主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

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耐え忍ぶ者は救われる

《賛美歌》

讃美歌546番
讃美歌68番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 77編5-16節 (旧約聖書912ページ)

77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

新約聖書  マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『耐え忍ぶ者は救われる』

本日はマルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。私達の信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。

聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く輪廻転生的なものではなく、創造から終末に向かって一筋に進んで行く直線的なものなのです。

今日のマルコ福音書の13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」とも呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それが新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」です。そのヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難に、主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主に従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、このマルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

今日は、この終末についてマルコ福音書から読み取っていきたいと思います。

13章始めには、この小黙示録がどのような経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、あのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このエルサレム神殿の僅かに残っている壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。実はこの神殿破壊は、主イエスが十字架に架かられて暫らく後の紀元70年に現実となりました。ローマ帝国によって、このエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ってしまうのです。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「黄金の岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスは、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰っているように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。目を見張るような神殿が建てられている事実をもって、ここに神がおられると考えていたことは、人間の宗教心が生み出す偶像礼拝であると言っても良いでしょう。そこには、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。旧約聖書のエレミヤ書7章11節には「神殿を強盗の巣窟にしてる」といった厳しい表現で、神殿があるから大丈夫、というイスラエルの民の安易な思いへの警告が語られています。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまう、神に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとする。主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスが語られた第一の意味です。

しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神の独り子であられる主イエスが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲(いけにえ)として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、動物の犠牲による贖いはその意味を失うのです。主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っておられるのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。

3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わり、終末のことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するというのであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こることによって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。

終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内戦があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。ここ最近、地球は災害に見舞われていると言って良いでしょう。日本においても、いくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、地球温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということすら心配される状況ではないでしょうか。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されています。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられません。ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが二千年前に預言されたことが今起こっていると考えることもできます。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらず直面する世の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。

9節以下に、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂が流れ、預言者まがいの者が現れます。しかし、そこで、それらに惑わされるのではなく自分のことに気をつけろと言われるのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。

主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を立てたいと考えます。

主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどという力を持っていません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。

キリスト教信仰のゆえに迫害を受けたこと自体が人類の長い歴史上で信仰の証しの機会となっているのです。その厳しい迫害の中でも、主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神の御心が実現していくのです。

祈りつつ、御言葉に立って歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。

世の終わりは既に来ているのです。その現実の中で、私たちは、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、十字架と復活によって示して下さった救いの約束の御言葉に立つのです。聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしていくのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神様の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像とし、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。

そのような私たちに主イエス・キリストが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、私たちは、神様がなして下さる救いを見失わずに、この世で、真の救いの御支配を待つ希望に満ちた日々を歩み続ける者となるのです。

お祈りを致します。

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高慢な者は低くされる

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌138番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書  箴言 30篇11-14節 (旧約聖書1,031ページ)

30:11 父を呪い、母を祝福しない世代
30:12 自分を清いものと見なし/自分の汚物を洗い落とさぬ世代
30:13 目つきは高慢で、まなざしの驕った世代
30:14 歯は剣、牙は刃物の世代/それは貧しい人を食らい尽くして土地を奪い/乏しい人を食らい尽くして命を奪う。

新約聖書  ルカによる福音書 18章9-14節 (新約聖書144ページ)

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

《説教》『高慢な者は低くされる』

皆さん、今日は教会学校との合同礼拝です。私は、この成宗教会に4月に赴任しましたが、新型コロナウィルス感染症の流行で、4月と5月の2ヶ月間は集会自粛で主日礼拝はお休み状態で、やっと6月から主日礼拝を再開しました。

この教会学校合同礼拝も私には初めてで、教会学校CSもずっと休んでいたので、CS生徒さんとは、ほぼ初顔合わせです。

そんな中での説教となりました。今日の聖書箇所の要点は18章9節にあります、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対してイエス様がたとえ話としてお話しになりました。

結論としてイエス様がおっしゃったのは最後の14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。聖書記者のルカはイエス様のお語りになったこの結論の意味をよりはっきりさせようとして、「高ぶる者」とは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ、という説明を、たとえ話の前に置いたのです。

イエス様がこのたとえによって問題としておられるのは、「自分」のことをどのように見るかということ、つまり「自己評価」の問題なのです。自分を高くする、高く評価することと、低くする、低く評価することとが、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの違いによってあざやかに描き出されているのです。

ここでファリサイ派とは、イエス様の時代のユダヤで、神様の掟、律法を特に厳格に守り、正しく生活を送っていた人々であって、その点で一般の人々とは違う、と自他共に自分は正しいと認めていた人々のことです。このファリサイ派の人々こそ、神様のみ前に出て祈るのに最も相応しいと誰もが思っていたのです。

それに対して徴税人とは、その正反対で、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金をユダヤ人から徴収し、それによって私腹を肥しているとんでもない裏切り者であり、当時のユダヤ人にとっては仇とも言える罪人の代表でした。

この二人の祈りはまことに対照的と言えるものでした。

このファリサイ派の人は神様に感謝の祈りをささげています。その感謝の祈りの内容は、11節にあるように心の中で『ほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこと』ということでした。この世には様々な悪人たちがいるが、自分はそういう悪人達とは違う、特に、すぐそばにいるあの徴税人のようにユダヤ人の誰からも嫌われている罪人とは全く違う生き方ができていることを、このファリサイ派の人は神様に感謝しているのです。

そして、このファリサイ派の人はさらに、自分が神様をどのように信仰しているか、そしてどのように奉仕をしているかを12節から語ります。『わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と心の中で祈ります。当時の一般のユダヤ人に求められていたのは、年に何度かの断食でしたから、ここで彼のいう週に二度というのは、普通のユダヤの人々よりもはるかに多く断食をしているということです。また『全収入の十分の一を献げている』というのも、やはりユダヤ人の律法により作物や生まれた家畜の十分の一を献げることが定められていましたが、『全収入の十分の一』というのは、はるかに徹底した献げ方です。

このように、このファリサイ派の人は他の一般的なユダヤの人々が真似をすることができないような素晴らしい信仰的行いをしていると、祈っているのです。

もう一方の徴税人の祈りは13節の、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』の一言だけでした。しかもこの徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。「遠くに立って」というのは、先のファリサイ派の人はおそらく神殿の正面のごく近い所で祈ったのだと思われるのに対して、徴税人は神殿の正面から遠く離れた隅の方で、祈ったということです。彼は神殿の隅っこの方で、しかも「目を天に上げようともせず」に祈ったのです。目を、つまり顔を天に上げて祈ることがユダヤ人の普通の祈りの姿で、祈りの姿勢なのです。ファリサイ派の人はまさにまっすぐに天を仰いで祈ったことでしょう。しかしこの徴税人は顔を上げることができない、神様に顔向けできない思いで祈ったのです。また「胸を打ちながら」というのは、嘆き悲しみや悔いを表すしぐさです。徴税人は、自分が神様にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。

このファリサイ派の人と徴税人の二人の対照的な祈りの言葉を語った上でイエス様は、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、「義なる者、正しい者と見なされる」ということです。人を義であると認めることができるのは神様のみです。あの徴税人が神様によって正しい者とみなされて家に帰ったのです。彼の祈りは聞き届けられたのです。

祈り願った罪の赦しが与えられ、神様との関係が回復されたのです。一言で言えば彼は救われたのです。

それに対して、ファリサイ派の人は義とされませんでした、神様によって義なる者と見なされなかったのです。人々の目から見たら、このファリサイ派の人こそ正しい人、義である人と思われていたでしょうし、自分自身でもそう思っていたのですが、神様は彼を正しい者と認めて下さらなかったのです。

つづいて14節でイエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉でその理由を示しています。自分を高く評価する者は神様によって低くしか評価されなく、一方で自分自身を低く評価するへりくだった者は神様によって高く評価される、ということをイエス様は語っています。

ファリサイ派の人は、自分は周囲の罪人たちとは違い、神様にしっかり仕えている正しい者だ、と自分自身を高く評価したのです。しかし神様はそのファリサイ派の人を低く評価され、罪人と宣告されました。

それに対して徴税人は自分自身を低く評価しました。自分は神様のみ前に出るに値しない罪人だ、と評価したのです。そういう彼を神様は高く評価して下さり、罪を赦して義と認めて下さったのです。

ここに語られているのは、自分自身が信仰深く神様に仕えていることを自分が高く評価するのでなく、むしろ自分の罪を認め、ヘリ下って神様の赦しを求める者を、神様はそういう謙遜な者をこそ高く評価して下さるのです。

しかし、ここまででは、余りに簡単で中途半端ではないでしょうか。もう一度、この二人の祈りの言葉を思い出してみましょう。

ファリサイ派の人は神様に感謝していますが、その感謝は「ほかの人たち」との比較です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちがいる、そういう人々に対して自分の優位性を誇っています。加えて、そばにいる「徴税人のような者でもない」と、彼の感謝は、それら他の人々と自分とを見比べて自分が優れているとの感謝です。自分はどんな信仰生活をし、どのように神様に仕え、どれだけ献金をしているか。その思いは、自分自身にばかり向けられている人間としての思いではないでしょうか。神様の思いには至っていないのです。

それに対して徴税人の祈りは、神様のみに向けられていると言えます。13節にあるように、徴税人が「罪人のわたしを」と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを見比べてはいません。徴税人は目の前で祈っているファリサイ派の人のように立派な信仰生活は送れません、罪を犯してばかりで、自分は駄目な人間です、などと祈っているのではないのです。徴税人は、ただひたすら神様のみに向かい合っているのです。罪の赦しを神様に願い求めて祈っているのです。まさに神様に向かい、神様に向けられた祈りです。

神様は徴税人のその祈りに応えて下さり、彼を義として下さったのです。彼が義とされて家に帰ることができたのは、自分を低くする謙遜な祈りをしたからだけではありません。

神様のみを見つめ、本当に神様に向かって祈ったことに、神様が応えて下さったのです。

一方のファリサイ派の人も、自分を人と比較して高慢に思い上がった祈りをしたからかえって低くされてしまっただけではありません。ファリサイ派の人は、神様に向かっていないと言えるんではないでしょうか。他の人々と自分を見比べて、自分の正しさや立派さを確認して喜び、その喜びを独り言のように祈っているのに過ぎないのです。そこには神様に対するへりくだった思いがありません。神様との交わりが成り立っていないと思われます。

つまりこの二人の違いは、神様の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べて自分の思いの上に立っているか、ということです。

このことが、「自分を高く評価するか低く評価するか」という違いを生んでいるのです。自分を他の人と比較する中で私たちが求めるのは、自分を少しでも高く評価することです。他の人からも高く評価されたいし、自分でも自分自身を高く評価したいのです。それは様々な仕方でなされます。

このファリサイ派の人の祈りの言葉はまことに高慢な鼻持ちならないものですが、しかしある意味で無邪気な、単純なあり方だとも言えます。私たちも、徴税人だった筈の自分自身がいつのまにかファリサイ派の人のようになってしまうことがよくあるのではないでしょうか。

大切なことは、神様のみ前に本当に立つということです。神様のみ前に本当に立ったなら、私たちはもはや人と自分とを見比べていることなどできません。神様のみ前では、「あの人よりは自分の方がましだ」と自己弁護をすることも、「あの人がこうだったから」と人のせいにすることや、話を人のことにすり替えることもできません。神様は私たち一人ひとりに対して、「人はどうであれ、あなたは、私を信じ従うのか、それとも拒むのか」と問われるのです。その神様の問いの前に立つ時、私たちは誰もが、この徴税人と同じように、遠くに立ち、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈り願うしかないのです。

神様の前に砕かれ、ヘリ下るしかないのです。

それでは、お祈りをいたします。

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あなたはキリストの手紙

《賛美歌》

讃美歌461番
讃美歌515番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書  エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

新約聖書  コリントの信徒への手紙 二 3章1-6節 (新約聖書327ページ)

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

《説教》『あなたはキリストの手紙』

コリントの町は古代ギリシアの都市でしたが、ローマ帝国に反抗したために、紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊され、その場所は廃墟になっていました。しかし約100年後、ユリウス・カエサルによってローマ帝国の植民都市として再建され、主イエスの時代にはローマ帝国のアカイア州の総督府が置かれるようになりました。古代地中海世界の多くの主要都市と同じように、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはいつものようにこれらの人々の間で宣教を始めたのでした。

コリントの信徒への手紙第二では、コリント教会共同体の内部生活やパウロとの関係について多く取り上げられているので、他のどの手紙よりもパウロ自身について多くを知ることができます。コリントの教会は罪を犯すことがない聖人の集まりではなく、救いにあずかり、信仰について考える過程の只中にある、罪人の集まりであったと言えましょう。パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためコリントの信徒への手紙第一を執筆しました。その手紙で、コリント教会の混乱が収まったかどうかは明確には分かりませんが、パウロは再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエフェソで得て、解決のためコリントに赴きましたが、結果は不調に終りました。エフェソに帰ったパウロは2章4節にあるように「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き、弟子のテトスに託しました。

エフェソでの働きを終り、パウロはトロアスに移動しました。トロアスは伝道有望地でしたが、パウロはコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り、そこで、コリントから帰ったテトスに会い、コリント教会の悔い改めを聞きました。この朗報に接してマケドニヤから書いたのが、このコリントの信徒への手紙第二でした。つまり、第一コリント執筆後1~2年後の紀元56年から57年頃に、この手紙は書かれたと思われます。

今日の3章1節から、パウロは、「新しい契約」に仕える使徒として任じられた証拠を自分は持っていると論じ始めます。パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書き始めています。ここに「またもや」という言葉が使われていますが、この手紙によると、パウロはコリント教会の人々から自己推薦をしていると誤解して受け取られていたようです。

この時代には、推薦状がしきりに書かれていました。ここで、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いていたということが分かります。このように、コリントの教会では、来会者を判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていたようです。

パウロが言わんとしているのは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、そのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」ということです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できる者ではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。パウロは自分を自己推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのでした。ここで、パウロはこの神様の推薦があることを明らかにしようと試みます。それが2節の、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの不思議な言葉です。これは、読む人にとっては意外な言葉です。推薦状とは、他者か、または自分が書いた書類である筈です。しかし、パウロは書類ではなく、人が自分の推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。「自分は、あなたがたに対して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、主イエスを信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」と言っているのです。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信していました。信仰者もまた「信仰は父なる神が与えてくださる」ということ、すべては神様の働きであるということを知るようになります。だから、「あなたがたは神から与えられた私の推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。

この後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということなのです。そして3節には、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」と、今度は、「あなたがたはキリストの手紙」であるということを語り始めます。パウロがまだ推薦状のことを語りたいのならば、ここを「手紙」とは書かずに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった“推薦状”」と書いたのではないでしょうか。ここでは、「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えているのです。ここからは自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々に対して、あなたたちは「キリストによって書かれた手紙である」ということを伝えたかったからなのです。

どういう意味でキリストの手紙なのでしょうか。それは、ここに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった」と書かれていることから、この手紙は、主イエスご自身によって書かれた手紙であり、その内容は主イエスが仰りたいことであるということが分かります。

主イエスが人々にお伝えになりたいことというのは、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。主イエスによって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神が、どうしようもない私たちを見捨てず愛してくださって死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神の国に入らせ、そして父なる神の家に住まわせてくださることを約束して下さっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことを主イエスは、手紙として書いているのです。その救いと愛と希望の喜びの知らせを、主イエスは私たちに書き記しておられるのです。

どのようにして、私たちに書き記されているのか、それは信仰によってです。ここに「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」とあります。私たちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時に私たちは、聖霊なる神によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。パウロは永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。

どこにそれが刻まれるのか、それは後半に「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」とあります。石の板ということで、私たちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が記された石の板、すなわち律法ではないでしょうか。パウロは、石の板である律法ではなくて、主イエスに与えられている喜びの知らせである福音が私たちの心に書きつけられているのだと言っているのです。私たちは律法によって、自分たちの罪を知りますが、律法によってでは、救われませせん。律法によって私たちが自覚させられる罪を、主イエスが十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。その救いの喜びの知らせ、「福音」が私たちの心に刻まれるということを、パウロは4節で強調しているのです。

パウロは、この救いの喜びの知らせ、福音に確信を持っていました。

そして、パウロは続く5節で神様に与えられた「資格」について語ります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

パウロがここで述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、ここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いていますが、ここは原文に沿って訳すと、「わたしたち自身は、何か考えたり主張したりするには相応しい者ではない」ということです。

これは、パウロのコリントの教会に対しての忠告であり、願いでもあったのでしょう。または彼らに御言葉を語ることの権利や資格は「そもそも自分にない」というへりくだりとも言えましょう。

ここでは、パウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。

「わたしたちには、その資格がない」と「わたしたち」と言っているのです。つまり、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、伝道者になる資格を持ち合わせていないと言っているのです。

私たちは本来、神様の救いに与る資格や神の子とされる資格も資質もありません。しかし、その資格もただ主イエスによって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。それは最後の6節を読むと分かります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。

ここの「新しい契約」とは、主イエスが十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。神様と人との契約です。創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を主イエスがその犠牲によって修復して下さったことにより神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという、神様の一方的な約束です。そして、この「新しい契約」というのは、主イエスがお生まれになる600年も昔の時代に預言者エレミヤを通して神様から与えられた約束でした。それは、先程お読み頂いた旧約聖書エレミア書に書かれていた言葉です。

ここの「霊に仕える」というのは、聖霊なる神にすべてを委ねるということです。パウロは、ここで「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神に仕える」と言っています。

ところが、ユダヤ人たちは、「神の民」とされているということや「新しい契約」をいつの間にか忘れ、律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしい者である」と考えるようになっていました。そして、律法を、絶対視するようになり、文字に書かれた律法の「行い」に違反する者を裁く者になっていました。

パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊」に仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っているのです。「文字に仕える」というのは、文字で書かれた律法の「行い」に従い、自分自身を評価し、また他者をも評価し裁くことです。そして、その律法と自らの「行い」で自分を変えたり、その律法の力と自分の力とで他者をも変えようとすることです。「霊に仕える」とは、ただ一方的な愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分自身を判断し、他者を見ること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神によって変えられること、また隣人も同様に聖霊なる神によって変えられていくことです。

今、私たちは礼拝に集い、神様の前に立つ資格を与えられています。本当は、私たちは誰一人として神様の前に立つことのできる資格を有していません。私たちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なる者、義なる者は居るでしょうか。一人も居ません。誰一人として神の御前に本来は立ち得ないのです。

そんな私たちが、神様の前に立ち、御言葉を聞くことができるのは、神様の一方的な赦しがあり、義なる者として、認めてくださっているからなのです。

罪ある者、穢れある者が、ここに居ることができるのは、4節でパウロが「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています」と言っているように、それは一方的な神様の愛である「キリストによって」なのです。主イエスによってということです。私たちは、神様の前に立つことが赦されています。神の子であることが赦されています。それはただ主イエス・キリストの十字架の犠牲によってのみで与えられているのです。その結果、私たちには、聖霊なる神に仕える資格が与えられています。この素晴らしい神様の愛を一人でも多くの人たちに伝え、共に豊かな愛の中を生きようではありませんか。

特に自分が大切であると思う人にこそ、この素晴らしい豊かな神様の愛を伝え、その愛の中に居て欲しいと思うのが私たちの素直な気持ちではないでしょうか。ですから私たち自身が「キリストの手紙」となり、すべてを神様に委ね、自分の生きる姿こそが福音を伝えるものとなりますよう祈りつつ歩んでまいりましょう。

お祈りを致します。

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幸いなる人になりなさい

《賛美歌》

讃美歌224番
讃美歌67番
讃美歌502番

《聖書箇所》

新約聖書 : テモテへの手紙二 2章19節

2:19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。

旧約聖書 : 詩篇 1編1-6節

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

《説教》『幸いなる人になりなさい』

詩編はイスラエルの長い歴史を背景にしています。その多くは神殿の礼拝で歌われたものと考えられ、また或るものは、エルサレムへ巡礼する人々の愛唱歌でもありました。そのため、一つ一つの詩の作者ははっきりとは分かりませんし、また、その詩の背景を確定出来ないものが殆どです。時代の流れの中で、人々が苦しみ、嘆き、神様を叫び求め、また神様の栄光を讃美する数々の詩は、信仰者の魂の結晶として貴ばれて来ました。

教会は、初代教会以来、イスラエルの伝統を受け入れ、詩編を礼拝の中で用いて来ました。私たちもまた、礼拝において朗読し、交読している詩編の意味をよく考え、神様を正しく礼拝・讃美する信仰を養うことが大切でしょう。

長い時の流れの中で作り上げられた詩篇は、初め幾つかの独立した詩集として存在していたようです。後に、現在のように5巻に分けてまとめられたことは、各巻の終わりが「頌栄」となっていることからも明らかです。

第1巻は、第1編から第41編、

第2巻は、第42編から第72編まで、

第3巻は、第73編から第89編です。

第4巻は、第90編から第106編まで、

第5巻は、第107編から第150編までです。

そして最後の第150編は、詩篇全体の頌栄ともなっています。

因みに、神の呼称、神の名は、第1巻ではヤーウェですが、第2巻と第3巻ではエロヒームが用いられ、第4巻と第5巻では再びヤーウェが神の名として用いられています。

このように、詩編の成り立ちや構造を見てみると、今日の第1編が特別な意味を持っていることが分かります。第1編は第2編と共に表題がありません。更に、最後の第150編が全体の頌栄となっているとするならば、第1編はそれに対応するものと考えるのが自然でしょう。即ち、この詩篇の初めの部分は、詩篇が現在の形に編集された時、全体の序曲として特に選ばれ、加えられたものと思われるのです。

詩篇1編1節は、「いかに幸いなことか」で始まっています。詩編全体の初めが「幸いなことか」という呼びかけで始まっているということは、神様の御前に立つ者が先ず告げられる御言葉が何であり、自ら口にすべき言葉が何であるかを教えるものと言えます。これは、神様よりの祝福を受け、希望を与えられた自分自身の姿の確認であり、信仰に生きる者としての自分を神様の眼差しの下にある者として見ることなのです。

そしてこの祝福は、マタイによる福音書に記されている有名な「山上の説教」の冒頭に記された主イエスの「祝福の言葉」に対応していることも明らかです。主イエスも、集まった人々に対し、「幸いなる人よ」と呼びかけられました。この意味で詩篇は、主イエスの更に遠い昔に、既に、主イエスの福音を先取りしているとも言えます。

詩編の作者は何を「幸い」と言っているのでしょうか。「幸い」と訳されている言葉は、原語では「真っ直ぐに歩く」「導かれる」という意味であり、それから「幸い」という意味が出て来ました。「幸い」とは、人生の道を真っ直ぐに歩くことであるというのがユダヤ人の考え方なのです。

このように真っ直ぐな人生の道を歩く者と対称的なのが、1節に挙げられている三種類の人間です。それは、「神に逆らう者の計らいに従ってあゆむ者」であり、「罪ある者の道にとどまる者」であり、そして「傲慢な者と共に座る者」とあります。

この三種類の人間は「遠ざかるべき道」と呼べる道を行くのです。これらの人間の先ず第一の者とは、「神に逆らう者」の計らいに従う人間です。「神に逆らう者」とは、ことさらに反逆とは言えなくても、神様を認めない、神様に従わない、神様の御心の外に生きる者をも含めています。従って、彼らは神様の平安に包まれません。その結果、この者は不安の中にあり、不安に基づく自己中心的な想いに囚われて生きることになるのです。神様に背を向ける人生に平安はありません。これが共に歩いてはいけないと言われている第一の人間です。

「遠ざかるべき道」を行く第二の者とは、罪ある者の道にとどまる人間です。「罪」とは元来「的を外す」という意味でした。間違ったものを求める者のことです。的外れの人生。それは神様を知らない、知ろうとしない人間の生きる道です。

「遠ざかるべき道」を行く第三の者とは、傲慢な者と共に座る人間です。傲慢な者とは、自分をあらゆることの中心にし、自分の生き方や考え方に何処までも拘(こだわ)る者、自己中心的に生きる者です。これが的外れの人生を生きる者の典型であるとも言えるでしょう。そして私たちの周囲に最も多いのがこの第三の人間かもしれません。

これらの三種類の人間は、人間の悪の代表的な三つの側面を現わしていると言えるでしょう。そして更に問題なのは、これら三種類の人間が、特に悪しき姿とは思えないことであり、いくらでも私たちの周囲に幾らでも居るということなのです。

神様から離れて生きる者は誰も不安から逃れられません。それどころか、誰もが不安を道連れにして生きていると言えるでしょう。そしてこの不安から逃れるために、様々な策を繰り出すのです。

或る者は豊かさに溺れ享楽的に生き、或る者は仕事へ熱中して、その忙しさの中で不安を忘れようとします。また或る者は趣味で気を紛らわし、また或る者はアルコールの力を借り、なかには法律を犯してまで麻薬などの薬物を求めます。人間が行うすべての行為は、所詮、不安からの逃避でしかないと言えましょう。

当然それらの行為は、不安から解放される道ではなく、その場限りの気紛れでしかないことは、誰でも知っていることです。それは、間違った行為なのです。安らぎのないところへ安らぎを求めているのです。神様に背を向け、自分の思いで不安から免れようとする行いは、神様の御心を考えず、神様の愛を虚しくすることであり、神様なしでも生きて行けると錯覚しているに過ぎないのです。

そこに「真っ直ぐな道はない」と詩篇の作者は語ります。神様の導きを考えず、それを求めず、また、御心を想わず、神様なしで人生を全う出来ると考えるところに「幸い」はないのです。信仰とは、これらの誤りから脱け出ることであり、神様の導きを、「必要欠くべからざるもの」と信じることなのです。

この様に、1節では、「幸いなる人」がしないことが纏められています。続いて、2節では「幸いなる人」のすることが、「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」と語られています。これが「幸いな人」の姿であり、主の道を真っ直ぐに歩む人のことです。ここにある「主の教え」とは、ユダヤの人々にとって「律法」のことです。元々「教え:トーラー」というヘブライ語が、後にユダヤの「律法」を現わす言葉として使われるようになったのでした。しかし「律法」は、規則・戒律として守るだけのものではなく、「それを愛し、昼も夜も口ずさむ」のですから、詩篇の作者の心は、「律法」それ自身にではなく、「律法」を与え給うた神様の御心である「教え」へ向けられていることは明らかです。

主なる神は、何を目指し、何を実現するために「律法」を与えられたのでしょうか。それは私たちが「真っ直ぐな道」を行くための「道標」であり、的はずれの迷子にならないための「案内地図」であったと言えましょう。

知らない道を歩くためには「案内地図」は不可欠です。登山には計画の時だけでなく登山中にも常に地図が必要です。登山中は、いつも自分が地図上の何処を歩いているのか把握してないといけません。登山が好きな私も、山の中で歩いている道に不安を感じた時、地図に記された「道筋の特徴」で自分の立ち位置を地図上に発見してホッとした経験は何度もあります。この道は正しい道なのかという疑問は、地図を見ることによってしか解消されません。登山者の平安が「正確な地図」にかかっているということは、自明のことであり、人生の道に対しても「人生の地図」といったものが必要なのです。

主なる神は、私たちの救いを願っておられます。私たちが永遠の生命へ到達することを最大の目標にされています。示された「正しい道筋」とは「神の国への道」です。そして、その「神の国への道」のために、それだけではなく、道を誤った者を引き戻して「神の国への道」へ導くために、御子イエスさえ惜しまず十字架につけられたのです。その御心に包まれて「真っ直ぐな道を行くこと」が人間の幸いな姿なのです。

3節には、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」とあります。

イエス様のお生まれになったパレスティナにはわが国のような小さな川はまったくと言ってよいほどありません。自然の川は、雨期の時だけ水が流れるワジと呼ばれるもので、雨期が終われば水は干上がり、ただの窪地の溝になってしまいます。そこで、人々は、畑で作物を作るために、数少ないオアシスの泉から水を引く水路を作らねばなりませんでした。そして、水の蒸発を防ぐためと、砂地に水が染み込んでしまわないためにその水路の両側に木を植えました。それでも、夏になりムシーンと呼ばれる厳しい砂漠の熱風が吹くと、木や草はたちまちに枯れてしまいます。パレスティナの夏は一面茶色の岩と砂漠の世界となります。現代ではスプリンクラーや点滴灌漑されている所だけ植物を見ることが出来ますが、古代ではそれが泉からの水路だけでした。一面茶色の熱砂の世界に、水路の両側に植えられたわずかな木だけが緑を保ち続け、実を結ぶことが出来たのです。

詩篇の作者は、それを「たとえ」として用い、神様に養われて生きる幸いを読者に告げました。つまり、人間が示す活力とその結果としての豊かな実りはすべて、天地の主なる神様によって備えられ、造り上げられたものであって、決して自然の中で、おのずからもたらされるものではないのです。

緑の葉はみずみずしく活力に溢れた信仰者の姿を表し、その結果としての与えられた幸福を「誰がそれを与えてくれたのか、それを考えよ」と詩篇の作者は語っているのです。

「流れのほとりの木」が、人工の水路や植樹という仕事に支えられていたように、人間の幸福は、すべて神様が用意して下さり、神様の御計画と御業によるものであることを、人生に正しく位置付けなければなりません。そしてその実りも、「時が巡り来る」と表現されているように、神様の定め、神様の秩序の下での出来事なのです。

4節と5節には、「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殼。神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」とあります。

脱穀した麦をもみ殼と麦粒に分けるのは風の吹く所で行い、風によってもみ殼を吹き飛ばすことは、今日でも行われています。旧約の預言者たちは、それを「神の審きのたとえ」として常に用いて来ました。詩篇の作者も、その「たとえ」によって、神の審きが必ず訪れることを語るのです。

神の審きは、それもまた「神の秩序」の一つです。「時」が来れば実を結ぶ木もあれば、「時」と共に滅ぼされるものもあります。その捨て去られるもみ殼の運命を、みずから選び取る者がいるのです。間違った目標を見ている罪人を、吹き飛ばされるもみ殼にたとえているのです。不安から始まったその道は、価値なきものとして捨てられるもみ殼のように、滅びへ向かうのを必然としているのです。

最後の6節には、「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」とあります。

ここの「知る」とは、知識や認識という意味ではなく、人の人格的な愛と真実の交わりを表す言葉です。最も深い人格的な関わりを表す言葉と言っても良いでしょう。主なる神は、そのような真実と愛をもって私たちを常に顧み、交わりを保ち続けて下さる、ということなのです。

かつて、エジプトを脱出してシナイの砂漠に逃れた人々が、昼は雲の柱、夜は火の柱で守られたように、主は、御言葉に従う者の人生を守り導かれるのです。エジプトの軍隊に追われた人々を敢えて海の中に道を造ってまで救われたように、私たちをあらゆる危機から救うために、主は、新しい道を創造して下さるのです。

それを歩むのがキリスト者の人生であると言えるでしょう。なぜなら、主イエスは、山上の説教をこの詩編と同じ「幸いなる人よ」という祝福で始めているからです。「幸いなる人よ」という語りかけは、遠い旧約の時代から主イエス・キリストに至るまで、そして私たちの今の時代まで変わることなく続く神様の御心であり、主イエス・キリストにおいて、この詩編の祈りが成就したと言えるのです。

それは、新約聖書277ページ、ローマの信徒への手紙3章21節から24節に、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。

ここに、「ところが今や」と強調されていますが、今や私たちには、その主イエスの十字架の救いの力が、信じる信仰によって与えられているのです。

主イエスは、シカルの町近くのヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の生命に至る水がわき出る」(ヨハ4:14)と言われました。まさしく、今日の詩篇の水の流れは主イエスによって造られ、私たちは、その枯れることのない「流れのほとりに植えられた木」なのです。もはや砂漠の熱風に生命を奪われることなく、枯れた荒野の中でも緑の葉を茂らせ、豊かな実りを結ぶもの、それこそ、生命の水に守られたキリスト者の姿なのです。私たちを守り、養われる主なる神の恵みの「水の流れ」が、如何に力強くまた確かなものかということを、私たちははっきりと証しすることが出来ます。

主に守られ、導かれる者の幸いを感謝し、希望を持って歩んで行きましょう。

お祈りをいたします。

 

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