主の祈り

聖書:詩編1211-8節, ルカによる福音書11110

 私たちは昨年12月30日の礼拝から、主の祈りについて学び始めました。主の祈りは、使徒信条と十戒と共に、三要文と呼ばれます。それは、三つの重要な文言、言葉という意味であります。私たちは今、成宗教会に集まり、全国、全世界の教会にも人々が集まり礼拝を守っております。ただ教会に集まっているというだけで、全世界の教会が同じキリストを信じていることにはなりません。そうではなくて、教会は代々同じ信仰の言葉を受け継いで来たからこそ、同じ信仰に立っていると言えるのです。

その信仰の言葉が三要文の中に示されています。そして私たちはキリスト教の教えを知らせる求道者会や洗礼志願者の会では、使徒信条、十戒、主の祈りを教え、そして学んでおります。私自身は2006年に東部連合長老会に個人加盟しましたが、それはちょうど全国連合長老会日曜学校委員会がカテキズム教案を出版し、カテキズム信仰問答によって教会学校の教育を行うという取り組みが始まった時でした。

それから12年が経ち、今年も日曜学校研修会が開かれました。講師に立たれた富田林教会の兼子洋介先生は、私が加盟したとき、一緒に初任者研修を受けた若者であったことを思い出しました。東神大出立てのまだ学生の雰囲気がいっぱいに見えた先生が、立派な指導者となって教案の出版について苦労や、問題点、また将来の希望に向かって東日本の教会に呼びかけている様子を拝見し、私はうれしく感慨深い気持ちでいっぱいでした。若い教師がやがて中堅となって教会を支えて行く。しかも自分の教会について語るときも、他の教会について語るときも、同じ熱意と感謝を込めて呼びかけるのを見ることは、どんなに喜ばしいことでしょうか。カテキズムの学びは子供だけの学びではない。教える教師も教わる子供も、大人も共に学び、同じ神さまに対する同じ信仰を伝えて広めていくのだという実感がわきました。

私たちの教会の2018年度の標語が週報に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節です。)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」この聖句の意味するところが、カテキズムの学びの中に正に現れているのではないでしょうか。

そういうわけで、私たちは教会の信仰を学び、いつでもどこでも確信をもって教会の信仰を生き、伝道する者と成長するために、大人の礼拝でもこのように、三要文の学びを続けています。さて、12月30日に学んだカテキズム問52は次のようです。カテキズム問52、 「なぜわたしたちは祈るのですか。」そしてその答は、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」でした。人間は神さまの似姿に造られた者ですから、神さまの呼びかけに応えるのが本来の喜びに満ちた姿なのです。次に問53を学びました。それは、カテキズム問53、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」という問いでした。その答は、わたしたちが神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられるのです。神さまが近くにおられることは大きな喜びです。キリスト・イエスさまが私たちの住むこの世界に近くいらしたのは、私たちの罪を赦し、神さまの子とさせるためでしたから。この恵みの中で、わたしたちは既に罪赦されていることを思うとき感謝と喜びを忘れません。

そして、先週のカテキズム問54は、「祈るときに大切なことは何ですか」でした。私たちに大切なことは神さまに対する信頼です。「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めること」が大切なのです。このように、私たちには神さまに向かって祈りが必要なこと、また祈りの恵みや祈るときの心構えについて、これまで学んできました。では具体的に、私たちはどのように神さまに祈ったらよいのでしょうか。それが本日の学びです。

主イエスさまが弟子たちに祈りを教えられたことはマタイとルカの二つの福音書に伝えられています。本日はルカ11章を読んでいます。1節です。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。」イスラエルの人々の社会は神さまを知らない社会ではありません。皆が聖書に啓示された神さまを信じて従う神の民だったはずです。それなのに、弟子たちがイエスさまに祈りについて改めて教えてくださいとお願いしている。私たちは何となく意外な感じがするのではないでしょうか。

その当時エルサレムには壮大な神殿があり、人々は祭のたびにエルサレムに大勢、国外からも集まっていました。祭司が香を焚き、犠牲の献げ物が屠られ、献金や十分の一の献げ物が捧げられて、立派な儀式が行われたことでしょう。しかし、そのような整った儀式の礼拝と、個々人の祈りとはかけ離れてしまっていたのかもしれません。形は整い、人々の目や耳を奪うほど美しいとしても、人々は心に何と祈って良いのか分からなかった。だからこそ、主イエスさまの前に現れた預言者ヨハネは、堕落してしまっていた礼拝儀式ではなく、「悔い改めて洗礼を受けなさい」と宣べ伝えました。そのヨハネが弟子たちに祈りのために指導していたのは当然のことであったかもしれません。

それではイエスさまの弟子たちはどうだったでしょうか。「洗礼者ヨハネが弟子たちにお祈りを教えているらしい。」「じゃあ、私たちもイエスさまに教えてもらおうではないか」というようなことだったのでしょうか。マルコ福音書には主の祈りについての記述はありませんが、1章を見ますと、イエスさまに呼ばれた弟子たちが、イエスさまに付き従って伝道の生活を共にした様子が見えてきます。21節から見ますと、イエスさまは安息日に会堂に入られ、み言葉を教え始められました。すると汚れた霊に着かれた人が、説教を遮る。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と。イエスさまの前に立ちはだかる悪霊に、イエスさまは「黙れ。この人から出て行け」と一喝され。追い出されました。

また弟子のシモンとアンデレの家に行くと、イエスさまは熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取り、姑はすぐに癒されました。日が沈み夜になって安息日が終わりました。その時を待っていたかのように、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのところに連れて来たというのです。弟子たちはイエスさまがいろいろな病気にかかっている大勢の人々を癒すのを見ていました。また、多くの人々から悪霊を追い出されるのも見ました。それはどんなに悲喜こもごもの大騒ぎであったことか、決して十分に想像することができません。言ってみれば野戦病院さながらの光景だったのではないでしょうか。

イエスさまは地上に在って私たちと同じ人間であられ、肉体の限界の中を生きておられましたから、このような大騒ぎの伝道の活動に、イエスさま御自身お疲れにならないはずはありません。まして弟子たちはイエスさまの周りに押し寄せて来る人々の応対に疲れ果てて、仕事が終わると泥のように眠ったに違いありません。しかし、朝早く暗いうちにイエスさまは起きて、人のいないところに行ってお祈りをしておられました。弟子たちは起きて、イエスさまがいないのに気付き、さあ、どちらへ行かれたかと捜し回る、という生活の様子が分かります。

イエスさまの弟子たちは、このようなイエスさまのお姿を見て、何を求めたでしょうか。それは祈りでした。彼らは病人を癒す技術を尋ねたのではありません。悪霊の追い出し方を教わろうとしたのではありません。確かに弟子たちはイエスさまのご復活後、そのような力をも与えられました。しかし、彼らはイエスさまの弟子としてなくてはならないものは何かを理解したに違いありません。イエスさまに従う者はイエスさまの祈りを知らなければならないと思ったのです。イエスさまの祈りを知りたいと思ったのです。あのように心を込めて人々に向き合い、人々の苦しみ、悩みの根本を見極め、人々を縛り付け、がんじがらめにしている悪の力、悪霊の支配、神さまに敵対する勢力に立ち向かうイエスさま。その力の源は祈りにあると思わずにはいられませんでした。だからこそ、疲れ果てて倒れ込むような夜も、神さまを仰ぐために祈りへと立ち上がるお姿があることを、弟子たちは知っていました。

こうしてイエスさまが教えてくださった祈りについて、私たちは順番に学んで参ります。主イエスさまは弟子たちに祈りに用いる言葉を細かく規定したのではありません。そうではなくて祈るべき内容について教えてくださいました。すなわち、わたしたちの願いや祈りの目的が何か、何でなければならないかということのみを指摘しておられるのです。主の祈りは、六つの部分から成り立っています。それは六つの願いです。この願いによって神さまに求めることが許されている、その内容が私たちに示されました。まず、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」が最初の三つです。これらは神の栄光に関するものです。後の三つは「私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に合わせないでください」で、これらの祈りはわたしたちの救いのために必要なものです。

私たちはちょうど去年十戒を学びました。それで神の戒め、律法が二枚の板に分けられてあることを思い出す方もいらっしゃると思います。第一は神の栄光を讃えるための戒めでありました。そして第二は隣人に対する愛の戒めであります。祝福されて生きるために、神を愛し、人を愛しなさいと命じられているのであります。この祝福は永遠の命に至る祝福であります。この戒めを守ることのできない罪人を救うために、イエスさまが地上に人となり、人の罪を贖って、罪人に救いの道を開いてくださいました。

そのイエスさまが教えられた祈りも、十戒のように、まず第一に神の栄光を讃えるための願いで始まりました。まずこの願いを祈り求めてこそ、私たちは正しい方法で祈る準備が出来たことになるのです。私たちは、すぐに自分の願いにとびつく者ではないでしょうか。すぐに自分の損得を計算するのではないでしょうか。私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」との目標から程遠い人間なので、祈りの目標も、目的も真に貧しいと、さもしいものになりかねません。しかし、こういう私たちが自分に関わることだけを考え、はるかに重要である神の国のことを考えないならば、私たちの祈りは主イエスさまのお心とは程遠いものになるでしょう。

イエスさまが朝暗いうちに人里離れたところで祈られた祈りを思います。詩編121篇の祈りは、神さまを礼拝するために神さまの家に向かう人の歌です。都に上る歌。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」

この歌には、神さまをほめたたえる讃美が溢れています。詩人は自分を救ってくださる神さまをどんなに信頼していることでしょう。神さまは、信頼して従う者を必ず助けてくださる。必ず救ってくださる。イエスさまも真の人としてこの信頼を神さまに捧げてくださったのです。そしてよろめく足で世の旅を続ける私たちを守るために、すべての災いを遠ざけて救うために、御自ら私たちの贖いとなってくださいました。主をほめたたえましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美致します。あなたの憐れみが全世界の主に従う教会の群れに注がれますように。そしてどんな苦難、困難の中にあっても、私たちの救いのためにすべてを忍んで十字架の贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストを思い、感謝を捧げます。わたしたち心新たに主の教えに従う者となりますように。

本日はどのように祈れば良いか、について教会の信仰を学びました。主が教会に教えてくださった祈りをよく理解し、生涯の宝として真心を込めて祈るようにお導きください。先週は藤野先生ご夫妻より、1月8日に成宗教会長老会からお送りした招聘状の受諾状をいただきました。すべてが御旨に従って導かれたことを信じ、心から感謝を捧げます。全国にある多くの教会が少子高齢化の中で、困難を抱えています今、成宗教会は主の憐れみと励ましをいただいて後任の先生方をお招きし、広く長く地域連合長老会と共に交わりと学びをすることで、主の体の教会を形成するあなたの御業に仕えることができますように。

これから4月の新年度着任に向けて、新しい体制を整えることができますように、どうか長老会とそれを支える信徒の方々を励ましてください。藤野雄大先生、美樹先生に伝道者としての大きな志を与えられた神さま、どうか成宗教会が先生方をお迎えし、心を合わせて共に主の教会に仕え、共にあなたから豊かな祝福を受けることができますように、どうかお導きください。

先週の主の日に地上の生涯を閉じられた野方町教会員、桑原信子姉妹のことを覚え、あなたに感謝を捧げます。桑原姉はお病気の辛さを乗り越えて、全身全霊を以てこの教会の礼拝に奉仕してくださり、あなたに喜ばれました。そして私たち成宗教会には励ましと感謝を残してくださいました。桑原姉を励ましてくださった主よ、どうか私たちをも励まし、弱い時にも、あなたに愛されているこの愛に応えて喜んで奉仕する群れとならせてください。尽きない感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの格闘

聖書:創世記32章23-33節, ヨハネの手紙一 5章13-15節

 年の初めと言えば、普段はお祈りのことが全く話題にならない世の中でも、元朝参りから始まるお祈りに関心が集まる季節です。それにしても何気なくテレビを見ていると、マスコミは神社、仏閣の様子を映して一生懸命宣伝をしているように見えますが、このことも海外から観光客を呼ぶために貢献しているのでしょうか。あまりにも多くの人々があちらを拝み、こちらを拝んでいるのを見ているので、わたしたちはそういう様子にとても慣れてしまっております。日本の教会は平日だれでも自由に出入りできるように玄関を開放しているところは少ないと思いますが、教会の北側にあるお地蔵さんを拝むために立ち止っている人々を時々見ますので、教会も戸を開けておくと祈るために来る人がいるかもしれません。

しかし、このように神仏と称するものを何でもかでも拝む人々の祈りと、教会の祈りは全く違うのですが、わたしたち自身、その違いをどこまではっきりと意識しているでしょうか。わたしたちは思うのではないでしょうか。「家内安全とか、無病息災とか、わたしたちも願っているではないか。祈っているではないか。祈る気持ちはだれも一緒ではないか」と。そう思うのは、祈ることについて考えるときに、わたしたちは、まず祈りの内容から考え始めるからです。

本日の信仰問答は「祈るときに大切なことは何か」についてです。み言葉に聴きましょう。わたしたちが祈るときに何よりも大切にしていることは、祈りを聞いてくださる相手です。すなわち祈りを聞いてくださるのは真の神さまだけである、ということなのです。祈ること自体、相手が誰でもいいから四方八方頭を下げるという、まるで選挙の立候補者みたいなことをするのではありません。そうではなく、本当に祈りを聞いておられる方に祈るのです。真の神さまがおられる。そして良いものを与えてくださるのは真の神さまだけだと信じて祈ります。

そうすると、わたしたちにとって良いものが何か、それを本当にご存じなのも神さまだけ、と信じていることになりますから、わたしたちの祈りは、自分の願いを祈るだけでなく、それと同時に神さまにすべてをお委ねして行くことになります。わたしの願いはこれこれだけれども、すべてを御存じの神さまはきっと最良のことをしてくださる、と信じることができる。真にこれよりも平安なことはありません。

けれども、わたしたちの人生には、大きな試練に見舞われることがあります。自分の身に起こること。またそればかりでなく、それまであるのが当たり前であったものが突如、無くなってしまう、あるいは変ってしまうということは、わたしたちを危機的な状況に陥れます。その時、「わたしの願いはこれこれだけれども、神さま、どうぞ御心のままになさってください」と祈ることが、果たしてできるでしょうか。

今日、私たちは創世記32章を読んでいます。これは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの物語で、ヨルダン川のヤボクの渡し場を渡ろうとしたときの不思議な出来事が描かれています。ヤコブは家族と共に旅をして、故郷の兄エサウとの再会を目指していました。彼は若い時、兄エサウの怒りから逃れるために故郷を去り、伯父の家で働く者となりましたが、この伯父も狡猾、また冷酷な人で、ここも平安な居場所はありませんでした。彼は厳しい仕打ちを受け、耐え忍んで20年、ついに故郷に帰る決心をしました。しかし、故郷の兄はそれを知ってヤコブに会いに出て来るというのです。

ヤコブはその夜、家族と召使いと家畜や持ち物すべてを川の向こうに渡らせ、自分は独り残りました。すると何者かが来て夜明けまでヤコブと格闘したというのです。ヤコブのこの目に見える格闘こそ、教会の人々が日々経験している祈りを象徴しているのではないでしょうか。なぜなら、私たちの試練の時も、私たちは正に神さまと格闘しなければならないからです。しかし、一体だれが神さまに逆らって立つことができるでしょうか。神さまと競争しようとすること自体傲慢で無謀なことではないでしょうか。

しかし、驚くべきことですが、また感謝なことですが、神さまは私たちがこのようにご自分に立ち向かって来ることを喜んでおられるのです。だからこそ、見えない方が、従って、立ち向かおうにも、立ち向かうことなどできない方が、こうして見える姿、(夜の暗闇の中でしたが)人のような姿でヤコブと格闘するために現れたのです。わたしたちはこのように神さまの力によらなければ、助けによらなければ、神さまと戦うことなど決してできないのです。神さまはこの戦いへとわたしたちに挑戦し給うのです。「さあ、かかって来なさい」と無言で挑戦してくださるのです。そして、それと同時に、神さまはわたしたちが抵抗して戦う手段を私たちに備えてくださるのです。これは不思議な戦いです。神さまはわたしたちと戦うと同時に、わたしたちのために戦ってくださるからです。

これが祈りの格闘です。要するに神さまは、わたしたちと片方の手で戦いながら、その間に、もう片方の手でわたしたちを守ってくださるというやり方で格闘を行ってくださいます。神さまは、いわば左の手ではわたしたちに敵対して戦い、右の手でわたしたちに味方して戦ってくださり、その結果は、わたしたちがしっかりした力を与えられて試練を克服できるようにしてくださるのであります。このような祈り。このような祈りを神さまは聞いてくださるのではないでしょうか。

32章26節。「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」ここにヤコブの勝利が描かれています。しかし、この勝利は彼に傷を負わせずには、得られなかった勝利でし。前にお話したように、ヤコブと戦うために天使の姿で現れているのは、創世記がわたしたちに理解させるために人間的な表現を取っているからです。そうでなければ人間が神さまと格闘するということは表現できないからです。こうしてヤコブは闘いに勝利したのですが、天使は彼の腿を打ったので彼は生涯足が不自由になりました。しかし、この不自由さは彼の信仰の勝利のしるしとなりました。そして、このしるしによってすべての信仰者は自分の受ける試練において祈り、勝利を得ることができることが明らかになったのです。

祈りが聞かれるということの奥の深さを思うことができるならば幸いです。私たちは祈りの格闘をし、勝利を得るならば、その喜びはどのようなものでしょうか。しかし、喜びのあまり得意になって、有頂天になって神さまを忘れるようなものでしょうか。それはちがうでしょう。神の力は私たちの弱さにおいて完全なものとなります。というのは、本当に救われた者の喜びは、同時に私たちを謙虚にさせるものですから。27節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」ヤコブは祝福を求めました。私たちは礼拝の最後に牧師の祝祷を受けますが、本当に私たちを祝福するのは、神さまだけにあるご性質なのであります。この神さまのご性質を職務としていただいているので、牧師は神の言葉を説教し、また人々を祝福することができるのですし、そうしなければなりません。私たちはこのことから教えられることがあります。それは、あれやこれやの具体的なことを祈ることはもちろん良いのですが、何よりも祈らなければならないことは、神さまの祝福、すなわち聖なる、神さまだけがお与えになることができる恵みをいつも求めることなのです。それは、具体的なあれこれの願い事、無病息災など祈って、それが叶えられた途端に、神さまから遠ざかり、眠りこけたような人生を送るよりもはるかに価値あることではないでしょうか。

祈りの格闘にご臨在される神さまを、聖書はヤコブの物語に証しします。わたしたちは神がご臨在されることを感得しない限り、得意になって自分に満足しているものです。そしてこのことは、人間が地上のことに傾倒している時、愚かにも自分を誇っている空想の命にすぎないのです。新約聖書、ヨハネの手紙一5章13節は語ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」教会はもちろんまだ福音を知らない人々に伝道をしているのですが、決してそればかりではありません。既に信仰を告白し、洗礼を受けて教会に連なっている人々にも、教えを広め続けているのです。なぜなら、わたしたちの信仰は日々成長して行かなければならないからです。一層堅固で確実な信仰を持って、永遠の命に確実に与ることをわたしたちは目指しています。

そのためにヨハネの手紙が勧め、戒めたことは、このことです。キリストの他に永遠の命を求めてはならない。力を尽くしてキリストの恩恵をたたえ、讃美し、彼らがこの恩恵に心満たされて、もはやそれ以外の何も欲しないように。ここでわたしたちはカテキズムの今日の問に立ち帰りましょう。問54 「祈るときに大切なことは何ですか。」そして、その答は「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めることです。」教会はイエス・キリストによって神さまの真実のお姿、ご性質を知らされました。イエスさまによって永遠の命をいただく希望を信じたのです。ですから、「あちらを信じれば良いものがもらえるかもしれない」「いや、こちらにもお願いすればもらえるかもしれない」という祈りでは決してない、ということです。

また、真の神さまならわたしたちの願いを皆叶えてくださると思うことも正しくありません。ヨハネ一、5章14節。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」なぜなら、私たちは本当に自分に何が幸いなのか、良いことなのかを理解していないのですが、神さまは最も良いことを知っておられ、私たちが信頼するならば、それを実行に移してくださる方だからです。ヨハネの手紙は神さまに対する確信について、それがどこにあるかを教えるのです。確信は、キリストを信じて大胆に祈り求めれば与えられるのだと。

イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ14章6節)。真にイエス・キリストこそは信仰の本来の目的です。ですから、イエスさまのお名前を通して、祈ることを実践することこそ、わたしたちの信仰の訓練であり、また試練でもあるのです。祈りが聞かれるということは、本当に信頼して大胆に祈るのでなければ、実感することができないからです。そして、イエスさまによって伝えられた天の父の御心を日々深く知るように努めることがなければ、本当に父、御子、聖霊の神さまを信頼することはできないのです。真に不信仰な世に在って、わたしたち自身も確信に乏しい信者であっても、それでも世界中に教会が建てられ、み言葉が伝えられ、祈りがささげられている現実を見る時、神さまの憐れみと忍耐が、どんなに世界を覆っているかを思わずにはいられません。

私自身は戦争のない真に豊かな時代を70年生きましたが、それでも人々が老いと病と死に苦しんでいる有様を見、ここに神さまの悲しみと救いの熱意を感じて献身しました。自分自身50年生きて後の献身でしたので、ほどなく高齢者の列に加えられました。教会は今、目の前にいるわたしたちで成り立っているように見えるのは無理もないことですが、実は過去の信者の信仰の恵みが祝福されているからこそ、後に続いて行くものです。それぞれの時代にそれぞれの信者に多くの試練があったでしょう。しかし、共に祈った所に教会が残りました。祈りの格闘があった所に、大胆に祈るところに信仰の確信が与えられました。

今、成宗教会は後任の先生方をお迎えしようとしています。同じ信仰告白によって立ち、同じみ言葉の説教によって聖礼典によって教会を建設しようという志を以てお出でになります。お若い教師の方々をお迎えするために、祈りをもって、感謝を捧げて、備えましょう。主が私たちの必要を満たしてくださることを信じて。祈ります。

 

主なる父なる神さま

御名をほめたたえます。本日は祈りについて学びを進めることができ、感謝です。成宗教会に祈りがあり、あなたの憐れみと恵みがありましたので、教会はこの地に立ち続けることができました。多くの人々がここで洗礼を受け、礼拝を守りました。今、教会は東日本連合長老会の一員となって共に学び、教えを受けていますことを感謝します。また8代目の私の退任の後、新年度には新任の教師の先生方を迎えようとしております。藤野雄大先生、美樹先生のご健康とご準備の上にあなたの恵みが豊かにございますように。

また、どうかこの時に私たちを励まし、あなたに感謝を捧げる者とならせてください。高齢の教会員が礼拝に足を運べなくなって改めて、礼拝に心を向けて祈っておられます。どうかすべての教会員が忙しい生活の中で礼拝を守り、み言葉を聴くことを何よりも大切なこととすることができますように。日曜日に休めない仕事の方が増える中でも、神さま、み言葉なるキリストに従うために、すべての教会員がこの志を持ち、そのために祈りを篤くすることができますように、助けてください。そのことによって、主よ、何よりも礼拝を大切にすることによって私たちが次の時代の先生をお迎えすることができますように道を開いてください。

教会長老会の働きを感謝します。教会記念誌編集の歩み、また会堂の整理整頓の歩みが導かれ真に感謝です。どうか長老の方々の健康が守られ、ご家庭が整えられますように。新しい先生方と心を合わせて奉仕する長老、信徒となりますように励まし、また新たに起こしてください。寒さの厳しい季節ですが、教会に連なる兄姉、求道者の方々の健康と生活が守られますように。

すべてのことを感謝し、御心のままに導かれるようにと祈りつつ、この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げします。アーメン。

主において常に喜べ

聖書:ネヘミヤ記15-11節, フィリピの信徒への手紙447

 主の年2019年、新しい年の歩みが始まっております。この年はどのような年になるのか、人々の関心は経済の動向、また政治や社会の動向に向けられていることでしょう。そうすると、明るい見通しが立つという話、楽観的な見方は出て来ないようです。むしろ、不思議なほど長く続いた世界的な好景気が一転するとか、貿易戦争が激化するとか、難民、移民政策が内向きになり、世界中で自国の利益第一主義が支配的になる結果、利害の対立は経済戦争にとどまらなくなるのではないか、等々、心配の種が尽きない年のようです。

しかし、私たち成宗教会は、1940年の創立以来、どのような時代にも主の日に集まり、礼拝を守って参りました。この国がどの外国を敵に回して戦っていた日々も、昨日の敵が今日の友となった日々にも、変ることなく頼る者を救ってくださる主イエス・キリストによって、全地の主なる父なる神様を礼拝して来ました。ある時は互いに敵となった民族もあり、またある時は味方となった民族もいます。私たちの信頼する神さまは全世界どこに行っても一人の神さまとして崇められます。ですからこの神さまを信頼する人々は全世界に在って、同じ主キリストを頭と仰ぐ唯一の主の体の教会に結ばれているのであり、このことは真に大きな恵みであります。

この恵みのために、私たちは年の初めの主の日に、まず礼拝から一年を始めることができたのです。そして先週から成宗教会は祈りについて学びを始めました。私たちが信仰問答カテキズムによって学びました2018年12月30日の問は、「なぜわたしたちは祈るのですか」でした。そしてその答は、極めて単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」だから私たちは祈るのです。そして、続いて今日はカテキズム問の53です。その問は、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」というものです。つまり、祈ったら神さまから恵みが与えられるということです。だから「祈りなさい」と勧められているのですね。

今日は祈りの恵みについて教えられたいと思います。教会の幼稚園や保育園では、小さい子どもたちにお祈りを教えます。すると子どもたちは喜んでお祈りしている。そんな様子を目の当たりにしたものです。しかし、大人になるとなかなか祈りができない、という話は前回もしました。どうしてでしょうか。今日読みました旧約聖書はネヘミヤ記1章です。ネヘミヤは紀元前5世紀にペルシャのアルタクセルクセス王に仕えていたユダヤ人の指導者です。彼は戦争によって滅ぼされたユダヤ人の国から奴隷として遠くバビロンへ捕え移された人々の子孫でありました。よく言われる日系何世とか、在日何世と言う表現を使えば、ネヘミヤは在ペルシャ3世あるいは4世ぐらいのユダヤ人だったでしょう。

その彼が祖父か曽祖父の故郷エルサレムについて最近の様子を聞いた時、彼は大変なショックを受けました。あの忌まわしい敗戦と破壊から百何十年も経っているのに、今だに都エルサレムは荒れ果てて悲惨な状態にあるというのです。ネヘミヤは『座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげました。今日の聖書箇所は彼の祈りの内容です。とは言え、私たちは少し不思議に思うのではないでしょうか。ネヘミヤの先祖はバビロンに連れて来られてから、既に長い年月が経ち、もうネヘミヤはエルサレムを全く知らなかったでしょう。そして彼の家はペルシャの王侯に用いられ、高い身分にまで取り立てられて繁栄していました。なぜ彼はエルサレムの惨状にこれほどまで心を痛めたのでしょうか。断食をしてまで祈りをささげたのでしょうか。

それは彼に呼びかけがあったからなのです。秘かな呼びかけがネヘミヤの魂を揺さぶりました。普通なら、自分の先祖にかかわる遠い昔のこと、今は知っている人もいないような遠い世界と思うはずなのに、彼はそう思わなかった。大変心を痛め、悲しんだ。その痛み、その悲しみは、実に神さまからの呼びかけであったのです。神さまの秘かなご計画によってネヘミヤは呼ばれました。エルサレムのために何かの働きをするように召し出されていたのです。だから、彼は嘆き悲しんだ末に祈り始めたのでした。このように、祈りは私たちの目から見れば、自発的なものですが、神さまからの見えない秘かな呼びかけがあるのです。そして、わたしたちの祈りは、神さまからの呼びかけに応えるものなのです。

わたしたちはそれぞれ自分の計画があるでしょう。今年はあれをしたい、これをしたいと。ああなるように、こうなるようにという願いであります。しかし、神さまには神さま御自身のご計画があります。そしてそれは私たちの思いを遠くはるかに超えたご計画なのであります。イザヤ55章8節、9節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(1153頁)

ネヘミヤは神さまの霊に導かれて、願い求めます。神さまから秘かに与えられた務めを果たすために、今まで思いもよらなかった志を願い求めたのです。このようにしてネヘミヤは廃墟の復興の先頭に立ちました。しかし、彼はそれを実際行動から始めたのではありません。彼の行動に先だったのは祈りでした。しかもその祈りは、願いではなく、懺悔から始まりました。彼は祈りました。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。私も、わたしの父の家も罪を犯しました」と。人が祈るためには、神さまに近づかなければなりません。しかし神さまから遠く離れているわたしたちは、どのようにして神さまに近づくことができるでしょうか。先立つ祈りは懺悔の祈りです。神さまに背を向け、好き勝手な生き方をして来たことを神さまはご存じなのですから。すべてをご存じの方に悔い改めの告白を捧げることなしに、わたしたちはどうして親しく語りかけることなどできるでしょうか。

申命記30章をご覧ください。(328頁)神さまはモーセによって、次のように語られました。1-4節。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに望み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」

このように真剣な懺悔の祈りはみ言葉から与えられます。祈りから生まれる最初の恵みは、すなわち神への信頼であります。心から悔い改め、神さまに立ち帰るならば、神さまは豊かに赦してくださる、という信仰、これが神さまへの信頼です。

新約聖書フィリピの信徒への手紙は、獄中にいる使徒パウロによって与えられた言葉です。パウロは教会の人々に勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。福音を伝え、教会を建設したパウロが迫害され、獄に繋がれている最中、信者たちは非常に不安でありました。悲観的になっている、これからどうなるのか、明るい見通しは何もない。心配なことばかりでくじけそうになっている。彼らの心と思いはそういう危険な状態でした。しかし、だからこそ、パウロは目の前に押し寄せて来る不安にも拘わらず、主にあって喜ぶように勧めているのです。

なぜなら、神さまが与え給う慰め、わたしたちを喜ばせ、元気づけるような霊的な慰めは、この時にこそ、特に全世界がわたしたちを絶望に陥れようとする時にこそ、力を発揮しなければならないからなのです。この時、たとえ彼らが迫害、投獄、追放、死にさえも脅かされているとしても(パウロは正にその中にいました)、その真っ只中にも、自ら喜ぶばかりでなく、他の人々をも喜ばすようふるまっているパウロ、彼がここにいます。「主において」と訳されている言葉は、「主が自分たちの側に立っておられるのだから」、すなわち「主が自分たちの味方なのだから」という意味です。主が味方なのだから、それだけで喜ぶ理由は十分なのです。

主イエス・キリストを信じて告白して、洗礼を受けて主と結ばれた者。神の子の喜びがここにあります。その喜びは、この世の喜びと比べてみれば分かります。この世の喜びはあてにならず、長持ちがせず、空しいもの。イエスさまが呪われたものとさえ仰ったものです。ルカ6章24-25節です。113上。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」それに対して神の子の喜びは、だれも奪い去ることのできない喜びです。神が共にいてくださるから、それはいつも変らない。この喜びを、わたしたちはイエス・キリストに在って持つことになるでしょう。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」パウロはすべてのことを「広い心」、すなわち優しさと忍耐(寛大、思いやりのあること)をもって耐えるように勧めています。この世の格言に、「狼の中では吼えなければならない」というものがあります。すなわち悪人の傲慢と鉄面皮に対しては同様な態度によって抑え込まなければならない、と。しかしパウロはこれに対して、神さまの摂理(神さまの秘かなご計画)に対する確信を主張するのです。主の御力は悪人の横柄、横暴に優り、主の慈愛は彼らの悪意に打ち勝つものではないか、と。だから、わたしたちが主の掟に従うならば、主はわたしたちを助けてくださるに違いありません。

ですから何よりも大切なことは、信仰者が神さまの深いご配慮と隠されたご計画によって守られていることを悟り、神さまの摂理に全く信頼することなのです。「主は近い」と信じる者は、神がご自分の子らに正に救いの手を差し伸べようとしておられることを知っているのです。だから、一切の思い煩いを捨てて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に撃ち明けることが勧められています。

しかしながら、同時に、神さまへの信頼は何よりも日々わたしたちが祈りを捧げることによって訓練されること無しには生まれるものではありません。まして、わたしたちが何かの誘惑や、不安に襲われる時にはいつでも、直ちに時を移さず祈りに訴えることを実行しましょう。祈りの時と所こそが、わたしたちにとって逃げ込むべき避難所となりますように。そして、神さまへの信頼は感謝を込めた祈りに現れます。過去を振り返り、必ず助けてくださった恵みの主を思い起こし、感謝するとき、未だ行き先の見えない明日を委ねる祈りが、そこに生れます。

そして、7節の「あらゆる人知を超える神の平和」とは何でしょうか。大きな失望の中にあっても、なお望みを抱く。また、非常な貧困の中にあっても、なお豊かさを思い描く。極端な無力の状態でも、なお圧倒されることなく、すべてのものを欠いていても、なお自分たちには何も欠けているものはないと確信する。このような思いほど、この世にあり得ない思いがあるでしょうか。しかし、ただみ言葉によって、ただ聖霊の助けによって、このようなすべての思いがわたしたちに与えられるとしたら、これこそが祈りによって与えられる恵みなのです。わたしたちが祈る時、わたしたちは神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられます。主が近くにおられることの喜びは計りしれません。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

新年最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。本日は祈りの恵みについて、み言葉を学びました。新しい年、身も心も新たにして祈りを献げます。御子の贖いによって罪を赦されたわたしたち、日毎夜毎に罪を告白して、あなたの御前に祈る時と所を与えてください。そして、み言葉に聴くことができますように。すべてのことをあなたと語り合い、この世界が与える喜びをはるかに超えた平安を、祈るわたしたちにお与えください。沢山の悩みある時代、世界のただ中に在っても、あなたの喜びがわたしの喜びとなり、あなたの力がわたしたちの力となりますように。そして罪人のために命を捨ててくださるために世に遣わされた御子イエス・キリストの愛がわたしたちの愛となりますように。

新しい年、教会の歩みが始まりました。主よ、あなたは小さな歩みを喜ばれ、小さな働きを祝して、わたしたちの群れをこれまでお導きくださいました。真に感謝です。新しい年度に、新しい教師の先生方をお迎えするために導いてくださっている連合長老会の働き、あなたの尊きご配慮を感謝します。どうか招聘されようとしておられる先生方を聖霊によって守り導いてください。ご健康とご準備が祝されますように。また、成宗教会がどうか御心に適う準備をしてお迎えすることができますように。長老会を励まし、導いてください。今日から始まりました教会学校の働き、集う方々をも祝してください。

また、教会の信徒一人一人が教会の全てを整えるために、何か奉仕に加わることを考えることができますように。それぞれが限りある体力、時間の中で、喜んで捧げる知恵と力とをあなたからいただくことができますように。本日行われます長老会議をどうか御手の内にお導きください。特に先生方をお迎えするための物理的な準備をも進めて行くことができますように。また、教会記念誌の編集の道筋が守られていることを感謝します。御心であれば3月中に印刷発行を果たすことができますように。今、試練の中にある者、病床にある者を助け、また家族、社会を支える人々の働きを祝してください。

すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの中にある人生

聖書:詩編116篇12-19節, ルカによる福音書18章1-8節

 わたしたちが礼拝説教の中で、信仰問答(カテキズムと申します)によって、教会が受け継いで来た信仰を学び始めたのは、2017年の9月でありました。その内容は、使徒信条と十戒と主の祈りでありまして、三要文と呼ばれます。今年の待降節の前に使徒信条と十戒について学びを終えましたので、本日、2018年最後の礼拝から主の祈りを学びます。そして、ちょうど年度末までには学び終えるでしょう。

本日の問52は、「なぜわたしたちは祈るのですか」です。大変、率直な、素朴な問いです。そしてそれに対する答もまた、大変単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるからです。」これが答です。私たちはよく、お祈りは苦手だなどと言うことがあります。どう祈っていいか分からないと思うこともありますが、人前で祈るということを考えれば、なおさらです。私は40代の頃、ある教会の長老を務めたことがありましたが、長老の務めが重荷だったのは、「どう祈ったらよいか分からない」という単純な悩みのためでした。

一方、洗礼も受けていないのに、また教会を離れて久しいのに、滔々と人前で祈る人がいることにも驚きました。牧師の娘だったという、ある年取った信者の方が「わたしはお祈りができないので、オルガンを弾いて讃美します」と言うのを聞いて、わたしも気持ち分かるなあと思ったことです。こんな私が献身して牧師になったのですから、私は成宗教会の皆さんに祈りについて具体的な勧めをしたことはほとんどありませんでした。ただ、わたしたちは祈りが必要であることだけは、身をもって感じているのではないでしょうか。

私に洗礼を授けてくださった仙台東一番町教会の田中従夫牧師は多くを語らない人でしたが、一つだけはっきりと勧めておられたことがありました。それは祈りを止めてはならないということだったことを思い出します。「悪魔は、わたしたちの計画することに何でも賛成します。わたしたちが、「あれがしたい」と思っても、大賛成。「これがしたい」と言っても、大賛成です。ただし、一つだけ賛成しないことがあります。それは神さまに祈ることです」と田中牧師は言い、だから悪魔に支配されないために、祈りを止めてはいけないと勧められました。長い人生を振り返ったとき、この言葉を思い出します。何かの理由で教会を離れざるを得なかったときも、戻って来ることができたのは、祈りによって神さまの助けを求めて来たからでしょう。

このような体験は、おそらく皆様にもおありのことでしょう。神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから、わたしたちは祈るのだと教えられました。聖書は、人間が神さまのかたちに造られたと教えています。それは神さまの呼びかけに応える相手として造られたということなのです。ですから、人は神さまとお話ができる、祈ることができるように造られたということです。人が見えない神さまに祈りをささげる姿こそは、神さまがお造りになった本来の人の姿だということができるでしょう。

本日の新約聖書のテキストはルカ18章です。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえ話をなさいました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」

ここには神を畏れず、人を人とも思わない傲慢不遜な裁判官が登場します。彼が貧しい寡婦の弱い立場を守ってくれそうな期待は到底持てないのです。しかし、やもめはどうしたでしょうか。見込みがないのであきらめたでしょうか。絶望したでしょうか。彼女に最善の方法は何でしょうか。たとえ傲慢で情け容赦のない相手であっても、彼女は訴えを諦めるより、訴え続ける方を選びました。そしてとうとう不正な裁判官を根負けさせたという話です。

イエスさまはこの傲慢不遜な裁判官を神さまに例えておられるのでしょうか。そんなことは決してないでしょう。ただこんなにひどい相手であっても、この人に訴える他に方法はない、となったとき、この女の人はもう絶対にあきらめないで訴え続けた、ということを強調しておられるのです。まして、あなたたちが祈り求めている相手は神さまではないか。神さまはどのようなお方か、あなたたちは知らないのか、とイエスさまは問われているのではないでしょうか。神さまは憐れみ深い方です。神さまは御自分を次のように言い表された方です。出エジプト記34章6節。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」151上。

このような神さまの慈しみを知っているならば、どうして祈り求め、祈り続けないでいられるのだろうか、とイエスさまは問われているのです。あきらめるなどということは論外ではないかと。本当にその通りなのです。ところが、私も冒頭で正直に述べました様に、「お祈りは苦手だ」とか、「何をどう祈って良いか分からない」という理由で「人前で祈るのは・・・」とためらう人がいるかと思えば、まるで神さまに向かって大演説をするような人も出て来る。また、それを見て、大いに驚いて躓く者まで出て来るという現実があります。そんなことなら、自分の言葉で祈らないで決められた祈祷文にすれば簡単だ、等々、あれこれと百でも理由を作っては、祈りから遠ざかろうとするのではないでしょうか。わたしたちはそれこそ、サタンの思う壺にはまりかけているのです。

ところが、イエスさまは何と言われたでしょうか。それは「あなたがたは、あきらめずに祈りなさい!」とのご命令です。「あきらめないで、」です。「自分の拙い言葉や自分の情けない祈りにがっかりしないで、」です。神さまは立派な日本語でないと、立派な英語でないと聞き取れないとはおっしゃらず、忍耐強く聞いてくださる方なのです。また、神さまはわたしたちのひそかな不平不満もご存じです。あれをお願いしたのに、聞いていただけない、わたしの祈りは聞かれないと思い、がっかりしたり、悲しんだりするわたしたちがいます。

わたしたちからすると無理もないことです。重い障害や難病に苦しんでいる人々を思うとき、いつもイエスさまが手を取って起こしてくださった奇跡、目に泥を塗って見えるようにしてくださった奇跡、耳に指を入れ、つばを舌に付けて、開けと言って聞こえ話せるようにしてくださった奇跡が、起こったらどんなにうれしいことかと思うのです。そしてこれ以上良い願いはない、祈りはない、とまで思い、叶わないことを悲しむのです。

しかし、「がっかりしない。あきらめないで祈りなさい」と、今もイエスさまはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちは、幸いなことにあきらめない者として教会にいます。私はこの教会で祈りについてほとんど指導することはありませんでしたが、ほとんどいつの間にか、祈りに満ちた教会になっていました。兄弟姉妹が集まり、礼拝を守り、共に主に祈って来たからです。そして礼拝が終わると皆、教会の外に出て行きました。また会えるだろう、また集まれるだろうと思って別れるのですが、二度と会うことはなかった人もいます。いつまでも元気でいるのが当たり前のように思ってお別れするのですが、思いがけない困難に直面することもあります。その折々に、わたしたちは祈り合って来ました。

もちろん、お互いのことが十分分かっている訳ではないので、「あの人はこうすれば良いのに」「ああしない方が良いのに」と心配しても、わたしたちの考えが正しいかどうかも分かりません。そういう限りある知識の者たちが、限りある力の者たちが集まって祈る祈りなのですが、この拙い、貧しい祈りを神さまは喜んで聞いておられる。だからイエスさまは「祈りなさい」と言われます。ちょうど何も分かっていない幼子のようであっても、その祈りを喜んでくださる神さまがおられるのです。

成宗教会が祈りに満ちていると思うのは、わたしたちに沢山の困難や課題があるからです。この教会に限ったことではなく、教会はこの社会の、また全世界の悩みを映し出しています。悩む人々、悩む社会、悩む世界の中に建つ教会は、祈りの務めを与えられているからです。今日のイエスさまの例え話には悩みある人の訴え、という祈りが取り上げられましたが、わたしたちは礼拝で感謝の祈りを捧げています。御心を尋ねる祈りもあります。そして、これから主の祈りで学ぶことですが、神さまの御心が行われるようにと祈る祈りに導かれます。自分の願いだけを一方的に願うばかりの時は気がつかないことですが、祈りは毎週の礼拝の中だけでなく、個々人で、毎日、時間を決め、一人で、あるいは家族と共に祈ることによって、思いがけない導きが与えられます。それは、自分がこれまで本当に神さまに守られ、恵まれて来たのだ、という発見です。

詩編116篇の詩人は言います。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」神さまがわたしの祈りを聞いてくださったことに気がつく、ということは非常な恵みなのです。なぜなら困ったときに神さま助けてくださいと祈る人は多くいたとしても、災いが過ぎ去ると、神さまが助けてくださったとは思わず、祈ったこともすっかり忘れてしまう人も非常に多いからです。そのような中で、「わたしはこんなに神さまの恵みを受けた」と気がつく人は幸いです。そして人から助けられたとき、何か御礼の贈り物をしようと思うのですが、相手は神さまなのですから、どのように御礼をしようとしてもできないことが分かります。

また、神さまは助けられた人が無理をして献げ物をしてほしいと思ってはおられません。神さまは本当に豊かで恵み深い方なので、ただ人が祈り求めることを喜ばれ、その人を救うことを喜びとしてくださいます。それを信じる人にできることはただ一つ。それは感謝の祈りを捧げることです。喜びの集いを開いて、集まった人々の見守る前で、捧げる献げ物は何でしょうか。それこそが感謝の祈りなのです。

主の慈しみに生きる人、すなわち信仰者の命を神さまは貴いものとして思われるからこそ、これを御心に留められ、必要な助けを与えてくださいます。わたしたちが弱り果てる時、わたしたちは自分で自分を低く見積もり、「わたしは何の値打ちもない」と自分を決めつけて、神さまのせっかくのご好意を蔑ろにするのではないでしょうか。そんなことにならないように常に注意しなければなりません。

こうしてわたしたち主イエスさまに結ばれた者たちは、初めは祈ることが分からず、人前を気にかけたり、自分中心な願い事だけを祈っていたとしても、主はわたしたちをお見捨てにならないのです。なぜなら、主はわたしたちのために命を捨ててくださった方ですから。この方が聖霊によってわたしたちを守り導いてくださったことによって、わたしたちはどんなに前進させられたことでしょうか。わたしたちは時が良くても、悪くても祈り、自分の願いをはるかに超えて善きことを成し遂げることがお出来になる方にすべてを委ね、御名をほめたたえて生きる信仰生活を整えて頂きましょう。2018年が終わろうとする今、わたしたちの歩みを振り返ると、真に人生の一部が祈りの時だったのではなく、わたしたちの人生そのものが祈りの中にあるように、導かれて来たことが思われます。感謝して新しい年を迎えたいと願います。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

本日の礼拝に集めて頂きましたことを感謝申し上げます。2018年を振り返り、成宗教会を通して主と結ばれたわたしたちを守り導いてくださいましたことを、思います。世は移り変わり、人々は変わって行きますが、変ることのない主イエスによっていただいた救いの御業、あなたに対する信仰を感謝し、慈しみとご忍耐の神であられるあなたの御名をほめたたえます。

この年、成宗教会は連合長老会より新たな教師を推薦され。臨時教会総会においてお二人の先生を招聘することを決議しました。真に小さな群れが招聘するにふさわしい教会として整えてください。あなたの御名を汚すことなく、御心に適った道筋が備えられますように切に祈ります。どうかお二人の先生のお働きがあなたのご栄光を現わすものとして貴く用いられますように。先生方のご健康をお支えくださいますようお願い申し上げます。

また成宗教会の長老会の働きを強めてください。長老、信徒の方々のご健康を支えてください。多くの方々が高齢になっておりますが、なお健やかにあなたに支えられ、用いられますように切に祈ります。

どうかこの教会を用いてあなたが招いてくださった方々の上にあなたの御心があり、慈しみ深い主の下に集められますように。来るべき年にも、世の災いを避けることが出来ますように。そして、み言葉を力強く宣べ伝えられる教会としてくださいますように。今、お病気の方、お怪我をしておられる方を思います。どうぞ、その場に共にいらして励まし必要な助けをお与えください。

言い尽くせない感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主はあなたと共におられる

クリスマス聖餐礼拝

聖書:イザヤ111-10節, ルカによる福音書12638a

 今日、クリスマスをお祝いする主の日の礼拝に、今年も皆様と共に集められましたことを感謝します。クリスマスに教会に私たちが集ったのは、主がお招きくださったのではないでしょうか。私たちに良い知らせを聞くために、私たちはここにいます。その良い知らせはおよそ二千年前、天使がマリアに遣わされたことに始まりました。神さまは人間を救いたいと思われました。人間を本当の幸せに招きたい、これが神さまの願いでありました。

しかし、思い上がった人々は神さまを離れているので、本当の幸せを理解しません。だから良い知らせを無視したり、軽蔑したりするでしょう。自分こそが値打ちがあると思っている人々は、他の人が語ることに耳を傾けないのです。「何だ、そんなことか」と右から左に捨ててしまうのです。預言者たちはどんなに呼びかけたでしょうか。悔い改めて、神さまに立ち帰りなさいと勧めても、聞く耳を持たなかったのです。

そこで神さまは救い主を世に遣わすために、愚かな方法を選ばれました。「愚かな」というのは、神さまから離れて生きる人々には「そんなバカなことがあるだろうか」と思える方法なのです。神さまは、そのように他の人を愚かだと思い、軽蔑して人々をご覧になって、そうではない人々を救いに招こうとされたのです。ナザレの町にマリアという人がいました。ダビデの子孫の家系に所属するヨセフと婚約をしていました。まだ二人は一緒になっていませんでしたが、当時のしきたりでは婚約しているということは、既に妻であるも同然でした。神さまはこの名もないおとめマリアに天使を遣わして良い知らせをもたらしたのです。それは神さまが、小さき者、へりくだった者、心優しい者たちに、ご自分を顕わすためでありました。

その一方で、神さまは御自分の秘密の隠し事を、高慢な者、軽蔑する者には知ることができなくなるようになさる方であることに、私たちは注意しなければなりません。わたしたちが名もない小さな者、へりくだった者、心優しい者であるならば、天使の伝えた良い知らせ、福音を聞こうではありませんか。

天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」おめでとう、と天使は言いました。これは「喜びなさい」という意味でもあります。喜びなさい。これは神さまの私たちへの命令ではないでしょうか。しかし、なぜ喜ぶのでしょうか。私たちはしばしば分からないのです。喜んで良いのかどうかさえも、分からない者なのです。天使は呼びかけます。なぜなら、あなたは恵まれているから。またはあなたは幸せな人だから、と。私たちは今目に見えることしか分かりません。あるいはせいぜい過去に起こったことから物事を判断する位しかできません。前代未聞の事件や災害が起こると、全く戸惑うばかりです。このように私たちの能力は限られているので、実際、自分個人についても、また家族、社会についても分からないことばかりです。

しかし、天使は言うのです、「あなたは神さまに恵まれているのだから、喜びなさい」と。ここで私たちは自分の理解をはるかに超えたところに神さまを見上げることができるでしょうか。喜びなさい。あなたは恵まれているから、という福音は、ここで早くも二つの道を示しているのです。その一つは、「わたしは恵まれている」と信じて喜ぶ道です。そしてもう一つは、「わたしは恵まれているかどうか分からないから、喜べない」という道です。そして、たとえ積極的に「信じない」という決断をしなくても「信じられない」ということでは喜べない。それは不信仰への道なのです。

さらに天使は言いました。「主はあなたと共におられる」と。この言葉こそ、喜べと勧める根拠です。あなたは幸せだ、と断言する根拠なのです。神さまが人々と共におられるということは、人々にとってどういうことなのでしょうか。考えてみましょう。創世記の3章に人間の堕落の物語が記されています。禁断の木の実を食べたアダムとエヴァの物語です。私たち自身も十分に理解していない訳ですが、神さまはなぜか食べてはならない木の実を置かれました。神さまはたくさんの食べて良いものをお与えになったのに、人は神さまの約束を破って食べてはならないものを食べたのです。その結果、二人に何が起こったかと申しますと、人は神さまを避けて隠れました。すなわち、主が共におられることを喜ばない者となったのです。神さまに隠れて、神さまから離れて生きる者になったということです。

それがどのような不幸をもたらしたかということです。人が神さまから離れているということは神さまの助けを求めることができないという不幸です。しかも思い上がっている時には、自分の力を信じて助けなどいらないと公言してはばからないのです。一人の人間の一生を考えれば、生まれてから死ぬまで思い上がっていられる人はいないと思いますから、必ず、悔い改めて神さまに助けを求めるチャンスはあるのですが、不幸なことに世界中どこでも思い上がった人々が次々と現れるので、まるで人類はいつでも思い上がって神から離れていても大丈夫だという錯覚が人々を支配している有様ではないでしょうか。

しかし、幸いなことに、誰も彼もが鬼の首を獲ったかのように得意満面に高ぶっている時代は、日本の社会では過ぎ去って、多くの高齢者が(高齢者はいつの時代でもいましたが、今平和が続いたために、長生きが出来た結果であります)労苦して生きているのが誰の目にも分かるようになりました。また子供の虐待、家庭内暴力も(昔からあったものが少子化のためにより顕在化しているのではないかと思います)社会で取り上げられるようになりました。幸いなことです。なぜなら、だれもが、少なくともその一生のどこかで、救いの手を求めて激しく叫びたいようなところを生きていることが分かるからです。その時、叫び求める魂の祈りを聞いてくださる真の神さまへの信仰が、その人にあるのか、ないのか、そのことは真に大きな分かれ道、正に生死を分ける違いなのです。

エフェソの手紙1章1~2節に、使徒パウロはエフェソ教会の信者たちに次のように挨拶しました。352頁「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」パウロの挨拶も天使のマリアへの挨拶と良く似ていることが分かります。神が共におられるということは、神の恵みと平和がここにある。なぜなら、神の助けが私たちにあるから、ということなのです。本当に神を信頼するところにこそ、本当の喜びがあります。

さて、マリアと天使の話に戻りましょう。マリアは天使の挨拶の意味を思いめぐらしていました。それは人間の知恵では知ることのできない、神さまの秘密のご配慮、ご計画であったからです。神さまは御自分の愛する御子を世に遣わして下さり、御子によってわたしたちを心にかなうものとしてくださるご計画を実現してくださいました。つまり、神さまは御自分に背いて離れ去っていた私たちをただ恵みによって受け入れてくださるのです。そして、かつては神さまの敵対していたわたしたちに、救いの恵みを差し出してくださるのです。

天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」それはマリアばかりでなく、すべての人の理解をはるかに超えることでありました。しかし、これをなしてくださるのは神さまの聖霊なのだと天使は答えます。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」

主の聖霊がマリアに来てくださり彼女を覆ってくださるとき、マリアは自分の理解を超えた天使の言葉を福音として受け入れました。真に神にできないことは何一つないことをマリアは信じました。そして、すべてをご存じであり、ご支配なさる神さまだけが本当に良いことを成し遂げてくださることを信じて従う者として、自分を言い表したのでした。

マリアに与えられた恵みを、私たちも思いめぐらしましょう。私たちも主イエス・キリストを救い主と告白する教会の群れに連なって参りました。このことが聖霊の働きであることを信じるならば真に私たちは幸いな者です。マリアはイエスさまが救い主として受ける苦難を知りませんでしたが、聖霊の助けによって受け入れました。そして私たちも、イエスさまが罪の贖いのために執り成しをして下さったことを信じることができたのは、主の聖霊の助けがあったからです。主を信頼し、主に結ばれて共にいると信じることの幸いがここにあります。私たちが幸いであるのは、自分が救われて安泰な人生が保証されているからではないでしょう。主に結ばれている者の幸いは、むしろ、主に結ばれて多くの人々の救いのために働く聖霊の働きに参加させていただけることの幸いなのです。

成宗教会の墓所にはマタイ福音書1章23節のみ言葉が書かれています。「神は我々と共におられる」と。成宗教会の誇り。それはただただ神さまがここに、信者と共にいらしてくださったということに尽きると思います。どんな良い業も、どんな名声も、どんな働きも過去に去って行きます。自分を誇っている人々は、主が共におられることを誇ることは難しいでしょう。ただ、主を誇り、主を喜びとする人だけが、主に喜ばれて主の体に連なる者であり続けるでしょう。

そしてその人は弱いときにも、強い時にも主に用いられるでしょう。丈夫な時と同様に、また病む時にも不思議に用いられるでしょう。若い時に私は学校の教員でした。中年以後に献身して教会に仕えしました。生きている限り、主の恵みを宣べ伝えることは伝道者の喜びです。しかし、だれも年老いて行くこと、例外なくやがて世を去ることは主の御旨です。牧師を辞めても、主に仕える者として死に至るまで忠実であることは、私の目標であり、またどなたにも強くお勧めする目標であります。そうすれば、主はいつの日にも皆さんと共にいらして祈りを聞いてくださり、助けてくださると思います。そのために、私はまだ信仰を言い表していない方々にも強くお勧めします。謙って小さくなられ、世に降られた神の御子イエス・キリストによって明らかにされた神の恵み、罪の赦しを信じて自らを低くし、悔い改めて、キリストに結ばれる者となりますように。そして次世代の伝道牧会者を迎え、この群れに連なり、共に喜んで主に仕える者となってください。祈ります。

 

御在天の父なる神さま

クリスマスを祝う主の日の礼拝を感謝し、御名を褒め称えます。どうか集められた私たちの讃美を受け入れ、祝福をお与えください。この教会にいつの日も希望を与え、恵みの導きをお与えくださいました。私たちは多くの働きをして、良い時も苦しい時もあなたの教会を建てるために労苦された教師や信徒の方々を既に天に送りました。そして共に労苦した思い出と感謝が残されています。あなたの御子の執り成しによって罪赦され、天から聖霊の助けをいただいて来ましたことの結果であります。

私たちは東日本連合長老会に加盟して共に学び、共に歩んで参りましたことを感謝します。皆、日本の教会、日本の社会の困難を反映して、様々な苦労をしております。しかし、共に悩み、共に労苦して共に教会を建てて行くところに、主が共におられ、どうか喜びが与えられますように。来年度いらしていただく先生方のために、あなたの特別な顧みがございますように。そのお働き、ご健康が祝されますように祈ります。また成宗教会にあなたの御心を示し、私共が善き準備をなすことができますようにお助け下さい。特に長老会の働き、ご健康をお支えください。信徒のお一人お一人があなたの助けによって祈りを篤くし、あなたの広く深い御心と愛とを知って絶えず励まされますように。

本日は聖餐に与ります。どうぞ主イエス・キリストの恵みに恐れと感謝を以て与るものとならせてください。

そして、礼拝後の愛餐の時を感謝します。奉仕するすべての者を祝してください。また明日予定されていますイヴ礼拝の行事を祝福し、助け導いてください。このクリスマスも病気その他の事情で礼拝に参加できないすべての方々の上にあなたの慰めと慈しみがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。