イエス・キリストは愛されている全ての人々を救うために来られたからです。ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されています。御言葉が語られる場所は、すべて「聖なる場所」なのです。主なる神様がそこにおられる場所です。そしてこのことに気付く時、11節の、「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と言われる御言葉の厳しさが初めて理解出来るのです。
それは交わりの正式な否認でしたが、同時に、弟子たちを受け入れない村に対して、その拒絶によって彼らが招く危険について警告を与えるものでした。御言葉を拒否する者の地こそが汚れた者の地であり、「神に創造された聖なる地が、神に背を向ける新しい異邦人の土地になった」ということの告知でした。ここにおいて、ヨハネによる福音書3章18節に記されている、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」。この御言葉が現実になるのです。
救いの地、顧みの地からの脱落、この恐るべきことが、「遣わされた者の言葉」によって初めて起こるのです。このように読んで来ると、御言葉の証人として使わされる者の使命は大変重要であると言えるでしょう。「二人一組」と表現されている証人の使命は、救いを拒否し、滅びの世界に留まろうとする人間自身への裁きの証人となることです。そしてまた、御言葉を受け入れる人間の救いを保証する証人になることでもあるのです。
誰がこの伝道の使命を果たすことが出来るでしょうか。誰がこの使命に相応しいと自認することが出来るでしょうか。しかし、選ばれた十二人は出て行きました。12節から13節には、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」とあります。
彼らは、自分たちが「その業に相応しい」と考えたからではなく、また、「出来る自信があった」からでもなく、ただ、キリストが「行け」と言われたから行ったのです。そしてそこで、キリストの権威を代行することが出来ました。
私たちもまた、伝道する時には、先ず、主の御言葉を聴くことから始めなければなりません。「私に何が出来るのか」ということではなく、「自分の思いを虚しくして主の御言葉を聴いているか」ということが必要なのです。
そして今、「主よ、語りたまえ。しもべは聞いております」と祈ったサムエルと同じように御前にひれ伏すならば、その時、私たちを召し、「お前を遣わそう」という御言葉を聞くことが出来るのです。
主イエス・キリストが復活されて、今も生きてここにおられるからこそ、私たちは、主イエスの成し遂げられた救いを信じることができます。私たちが生きているこの世の現実には、苦しみや悲しみが満ちています。また肉体をもってこの世を生きる私たちの歩みは、病や老い、そして最終的には死の力によって常に脅かされています。それらのことによって苦しみ、悲しみ、恐れを覚えずにいられないのが私たちの現実なのです。その私たちの救いのために、神様の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さいました。主イエスは私たちの全ての罪と、苦しみ悲しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして、父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。主イエスをも捉えた死の力を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことで、私たちにも、同じ復活と永遠の命を与えることを約束して下さったのです。主イエスの復活によってこそこれらの救いが与えられています。しかしこれらのことにも増して大事なのは、復活なさった主イエスが今も生きておられる方として私たちと出会って下さり、語りかけて下さり、そして私たちを召して、伝道へと派遣して下さるということです。
私たちは伝道に派遣されるのです。この礼拝の最後でも、その伝道への派遣を祈る祝祷がなされます。私たちにとって、その伝道への派遣とは、どういうことでしょうか。
それは、聖書を開いてキリスト教を人に伝えることでも、世の為、人の為に一生懸命社会奉仕することでもありません。勿論奉仕も大切ですが、それは結果としてなされるものです。
伝道の第一歩はマルタとマリアで例えられたマリアになることから始まるのです。主イエスのみ言葉を足もとで聞き、それに聞き従うのです。そして、その結果主イエス・キリストの十字架の救いの御業を頂き、自分自身が悔改めて変えられていくのです。
その救いによって変えられた結果は私たちの生活から直ぐに人の目に見えるように出て来ないかもしれませんが、確実に私たちの生き方を変えて行くでしょう。それは、救いの喜びに満たされ、救いの喜びの溢れ出す生き方です。
そして周りの誰もが、そんなあなたを見て、その喜びを少しでも自分に欲しいと思うんではないでしょうか。それが私たちの伝道です。
お祈りを致しましょう。

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聖霊が降る

ペンテコステ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌181番
讃美歌183番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)

◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

新約聖書:使徒言行録 2章1~13節 (新約聖書214ページ)

◆聖霊が降る
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

《説教》『聖霊が降る』

「五旬祭の日が来た」と本日の物語は始まっています。この祭りは、旧約時代に守られていた「七週の祭」に由来するもので、元来、小麦の収穫を祝う日でした。申命記やレビ記の定めによれば、過越祭の安息日が終わり大麦に鎌を入れ収穫し始めました。過越しの日から七週後、即ち、五十日目に小麦の収穫が始まり初物を神に献げる「七週」「50日」後に当たります。更にこの日は、「過越の閉じる日」とも呼ばれ、過越祭に始まる一連の春の行事の終わりの日とされ、すべての仕事を休み神殿に集まる大切な日でありました。この祭が、過越から数えて五十日目にあたることから、「五旬節」とも呼ばれ、そのギリシア語がペンテコーストス「50番目の日」なのです。ですから、ペンテコステは、穀物の収穫を祝う日であり、本来、それ以上の何ものでもありませんでした。
「五旬祭の日が来た」。私たちが、先ず注目するのは、この「来た」と訳されている言葉であります。この言葉は「満たす」という意味の言葉を強めたものであり、「時が満ちた」「いよいよその時が来た」という内容を持っています。
「時が満ちる」とは、重要な出来事、予告されていた事柄の実現の近いことを意味します。ですから、ただ「過越祭から五十日が経過した」ということではなく、「ペンテコステの日に満ちる時」とは何か、「満ちる時そのもの」に眼を向けなければなりません。そして、「満ちる時」を理解するためには、当然、それに先立つ「約束」を思い返さなければなりません。
主イエスが十字架に向かわれる前に弟子たちに約束していたことを思い出してください。新約聖書200ページ、ヨハネによる福音書16章12節から14節に「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」とあります。主イエスはご自身がこの世から去られた後に、聖霊を送られることを繰り返してお約束になったとヨハネ福音書は記しています。残された弟子たちの苦難を予告されると共に、その苦しみが喜びに変わる日のことを、はっきりと告げられました。「真理の霊」をこの世に送り、その聖霊なる神こそ、私たちの「助け主」であり、「すべてを父なる神の御計画に従って整える」ということを、主イエスは約束されました。
もちろん、十字架前夜の弟子たちには、その御言葉の意味が分からなかったでしょう。しかしながら、主の御言葉が謎に満ちていたにせよ、「来るべき日には、何かが起こる」ということは、弟子たちも感じ取っていたのです。
そのあとに続いた十字架と復活を巡って、明らかとなった弟子たちの惨めな姿、裏切りと挫折、混乱と絶望。それらを通して、主イエスは、新しい御業へと弟子たちの眼を向けさせて、「来るべきその日」に対する信仰の姿勢を整えさせたのです。
本日の使徒言行録2章1節から3節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
これが、この世に教会が初めて誕生した時でした。いったい、何が起こったのでしょうか。
1章12節以下によれば、すでに使徒と呼ばれた弟子たちや主イエスの家族を含めた主イエスに従って来た人々120人程が皆、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。彼らには祈ることしかありませんでした。祈る以外、なすべきことがなかったと言ってもよいでしょう。父なる神の御許に帰って行かれた主イエスの御言葉に彼らはすべてを委ねるようになっていたからです。彼らは、「この時」を待っていたのです。神の力が与えられ、為すべきことが教えられる「時」を、ひたすらに待っていました。それ故に、この2節の「突然」という言葉が、言いようもない「喜びへの招き」として響いて来るのです。
私たちは、聖書の御言葉を読むとき、ときとして、理解できない出来事にぶつかります。神の御心は、「理解できないことがあまりにも多すぎる」ということは事実です。それは、神の知恵によるものであり、私たちとは比べものにならない深い御心から出ているからです。それ故に、理解できない、不合理であると言って御言葉を退けるならば、一番大切なものを失ってしまうことにもなります。「不合理なるが故に信ず」という古典的な告白は、キリスト者すべてに共通なものと言えるでしょう。信仰とは、理解できないことを信頼することなのです。主イエス・キリストが父なる神の御心を受けてすべてを良いようにしてくださる。私たちは、その時を待つことに最大の努力をすべきです。
「激しい風が吹いて来るような音」。「炎のような舌」。すべては「~のような」という表現であり、その時の光景を、直接的・具体的に語ってはいないことに注目すべきです。それは、「風」ではなく「炎」でもなく、「舌」でもありません。何ひとつはっきりと示されてはいないのです。
「天から聞こえた音」とは、「風の激しさ」を表現するものです。眼に見えぬ「風の激しさ」は、「音の大きさ」でしか表現することはできません。それでは、これほどの激しさで迫って来る「風」とは何であったでしょうか。「風:プノエー」とは、「息」という意味です。ここで語られている「風」とは、自然現象である「空気の流れ」ではなく、「神の息」のことなのです。
神の驚くべき力を秘めた聖霊に、突然満たされた人間の驚き、それは、あたかも全世界に響き渡るような強烈な体験でした。彼らは、頭の中で「聖霊に満たされた」と考えたのではありません。そう「思い込んだ」のでもありません。人間の思いのすべてを遥かに超える「神の力」に包み込まれてしまったのです。
それ故に、生命と力とに満ちた聖霊なる神を、「風と炎のような舌」という想像を絶するような表現で語る以外に方法を知らなかったと言うべきでしょう。
4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。
これこそが聖霊なる神が降られた目的であり、新しく造られた教会の姿です。彼らは語り始めたのです。どこの国の言葉で語ったのか、何ヶ国語であったのかを考えることは意味のないことです。ペンテコステの日に起こったことは、語学の天才の誕生ではなく、「教会の誕生」です。それ故に、教会とはどのようなものであるかを考えることが何よりも大切なのです。
私たちの教会は、「すべての人間を救う」という神の永遠の御計画の中で、欠くことの出来ないものとして新しく造られ、今、このように存在しています。教会は、復活のキリストが、御自身世にとどまって親しく導かれること以上の大きな働きをするためのものとして、特別に与えられたものなのです。
「神の時」が新しく教会を生まれさせ、罪の中に生きて来た誰もが予想すら出来なかったにもかかわらず、恩寵の賜物として新しく建てられたのが「聖霊の宮なる教会」なのです。聖霊の宮である「教会」に生きる喜びに満たされること、それこそが、主が約束して下さった「来るべきその日」のキリスト者の姿なのです。
先ず、ここで注意しなければならないことは、ここに集まっている人々は、「すべてユダヤ人である」ということです。それが5節の指摘することでした。また、9節以下の一覧表は、「各国の人々」という意味ではなく、「それぞれの地方から帰って来た人々」ということであり、これも「ペンテコステのために海外から帰って来たユダヤ人」と理解すれば十分でしょう。この帰って来たユダヤ人とは、紀元前597年のバビロン捕囚に始まったユダヤの地から離れていったユダヤ人で、エジプト、小アジヤ、ローマ等に広く離散して、新約時代のアレキサンドリアには100万人以上も居ました。これをディアスポラ「離散」のユダヤ人と言います。現代的に言えば、それらの人々が祭りのために故郷に帰省したということです。
4節の「ほかの国々の言葉」という表現は、何を表しているのでしょうか。ある人々は「離散したユダヤ人の各国の言語による証しだ」と説明しています。それにしては、人々が7節にあるように「驚き怪しんだ」り、13節の「驚き、とまどった」のは何故でしょうか。11節の「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いた」という驚きと、13節の「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲りは、同時には理解できません。加えて、この場にいた多くの人々の悔い改めは、14節から始まるペトロの説教を聴いた後に初めて起こって来たのです。人々の悔い改めは37節の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という正しい反応へ導いたのはペトロの説教でした。ここでの、「とまどいと嘲り」しか引き起こさなかった「証し」とは、いったい何であったのでしょう。
これも2節以下と同じく、聖霊の御業を語る「信仰的表現」と考えることができます。即ち、5節以下は、4節の表現方法なのです。聖霊降臨を語る聖書は、その実態を明らかに語る表現方法を持ちませんでした。それと同じく、そこで始まった聖霊の御業も、このように表現するしかなかったのです。
4節の「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」には、「恍惚状態」という意味もあるので、正しくは、「異なる言語」ではなく「異なる言(ことば)」、あの「言(げん)」と一字で書いて「言:ことば」と訳すべきだとも言われています(岩波訳、岩隈訳、永井訳)。神の霊によって導かれる者は、自分の知恵・自分の思いではなく、神の知恵によって語り、「自分の想いを遥かに超える事柄を語る」ということです。そもそも福音とは、そういう要素を持つものなのです。
「このとき語られたのは何ヶ国語か」ということではなく、聖霊なる神によって、「教会は、今や、全く新しいことを始めたのだ」ということを告げているのです。告げられたれた内容が大切なのです。まさに、ヨハネ福音書1章1節で語られているように、「言(げん)」一字で「ことば」と呼ばせた「ロゴス」が示されたのです。
ヨハネ福音書14章27節で主イエスは、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と言われ、また今日の聖書箇所使徒言行録1章8節では、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とも言われました。その約束された「力」こそ「言」と漢字一字で書いた「ことば・ロゴス」なのです。神の力は、「ことば・ロゴス」となって人々の心の中に深く送り込まれるのです。それは、人間の業ではなく、人間の才能によるものでもありません。それは、神の業であり、神の力なのです。
9節から11節に記されている地名の一覧表も、単純に、表面的に見るのではなく、信仰の知恵によって、まったく別な意味で理解することが出来るでしょう。この地名は、厳密に語られているのではなく、言わば、代表として挙げられているのです。ユダヤを中心としてみると東方の4地域、北方の5地域、それに南方の2地域の11の地域であり、これにローマを加えれば十二です。十二は、民族を表す完全数であり、「全世界を表す」と考えられます。「西」がないと言われるかもしれませんが、ユダヤの西は地中海です。そこで、「この地名表をもって全世界を表す」という解釈が生じて来るのです。さらに、海の民の代表としてのクレタ、砂漠の民の代表としてアラビアを加えて完全さに念を入れたと考えられます。
「ユダヤが出発地であり、ローマが目的地である全世界を表す」と解釈することが出来ます。そのすべての人々が「今や福音を聞く時が来た」という宣言です。
13節の「新しいぶどう酒に酔っている」は、「安物の酒で悪酔いしているような、わけのわからない妄言」「理解できないことば」としか、この世の人々には受け止められなかったことが示されています。それだけに、聖霊の導きのもとに行われた教会の出発は、「全く新しいことであった」と言われるのです。
神の御業の先頭を走るべく建てられた教会が、世の人々から受ける反応も、このときの人々の反応と似ていると言えます。「福音をすべての人々へ」。「すべての人々に対する神の国への招き」。どこの国ではなく、どこの地域でもなく、すべての人々への招きを教会は語り始めました。
教会は、神の御心を実現するために誕生し、教会に集まる人は、神の御心に仕えるのです。
周囲の人々からのいかなる嘲りや無視、妨害さえも、世界は神の御心の下にあって、神の御業の働く場であり、御心は、「この世界に生きるすべての人間の救いである」という福音を、教会は語り続けるのです。
4節によれば、語り出したのは「聖霊に満たされた全員」でありました。「誰が」というのではなく、「一同」が「一斉に」語り出したのです。それが聖霊の御業です。聖霊に満たされた者は、語らずにはいられないのです。
これこそが、私たちのこの教会に与えられた聖霊の働きなのです。
お祈りを致しましょう。

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つまずき

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌122番
讃美歌448番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 18章15節 (旧約聖書309ページ)

18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 6章1-6節a (新約聖書71ページ)

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

《説教》『つまずき』

先週のマルコによる福音書5章36節で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいました。会堂長ヤイロはそのみ言葉を聞いて、主イエスと共に歩き続けたのです。いやむしろ、主イエスが歩き続けるので、よろめきながらその後について行ったというべきでしょう。主イエスの後について行くことは信仰を持って生きることを象徴しています。信仰に生きるとは、確信を持って堂々と力強く生きるということばかりではないのです。恐れを抱きつつ、絶望をかかえつつ、しかし主イエスが「恐れることはない、ただ信じなさい」と言って先頭に立って歩いていかれる、その主イエスに引きずられるようによたよたとついていく、信仰を持って生きるとはそういうことでもあるのです。むしろ私たちにおいてはそういうことの方が多いのではないでしょうか。

本日からの6章には、主イエスがご自分の故郷にお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたこと、しかし故郷の人々は主イエスの教えを受け入れず、つまずいたことが語られています。最後のところに「人々の不信仰に驚かれた」とあります。主イエスの故郷の人々は、主イエスが驚くほどの不信仰に陥ったのです。

主イエスが公生涯に入られるまでナザレで暮らしておられたことはよく知られていますが、そこでの生活については聖書には殆ど記されていません。ナザレでの主イエスの姿を記すのは、マルコ福音書ではここだけですが、弟子たちもいない伝道の最初の時期、ルカ福音書によれば、初めてナザレで説教した時、町の人々は憤慨し「イエスを崖から突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)とさえ記されています。ナザレは主イエスにとって、決して「心温まる故郷」ではありませんでした。

今日はそのナザレに、ペトロたちを連れて帰って来た話です。自分を崖から突き落とそうとした人々、気狂い扱いにした人々、自分を追い出した人々、その人々に神の御言葉を語るために、主イエスは故郷のナザレに再び来られたのです。

ナザレの人々はどうであったでしょうか。主イエスをお迎えするために用意して待っている町ではありませんでしたし、会堂に集まった人々も、主イエスの説教を聞きたくて来たわけでもありませんでした。

律法に忠実なユダヤ人は、安息日に会堂以外の場所へ行くのを禁じられており、必ず、全員集まるのが原則でした。また、会堂の集会は、説教者が決まっているわけではなく、管理者である会堂長、先週登場したヤイロも会堂長でしたが、会堂長がその都度申し出た人を説教者として奉仕することを許可していました。そのため、誰が説教者であるかは、集会が始まるまで分からないこともあったと言われています。

ですから、この日、町の人々は、「思いもかけない場所でイエスの説教を聞くことになった」のです。

2節から3節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とあります。

これが主イエスの御言葉に接したナザレの人々の反応でした。町の人々は「驚いた」と記されています。何に驚いたのでしょうか。あまりにも素晴しい説教に驚いたのでしょうか。それとも、自分たちに対して示された神の恵みの大きさに驚いたのでしょうか。

「驚いた」と訳されている言葉は、普通に用いられる「驚く」「びっくりする」という程度の言葉ではなく、「雷に打たれたような驚き」に用いられるものであり、大変な驚きを意味します。ここを岩波訳聖書では、「仰天した」と訳しています。彼らは何を感じたのでしょうか。

また、2節から3節にかけて三回も用いられている「この人」という言葉は、多少、軽蔑の響きのある言葉です。岩波訳聖書では「こいつ」と訳しています。下品な訳かもしれませんが、こちらの方が正確と思われます。

さらに、「どこから得たのだろう」とあるのは、意味から言えば、「どこから仕入れて来たのか」ということであり、決して、「何時の間にこんなに勉強したのか」というような「褒め言葉」ではありません。はっきり言えば、「こいつは、何処からこんな知恵を仕入れて来たのかと言って驚いた」ということであり、感心したのではなく、それどころか、「とんでもないことだ」という非難を込めた驚きでした。

ここで、主イエスが何を語られたのかは、記されていませんが、容易に想像することが出来ます。旧約聖書以来の預言の成就を語り、「神が定められた『時』、『救いの時』がやって来た」ということを告げたのです。

その福音の御言葉を聴きながら、人々は何故このような反応を示したのでしょうか。

「この人は大工ではないか」。これが彼らの呟きでした。ナザレの家はみな土や石で造られており、日本のように木材の豊富な土地ではありませんので、家を作る大工という職業はなく、家具や道具を作る職人であったと考えられます。しかしながら、間違っていけないのは、「職人であった」ということがこの時の人々の軽蔑の原因ではないということです。律法は全ての人に手に職を持って働くことを勧めています。ですから、当時の律法学者の多くは職業を持ち、働いていました。これは天幕造りという職を持っていたパウロの例からも明らかでしょう。主イエスの大工という仕事も認められることはあっても軽蔑される仕事ではありません。ここでは、職業云々ではなく、家族の名前が挙げられていることから、「それほどよく知っていた」ということであり、ナザレの人々は、主イエスのことも家族のこともよく知っていました。「私たちはみな、同じ仲間ではないか」と言っているのです。

私たちは、ここを読み、「身近な人は小さな欠点まで知っているので、まともに話を聞こうとしなかった」と理解しようとするでしょうが、それは完全な思い違いです。確かに、私たちにもそのような経験があります。

たとえば、私たちにとって、一番難しいのは家庭伝道ではないでしょうか。家族には日常生活の全てが知られています。朝寝坊はする、忘れ物は多く、そそっかしくて失敗ばかりし、ちょいちょい喧嘩もして破れ多い姿をさらしています。何を言っても、「偉そうなことを言う前に、生活態度を変えて欲しい」と言われ、そこで悔し紛れに、「預言者、故郷に容れられず」などと、いい加減なことを言うのがオチです。

私たちは、このような失敗を何度も繰り返していますが、それを主イエスに当てはめられるのでしょうか。

神の御子は、たとえ人となられても、私たちと同じ「人間としての弱さをさらけ出して生きた」と考えるのは大間違いです。視点を完全に変えなければなりません。むしろ、ナザレの人々に主イエスの生活態度を積極的に批判し得る者は「一人もいなかった」と考えるべきです。

彼らの驚きの理由はただひとつ、3節に記されているように、「我々と一緒に住んでいるではないか」ということ、即ち、「私たちと同じ町の人間ではないか」ということであり、「よく知っている仲間だ」ということです。そして問題は、まさにここにあるのです。

「同じ仲間」なら、何故いけないのでしょう。「同じ町の者」ということが、何故彼らにとって躓きになったのでしょうか。「躓いた」とは、動物が罠にかかるという意味の言葉に基づくものであり、この場合、人を神から遠ざける「障害物になった」という意味です。「何が」人を神から遠ざける障害になったのでしょうか。

彼らは、決してまともに聞かなかったり、初めから馬鹿にしていたのではありません。町の人々は、主イエスの説教から、明らかに自分たちとは違うもの、異質なものを感じ取っていたに違いありません。ですから、「授かった知恵」とか「奇跡」ということがここに語られているのです。今、彼らは「知恵」とか「奇跡」と表現できる「何か」に出会っているのです。人間の知恵、人間の力、社会での常識、それらを超える「何か」を感じたことは確かであり、これはまさに、衝撃的瞬間であった筈です。

かつて、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていたペトロは、一晩中漁をしても魚が獲れずがっかりしていた時に、主イエスの指示に従って網を入れたところ、舟が沈みそうになるほど沢山の魚が獲れ、御前にひれ伏しました。その時のペトロの言葉は「私は罪深い者です」という告白でした。これは、自分を遥かに超える方と出会ったとの自覚でした。「私は何と小さな者か」「私は何と愚かな者か」という自己認識は、常に、自分を超える方との出会いにおいて起こるのです。ガリラヤ湖で起こったことも、ナザレの会堂で起こったことも、同じものであった筈です。

しかしナザレの会堂では、その驚きが逆の方向に進んでしまいました。確かに、主イエスの説教は神の御心を説き明かす福音の宣言でした。人々のこれまでの生き方に対して、全く異質なことが語られていました。彼らはそれをはっきりと聴き取ったのです。ですから、表面的な知恵や、単純な奇跡そのものを問題にしているのではありません。

彼らは、主イエスと出会い、あのペトロが仰ぎ見た主イエスを、「不快に感じた」のです。ここが最大の問題点です。主イエスが語られた福音を、自分たちが仰ぎ見て、そこへ向う「高み」として受け止めたのではありませんでした。あまりにも異質なものに対する憤りであったとさえ言うことが出来るでしょう。

誰もが進歩を求め向上することを願います。より良いものへと変わって行くことを願います。しかしながら、その向上心は共通であっても、進歩に遅れてしまった者は、「自分も共にそこへ行こう」と考えるより、自分より進んでいる者を引き降ろすことに熱心になるのです。

私たちの心の中には、自分を超える者への恐れと不安が何時もあるのです。そしてその不安が、自分の現在の立場を守るために「新しいものへ進む」ことを拒むのです。ある人はそれを弱者の防禦本能と呼び、ある人はそれを「罪がもたらす人間の惨めさそのもの」と言っています。

主イエスの御言葉を聞いたナザレの人々が、他の町の人々と比べて特別に信仰が弱かったということではありません。むしろ、同じ時代の全ての人々のように、救いの実現を望んでいたことでしょう。ただその宣言が、自分たちと「同じ仲間」によってもたらされたことに我慢できなかったのです。

主イエスを「自分たちと同じ仲間」として見た時に働く、「自分たちと同じ立場に留まらせよう」とする意識が、そこにあるのです。主イエスが、御自分を「神の子キリスト」とお示しになった時、人々は、主イエスに「ナザレの大工」として留まることを要求しているのです。

もちろん、主イエスも、ナザレの人々を「御自分と同じ仲間」として見ていました。ただその見方がまったく違いました。

主イエスは、「みんな同じ仲間だから、父なる神のところに一緒に行こう」と語っておられるのに、ナザレの人々は、「お前は私たちの仲間だから、私たちのところに留まっていればよい。そんな偉そうなことを言うな」と嘲笑ったのです。

6節で主イエスは「人々の不信仰に驚かれた。」とあります。

不信仰とは、神の御言葉を自分の世界、自分のレベルへ引き下げてしまうことです。自分が御言葉によって変わるのではなく、御言葉を自分たちと同じレベルに引き下げ、自分たちの生活に合わせて「変えてしまおうとすること」、それが不信仰というものの本質です。

5節にある主イエスの「何も奇跡を行うことが出来なかった」とは、力を発揮出来なかったというのではなく、信仰なき者に対する主イエスの拒否です。自分から恩寵に心を開こうとしない者に対する裁きです。

キリストが私たちにかけてくださる「あなたがたは私の家族なのだ」と言う御言葉こそ、私たちが聞く新しい希望です。「私と同じだ」というのは、主イエス御自身が十字架の苦しみと復活を通して、初めて私たちに与えられた信仰の恵みです。私たちが気付かぬ間に、罪に支配されてしまうこの世界を、神の家に変え、「神の家族」を取り戻そうとする主イエス・キリストの御心を想わなければなりません。

「あなたがたは私の家族なのだ」。背を向ける人々にさえ、このように語り続けられる主イエスの御心を感謝して受け止める時、私たちは自分一人の思いから抜け出して、自分の大切に思う人、愛する人を主イエスと共に歩む「神の国」への道、「救い」へと誘えるのです。

お祈りを致しましょう。

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