主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

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