主に望みを置く

1月の説教

聖書:イザヤ書40章25-31節

説教者:藤野雄大

「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を貼って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)

 

新年あけましておめでとうございます。2020年も、皆様とともに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。さて、本日も主の御言葉を聴きましょう。本日は、旧約聖書イザヤ書の御言葉が示されました。

旧約聖書の預言者たちは、イエス・キリストに直接出会うことはありませんでした。しかし、彼らはまだ見ぬキリストの到来について、神から預言を与えられました。本日、お読みした預言者イザヤもまた、主イエスの到来と、救いの実現をあらかじめ預言しております。それは、まだ実現していない救いの約束、神の救いの御業への信頼に裏付けられたものでした。

イザヤは、今日の御言葉において、私たちに何に望みを置くのか、何を信頼すべきなのかということをはっきりと問います。そして、どのような時であっても、ただ神にのみ望みを置くこと、神のみを信頼することをイザヤは告げています。

このイザヤの言葉は、逆に言えば、イザヤが生きていた当時の人々が、主に望みを置くことを忘れていたから、神に対する信頼を失いつつあったという状況を示していると言えましょう。事実、イザヤ書が成立したのは、南北イスラエルが滅亡し、いわゆるバビロン捕囚と呼ばれる、多くの人々が捕虜となって連行された時代でした。

それは、イスラエルの歴史にとって、最も困難な時代でした。この中にあって神への信頼が動揺させられるという事態が起きたのです。それはイザヤ書40章の27節にも表れています。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

この言葉から、イスラエルの民が、国を失うという未曾有の苦難の中で、神を疑い、神に不平を訴える光景をイメージできます。そのような中でイザヤは、今一度、民に真の神をより頼むこと、信頼し続けることの大切さを説いています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れたものに力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える。」(イザヤ書40章28-29節)

神だけが、真の神だけが、人に力を与えることが出来る方である。人間の力に頼るのではなく、神の力に信頼することでしか、この困難を乗り越えることはできない。イザヤの預言は、経験したことのない苦難を前にして、自らの限界、無力さに打ちひしがれていた人々に慰めを与えるものだったでしょう。

イザヤは、こう続けます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章30-31節)

人は、有限な存在です。人間の力には必ず限界があります。若者も疲れを覚え、屈強な勇者でさえ、力を失うという、イザヤの言葉は、時代を超えた真理であると言えましょう。それゆえに、神ではなく、人、あるいは人が作り出すものに信頼を置こうとすることは、むなしいことだとイザヤは訴えます。どんなに栄えているように見えても、力があるように見えても、人間的なものは過ぎ去ります。人間的、この世的な力に信頼を置く者は必ず失望に終わるということです。

このイザヤの言葉は、イスラエルの民だけでなく、我々日本の教会もまた聞くべきものだと思います。プロテスタント教会の伝道が開始されてから160年余りの間に、日本各地で伝道が進められ、教会が建てられてきました。しかし、今日に至るまで、キリスト者は、日本にあってはごく少数の群れに留まってきました。さらに、高齢化の影響などにより、どんどん教勢は低下しています。あと数年のうちに、日本の教会数は激減するという事態を迎える危険性が、しばしば指摘されています。

このような状況の中で、それぞれの教会において、あるいは教区や教団の取り組みとして、さまざまな伝道の努力がなされていると思います。それは、確かに貴いことです。しかし、人の力によってではなく、神の力によって教会は建てられているということを忘れてはならないと思います。教会は、常に神に望みを置くべきであります。たとえ、どのような苦難に直面しようとも、ただ「主に望みを置く」ということを忘れてはならないと思います。

教会の歴史は、常に順風満帆であったわけではありません。むしろ、いつの時代も、教会は、それぞれの時代特有の危機に直面してきたのだとも言えます。しかし、教会は、その都度、神に望みを置くことから立ち上がる力を得てきました。

私たちプロテスタント教会の直接のルーツである宗教改革者たちも、腐敗と堕落の蔓延する中で、ただ神に望みを置き、神の御言葉に強められて、教会の霊的な再建を推進しました。その結果、彼らは教会から破門され、迫害を受けることもありました。しかし、彼らが、そのような地上の権力を恐れなかったのは、ただ主に望みを置いていたからでした。

また私たちの住む日本に派遣されてきた宣教師たちも同様でした。我が国に派遣され、伝道の働きをなした宣教師たちは、もちろん母国の教会から支援を受けておりました。しかし、慣れ親しんだ母国を離れて、異国の地で伝道し、教会を建てることの困難は、容易に想像することができます。そのような困難を乗り越えて、日本に教会を建て上げることができたのは、彼らが、究極的には主に望みを置いていたからでした。

教会が望みを置くのは、この世的な力でも、人間的な知恵でもありません。主に望みを置く時、教会は、困難を乗り越える力を与えられます。成宗教会の現状もまた、人間的な目で見た時、決して楽観的なものではないかもしれません。しかし、2020年の始まりの時、新しい気持ちで、主に望みを置いて歩みを進めたいと願います。

祈りましょう。

大きな喜び

12月の説教

聖書:ルカによる福音書2820

説教者 藤野雄大

*この説教は2019年のクリスマスイブ礼拝でなされたものです。

主にある兄弟姉妹の皆様、クリスマスおめでとうございます。2019年のクリスマスを迎える今宵、皆さまも今年一年間の歩みを振り返られているのではないかと思います。今年も世界中、日本中で様々なことがありました。いい知らせもあれば、悪い知らせもありました。国内のことに目を移せば、今年は台風が猛威を振るった年でした。千葉県や長野県などを中心に、日本全国広範囲に建物の損壊や、貴い人命が失われる事態が起こりました。被害にあわれた方々に、主のお慰めがありますようにお祈り申し上げます。

本日、読まれましたルカによる福音書では、クリスマスの出来事をこのように記しています。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたの救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」

民全体、つまり全世界に与えられる大きな喜び、これがクリスマスの意味、主イエス・キリストが世にお生まれになった意味だというのです。世を救うために、メシア、救い主がお生まれになった。天使は、そのように告げたとされています。

しかし、クリスマス、御子イエス・キリストの誕生が示す大きな喜びとは一体どのようなものでありましょうか。もはや悲しみや嘆きもなくなるということなのでしょうか。しかし、人類の歴史を考えてみれば分かりますように、イエス・キリストが誕生した後も、世界には、たくさんの悲しみが存在し続けてきました。数えきれないほどの血が流され、涙が流されてきました。世界を見渡す時、弱い人が虐げられ、無力な人がその日の糧さえなく飢えている現実があります。

あるいは、そこまで大きな話ではなくとも、それぞれの今年一年の出来事を振り返っても、きっと喜びもあれば、悲しみもあったことだと思います。そのような現実を見る時、聖書が語る「大きな喜び」とは一体何なのだろうかと思われるかもしれません。聖書の言葉は現実離れした、ただのおとぎ話なのではないか、そう思われるかもしれません。一体なぜ、イエス・キリストの誕生は、世界全体にとっての大きな喜びなのでしょうか。御子キリストがお生まれになったことは、一体どのような意味で、大きな喜びなのでしょうか。

聖書では、天使たちは、羊飼いにキリストの誕生を告げ知らせたとあります。羊飼いというのは、当時の世界では、蔑まれていた職業だったそうです。羊飼いたちは、朝晩問わず、羊とともに生活し、家ももたず、野宿をしています。そして、自分の土地ではなく、荒れ野を渡り歩く放浪者であり、その生活は不安定でした。つまり天使は、地位や権力のある人ではなく、羊飼いという弱く、貧しい人々に救い主の誕生を告げ知らせたのでした。

さらにイエス・キリストは、神の御子であったにも関わらず、決して超人的な姿でも、また、きらびやかな姿でも表れませんでした。むしろ、羊飼いたちが、実際に見たのは、暖かいベッドではなく、粗末な飼い葉桶に敷かれたわらの上に寝ている小さな赤子でした。それは、何の力も持たない弱く、小さな男の子でした。キリストは、世の人々と全く変わらないお姿でお生まれになったのです。このことは、私たちが、生きていく中で経験しなければならない苦痛や、嘆き、悲しみ、あらゆるものを神の子御自身が、担ってくださることを示しています。

「上から目線」という言葉が、しばしば使われることがあります。傲慢さや尊大さを表現する言葉です。しかし、聖書が示す神の子イエス・キリストの姿は、そのような「上から目線」とは全く異なっていました。神の子キリストは、天高くに留まっているのではなく、私たちが生きるこの現実の世界に来てくださいました。しかも、貧しく、無力な存在として世に来てくださいました。そのご生涯において、嘆く者に希望を与え、泣く者に喜びを与えました。苦しむ者と共に苦しみ、弱く無力な者と共に生きられました。病に苦しむ者を癒され、死の恐怖に脅かされる者に、永遠の命を示されました。そして、最後には、世の人々に代わって、十字架にかけられ苦しみの果てに死なれました。

神の子キリストは、このように死に至るまで、世の人々と共に生きられました。聖書が示す神の子の誕生とは、まさに神様が私たちと同じ所にまで来てくださって、私たち血の苦悩や悲嘆を共に担ってくださることを意味しています。神は、決して、この世界に生きる者をお見捨てになることなく、御自身の御子、主イエスを御遣わしになるほどに愛されておられるのです。これこそが、クリスマスの大きな喜びです。2019年のクリスマスの時、皆様に、御子イエス・キリストご降誕の大きな喜びがありますように心からお祈りいたします。

お祈りいたします。

救いの御子

11月の説教

聖書:ヨハネによる福音書第3章16-21節

説教者 成宗教会 藤野雄大牧師

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書第3章16節)

 

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日は、永眠者記念礼拝をささげております。この永眠者記念礼拝とは、この成宗教会で信仰の生涯を走り終え、今は、主の御元にある兄弟姉妹を特別に覚える日です。

この成宗教会では、現在までに、6名の教職者および、80名の教会員が永眠者として記録されています。もちろん、これで全員ということではなく、例えば、そのご生涯の一時でも、成宗教会と関わりを持たれた方を含めれば、もっと多くの方々が、この成宗教会において、主に結ばれて、信仰の歩みをなされたことでしょう。

1940年に初代牧師である有馬先生の開拓伝道によって始められてから、今日に至るまでの約80年間の歴史の中で、これだけの方々が主に結ばれたご生涯を送られたことに驚き、また主の御業に対して感謝を覚えるものです。なぜなら、これらの永眠者の記録は、成宗教会が、この成宗の地で主の福音を宣べ伝えてきたことの証しそのものでもあるからです。

残念ながら、限られた礼拝の時間の中で、ここに記された方々お一人お一人のご生涯を詳しくご紹介することはできません。また、その必要もないでしょう。なぜなら、永眠者記念礼拝とは、天に召された兄弟姉妹「を」礼拝するのではなく、天にある兄弟姉妹「と共に」、地上にある私たちが、主を礼拝するものだからです。それは、天にある兄弟姉妹が生かされ、慰めを受けてきた信仰が、今、私たちを生かし、私たちを導いていることを覚える時でもあると言えるでしょう

今年の永眠者記念礼拝を覚えて、日本基督教団の聖書日課では、ヨハネによる福音書3章16節以下の箇所が示されております。この箇所は、しばしば「小福音書」、小さな福音書と呼ばれることがあります。それは、この箇所が、福音、つまり聖書全体のエッセンス、最も大切なことを教えているという意味です。

16節には、このように記されております。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは驚くべき言葉です。なぜなら、「与えられる」というたった一言の中に、そこに、神の御子、主イエスのご生涯が、余すところなく示されているからです。イエス様がこの世界に生まれ、十字架にかかり、そして復活された、そのご生涯全体が、私たちに与えられたものであったということです。それは、その後に記されておりますように、「独り子を信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということになります。

キリスト教における永遠の命というのは、この地上にある、私たちの命が永遠であるということではありません。私たちが、いわゆる不老不死の存在になるということではありません。また仏教でいうような輪廻転生、つまり前世、現世、来世へとよみがえりを繰り返すということでもありません。

ハイデルベルク信仰問答という、私たちの大切な信仰の手引きには、次のように記されています。

 

問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。

答え:わたしが今、永遠の喜びの始まりを感じているように、この生涯の後には、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』より引用)

 

ここには、永遠の命への信仰が、わたしたちの慰めであると記されています。そして、その慰めとは、私たちが、地上にある時には、永遠の喜びの始まりを抱かせ、そして、この生涯の終わりには、私たちが想像もできないほど完全な祝福を与えられ、神のみ元にあって、神をほめたたえるようになることとされています。永遠の命とは、私たちが地上にある時も、また天に召されて後も、わたしたちの喜びであり、慰めそのものであるということです。

これは、すでに主の御元にある信仰の先達たちを、生かし、強めてきた信仰であったと言えるでしょう。彼らは、主イエスの十字架と復活を受け入れることで救いを与えられました。そして、主イエスの御名によって、信仰を告白しました。その信仰によって、新しい命の喜びに生きるものとなったのです。それは、その地上のご生涯においても、彼らを支え導く慰めであり、また主の御元に召された後には、一層大きな、輝かしい祝福になっています。

宗教改革者のカルヴァンは、このヨハネによる福音書の解説の中で、こう語っています。「信仰の正しいまなざしは、キリストを目指し、彼において愛にみちた神の心を見つめることである。そして、その愛の唯一の保証として、キリストの死に立脚することが、確固としたよりどころなのである。」

カルヴァンが語るように、キリスト教の信仰とは、キリストを見つめることだと言えます。さらに言えば、信仰とは、キリストを通して示された神の愛を見つめることだとも言えます。キリストの十字架における死が、私たちに赦しと希望を示してくださいました。成宗教会の信仰の先達たちも、キリストに結ばれて、その生涯を生き、そして終えたのでした。

わたしは、その一人一人のご生涯の詳細を詳しくは存じ上げません。しかし、彼らもまた、一人の人間として、その生涯の中で、喜びもあれば、悩みもあり、苦しみもあったことでしょう。仕事や家庭において、課題を抱えていたこともあったことでしょう。深い悲しみや嘆きの中で涙し、眠れない夜を過ごしたこともあったでしょう。病に苦しみ、肉体の衰えに不安を覚えたこともあったでしょう。嘆きや苦しみ、不安が全く無い人生というのはありえません。

この点においては、信仰者も、世の人々と変わることがありません。しかし、それでも私たちの信仰の先輩方は、キリストを見つめ、キリストを唯一のよりどころとして、その生涯を走りぬきました。そして、今は、神の御元にあって、永遠の平安と慰めの内を生きるものとされました。

このことは、今、地上の生涯を歩む私たちにも大きな慰めであり、また励ましでもあります。私たちも、やがては彼らと同じ、主の御元に召される時がやってきます。それは、誰しも避けることのできない地上における死です。しかし、キリストを信じる者にとって、地上の死は終わりではありません。死は永遠の命の始まりだからです。

この永眠者記念礼拝でも、私たちは、この後に聖餐に与ります。これは、主イエスの十字架において流された血と裂かれた肉を覚え、またその犠牲を分かち与えられることです。そして、主の御元に召された者が、味わう永遠の食卓を先取りするものでもあります。天にある兄弟姉妹を覚え、地上にある我々も、救い主キリストを見つめ、復活の主によって示された永遠の命を確信しつつ、それぞれの生涯を歩んでまいりましょう。

 

お祈りいたします。

神の国の訪れ

10月の説教

説教箇所 ルカによる福音書19章11-27節

説教者 成宗教会副牧師 藤野美樹

 本日与えられました御言葉は、「ムナのたとえ」という、主イエスが語られたたとえ話のひとつです。

このたとえ話は、マタイによる福音書25章14節から記されている、タラントンのたとえと良く似ていると言われます。そしてまた、解釈が難しいと言われるたとえ話でもあります。この話には、二つの要素が含まれています。一つが「ムナのたとえ」、もうひとつは、「敵対者たちに対する、王の復讐の物語」です。

まず、この難解なたとえ話しを理解するために、主イエスが、どのような脈絡で、このたとえをお語りになったかということを理解するのは重要なことだと思います。

ルカによる福音書をさかのぼりますと、9:51にはこのように記されています。

「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。」。9:51から、主イエスが、十字架にお架かりになるために、エルサレムへ向けた旅路が始まっていることがわかります。そして、ムナのたとえが語られた直後、19:28で、主は子ろばに乗って、エルサレムへ入城されると記されています。

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた。」

つまり、ムナのたとえ話は、主が十字架に架かるため、エルサレムにとうとう入城される、その直前に語られたたとえ話だということがわかります。

そして、19:1から11節のつながりを読むと分かるように、主は「ムナのたとえ」を、徴税人ザアカイの家で、語られたということも分かります。人々がザアカイの家で、主イエスの話に聞き入っていた時に、「ムナのたとえ」は語られました。

徴税人ザアカイの物語は、今は詳しく説明する時間がありませんが、ザアカイの家で何が起こったかというと、ザアカイは主イエスと出会ったことにより、ザアカイは本当の救いを見ました。それまで一番価値あるものだと思っていた、財産を手放そうと思えるほどの幸いを知ったのです。それは、主イエスというお方と共にいること。主イエスという、真の救い主であり、真の王であるお方との出会いが、ザアカイの人生を変えたのです。主イエスは、その時こうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 この出来事を目の当たりにして、ある人々は、徴税人の家にお泊りになる主イエスを批判し、またある人々は、主イエスの言葉に聞き入って、主イエスこそ、私達が待ち望んできたメシア、救い主なのではないか、と期待を膨らませていたのです。当時の人々は、ダビデ王のような、イスラエルの国を立て直してくれる、政治的にも卓越した王様を待ち望んでいました。人々は、主イエスを地上的な王様として期待し、政治的な意味で、自分たちが待ち望んでいる王国が到来すると思っていました。

そのような人々の思いに対して、主は、本当に待ち望むべき真の王とはどのような方か、真の神の国とは何なのか、そして、神の国を待ち望む私たちの姿勢はどのようであるべきか、ということを、本日のたとえ話によって示されたのだと思います。

実際に、このたとえを読んでみたいと思います。

12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」 

この出だしを聞いた時、当時の人々はすぐにピンときただろうと言われます。なぜなら、このたとえの背景に、本当にあった歴史的な出来事があると言われているからです。

それは、紀元前4世紀、ヘロデ王の息子、アルケラオという人の話です。マタイ2:22のクリスマスの物語に、このアルケラオの名前が出てきます。ヨセフとマリアが、ヘロデ王から逃げるため、赤ん坊の主イエスを連れてエジプトへ避難した場面があります。ヘロデが死ぬと、ヨセフの夢に天使が現れて、再びイスラエルに戻るようにお告げがあったのでヨセフたちは戻りましたが、「アルケラオが、父ヘロデの跡をついで、ユダヤを支配していると聞いて、恐れた」とあります。

アルケラオは、ローマの皇帝から、ユダヤを統治するための王権を得る為に、ローマへ旅立ちます。ところが、アルケラオという人は、残虐行為を次々に行う評判の悪い人物でした。なので、ユダヤ人の代表者は、ローマ皇帝に頼んで、アルケラオの任命を妨げようとしました。それでも、結局は、アルケラオは王位を受けることになり、彼に敵対した50人のユダヤ人が殺されてしまったという歴史的な事件があるそうです。

たとえの中の「王」は、恐ろしい王様、アルケラオを彷彿とさせますが、その王は、主イエス御自身にたとえられたのだと、考えることができます。12節で「遠い国へ旅立った王」とあるように、主イエスもまた、これからエルサレムで十字架にお架かりになり、死なれようとしているのです。

そして、14節で「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、我々はこの人を王にいただきたくない」と言ったように、主イエスは十字架にお架かりになる時、人々から憎まれ、さげすまれるのです。23:26からの、主が十字架につけられる場面には、主イエスを憎む人々が主を十字架に架けたあと、こう言ったとあります。

「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救って見るが良い。」

さらに、主は侮辱されて「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。その時、主が架けられている十字架には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてあったと言います。

ルカによる福音書は、主イエスのお誕生の場面でも、この世界には、主のお誕生の時から、人々には主イエスというお方を受け入れる余地がなかったことが記されています。つまり、主イエスのお誕生から、十字架の死、さらに、主の復活、昇天の出来事にいたるまで、主イエスというお方は、いつも人々にとって、期待通りのお方ではなかったという事が出来ます。主イエスは、人々が期待していたこの世の王様のように、政治的に優れ、富と権力に溢れた、王様ではなく、人間の罪の救いのために十字架にお架かりになり、死なれた王であったのです。でも、主イエスの御生涯は、ただ十字架上の死で終わったのではありませんでした。神様は、主イエスを復活させられ、昇天されて、高く天に引き上げられ、主は神様の右に座れられて、「真の王」となられたのです。

主イエスは、人々が期待するようなお方ではなく、もっとも低いところに降られた方でした。主イエスは、この世の王様のように、「金や銀ではなく、十字架上で、御自分の尊い血によって」私たちを罪から救ってくださいました。わたしたちのすべてを御自分のものとして、愛してくださった、ただ一人の「真の王」であられます。

そのような真の王である主に対して、わたしたちがどのように生きるべきか、ということが、13節からの「ムナのたとえ」では語られて行きます。

そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。」

 「わたしが帰ってくるまで」と言われていますが、それは、主イエスの再臨の時、終末の時、ということができます。神の右に座しておられる主イエスが、再び来られる時まで、私達がどのようにして待っているべきか、ということがこの「ムナのたとえ」で語られています。

 王位を受けた王が、旅から帰ってきたとき、1ムナずつ預けられていた僕たちが、王の前に呼ばれました。そして、王が留守にしている間に、それぞれの僕が託されていた1ムナで、どれだけ利益を得たのか、問われます。

最初の僕は、こう言いました。「あなたの1ムナで10ムナ儲けました。」すると王は、「良い僕だ、良くやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。」

次に、二番目の僕がやって来ました。「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました。」。すると、王は、「お前は5つの町を治めよ。」と言いました。

そして、3番目の僕は「これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」。それに対して、王は、「悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だということを知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきた時、利息付きでそれを受取れたのに。」

そして、この三番目の僕、1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、罰をうけます。王は言いました。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。」

 このたとえは、初めに申しましたように、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」とよく似ていますが、違いもあります。違うところはまず、「1タラントン」という単位は、賃金20年分という莫大な額であるのに対して、「1ムナ」というのは、タラントンの60分の一という、小額な金額であるというところです。1ムナという金額は、王にとっては本当に小さな額です。でも、その1ムナであっても、5倍、10倍に増やすことに熱心な王の「貪欲さ」が表れています。

そして、もうひとつは、タラントンのたとえとムナのたとえで違うところは、僕たちが主人から預けられた金額が、ムナのたとえでは、みな1ムナという等しい額だったという点です。つまり、私達には、神様から、同等の責任が与えられている、と理解することができます。でも、たとえの中で、5ムナの利益を得た僕も、10ムナの利益を得た僕も等しく主人から喜ばれたように、私たちは、みな同じ収益を得ることが求められているのではないのです。ただ、私たちに求められているのは、主人である神様、から与えられている財産に対して、たとえそれが私たちには僅かなものに思えたとしても、それぞれがどれだけ、忠実に、献身をしたか、ということが求められているのです。たとえの中の、第三の僕は、僅か一ムナであっても、その一ムナを用いて、主人のために尽力しなかったので、その一ムナさえ取り上げられてしまうのです。

私たちひとりひとりには、このたとえの僕のように、等しく、神の国の財産が託されています。その財産というのは、「みことば」や「信仰」と言うことができると思います。それは、わたしたち自身のものではなく、神様から託されている、主人の財産です。それは、主イエスの十字架と復活という出来事によって、神様が私達に与えてくださった、賜物です。

ともすると、私たちは、自分の信仰が弱いから、とか、賜物はもっていないから、わたしには何もできないのです、と嘆くことがあります。でも、ムナのたとえを聞くとわかるように、私達に預けられた賜物はみな同じです。10人にひとりひとりに、1ムナずつなのです。その1ムナを、主が再び来られる、再臨、終末の時までに、どう生かすか、が求められています。それは、主から託された、信仰生活の一生涯の課題と言えます。

主イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃったように、すでに、主はこの世にきてくださり、神の国の支配は始まっています。でも、それと同時に、わたしたちは、その神の国が完成する日に向けて、希望をもって歩む者でもあります。

その信仰生活のなかで、主は、貪欲に、厳しく、私達に求められます。私たちが、神様から託されている賜物を、どれほど熱心に用いているかということ。第三の僕のように布に包んでしまっておくならば、「持っているものまでも取り上げられる」と主はおっしゃいます。でも、わたしたちが、たとえ僅かしか持っていないと思っている賜物でも、それがどうなるか、神様に委ねて、その賜物を精一杯用いて、神様と堅く結びついて、忠実に生きるのなら、私達の1ムナは、計り知れないような豊かなものになることが約束されています。

 

束縛を解かれる

9月の説教

説教箇所 ルカによる福音書第13章10-17節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「この女は、アブラハムの娘なのに、18年もの間、サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)

本日の聖書日課では、新約聖書の箇所としてルカによる福音書13章10節以下が与えられています。これは、ルカによる福音書独自の記事であり、イエス様が安息日に、腰の曲がった女性を癒したことが記されております。

安息日にイエス様が、会堂、ユダヤ教のシナゴーグで教えておられた時のことでした。そこに18年間も、病の霊に取りつかれている女性がいたと聖書には記されております。これは「弱さの霊」とも訳すことができる言葉だそうです。この女性が具体的に何の病気であったのか、その病名を特定することは困難ですし、またあまり意味のあることではないでしょう。

大切なのは、その病気が、弱さの霊が原因であり、また16節にも、「この女はアブラハムの娘なのに、18年間もの間サタンに縛られていたのだ」と記されていますように、霊的な力によるものであったということです。この女性は、そのような霊的な力によって苦しめられ、18年間もの長い間、それに縛られていたのでした。

この女性を見た主イエスは、女性を呼び寄せ、その病をいやされました。それは真に奇跡的な癒しの業でした。イエス様の癒しの物語を読むとき、私たちは、ともするとその奇跡としか言いようのない癒しの御業に注目しがちです。しかし、他の福音書とも共通することですが、ルカによる福音書では、そのような奇跡そのものよりも、むしろ、その奇跡を通して、イエス様が語られた教えに注目するように、読む者をうながしています。今日の聖書箇所でも、それは言えます。この不思議な癒しを通して、イエス様は、安息日とはいかにあるべきか、安息日の本当の意味とは何かということを教えてくださっているのです。

そのことは、その直後の14節以下で、ただちに会堂長と安息日の規定に関する議論が展開されていることにも表れています。シナゴーグでは、しばしば安息日というものが、どうあるべきか、安息日の過ごし方について話されることがあったようです。そして、会堂長、つまりシナゴーグの責任者であれば、安息日の規定についても詳しかったのでしょう。

安息日には、あらゆる労働をやめ、休まなければならないというのは、ユダヤ教の基本的な教えです。これは、当時だけでなく、今でもイスラエルでは厳格に守られています。昨年の夏にイスラエルに行ったとき、私も、それを始めて経験しました。ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から始まって、土曜の日没まで続きますが、この金曜日の夕方になると、ユダヤ教徒の店は、軒並みしまってしまいます。そして、静まり返った町の中で開いているのは、ユダヤ教徒以外の人のお店だけになってしまいます。私たちも、夕方には観光客向けの中華料理のお店に入った思い出があります。

このようにユダヤ教の規定では、安息日には緊急性のあること以外は、働いてはいけないとされています。そのため、イエス様が、安息日に癒したことに腹を立てた会堂長は、群衆に向かって、14節にあるような言葉を語ったのです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(14節)

この会堂長の判断は、ユダヤ教の規定に適ったものでした。ユダヤ教の安息日規定にも、例外はあって、緊急の病であれば、安息日にも治療することは許されていました。しかし、この女性は、18年間ずっとこの状態であったわけですから、緊急性は低い、だから、安息日以外の日に治してもらうべきだ。こう会堂長は主張したのです。そして、このような会堂長の主張は、ユダヤ教の規定に従えば、真にもっともな判断でした。しかし、それに対して、イエス様は、安息日の本質、安息日の本来の意味は一体何なのかということを示されます。

会堂長たちが厳格に守っていた安息日の規定は、確かに旧約聖書の律法、つまり神の言葉から出たものです。しかし、神様が、安息日を定められたのは、一体何のためであるのか。それは、細かな規則によって、人を縛り付けるためのものでしょうか。何もしないということを強制するためのものでしょうか。

安息日の本来の意味は、全く逆のものです。安息日とは、本来、神様が与えてくださった解放の日です。神様の恵みに生かされる日です。主イエスは、それを、反対者たちの矛盾を突きながらお示しになりました。15―16節には、「しかし、主は彼らに答えていわれた。『偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」と記されています。

ここでは、「縛られている」ことと「解放される」ことの対比がなされています。イエス様に反対した人たちは、自分の家畜を安息日に世話することは忘れませんでした。そうしなければ、暑さの中で、家畜が水も飲めず、食べ物も食べられず死んでしまうからです。そのように、彼らは、自分たちの家畜が、たった一日であっても、縛り付けられたままにしておくことはしません。ところが、同じアブラハムの娘、同胞である女性が、18年間も、病に縛り付けられている状況は、全く放置していたのです。そして、「安息日以外の日に、また癒しにもらいに来たらいいではないか」と言うのです。つまり、彼らは、自分の家畜を大切にすることは知っているのに、自分の同胞を大切にすることには、徹底的に無関心であるということです。主イエスは、その矛盾を指摘されました。

そして、その女性が、18年間も苦しんできたのだから、その束縛から一日も早く解放してあげるべきではないかと言われたのです。

新共同訳聖書では、「安息日であっても、束縛から解いてやるべきではないか」と訳されていますが、この言葉は、「安息日だからこそ、束縛を解いてやるべきではないか」とも訳することができるようです。そのように理解する方が、安息日と束縛からの解放の間により強い結び付きが生まれます。

そもそも安息日というのは、本来、解放の日です。ただ仕事を休むというだけではなく、束縛されている者、苦しんでいる者が、神の愛によって解放され、救われる日です。

イエス様のお言葉を聴いて、反対者たちは恥じ入り、一方、群衆は、イエス様の行いを見て喜んだと記されています。それは、イエス様の言葉が正しいものとされたことを意味しています。主イエスの教えを通して、自分たちの犯している矛盾や過ちを突きつけられたことを示しています。

今日の聖書の箇所は、私たちに安息日の本当の意味を教えてくれます。そして、この箇所は、同時に、一つの問を私たちに突きつけるものでもあります。その問いとは、束縛されていたもの、歪んでいたものは、その女性だけだったのだろうかという問いです。確かに、イエス様によって癒され、18年間の束縛から解放されたのは一人の女性でした。しかし、会堂長たちもまた、束縛され、歪んでいたことが、聖書には表れています。彼らは、安息日の規定という複雑怪奇な教えに束縛され、その本来の意味、つまり神による解放という本当に大切なことを見失っていました。その結果、本来は神様が良いものとして与えてくださった安息日そのものを歪めてしまったのです。

しかし、これは何も、彼らだけに限ったことではありません。私たちは、ともすれば何かに囚われて、本来の意味を見失ってしまうことがあります。ありがちな例え話ですが、例えば、子どもにベッドを与えたとします。ベッドは、本来、人に安眠を与えてくれる良いものです。ところが、子どもはどんどん大きく成長していきます。そして、ついにベッドからはみ出るぐらい大きくなりました。その時、まともな判断であれば、新しい、子どもの背丈にあったベッドを買い与えるということになるでしょう。しかし、そのベッドに囚われてしまった親は、逆に、ベッドに合わせて子どもの足を切り落とすのです。

もちろん、これはあくまでたとえ話であって、その愚かさを笑うことはたやすいことです。しかし、実際には、私たちは、さまざまなことに縛られて、同じような過ちをしていることに気づかされることがあります。むしろ、この世界で起きる問題の多くは、わたしたちが何かに囚われて、本質を見失った結果と言っても良いかもしれません。そして、何かに囚われる時、本来良いもの、良い意図をもって始まったことであっても、形骸化し、腐敗し、歪められていくことになります。

この私たちの持つ歪み、それを聖書では人間の罪であると語っています。聖書が語る罪というのは、単に悪いことをするという意味ではありません。聖書における罪とは、私たちが、神様から離れていることであり、そして神様から離れているがゆえに、まっすぐ、正しく生きることができず、歪んだ生き方しかできないことを指します。

今日の話でも、それは表れていました。安息日は、まぎれもなく神様が定めてくださったものであり、本来、とても良いものです。しかし、人間が持つ罪ゆえに、その本来、良いものである安息日もまた歪められてしまうのです。その結果、安息日は、安息の日ではなく、人を束縛する日となってしまうのです。

そのような束縛から、私たちを解放してくださるのは、ただ主イエス・キリストしかいません。今日の聖書箇所で、腰のまがった女性をいやしてくださったように、私たちを罪から解放し、真の自由を示してくださるのは、主イエスのほかにいません。

安息日に、主イエスによって癒された女性は、腰がまっすぐになり、神を賛美したと、聖書には記されています。また、その主イエスの行いを見た群衆は、喜んだとあります。これこそが、安息日の本来の姿です。主によって罪の束縛を解かれた者が、賛美し、喜ぶ、これこそが本当の安息の日なのです。

私たちもまた、毎週日曜日に主日礼拝、つまり安息の日を守っています。こうして、主の日に集められ、主を賛美し、主を喜んでいます。もし主が、私たちを礼拝へと招き寄せてくださらなかったならば、長年にわたって束縛されていた女性のように、私たちも今もなお罪に縛られていたでしょう。まっすぐに立つことができず、苦しめられていたでしょう。しかし、主は、この女性と同じように、私たちをも招き寄せ、手を置いて癒してくださいました。主の安息の日に、主の御言葉を通して、私たちも罪から解き放たれ、自由にされるのです。

この主イエスが回復してくださった安息日の本来の意味を心に留めましょう。そして、私たちも、主によって解放されたことを賛美し、また喜びたいと思います。

祈りましょう。