主は近くにおられる

8月の説教

説教箇所 フィリピの信徒への手紙4章1-7

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)

主にある兄弟姉妹の皆様、今日もまた、共に主の御言葉を聞きましょう。

本日の礼拝では、「フィリピの信徒への手紙」第4章の箇所が与えられています。これは、使徒パウロがフィリピという今日のギリシャにあった町の信徒に対して送った手紙です。

また「フィリピの信徒への手紙」は、別名「喜びの手紙」と呼ばれることがあります。それは、この手紙の中で、パウロが、繰り返し「喜び」という言葉を用いているからです。今日の聖書箇所である4章は、そのフィリピの信徒への手紙の1番最後の章になりますが、その3節には、次のように記されております。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」さらに4節にも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されております。

このように喜びということが強調されている手紙ではありますが、それはなぜでしょうか。それほどフィリピの信徒たちが、喜んでいたからでしょうか。喜びに満ちた信仰生活を送っていたからでしょうか。残念ながら、多くの人は、そうではないと考えられています。喜びなさいとパウロが命じるのは、実際には、フィリピの教会が、喜びとは、ほど遠い状態であったからでした。

フィリピの教会から喜びを奪っていたものとは、教会内にあった不和や対立であったと考えられています。それは、今日の聖書箇所にも表れています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)

ここでは、エボディアとシンティケという二人の人の名前が登場します。パウロの手紙には、しばしば実在の人物の名前が登場します。それは、パウロが、ただ深遠な神学書を書くことを目的にしていたのではなく、現実の教会のために、つまり実在する教会とそこに集う人々を想いながら、手紙を書き送ったからです。そのため、このエボディアとシンティケというのも実在の人物であったと考えられています。おそらくフィリピの教会に属する人で、フィリピの教会に対して、とくに重要な働きを担っていた人だったと考えられます。

興味深いことに、この二人の名前は、ともに女性の名前だとされています。今日でも、教会は、男性よりも女性の数が多いところです。それは、日本の教会ばかりではなく、世界的傾向といってもよいと思います。そのため、教会の実際の働きには、女性の力が必要不可欠です。それは、この成宗教会もそうでありますし、聖書の時代の教会も同様であったわけです。

おそらく、エボディアもシンティケもフィリピの教会を献身的に支えていた女性であったと考えられます。そして理由は、はっきりとは記されていませんが、この時、二人の間には、何らかの行き違いや対立が生じていました。些細な事が原因であったかもしれませんし、あるいは重要な信仰上、教会運営の意見の対立であったかもしれません。一つ確かなことは、二人の対立の結果、フィリピの教会から喜びが失われ、悲しみが生じており、またそれが遠方にいたパウロの耳にも達していたということでした。

これは教会の現実の姿を伝えていると言えます。悲しむべきことに、教会にもしばしば対立が生じることがあります。伝道や教会の方針を巡る意見の対立を巡って、あるいは、もっと個人的な問題、たとえば気の合う、合わないと言ったことでも対立が生じることがあります。このような対立が生じるのは、究極的には、私たちが、主イエスを信じ、主イエスによって罪許されても、なお罪を犯しうる存在であるからです。人間の弱さであり、また愚かさであると言えましょう。残念ながら、それはどのような教会でも起きうることです。そして、この時のフィリピの教会でも、まさにそのような対立が生じていたのでした。

それでは、そのような教会に使徒パウロはなんと語ったのでしょうか。一体、どうすれば、対立がある教会に、喜びが再び回復されると教えているのでしょうか。それは、先に引用しました2節の「主において同じ思いを抱きなさい」というパウロの言葉に表れています。

そして、続く3節以下で、当事者のエボディアとシンティケだけでなく、他の人々にも、この二人のことを支えてあげるように言います。

つまり、パウロは、二人の問題を他人事として無関心でいるのではなく、二人のために祈り、理解してくださいと願っています。それはなぜかと言うと、二人とも、他の協力者とともに、福音のためにパウロとともに戦っていたからだとパウロは言います。エボディアもシンティケも、今は対立していますが、ともに主イエスを熱心に信じる人でした。そして、福音伝道のために力を惜しまず働いていた人だったのです。このことを思い出させた後、パウロは次のように語りました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)

キリスト者の喜びというのは、主イエス・キリストにおいて、もたらされるものであるとパウロは語ります。ここにキリスト者の喜びの根本があります。教会は、主イエスを離れて、存在することはありません。また教会で語られる喜びというのは、世間的、この世的な喜びではありません。教会の喜びとは、常に主イエスから生じるものです。この世的、人間的な喜びというのは、やがては消え去るものですが、主における喜びというのは、変わることがないものです。

エボディアもシンティケも、パウロの他の協力者たちも、またフィリピの信徒たちも、主イエスを知り、主イエスを信じることで救われました。ここに、すべてのキリスト者の一致の基礎がありますし、また喜びがあります。

パウロは、この喜びと教会の一致の基礎を今一度強調いたします。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことにも思い煩うのはやめなさい。」(5節)

パウロは言います。「主はすぐ近くにおられます」と。そして、そうだからこそ広い心で、互いを受け入れ合い、あれこれと思い煩うことはやめさない。パウロは、そのように勧めます。

ここでパウロが言う「主がすぐ近くにおられる」というのが、空間的に近いということか、時間的に近いということかは、はっきりとは分かりません。主は、わたしたちの側近くにおられるのか、あるいは主は、まもなく私たちの所にやってこられるという意味なのかは判然とはしません。

結論的に言えば、おそらく両方の意味が込められているのでしょう。主が近くにおられるということは、パウロの差し迫った終末的希望への信仰と密接に結びついているからです。

古代教会の有名な説教者であったクリュソストムスは、今日の聖書箇所について、「『主がすぐ近くにおられる』ここに慰めがある。」と語りました。

私たちには、思い煩いがあります。思い通りにはいかない現実があります。心配事があり、悩みがあります。それは、一人一人の信仰生活にもありますし、また教会の中にもあります。しかし、パウロが語ったように、主は近くにおられます。これこそが、信仰者にとって唯一にして、究極の慰めです。

「主は近くにおられる」ということを礼拝の中で、もっとも端的に表しているものが、聖餐式であると言えます。聖餐式を通して、主の御体と御血に与る時、私たちは、「主が近くにおられる」という恵みをはっきりと味わい知ることになるからです。そして、主が親しく臨在される聖餐式は、同時に教会が主に在って一つであることを示します。教会の一致の基礎でもあるのです。

この聖餐式の直前に「平和の挨拶」というものを行う教会があります。これは、聖餐式の前に、互いに「主の平和がありますように」と挨拶を交わすことです。自らの罪を悔い改め、お互いに対立があれば、まず仲直りしてから主の聖餐に与るというものです。主において一つである教会において、互いの罪を赦しあい、主において喜び合うことの大切さを象徴したものと言えます。

先ほども申しましたが、教会では、さまざまな対立が起こり得ます。フィリピの教会がそうであったように、日本の教会でも起こり得ます。小さな群れの中であっても、さまざまないさかいや対立、意見の相違は見られることです。しかし、使徒パウロは、そのような私たちに向けてこう語ります。人間的な目で見るのをやめなさい。この世的なものを求めるのはやめなさい。そうではなく、ただ主において喜びなさい。いつも喜んでいなさい。そして、主に在って一つとなりなさい。なぜなら、主はすぐ近くにおられるからですと。

この御言葉を心に留めて、今日もまた、主の聖餐に与りましょう。そして、そこからもたらされる喜びに生きるものとなりましょう。

お祈りをいたします。

安心していきなさい

7月の説教

聖書箇所 ルカによる福音書7章36-50節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日も、主の御言葉を共に聴きましょう。

本日示されました新約聖書の箇所は、ルカによる福音書7章36-50節です。今日の箇所では、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれた時のことが記されております。イエス様たちが、シモンの家にいると、そこに一人の「罪深い女」といわれる人がやってきて、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに接吻して香油を塗ったのでした。

この罪深い女というのが、誰であったのか、その名前をなんといったのか、それは、記されていません。例えば、伝統的な教会の理解では、この罪深い女を、他の福音書に描かれる、主イエスの頭に香油を注いだとされる女、あるいはベタニアのマリアと同じ人物であるとされてきました。確かにマルコによる福音書14章では、重い皮膚病を患うシモンという人の家に主イエスが招かれた時に、主イエスの頭に香油を注いだ女の人がいたという類似した記事が記されています。

もしかしたら似たような出来事が、何度かあったのかもしれません。あるいは同一の出来事が、それぞれの福音書に異なる形で載せられたと考えることもできるかもしれません。しかし、この女性が誰であったのか、それをはっきりと断定することは、今日の私たちにはできません。ただその女性が罪深い女であったとだけ、私たちは知ることができます。そして、その罪とは、売春、あるいは性的不品行を指すものであったと言われています。確かなことは、その女性が、罪深い存在であること、当時のユダヤ教の道徳や宗教的慣習に反する行いをしていることが、町の人々には広く知られていたということです。

そのことは、ファリサイ派のシモンの言葉にも表れています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」(39節)。

このシモンの言葉には、彼の二つの思いが表れていると言えます。一つは、この罪深い女に対する批判あるいは怒りです。シモンは、この女性がユダヤ教の基準からすれば、罪を犯していることを知っています。ファリサイ派であったシモンは、ユダヤ教の教えを守ることに熱心であり、自分を正しい人間であると考えています。ですから、そのような罪深い人々と関わりを持つことなどありえないことでした。それが、突然、自分の許しも得ずに、この罪深い女が勝手に自分の家に入り込んできたのです。そして、主イエスの足に香油を塗ったのです。それは、客である主イエスに対しても、また家の主人であるシモンに対しても、無礼なことでありました。シモンの面目をつぶすことになるからです。

しかし、一方で、シモンは、この女性を無理に追い出したりはしません。むしろ彼は、一歩引いて、主イエスであればこの事態をどのように対処するのか、事態を伺っています。「預言者ならば、この女がどのような人であるか分かるはずだ」。そのシモンの言葉には、主イエスの期待あるいは主イエスを試すような彼の気持ちが込められています。

この言葉が示すように、シモンは、ファリサイ派でしたが、同時に、主イエスのことを真っ向から敵対視していたわけではなかったでしょう。むしろ、自分の家に招いて、食事を共にしようとしています。ユダヤ社会において、食事を一緒にするということは、その人を自分の仲間であるとみなすことです。ですから、シモンは、むしろ主イエスに対して、一定の興味や関心をもっていたといえます。もしかしたら主イエスは、真の預言者であるかもしれない。そのように思っているわけです。そこで、彼は、この罪深い女にイエス様が気づくかどうかを試そうとします。

そのシモンの思惑に対して、主イエスは、シモンの想像をはるかに超えた言葉を語られます。41節から42節に記されている主イエスのシモンに対する問いかけに注目しましょう。「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」

この主イエスの問いかけには、主が、その女性がどのような人であったかをご存知であることが暗示されています。ご自分の足を拭った女性が、神に対して大きな負債を負っていること、つまり、これまで深い罪を犯してきたこと、また罪の赦しを心から願っていることをご存知でした。そのことを言い当てることによって、ここで主イエスは、真の預言者であることを示されたのです。

さらに、主イエスは、その後で、愛と赦しの関係を語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)

赦されることの少ない者は、愛することも少ない。どれだけ自分が罪深いものであるか、自分の罪の深さを知る者は、罪からの赦しを心から願います。そして、罪から赦された喜びを、主イエスへの愛によって表現しようとします。

おそらく、この罪深い女は、この出来事以前に、どこかで主イエスの教えに触れたことがあったのでしょう。直接、主イエスの教えを聞いたのかもしれませんし、あるいは人づてに主イエスのことを知ったのかもしれません。そして、主イエスが、自分の罪を赦してくださる方であることに望みをかけていたからこそ、今日のような大胆な行動にでたのでしょう。

他人の家に勝手に入り込んで、そこにいる客の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻して、香油を塗るというのは、よくよく考えてみれば、非常識とも言える光景です。しかし、その非常識さの中に、この女性がどれほど自分の罪深さを痛感し、またそこからの赦しを、解放を願っているかが示されています。

一方、ファリサイ派のシモンは、たしかに主イエスにある種の好意を持っていましたが、自分の罪の赦しをねがっての行動ではありませんでした。世間で話題になっている人だから、有名な先生だから、主イエスを招いたのであって、自分のすべてを主の前にさらけ出す気持ちはありませんでした。それが、シモンと罪深い女の決定的な違いでした。

この二人の違いを示された後、主イエスは「あなたの罪は赦された」と女性に宣言されます。預言者として、その女性の正体を見抜かれただけでなく、罪の赦しを宣言されたのです。罪の赦し、それはただ神様以外にはできないことです。それを主はここではっきりと宣言されます。この言葉には、主イエスに自らを委ね、心から悔い改めるものは、主イエスによって救われるということが示されています。

古代教会では、今日の箇所は、しばしばユダヤ教とキリスト教の違いを示すものとして理解されてきました。すなわちファリサイ派のシモンは、ユダヤ教を象徴し、罪深い女性はキリスト教会を象徴するものと考えたのです。主イエスは、最初、シモンの家、つまりユダヤ人の間に来られますが、彼らは主イエスを受け入れません。主イエスを心から受け入れ、愛したのは、罪深い女であったのです。

この古代教会の解釈は、今日の聖書学では受け入れられないものかもしれません。しかし、一方で、感心させられるのは、それでもなお古代教会の聖書の読み方には、一定の真理が込められているということです。それは、教会というものが、この罪深い女と同じように、罪に呻き、また主イエスに罪を赦された者の集いであるということです。今日の聖書箇所は、読む者全てに、自分がシモンなのか、罪深い女性なのかを突きつけます。

自らをシモンであると考える人、つまり自分の罪を認めない人に、主イエスを本当に受け入れることはできません。そして、主イエスを受け入れ入れないがゆえに、赦されることもなく、また真の愛を知ることもできません。しかし、自らの罪を認め、心から悔い改めるならば、その時、主イエスを救い主と受け入れることになります。

宗教改革者のマルティン・ルターは言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に祈り、大胆に悔い改めよ」と。ルターが言う「大胆に罪を犯せ」というのは、わざと罪を犯せ、わざと悪いことをしろというものではありません。罪とは、そのような単純なものではないからです。ルター自身も、長い間、自分自身の罪に悩み苦しんだといいます。罪とは、自分自身の生き方を変えられないという嘆きです。罪とは、生き方そのものに関わるものです。

今日の聖書箇所に登場した罪深い女が、一体どのような罪を犯したのか、具体的には知ることはできません。しかし、いずれにしても、それは彼女が、望んで、故意に犯した罪ではなかったはずです。むしろ、彼女は、そのように生きていく他なかったのです。自分では望まないけれども、他にどうすることもできない。それまでの生き方を変えたくても変えることができない。それこそが、人間の本当の罪であり、また悲惨です。本当の罪とは、私たちをこのように責めさいなむものです。しかし、その苦しみと嘆きの後に、罪深い女は、やがて主イエスを見出したのでした。それは、自らの罪を、自らの人生を変えてくださる方でした。

主イエスは、この罪深い女に、最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50節)あなたの信仰こそがあなたを救う。主イエスへの信仰によってだけ救われる。主イエスを信じることによって、全く新しい生き方をするようになるということです。

主イエスによって罪が赦され、この女性は全く新しい人生を歩むようになりました。しかし、それはこの女性だけではありません。ルターもそうですし、また私たち教会に集う者全てがそうです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この主イエスの言葉は、今も、自らの罪に呻き、主イエスに依り頼む全ての者に向けられているのです。この御言葉に支えられて、平安の内を生きたいと思います。

祈りましょう。

唯一無二

6月の説教

聖書箇所 使徒言行録4章5-12節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

主にある兄弟姉妹の皆様、本日もまた主の御言葉を聴きましょう。

本日は、使徒言行録4章の御言葉が示されました。ここでは、12使徒のペトロとヨハネがユダヤ教の議員、長老、律法学者たちによって、取り調べを受けた時のことが記されています。6節には、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と記されております。

「ああいうこと」というのは、病人を主イエスの名によって癒したことを指します。これは3章のところで記されている、足の不自由な男を癒したことでした。3章16節にありますように、イエスの名によって、ペトロたちは、この人を強め、癒しました。

ユダヤ教の議員や律法学者たちは、これを問題視しました。なぜなら、イエスの御名によって人が癒されることを認めるならば、自分たちが死刑の判決を下し、十字架につけて殺してしまったイエスこそが、特別な力を持った存在、さらに言えば神の御子であったということを認めることになるからです。

そこで、彼らは、ペトロ達を尋問することで、ペトロ達を押さえつけようとします。ペトロたちを脅すことで、イエス・キリストの復活を宣べ伝え、主イエスの御名によって、人々を癒そうとすることを妨害しようとしたのです。

これに対して、ペトロは、彼らの圧力に恐れることなく実に堂々と弁明しています。8節にも「聖霊に満たされて言った」と記されておりますように、ペトロを強めたのは聖霊なる神でありました。聖霊が、ペトロに勇気を与え、証しすべきこと、語るべきことをお示しになったのです。

それでは、ペトロは聖霊に満たされてどのようなことを語ったのでしょうか。10節には次のように記されています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」

この10節の言葉にも表れているように、ペトロは、恐れることなく堂々と語ります。律法学者や長老たちのみならず、イスラエルの民全体に向けて、あなたがたが十字架につけて殺してしまい、神が死者の中から復活させられたキリストこそが、救い主であると宣言します。ペトロのこの変化は、驚くべきことです。なぜなら私たちは、聖書を読むとき、ペトロの信仰が、これまでとても弱々しいものであったことを知るからです。

例えば、イエス・キリストが十字架にかけられる夜、ペトロは、主イエスの弟子であることを指摘されました。その時、ペトロは、巻き込まれるのを恐れて、「私はイエスという人を知らない」と、三度も主イエスのことを否定したのです。そして、恐れてガリラヤに逃げ帰ってしまったのでした。

そのペトロが、今ここで、かつて関わりを否定した主イエスの御名によって癒しを行っています。さらに、取り調べの最中にも、その主イエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったではないかと、有力者たちに、物おじすることなく、はっきりと批判しているのです。それはイスラエルの宗教的指導者たちを、怒らせ、命の危険を生じさせる危険性のある行為でした。しかし、それにも関わらず、ペトロは、主イエスの御名によって、癒しを行い。またその名による救いを大胆に語ったのでした。それは、まぎれもなく聖霊の神の御導きに他なりません。なぜなら、誰も、聖霊による以外に、イエスをキリスト、救い主であると告白することはできないからです。

こうして、聖霊によって促されたペトロは、12節において、はっきりと主イエスの名による救いを証言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、ペトロの偉大な信仰告白であると言えるでしょう。聖霊によって、導かれたものが語る真実の言葉であると言えます。

思えば、キリスト教とは、このキリストの名に対する信頼に基づくものであると言えましょう。たとえば、わたしたちは、お祈りする時、最後に決まって、「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と締めくくります。これは、お決まりの定型句のように考えてはいけないものです。そこには、信仰的な意味が込められているのです。それは、ただキリストに依り頼むという徹底した救いの確信です。今日の箇所で、ペトロが証したように、私たちには、この名前以外に救いは与えられていないからです。

父なる神に祈る時、私たちは、自分自身の名によって祈るのではありません。また、天使や偉大な聖人の名によるのでもありません。ただイエス・キリストの名、イエス・キリストの権威によって、わたしたちは父なる神に祈ることができます。主イエス・キリストによって、私たちの祈りを聞き届けてください。私たちの祈りには、そのようなキリストへの徹底した信頼が込められているのです。

当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、信仰者であっても、しばしばキリストを忘れ、キリスト以外に救いを求めてしまうことがあります。『ハイデルベルグ信仰問答』の問い29、30でも、その危険性に対して警告しています。

問29 なぜ神の御子は、「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、

唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましては見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答え:いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、信教出版社、2002年、pp.31-32)

ここには、はっきりとキリストが唯一無二の救いであることが示されています。ここで大切なことは、キリスト「のみ」が救いであるということです。キリストによってのみ救われるのであって、キリスト「も」、また別の神も救いであるということではないのです。

このハイデルベルグ信仰問答の言葉は、ペトロの信仰の告白と同じように、日本で生きるキリスト教徒へ重要な課題をなげかけることになります。

なぜなら、この日本の宗教的観念では、このようなキリスト「のみ」の信仰は、しばしば受け入れがたいものとされるからです。たとえば、こういうことを言う人がいます。「たしかにキリスト教もいいものです。でも、結局は、どの神様を信じていても同じでしょう。キリストだって、お釈迦様だって、神社の神さまだって、どれもみな結局は同じでしょう。」

このような考え方をする方も、日本では少なくないように思います。そして、ハイデルベルグ信仰問答が警告しているように、私たち信仰者もまた、気を付けていないと、キリスト「のみ」の信仰から、キリスト「も」、他のもの「も」という信仰に陥ってしまう危険性を持っています。しかし、このキリスト「も」という信仰は、結局のところ、キリストを信じているとは言えない。そのことを、『ハイデルベルグ信仰問答』ははっきりと教えています。

このことは、「キリスト者」、「クリスチャン」という言葉にもよく表れています。この言葉は、わたしたちが何者であるかを良く言い表しています。キリスト者とは、そしてキリスト教とは、ただキリストにのみ、自らの救いの確信を置き、また望みを置くことです。救いの一部ではなく、救いに必要なことがすべてキリストにあると確信することです。

それは、キリストだけが、罪の赦しのために十字架にかかり、また死者の中から復活されたということによっています。キリストだけが、わたしたちの罪を許すことのできるお方であり、また永遠の命を与えてくださるということです。

主イエスの御名により頼むというのは、その犠牲に感謝し、その恵みの内を生きるということを意味します。ただ主が示してくださった救いを信じ、そこに唯一無二の慰めを見出しつつ、信仰の歩みを進めたいと思います。

祈りましょう。

あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。

目が開ける時

成宗教会牧師 藤野雄大

説教箇所:ルカ24章13-35節

「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

主にある兄弟姉妹の皆様、私たちは先週の日曜日、主の復活をお祝いいたしました。そして、これから6月半ばのペンテコステまでのおよそ2か月の間、教会は復活節の時を過ごしていくことになります。

主イエスは、復活された後、まずマリア達に現れ、それからも弟子たちのもとに次々と姿を現わしていきます。イエス様が十字架にかけられてしまったことで、弟子たちは、うろたえ、なすすべを知りませんでした。しかし、主は、そのような弟子たちをお見捨てになることなく、復活後、弟子たちに御自身の姿を示されました。そして、その復活の主イエスのお姿を見ることで、初めて弟子たちの止まっていた時は進みだし、今一度、信仰を取り戻していきます。

今日、示されました聖書の箇所、ルカによる福音書もまさにその一つで、しばしば「エマオの途上」と呼ばれる箇所です。聖書の言葉は、どれも素晴らしく、神の救いにあふれたものですが、このエマオの途上の話は、とりわけ魅力に富んでいて、一つの美しい短編小説のようだと言う人もいます。教会でも、復活節の時期に繰り返し読まれる、大変馴染み深い箇所だと言えます。

主イエスが復活された日のことでした。二人の弟子が、エルサレムから10キロほど離れたエマオという村に向かっていました。18節に記されておりますように、二人の弟子の内の一人は、クレオパという名前でした。もう一人の弟子の名前は記されておりません。

クレオパともう一人の弟子は、エマオに向かって歩きながら、婦人たちから聞いた話について論じあっていました。それは、イエス様が復活され、その亡骸がどこにも見当たらないというものでした。その時、イエス様御自身が、彼らのもとに近づいてこられましたが、しかし、二人の弟子たちは、それがイエス様だとは気づきません。なぜなら、彼らの「目がさえぎられていたからだ」と聖書は記します。二人の弟子の目が開かれ、イエス様に気づくまで、まだしばらく待たなければならなかったのです。

この二人の弟子たちにイエス様は、「やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられました。これに対して、クレオパは、「あなたはエルサレムにいながら、あなただけは、この話を聞いたことがなかったのですか」と答えます。このクレオパの言葉から、イエス様の復活のうわさは、すでにエルサレム中に広まっていたことが分かります。皆が、その噂を聞き、さまざまに話し合っていたのでしょう。しかし、同時にクレオパの言葉には、大きな皮肉も込められています。なぜかと言いますと、気づかないとは言え、クレオパは、復活の出来事を誰よりも知っているお方、この世界で唯一、復活について理解し尽くされているお方に対して、「あなたただけは知らないのですか」と問うているからです。

そのあとの19節以下のクレオパの言葉には、彼の落胆と戸惑いが表れています。彼は、イエス様が、「行いにも言葉にも力のある預言者であった」と言います。しかし、そのイエス様が、十字架にかかり、死んでしまったことを嘆きます。そして、クレオパは21節にあるように、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と過去形で語ります。そして、十字架にかかってからもう三日も経ってしまったとダメ押しします。これは、イエス様に抱いていた希望が打ち砕かれてしまったというクレオパのあきらめや落胆の心境を示していると言えます。そのように失望の中にいたクレオパたちを驚かせたのが、マリアたちがもたらした知らせでした。それは、「イエス様は生きておられる」というものでした。そして、その言葉通り、墓には、イエス様のご遺体が無くなっていたという知らせでした。

この知らせを聞いても、クレオパたちは、半信半疑だったと推察されます。「常識で考えれば、そのようなことはありえないに決まっている。いや、しかし、もしイエス様が本当に復活したとしたら...。」おそらく、そのような気持ちでいたので、仲間とずっと話し合っていたのでしょう。しかし、信仰に関する事柄、とくに復活は、どれだけ議論したところで、理解できるものではありません。人間の知恵や理性では捉えきることができない事柄だからです。そのため、二人の弟子の議論も結局は、結論のでない堂々巡りものだったことでしょう。人が、復活を受け入れ、信じるためには、やはり主イエスの御導きに依るほかはないのです。

そこで、主イエスは、クレオパともう一人の弟子に、聖書全体にわたり、御自分について書かれている事柄を説明されました。さらに村に近づいた時、夕方になっていたので、二人の弟子たちの求めに応じて、イエス様は、同じ家に泊まられます。そして、食事を共にされたのでした。この食事の席で、イエス様は賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、それを弟子たちにお渡しになったと聖書には記されています。すると弟子たちの目が開け、はじめてイエス様だと分かりましたが、すぐにイエス様の姿は見えなくなってしまったとあります。

大変、不思議な記述です。そして、この箇所が、まさに今日の聖書箇所全体の中心とも言えます。イエス様が、パンを裂かれる時、つまり聖餐に弟子たちを招かれた時、始めて、さえぎられていた弟子たちの目は開かれたのです。二人の弟子たちは、人間的な議論をいくら交わしても、結局は、目の前にいるイエス様の姿さえ認識することはできませんでした。彼らが、イエス様の姿を認めることができたのは、イエスさま御自身が彼らに近づいてきて、聖書のことを説明され、さらに聖餐のパンを分け与えられたからでした。

しかし、それではなぜ、そのあとすぐにイエス様のお姿は見えなくなってしまったのでしょうか。なぜ、イエス様は、ずっと弟子たちにお姿を現わしてはくださらないのでしょうか。

古代の有名な神学者、アウグスティヌスは、このことについて次のように語っています。「イエス様は、彼らから姿を見えなくされた。それは、それから後、イエス様は、御言葉と聖餐の中で、信仰によって見えるようになられるためであった。そのように弟子たちに認識されることをイエス様は望まれたのである。そして、主イエスは、今日では、パンを裂くこと、つまり聖餐によって、私たちにお姿を現わしつづけておられるのである。」

アウグスティヌスは、今日の聖書の箇所、エマオの途上の物語を、決して、二人の弟子たちだけに起こったことだとは考えていません。イエスさまは、説教と聖餐を通して、私たちにもお姿を現わしてくださっていると考えているのです。そして、信仰の目によって私たちもイエス様を認めることができるのだと語っているのです。

アウグスティヌスの言うことは、全くその通りだと思います。つまり、この美しいエマオの物語は、ただ2000年前、クレオパたち二人の弟子にだけ起きた物語ではないのです。実は、私たちもエマオの途上、エマオに向かって旅しているのではないでしょうか。

聖書では、しばしば信仰者の生涯を旅に例えることがあります。信仰の旅路、それは常に順風満帆とは限りません。旅の途中では、いつも天気が良い時ばかりではありません。曇りの日もあれば、大雨に振られることもあります。平らで歩きやすい道もあれば、登坂、下り坂もあるでしょう。さらに道に迷うこともあります。まっすぐに歩けずに、遠回りしなければならないこともあるでしょう。疲れて立ち止まったり、転んで倒れてしまうこともあるかもしれません。

これは、私たちの信仰にも当てはまります。いつも信仰に心が燃えているというのは難しいことです。様々な困難の中で、日常的な忙しさの中で目が曇らされてしまうこともあります。心に燃えていた情熱が、いつの間にか冷めてしまうこともあります。しかし、イエスさまは、そのような私たちにも寄り添ってくださり、旅を共にしてくださいます。そして、聖書の御言葉と聖餐を通して、私たちの信仰を呼び覚ましてくださるのです。その意味で信仰の旅とは、まさにエマオの旅そのものと言えます。

今日の礼拝後には、教会総会が開かれます。その中で長老の選挙も行われます。教会総会とは言うまでもなく、昨年度の教会の歩みを確認し、また今年度、教会がどのように進んでいくかを決める教会にとって最も大切な意思決定の時です。

しかし、教会総会とは人間的な会議の場所ではないということも忘れてはいけません。教会総会は、他の会議のように人間的な知恵を寄せ集める場所ではありません。まず何よりも私たちの祈りを寄せ集める場所です。そして、私たちを教会へと呼び集めてくださったイエス様の恵みに感謝する時でもあります。

イエス様が、私たちに近づいてきてくださいます。そして私たちを呼び集めてくださいます。ただ主イエスのこの恵みによって、私たちの信仰は温められ目が開かれるのです。そして本当に大切なこと、主の御心にかなう道が見えるようになります。教会総会、そして長老選挙とは、人間的な意思決定の場ではなく、このイエス様の恵みに答える場所であることを覚えたいと思います。

成宗教会に集う一人ひとりが、主に結ばれて、主に強められて、2019年度の歩みをなすことができますように。また新しく神様の救いの御業に触れて、信仰を起こされる方が与えられますようにお祈りいたします。