この喜ばしい知らせを

聖書:ゼファニヤ書314-18節, ルカによる福音書1525

 待降節も本日は第三の主の日となりました。今年もいつもと変らない恵みに満ちたクリスマスが迎えられるように、私たちは身も心も魂も整え、備えたいと思います。今日読みました新約聖書はキリストの誕生に先立つ物語です。それは一人の預言者の誕生です。後に洗礼者ヨハネと呼ばれたヨハネは、イエスさまが世に表れ、福音を宣べ伝える前に表れて、救い主に先立って道を備える務めを果たした人であります。

ヨハネの父となったザカリアは祭司でありました。また母エリザベトも祭司の一族であり、6節にありますように、二人とも神の御前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったと言われます。わたしたちの神さまは外観の整った行いを喜ばれるのではなく、特に心を見られる方ですから、この二人も心から神さまに従うことを喜び、律法の教えに従って隣人を愛することに努めていたので、「非のうちどころがなかった」と言われたのでしょう。そのように忠実な二人はそれだけで幸せでありましたが、一つだけ叶わない願いがありました。それは子供が与えられることでした。長い間待っているうちに、二人とも年を取って既に子を持つ望みもなくなっていました。

ある時、ザカリアは主の聖所に入って香をたくことになりました。祭司が神殿の聖所に入る時はいつでも、神と人々の仲保者として神の前に立つために入るのです。律法によれば、人々の祈りは祭司が神さまに執り成しをして初めて天に昇るのでした。そこで人々が祈っている時、祭司は聖所で香をたきました。この日、ザカリアが聖所に入ったとき、彼は主の天使が香壇の右に立つのを見ました。彼は非常に恐れました。神さまは私たちに御自分の言葉を聞かせたいと願っておられます。しかし、私たちはなかなか神さまの言葉が分からない。御心が分からないのではないでしょうか。私たちはどうしたら神さまの言葉を聞くことができるでしょうか。聞いて理解することができるでしょうか。そのために、神さまはまず、わたしたちの傲慢を打ち砕いてくださいます。それは、祭司であっても例外ではありません。たとえ、民の中でも優れた者、主の掟と定めをすべて守り、人々から尊敬され、非のうちどころのない祭司さえも、本当に謙って心低くされなければ、神さまの恵みの言葉を聞くことはできないのです。

ザカリアは天使を見て、恐怖の念に襲われました。一瞬のうちに思うのは、自分の罪、咎、過ちを裁かれる方の前に、自分が塵に等しいことでありました。しかし、天使はすぐに彼を立ち上がらせました。「恐れることはない。ザカリア」と。そして神の言葉を告げます。「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」ザカリアが既に望むことさえできなくなっていた優れた息子が生まれるというのです。そして、その子供の誕生は単に両親とか、家庭内だけの喜びではないのです。

「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊にみたされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と、天使は預言し、ザカリアとエリサベトに生まれる子、やがて洗礼者と呼ばれるヨハネがすべての信仰者にもたらす絶大な喜びを語ろうとしました。

今、神さまはご自分の民に、大きな救いの御業を携えて現れようとしておられます。この約束に向かって民を用意させ、人々を神さまのもとに導くこと。そして神さまが恵み深く人々のところに来てくださることができるようにすること。これこそが、生まれて来る幼子に与えられた使命なのです。神さまが人々の中に恵みを現わしてくださるために、必要なことは何でしょうか。それは人々が共に生きる共同体で、分裂を引き起こしている争いが止むことではないでしょうか。ところが現実は、遠い国との平和どころか、同じ社会に生きる人々、もっと身近な家族でさえ分裂している有様です。

傲慢な者は、すべての人すべての物を永久に支配しようと、神さまのご意志に逆らって立ち、地上に平和を求める願いと志を圧殺しようとしている。このことは、昔も今も変りありません。天使が語る言葉によっても当時の礼拝共同体は、今の世界に建つ教会以上に、社会の堕落と混乱の中にあったことを想像することができるでしょう。ヨハネの使命、それは神さまから離れ去った罪人たちを主のもとに立ち帰らせることでした。預言者ヨハネはすべての人を悔い改めに導いて、それによって共同体を一致させ、子供たちを親たちと共に神様に立ち帰らせるのです。これまで神さまに不従順であった者たちが、従順であった人たちと共に、神さまのご意志に服従するのです。そして皆共に、新しい神さまの恵みが現れるのを、ひたすら待ち望む者になる。ヨハネはそのために働くでありましょう。

そうです。ヨハネは神の教会を建設するために、その地馴らし、道備えをするでしょう。17節で天使は神の言葉をこう締めくくりました。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、(複数)の心を子(複数)に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別をもたせて、準備のできた民を主のために用意する。」ヨハネの偉大な使命のために彼は生れる前から「偉大な人」と呼ばれました。ヨハネが偉大なのは、母の胎にいるときから聖霊に満たされていたからです。彼がこの世に生まれ出る前から、見ることも聞くこともできないうちに、聖霊が彼を満たしていたと天使は語りました。ヨハネにこの使命を果たさせるのはヨハネ自身ではなくエリヤの霊、すなわち神さまの聖霊が共にいたからであります。

私たちは聖霊の助けがなければ、神の言葉を聞くことができませんし、聞いてもそれが神さまの言葉であると理解できないのです。だから、この知らせを聞いたザカリアは信じられませんでした。長年の願いは既に不可能になっていたのに、神さまが可能にして下さったということも。また、生まれて来るわが子が偉大な使命をいただいて、神さまに仕えるということも。それは気の遠くなるような良い知らせであったのに。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』

人間のこの肉体の耳は、この良い知らせに対して閉じられていることが分かります。自分の目に見えるものに圧倒され、自然の現実が彼を支配しているからです。だから、まさか、そんなことはあり得ないと思うばかりです。しかし、神さまの思いは、私たちの判断、知恵、思いとは別のところにあるのではないでしょうか。神さまは隠れておられ、私たちに思い図るところを超えておられます。すると、私たちには神さまが遠く離れておられ、無力な方であるように見えるのです。これもまた人間の浅はかさと思い上がりの為す結果ではないでしょうか。

これに対して、天使は答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」この天使ガブリエルというの名は、ミカエルの名と並んで、神の王座のまじかにいる最高の天使を指し示す呼び名でありました。つまり単に天使の一人が語っているのではない。聖なる大天使が、神さまから遣わされた者として神さまの言葉を伝えることによって、委ねられた職務を忠実に果たしているのでありました。

それに対して、ザカリアは疑いの心を抱いて、自分が受け取った良い知らせを他の人々に知らせるためには、真にふさわしくない言葉を口にしたわけです。そこで、ガブリエルは彼の不信仰を明らかに咎めるために、一つのしるしを行いました。それは口がきけなくなるという罰でした。天使の言葉がやがて事実となって初めて、ザカリアの不信仰の罪は赦されることになったのです。それまでは彼にとってどんな日々であったことでしょうか。それは苦しい日々であったとしても、決して悲しい日々ではなかったと思います。エリサベトが子を宿したことが分かった日から、ザカリアは悔い改めの祈りを続けて行ったことでしょう。約束通りヨハネが誕生し、神の言葉の真実が明らかになる日の実現をどんなにか待ち望み、喜んで耐え忍んだことでしょうか。

全世界が御子の誕生を祝うクリスマスに向かっているこの時、わたしたちは、成宗教会臨時総会を開いて新しい教師を招聘しようとしています。全く計画的ではないのですが、この日の説教はバプテスマのヨハネについてみ言葉に聴くことになりました。ヨハネは自分がメシアではないかと思う人々に対してきっぱりと否定し、後からお出でになる方こそ救い主であると証ししたのであります。2千年後の私たちから見れば、これは当然のことですが、当時の人々には全く分からなかったでしょう。ヨハネのメシアを待ち望む姿勢こそ、私たちの手本であり、教会に仕え、教会を建てるものであります。

洗礼者ヨハネの次の言葉をお聞きください。ヨハネ福音書3章27節-30節。168頁です。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

ヨハネが指し示した救い主によって教会は建てられました。イエスさまの教会に仕える者はすべて、救い主の到来を待ち望む者たちであります。この喜ばしい知らせを信じることができるのは、ヨハネに働いてくださった聖霊によるのですから、私たちはいつの時代も忍耐強く教会を建てて、主を待ち望む者となりましょう。「生きているのは、もはやわたしではない」とパウロは言いました。私たちは地上にある限り、主の聖霊によって活かされ、教会の主に結ばれて、生きて働くのです。

成宗教会もこの喜ばしい知らせを伝えるために、全国全世界の諸教会と共に、この地に建てられて来ました。自己中心的で不信仰な世の力が教会の中にも入り込み、兄弟姉妹に大きな躓きを与え、諸教会は苦難の中にありますが、私たちはただ神の御言葉によって活かされていることを、証しして参りました。これからもそうでありますように。そのために成宗教会に新しい時代に向かって教師を招く希望が与えられました。これからも、成宗教会から力強く主の御言葉が語り続けられますように。そして主の聖霊のお働きによってみ言葉が聞き続けられ、み言葉に生かされ、成長する群れとなりますように。祈ります。

教会の頭なる主イエス・キリストの父よ

尊き御名を褒め称えます。あなたは私たちの罪を贖うために御子を世に遣わして、壮大な救いのご計画を実現してくださいました。今日の礼拝を感謝いたします。あなたの御前に非のうちどころのないと言われた祭司ザカリアでさえも、あなたの喜ばしい知らせを信じることができませんでした。私たちは増して罪深く、あなたの善良さ、慈愛に満ちた御心を信じることができず、不信仰のあまり、多くの悩みに陥る者であります。どうぞ、私たちを憐れみ、この罪にも拘わらず、耐え忍んで恵みを現わしてくださるあなたの忍耐と愛を褒め称える者と造り変えてください。

成宗教会を今日まで守り導いて下さったことを思い、真に感謝申し上げます。沢山の苦難、困難がありましたが、私たちの不信仰を打ち砕いて、困難な中に力強くお支えくださっているあなたの聖霊のお働きを見上げることが許されました。大きな恵みでございました。私たちは大きく力に溢れている時以上に、弱り果て困難を抱えている信徒の方々の背後に働くあなたの愛を強く感じ、励まされて参りました。

本日私たちの教会では、長老会が新しいお二人の教師をお招きして共に教会を建てる働きをお願いするために、臨時総会を開きます。先生方には成宗教会の牧師となっていただくばかりでなく、主の体の教会形成のために、東日本連合長老会を通して、また改革長老教会協議会、また、日本基督教団の神学校である東京神学大学を通して、広く、深く教会と手を携えて働いていただく教師としてあなたが任務をお与えになることを願います。成宗教会にとってこれ以上の大きな望みはございません。どうか、あなたの御心ならば、小さな群れに、この大きな志をお与えくださり、この群れをあなたの御用のためにお用いくださいますようお願いいたします。

来週のクリスマス主日聖餐礼拝の上に、教会学校の礼拝の上に、またイヴ礼拝の上に、あなたの恵みをお与え下さい。多くの人々が集められ、み言葉なるキリストの祝福に与ることができますように。主よ、どうか奉仕する者の健康を支えてください。今、心身に不安のある多くの方々を覚えます。どうぞあなたの豊かな顧みが、皆様の上にございますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しい人に福音を

成宗教会待降節第二主日礼拝説教

聖書:イザヤ55章1-11節, ルカによる福音書4章14-21節

 クリスマスを待つこの時期、今年も沢山の、驚きというより愕然とするような事件がありました。しかしそれでもこの社会にあって、いつも変らない主の御言葉を聞くことができることは本当に幸いなことです。そして成宗教会にいるわたしたちは、変らない教会を、これからの時代にも建てようとしております。このために、牧師も長老会と共に教会員の方々と共に祈り、労苦している訳ですが、この労苦もまた本当に幸いなものです。なぜなら、わたしたち一人一人は、本当にゆとりのない時代に生きており、経済的にも余力がなくなっていますし、また時間的にも日曜日にもゆっくりできない方々、体力的にも教会に足を運べない方々が多くなっているからです。

しかし、それでも、何とか次世代にも教会を残したいと願うならば、主はわたしたちの願いをお聞きくださるでしょう。この願いは考えてみれば、貧困な願いではない。ゆとりある願い、むしろ豊かな贅沢な願いなのではないでしょうか。わたしたち、お金に乏しくとも、時間に乏しくとも、体力に乏しくとも、豊かな贅沢な願いを持つことができる。それはどんな願いでしょうか。それは、教会を建てたいという願いです。わたしたちはたとえ先日まで青々として木々の葉のようであっても、いつの間にか紅葉して、人の目を楽しませ、きれいと言われる葉のようであっても、やがて風に吹かれて散って行く花のようであっても、天の父、そして教会の主には覚えられ、喜ばれる名前を持っているのですから。

教会は、外の世界から見ると、何の目的で立っているように見えるでしょうか。教会では讃美歌が歌われる。コーラスの愛好家が集まっている。昔は書道や華道に優れた方々も沢山いらしたことを思い出します。また、12月になると、社会奉仕を実践している救世軍の社会鍋が懐かしく思い出されます。また教会は貧窮者を助けるために、また少数者の立場に立って権利を擁護するためにあると思われるかもしれません。そのどれも、教会の中で、全く否定されたり、除外されたりすることはないと思います。しかし、外の世界から見えるこのような活動のために、教会が建っているのではありません。

教会の目的は、神の言葉に従い、神の言葉を宣べ伝えることにあり、教会は神の言葉のために建てられるのです。それでは、神の言葉は教会に大切にされて来たのでしょうか。わたしたちが手にしている聖書。当たり前のように読むことができる聖書ですが、実は500年前、宗教改革が起こる、その前の数百年以上、人々は神の言葉をほとんど失っていた時代が続きました。聖書はラテン語で、一般の人には目に触れることはおろか、聞いて理解することもできませんでした。讃美歌でさえラテン語で、一般会衆が歌うことはできなかったのです。

そこで、主は宗教改革者たちを起こし、彼らを励まして、聖書をそれぞれの自国の言葉に翻訳させるように導かれました。そのおかげで世界の人々は聖書がラテン語ではなく、自分の分かる言葉で読まれるのを聞きことができるようになりました。今から500年前のことです。ルカ福音書は、ガリラヤの町、ナザレで安息日に会堂に集まった人々に、イエスさまが皆に分かる言葉で聖書を読み、解き明かされたと伝えましたが、それと同じように、わたしたちも聞くことができるようになったのです。わたしたち現代人は、宗教改革の時代の神学者たちの労苦と献身の働きを経て、初めて聖書を開き、イエスさまの時代と同じ御言葉を聞くことができるようになったわけです。この恵みに感謝して、福音に耳を傾けたいと願います。

今日読んでいただいたイザヤ書55章1節。「渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」神さまは貧しい人々に呼びかけておられます。飢え渇いている人々。神さまは彼らにパンを与えようとしておられるのです。ぶどう酒と乳も。神の言葉によって神さまは貧しい人々を御自分に招いてくださっています。神さまのくださるパンは神さまの恵みとして無償で与えられます。神さまのくださるパンこそ、あらゆる良いものの源でありますから。

イザヤは、神さまがダビデに約束した慈しみをお忘れにならず、永遠の契約を結んでくださると預言しました。この契約によって約束された慈しみは、神さまの民イスラエルばかりでなく、神さまを知らなかった世界中の諸国民が神さまの備え給う食卓に招かれることです。それでは、どのようにして世界中の人々は招かれたのでしょうか。わたしたちはどのようにして神さまの穀物、神さまのぶどう酒、乳など、あらゆる良いものの食卓に行くことができるのでしょうか。

それはみ言葉によってです。今日の新約聖書はイエスさまがガリラヤで伝道を開始されたときの様子を語ります。4章14節。「イエスは‟霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一体に広まった。」霊の力は、すなわち聖霊の力です。神さまの霊によらなければ、神さまの思いを人々に伝えることは決してできません。イエスさまは神さまの霊に満ちあふれて伝道を開始されたのでした。それは人々を悔い改めさせ、御国に招く力でした。ところで、ユダヤ人の家族の住むところには、必ず会堂がありました。人々はこの会堂に集まって礼拝を献げ、教えを受けるところでもありました。イエスさまは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられたのです。

イエスさまは御自分の故郷ナザレの会堂で、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。(昔は身分の高い人は座り、身分の低い人は立っていました。)イエスさまが立ち上がられたのは、聖書に対する敬意を表すためでした。聖書を解きあかそうとする人々が、畏れ敬う態度で聖書を扱うことは、聖書の尊厳にとってふさわしいことだからであす。神の言葉に対して姿勢を示されたのです。

それは預言者イザヤの言葉でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤが語りかけていた人々は紀元前6世紀、バビロンの捕囚後の人々です。彼らは、破壊し尽くされ、暗闇しか見えない荒廃の中にいました。預言者はその闇の中にいる人々を集め、このような長い不幸と災いの連続に打ちのめされている人々を教会として、すなわち神さまを礼拝する共同体として再建する神の恵みを語りました。破壊され尽くしたところに再建の希望を語る。それは人の業ではない。ただ神の恵みの力、聖霊の力による他は考えられません。イザヤはただ聖霊の力によって教会を再建する神の恵みの証人が現れると、預言したのです。

この救いはキリストの到来によって実現されると預言され、人々に信じられて来ました。キリストとはギリシャ語ですが、ヘブライ語でメシア。その意味は油注がれた者、王、祭司、預言者を表します。そして主の霊、すなわち聖霊については、わたしたちもまた、その導き、ご支配を受けたからこそ、その力によって、不信仰な者が信仰を言い表して、イエスさまを救い主と告白、洗礼を受けることができたのです。それは神さまの霊であり、イエスさまが弟子たちに約束してくださった霊ですから、イエスさまに結ばれた教会は昔も今も聖霊の力によって救われる者を生み出しているのです。

ですから主の霊はイエスさまにこそ、限りなく注がれているのです。なぜなら、救い主、キリストであるイエスさまは、わたしたちを神さまと和解させるために、神さまからの使者としての務めを持って世に来てくださったのですから。ヨハネの福音書にこう書かれているとおりです。ヨハネ3章34節。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が‟霊”を限りなくお与えになるからである。」168下。イエスさまに注がれた霊は、イエスさまによって神の教会が回復されることを目指しておられるのです。主なる神さまがキリスト・イエスさまに油を注がれたことは、この方がご自分の考えではなく、ただただ神さまのお命じになるところだけを行われることを意味しているのです。

そしてこの目的のために、神さまはキリストをお立てになり、貧しい人に福音を告げ知らせてくださいます。預言者イザヤは紀元前6世紀の頃、打ちひしがれた人々にこの言葉を語りました。それは時代を超えて、地域を超えて今も全世界に告げ知らせられています。福音の知らされる前には、神の民、教会がどんなに悲惨な状態にあったかを、またキリストがおられないとき、わたしたちすべてがどのような状態であるかを示しています。

昔も今も、人々は非常に多くの悲惨によって虐げられているので、世界中に、このような傷ついた人々の呼び方がふさわしくない、当てはまらないような所は全くないくらい、人々は傷ついているのではないでしょうか。ところがヨハネの黙示録3章17節に、主は次のように言われます。456頁下。「あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

このように、実は多くの人々が自分の貧しさに気づかず、盲目であることにも気づかない。知らないうちに人に支配され、人にばかりではなく、物にも、支配される。例えば、便利なものに頼り切って、結果的に支配されていることに気がついていないのです。更に、死と滅びにさえも魅力を感じ、死にたいと公言して犯罪者の餌食になったりします。わたしたちは実に、自分のみじめな状態を感じないほど愚かであることさえあります。真に悲しむべき深刻な悲劇が遠くにも近くにも見過ごしにされているのを、わたしたちは感じないではいられません。

福音には二つの目的があります。その一つは、神さまは福音を通して慈しみ深い御顔をわたしたちに示し、深い死の淵からわたしたちを救い出して下さり、そして、完全な幸福をわたしたちに回復するために、命を与える希望を示してくださるところにあります。それが、19節の主の恵みの年という言葉に示されています。旧約の律法の書には、50年目の解放の年が定められていました。その年が来ると、奴隷は解放され、負債はすべて免除されるという規定でしたが(レビ25:10)、このことは、罪人の罪を免除する神の憐れみのしるしとして宣言されているのです。神の恵みによって罪の奴隷から解放されるのですから、その人は解放された後は、罪に支配されず、神に従う者とならなければなりません。せっかく神の恵みの年に解放されても、神の畑で働くのでなければ、また罪の負債を負ってしまうことになるからです。

福音のもう一つの目的は、わたしたちも自分の中にある貧しさを真に感じて謙り、キリストをわたしたちの解放者として求めることにあります。そうでないならば、キリストがわたしたちにもたらそうとしておられる恵みの救いを受けることができない。高慢でふくれあがり、自分の惨めな者であることを思わず、そこからの解放を願わない者は、このイエスさまの預言に耳を閉ざす者であり、侮る者となっているのです。

だとすれば、本当に幸いなのは、人間の貧しさを知ることではないでしょうか。草は枯れ、花は散ると思う時、だれ一人そのような存在でないと言うことはできません。わたしたちはあらゆる社会にあって、どのような時にも貧しい人に、すなわち神の言葉に耳を開くすべての人々に福音を告げ知らせてくださる聖霊の働きを求めて行きたいのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。待降節第二の主の日の礼拝にわたしたちは集められ、恵みの御言葉を聞き、讃美を捧げます。小さな群れは、御子キリストの執り成しによって罪を赦され、あなたの慈しみと恵みによって今日まで守り導かれて参りました。今、少子高齢化の進む社会にあって、東日本連合長老会の一員として共に一つの教会を建てる歩みの中に入れられていることを感謝します。

わたしたちの想像を超える時代が始まって行くのではないか、と思う今、どんな時にも、所にも、貧しい者に福音を告げるために世に来てくださった御子イエス・キリストを信じ、あなたの御名を褒め称えさせてください。どうか、私たちをこの主に従い、主の命に連なり、命を得る者としてください。あなたの御心は天が地よりも高いように、私たちの思いを高く超えてあることを感謝します。どうかわたしたちの教会を建てる志、御言葉を世に残す願いが御心に適うものでありますように。来週は成宗教会に新たな主任担任教師を招聘するために臨時教会総会を開きます。どうぞ、御心ならば、多くの教会員が集められ、心を一つに祈りを合わせて招聘を決議することができますように。すべてのことの上に主の恵みのお導き、ご支配を祈ります。

今、ご病気の方々を顧みてくださり、ご健康を回復させて下さいますようお願いいたします。クリスマスの準備が整えられ、喜びと感謝のうちに多くの兄弟姉妹が集められ、お祝いされるクリスマスとなりますように。今、悩みの中にある方々、特にお独り暮らしの方々のご生活の上に平安をお与えください。どうか聖霊の主の助けによって、無くてならないもので養ってください。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天地は滅びても

待降節第1主日礼拝説教

聖書:エレミヤ3314-16節, ルカによる福音書212536

 2018年の待降節が全世界の教会に今日から始まっております。いつの年にも変らないクリスマス。それは主イエス・キリストが世に来てくださったことをお迎えする記念の行事です。それでは、迎えるわたしたち、そしてわたしたちの周りの世界はどうでしょうか。いつの年にも変わらないのでしょうか。子育て世代の方にとっては毎年大きな変化を感じるでしょう。そして高齢化する多くの人々にとっても毎年の変化は大きいと感じるのではないでしょうか。更に、社会全体を考えれば、多くの人々が少子高齢化社会の急激な変化を感じ、更に、気候の変動も具体的には温暖化する世界を肌身に感じていることです。今日の聖書に語られているとおり(ルカ21:25)、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥って」いるのであります。

先日のテレビで、イギリスで発見されたローマ帝国時代の剣奴の墓についての報道を見ました。剣奴というのは、競技場に集まった観衆の娯楽に奉仕する奴隷です。生きるか死ぬかの一騎打ちを人間同士あるいは野獣と戦い、その残酷非道な死の有様を娯楽として楽しんだのが、ローマ帝国の市民たちでありました。人を奴隷にし、人が苦しみ、八つ裂きにされていくのを娯楽としている社会がそこにありました。イギリスのヨークで見つかった墓と同じ種類のものがトルコにあるそうです。そこはエフェソの教会のあった場所です。

わたしたちは思います。イエスさまが福音を伝えてくださったこの世界は、人々が楽しんでいた世界であったことを。悲しみに満ちていたのではありません。人々は楽しんでいた。飲めや歌えや、で、毎日を面白おかしく生きることに浸り切っていたのです。その楽しみのためにだれが苦しもうと、だれが倒れようと、ひたすら楽しんでいる。そして、神さまがそういう有様をご覧になっておられるとは夢にも思わないのです。

だからこそ、イエスさまは遣わされて来たのではないでしょうか。小さな者として。寄る辺ない者として。この世の人が羨むようなこの世の魅力、この世の権威を何も持たない人のようにして。ただ神さまの御心を告げる者として、御言葉と御業をわたしたちにくださるために来てくださったのです。しかし、ひたすら楽しんでいる人々の罪は、ここにこそ明らかにされるのです。自分たちの楽しい生活を邪魔する者には容赦しない。ここに人間の罪は現れました。この世の力、この世の権威を持っている人々がイエスさまを受け入れなかった。そして、それはイエスさまをお遣わしになった天の父を否定することであったと、なぜ気づかなかったのでしょうか。

この世界、この社会に起こる急激な変化、それに伴う不安。それは幸せに浸り切って何も考えない人間に対する神さまからの警告に他なりません。自分だけ満足している。自分の満足の犠牲になっている人々のことを考えない。人だけではない、自分の満足のために、人々も、動物も、自然も踏みにじっているかもしれないのです。また、自分の幸せのために、後から来る人々のことを考えない。あと何十年たったら大変なことが起こる、いや何年先のことかもしれないと言われようが、平気。今自分たちが困らなければ構わない。だからこそ、イエスさまは言われたのではないでしょうか。「人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」

私は成宗教会の仕事として、教会員の問安、お見舞いを続けて参りました。10年から30年年上の教会員の方々で、牧師の訪問を心待ちにしてくださる方のところへ、私は参ります。実はわたくしにとって問安は本当に遠慮なことでありました。なぜなら、私のうちに人間的な思い煩いが働いていたからです。それは私に訪問されたくないのではないか、という思いです。具体的には、他の先生ならいいけれど、私だから嫌なのではないか…等と考え始めたらきりがありません。しかし、そういうことはあるかもしれませんが、相手の問題である以上に、私の姿勢が問われておりました。イエスさまは弟子たちをお遣わしになって、ご自分の御言葉を語らせましたので、伝道者はそれ以外の御用で遣わされることはありません。だから牧師自身そういう目的で問安をし、迎えてくれる信徒のところにだけ行くことができました。

私の恩師、山本元子先生は中渋谷教会を辞して引退教師となった年に病気にお倒れになり、私はお見舞いに伺いました。それは2002年、私が54歳にしてようやく成宗教会の伝道師となった年でした。先生は、私を病院のベッドに迎えたとき、こうおっしゃいました。「伝道者が来た。伝道者が来た。さあ、聖書を読んでお祈りしてください」と。元子先生は伝道者の務めだけを真っすぐにわたしに指し示してくださいました。

今、わたしたちが不安な時代にいると知っているなら、わたしは幸いです。この天地が覆されるような不安を予告されるキリストは、同時にこのように言われるからです。28節。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を挙げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「あなたがたの解放のとき」と主は言われます。では、わたしたちは解放される必要がある者だというのでしょうか。その通りなのです。弱い者が、貧しい者が軽んじられる。表向きはそうでなくても、周到に、上手に、避けられ、よけられ、嫌われ、見捨てられかねない人間関係が、社会の中に、職場に、学校に、そして家庭にさえも密かに入り込んではいないでしょうか。

そういうわたしたちは不安の中で、教会の主イエスさまの御言葉を求めています。わたしたちは真に幸いな者ではないでしょうか。わたしは最近もこのような訴えを病床の方から伺いました。「家族がわたしの話に応えてくれない気がする。スーッと知らん顔をして行ってしまうような…。」一番分かってほしい人々に分かってもらえないもどかしさ、辛さに、私も思わず呻くような思いがしました。しかし他方、家族の方も苦しんでいるのではないかと思います。健康な時はすらすらと出る言葉がまとまらない、自分でも何をどう表現してよいか分からない。うまく声が出ないということだってあるのです。そして家族にはそのような病人の傍らに座ってゆっくりとお話を聞くだけのゆとりがない、これも辛い現実ではないでしょうか。

そう思いながら、いいえ、そう思うからこそ、わたしは気がつきました。わたしたちはイエスさまに出会うようにして教会の信者に会い、イエスさまに訴えるようにして自分の気持ちを話しているのだと。そしてイエスさまが聞いてくださるように相手の話を聞いているのではないかと。これは真に畏れ多いことですが、やはりそう言わざるを得ないのです。なぜなら、イエスさまは具体的に罪人を赦し、罪人を弟子にし、そして罪人を御自分の御言葉と共に伝道のために、遣わしておられるのですから。

ですから、不安の中で、このイエスさまの御言葉を聞く者は幸いです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。すべてのことが起こるまでは、この不安な時代は決して滅びないと主は言われます。なぜなら、神を恐れない邪悪な人々が蔓延っている限り、神さまはこの世界に厳しい警告を送っておられるのですから。しかしわたしたちの希望は神さまの言葉、イエスさまに表された神さまの御言葉なのです。

わたしたちはイエス・キリストの御言葉にこそ、滅びることのない土台を持っています。今日の旧約聖書はエレミヤ書33章を読んでいただきました。14節。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。」目を挙げて見なさいと言われているのです。わたしたちの現実、それは滅びるものに望みを置く人々にとってはどのようなものでしょうか。今幸せな人はそこしか見ていないかもしれない。今苦しんでいる人もそこしか見ていないかもしれません。しかし目を挙げて見なさいと言われるとき、信仰者は見上げるのです。悲惨な現実、厳しい現実を超えて救いの約束を果たされる神さまを。

15節、16節。「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」ここに、預言者エレミヤは、ダビデの末から生まれる救い主の到来を預言しています。ここで、『主は我らの救い』と言われているのは、主はわたしたちの義さである、という意味なのです。義しい人とは、ただキリストに与えられた言葉であり、キリスト以外には義人は一人もいないのです。その義人であるキリストは教会の頭となってくださいました。すなわち、教会はキリストを頭とするキリストの体であります。

ところで、キリストがわたしたちの頭であるということであり、信者はキリストと結ばれて一体となっているのですから、わたしたちはキリストのご性質をもわたしたちのものとしていただいていることになります。つまり、キリストはわたしたちに御自分の正しさを分け与えてくださっている、ということです。このことは何よりも重要です。だからこそ、主はわたしたちの義さそのものであり、わたしたちの救いであると信じる信仰の基がここにあります。

Ⅰコリ1:30-31にこう書かれています。(300下)「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」このように勧められているので、わたしたちはキリスト・イエスさまを信じ、洗礼を受け、キリストに結ばれて、ただキリストの義さを恵みによっていただいています。誇るべきものは、わたしたちの弱さ、罪を担って十字架にお掛かりになるまでにわたしたちを愛し、わたしたちの低さにまで謙ってくださったイエスさまのみであることを、改めて思い、感謝しましょう。

長い人生を歩み、信仰を守ってきた兄弟姉妹は、この恵みがよく分かるのですから、ますますこの方にしっかりと依りすがって生きて証しをしていただきたいと思います。しかしながら、これから長い道のりを歩む若い方々にこそ、イエス・キリストの恵みによる救いは知らされなければなりません。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」わたしたちの教会はそれだからこそ、終わりの日まで耐え忍んで地上に教会を建てて行く働きに参加しようとしているのです。

「自分さえ楽しめば良い」というのは真に主の喜ばれることではありません。イエスさまは御自分だけ楽しまれたでしょうか。イエスさまは神の内にある喜びを分け与えるために、十字架の恥をさえ忍んで、わたしたちを招いてくださっているのではないでしょうか。また、「自分の人生さえきちんとしていればよい」というのも、決して高い目標とは言えません。それは、言ってみれば、「あとは野となれ山となれ、わたしの行く道花となれ」というのと、あまり変わりはないのではないでしょうか。

しかしわたしたちは、後から来る人々に恵みを残すために労苦する者になりましょう。だからこそ、私の後任の教師を招いて主の恵みによって教会が建てられるために、長老会と共に皆で心を一つにしていくことが必要です。教会は、何よりも御言葉を求める礼拝によって建てられます。苦難の時代の中でも教会に連なり祈り続けるわたしたちは必ず主の体の部分として守られます。終わりの日までイエスさまから離れることがないように、いつも目を覚まして祈る者となりますように。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

あなたの尊き御名を褒め称えます。今年も待降節第一の主の日を迎えました。クリスマスに向けて一歩一歩を整えて参ります。すべてがあなたの恵みによって与えられることを思う時、真にわたしたちの信仰の弱さから不安になり、思い煩うことが真に多いことを恥じ入る者でございます。

改めて御言葉によって罪の赦しをいただいたことを感謝します。信仰を新たにされ、いつも主の御心に従う者とされて、今週の日々を歩むことができますように。わたしたちを家庭に職場にまた、あなたの御旨にかなったところにお遣わしください。 この社会の問題に目をつぶるのではなく、いつも正しい道を見い出すことができますように家族、隣人、社会のために祈る教会の群れとしてください。

わたしたちは来年度成宗教会に遣わされる教師を招聘するために16日に臨時教会総会を開くべく、公告を致しました。どうか候補者として立てられた先生方があなたの御心によって祝福を受け、御心であるならば、東日本連合長老会の指導の下、成宗教会に招聘される道が開かれますように、お願い申し上げます。

長老会の働きを祝し、必要な労苦をあなた御自身がお支えください。また来年度に向けて体制が整えられますように導いてください。

オルガニストとして奉仕されている小高さんのご病気が快方に向かっていることを感謝いたします。どうかあなたの恵みによって癒され、ご家族も祝されますように。またその他にもご病気の方、困難な状況に苦しんでおられる方々を思います。どうか、あなたが傍にいらして聖霊の励ましをお与え下さい。また、わたしたちが祈りに覚え、為すべきことを示されますように。

連合長老会の教会の長老、信徒の上に恵みが豊かにありますように。今週行われる東日本婦人会クリスマスの良き交わりを祝して下さい。また、待降節の間、成宗のクリスマスの準備の全ての上に、あなたのお導きがありますように。どうかあなたの恵みに溢れた小さな群れを祝福し、守り導いてください。

これらの感謝、願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

主を待ち望め

聖書:詩編13018節, ローマの信徒への手紙3920

 週報にも報告しました通り、成宗教会は私の後任の教師を招聘するべく準備を進めております。ひと昔前の時代には、倒れるまで頑張ってあとはよろしくというのが牧師の務めのように考える傾向もあったかもしれません。しかし、辞任を表明する牧師は、単に辞めて行けば良いのではない。後任を迎えるために長老会と共に最大限の努力を傾ける。これが教会の主に対する私の最後にして最大の務めである。このことを今、私は長老会と共に主から示されているところであります。

さて、そういうわけで、次年度に続く仕事の一つはキリスト教主義の学校とのつながりでありますから、来年も成宗教会の教会学校が覚えられるようにと、先週も明治学院東村山校のキリスト教教育懇談会に参加して参りました。高校三年生の方々が教会やキリスト教について、それぞれの持つイメージや考えを発表していました。大変印象的だったことは、受洗を決心したきっかけが、いろいろなキャンプへの参加であったことです。とても楽しく心を打ち明けて話が出来た。その後も楽しい交流が続いているなど、発表者のほとんどが同様の体験を語っていました。

同年代の生徒が、若者が、一緒にいるとそれだけで楽しいという経験。これは、わたしの年代だと小中学校で普通にあったことなのに、今はそうではないらしい。楽しくない集団がむしろ当たり前になっているのかもしれないと思いました。それが現実だとすれば、イエスさまを教える主催者が開くキャンプは、彼らにとって本当に珍しい喜びの体験だったのは当然だと思いました。

その反対の例ですが、勤労感謝の祝日にわたしが教会の前を掃除しようと出て見ると、何と不審な人々が5,6人も前の道路に立っていました。と言っても集団で来たのではありません。ほとんど並んでスマホを見ながら立っていますが、恐らくポケモンを探しているのだろう、と想像できなかったら、私にはただ気味の悪い人々としか感じられないでしょう。一緒に人々がいる、ということだけで、うれしい、楽しいということには決してならないのです。

わたしたちは、この夏から 十戒 についてみ言葉を学んで参りました。人々が一緒に喜んで生きるためのルール、それが十戒であるとも言えるのであります。これは、神さまから与えられました。人々が一緒に喜んで生きるためのルールなら、人が決めれば良いのではないか、と思うかもしれませんが、理屈はそうでも、それはできなかったのです。なぜなら、次のように書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙3章10節~11節。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」人々が一緒にいて喜んで生きられるというためには、何よりも人々を一人残らずお造りになった神さまを信頼することが前提となります。ところが、神さまを信じ、神さまを頼りにする人がいないという。皆、罪人だというのです。

12~18節。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

わたしたちには律法が与えられているのですが、それでは、これらの律法、戒めをすべて守ることができるでしょうか。その問には、今日読んでいただいたローマの信徒への手紙が答えています。わたしたちはたとえ見た目には正しいことをしているように見えるとしても、心の中では十戒をすべて守ってはいないのです。密かに人を呪い、姦淫の罪を犯し、人のものが絶えず羨ましく、自分のものにしたいと思い、また嘘をついてします。そしてそういう罪が大きい人ほど、ますます自分の罪には気がつかないということが起こります。それは自分で自分をだまし、ごまかし、欺いているからで、ここに人間の罪の深刻さがあります。

神さまは罪人であるわたしたちに、ある時は苦難に遭わせます。わたしたちはしばしば、苦しんでいる人々に対して同情しない。それどころか、神に見捨てられているのだと突き放すことさえあるのではないでしょうか。その反対に、自分が苦しみに遭う時には、神さまに見捨てられたように感じてしまうでしょう。どちらにしても、わたしたちの考えは、神さまのお考えとは全く違うのです。そのように、わたしたちは皆、神さまから心が離れてしまう罪人です。しかし、旧約聖書詩編130篇で詩人は叫びます。礼拝の場、エルサレムを目指して、神さまに叫び求めるのです。しかしそれは、自分が正しい者だから、神さまに祈り求める資格がある者だから叫ぶのではありません。

そうではなく、詩人は深い淵の中にいる者として、耐え難い試練に打ち沈んでいる者として、しかしながら、神さまに叫ぶのです。自分は間違っていない、自分は悪くない、と主張しているのではありません。神さまがわたしたちの間違い、罪、いろいろすべて数え上げなさるならば、主よ、誰が耐えられるでしょう。「だれもあなたからお咎めを受けないで済む者はいません」と、自分の罪を認めざるを得ないのです。一つ一つ罪を裁かれたら、その罰は死刑が100回どころか1000回も死ななければならないでしょう。

しかし、それでは詩人はなぜ叫ぶのでしょうか。なぜか、が分かる人は真に幸いです。なぜなら、それこそが神さまが罪人に求めておられることだからです。だからこそ、神さまはわたしたちに試練をお与えになるのではないでしょうか。「悩みを与えられ、懲らしめを受けて、ついに神さまに向かって叫び求める者になりなさい」と。詩人は自分が神さまの御手によって懲らしめられるのは、当然であることを認めながらも、勇気を出し、立ち上がって神さまに救いを求めます。そればかりか、すべての信仰者に向かって、神さまに確かな望みを抱くように勧めるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに」と。なぜなら、神さまはとこしえにご自分の民を救う方、贖う方でありますから。神さまは人々を死から救い出す手立てを、その御手の内に常に備えておられると確信しているからです。

世の人々は、神の存在も認めず、従って神を恐れない傲慢な人々が多いのですが、それでも、神がおられると信じる人々は、神は厳しく裁く方であると考える人々も少なくないと思います。しかし、聖書の信仰は、わたしたちにご自分を顕される神さまは、罪人を憐れみ、悔い改める者を救いに招こうとなさる方である、ということなのです。わたしたちに起こるあらゆる困難、試練、災いも幸いも、すべて、わたしたちを悔い改めに導こうとなさる神さまのご配慮であります。そのことを信じて常に神さまの恵みの招きに立ち帰るなら、わたしたちは、困難の中にあっても本当に幸いな者とされるでしょう。

旧約の詩人が待ち望み、人々に力強く教え励ました救いを求める祈りは、イエス・キリストによって実現しました。旧約の民に与えられた二枚の板に記された十戒。この戒めはローマ3章20節の言葉の中に目的を達成したのです。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」つまりだれも律法を自分の力で実行することができなかったということなのです。しかし、神さまは御自分の独り子イエスさまを世に送ってくださいました。そしてイエスさまだけが、律法の心を実現なさったのでした。律法の心、それは、イエスさまが人々に教えられたみ言葉です。マタイ22章37-39節。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」44頁。

そしてイエスさまは人々に教えられた戒めを、御自身において実行され、神を愛し、そのみ心を行われました。そして、隣人を愛し、最後まで愛し抜いて下さったのです。すなわち、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に掛かられ、わたしたちの贖いとなってくださいました。このようにして、イエスさまは、隣人を愛することも、神さまを愛することもできず、いやそれどころか神さまの独り子イエスさまを十字架に付けた張本人であるわたしたちの罪を赦してくださったのです。

真に、人は律法の行いによって救われるのではなく、イエスさまの愛と赦しを信じる信仰によって救われることをわたしたちは教えられました。この信仰によって、わたしたちは罪赦され、新しく生きる者とされるのです。こうして律法はわたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。イエスさまは十字架の苦難と死、そして復活によって、神と人を愛するという十戒の戒めをすべて完成させてくださいました。そして、わたしたちは、律法を行って完成することによってではなく、この律法の完成者であるイエスさまを信じることによって、救われる者となったのです。

ですから、何よりも大切なのは、キリストの御支配がわたしたちの内にあるかどうかなのです。イエスさまの霊のご支配の下に生きる者は救われます。わたしたちは、たとえ律法を完全には守ることができなくとも、キリスト・イエスさまへの信仰によって、万物を支配するキリストの御力によって、わたしたちの内に力を振るおうとする罪の支配を絶えず打ち砕いていただくことができるのです。このことは、クリスチャンの個々人に起こるだけではありません。このことは、御言葉を宣べ伝えて行く教会にまず起こらないはずはありません。わたしたちは地上に立っているこの教会の上に、まずキリストの体として御支配を受けることを祈り求めて参りましょう。

本日まで学んで参りました十戒の最後の問は、「これらの律法をすべて守ることができますか」でした。それに対する答は、「いいえ、できません。それがわたしたちの罪です。けれども律法の完成者であるイエスさまによって、罪赦されたわたしたちは、この教えに従って新しく生きることができるのです。」この十戒の教えに従って新しく生きることができるということが、十戒に与えられた新しい目標なのです。すなわち十戒に表された律法は、罪赦された者の感謝の生活を導く道しるべとなっているのです。ここに、新しく生きるクリスチャンの喜びと幸いがあります。

今日は説教の最初に、キリスト教についての高校生が持っている主観的、あるいは客観的な考えを聞いたとお話ししました。私は彼らと50年以上年を隔てて、自分が受洗した20歳前後の頃を思い出しました。時代は激しく変りましたので、今の時代に即した伝道を次世代に担っていただくことは喫緊の課題です。しかし、全く変わらないのは、クリスチャンを律法主義的に捉える世の人々の考えだと分かりました。「『クリスチャンなら悪いことしないよね』『正しいことをするよね』と言われ、プレッシャーをかけられる」と言った高校生がいたからです。

しかし、私たちが世に知らせたいのはそういうことではありません。神さまが人の命をどんなに慈しみ、大切に思っておられるか、万物の救いのためにも、人が神さまに立ち帰ることがどんなに求められているか、このことこそがイエス・キリストの到来に結晶しているのだと、世に知らせたい。それが主の喜ばれることではないでしょうか。わたしたちの社会への救いの祈りはまだ始まったばかりです。主を待ち望みましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。 終末主日の礼拝を守るためにわたしたちを呼び集めて下さり、感謝いたします。先週の礼拝には藤野雄大先生、藤野美樹先生を次年度からの主任担任教師候補としてお遣わしくださいましたことを深く感謝申し上げます。東日本連合長老会に加盟し、全国連合長老会の人事によって新しい教職を迎える希望が与えられていることを、感謝し、このことの上に主の御導き、お支えを切に祈ります。

成宗教会は牧師の交代をまじかにしたこの時期をあなたの御心に従って、教会を整えて参りたいと存じます。どうか長老会を励まし、また信徒の皆様を励ましてください。それぞれが与えられた務めを思い、また果たすことができるために聖霊の尊き助けをいただくことができますように。招聘に向けて臨時総会を開催します。あなたの御心がすべてのことに行われますように。

十戒の学びを本日まで導いて下さったことを感謝いたします。来週から待降節に入ります。どうか心からの感謝と悔い改めの祈りをもって準備をし、待降節を迎えることができますように。今、病床にあるオルガニストの小高氏をお支えください。ご家族も慰め、励まして下さり、癒しの御手を伸ばしてくださいますようお祈りいたします。他にもお病気の方々がおられます。どうか、日々の困難の中から、主の救いを祈り求めることができますように。

今、様々な試練、困難の中にある方々を顧みてください。助けを求める信仰が豊かに与えられますよう、祈ります。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の栄光を現わす

聖書:申命記324852節, ペトロの手紙一 4711

 本日の礼拝、11月最初の主の日の礼拝を、わたしたちは永眠者記念聖餐礼拝として捧げるために、こうして教会に集められました。思えば、わたしたちは何と豊かにされていることでしょうか。世界中では人々が自分の住むところを失うほどの戦争や社会不安に襲われている地域があります。アメリカでは中米から何千人という人々が合衆国を目指して移動を始めたというニュースが流れ、本当に行き場を失う人々がいるのだ。またそれを迎え入れるかどうか、という問題に直面している人々がいるのだ、ということに驚きます。

人口減少社会の日本がある一方、世界は人口爆発です。わたしたちの社会も明日が予測できない方向へと向かっているのですが、今日という日、わたしたちは成宗教会に集められ、たくさんの写真を前にしています。あわただしい日々の中で、また明日の思い煩いが押し寄せる日々の中で、わたしたちはこれらの写真の方々を思い出して礼拝を守ります。何と豊かなことでしょうか。わたしたちは何がなくても、今日、教会と共にいらした方々を思い起こしたい、そして神さまに感謝したいという思いに満たされているからです。

本日は旧約聖書の申命記32章を読んでいただきました。これは、預言者モーセの最期についての神さまのお言葉です。モーセという人は、神さまの命令に従った人でした。彼は何か偉い人になりたかったわけでは決してありませんでした。しかし、神さまは彼をお選びになってイスラエルの人々を救い出す仕事をお与えになったのです。彼はそのために多くの困難に直面しなければなりませんでした。有名なのは、エジプト王ファラオが頑なで、どうしてもイスラエルの人々を奴隷解放しませんでしたので、彼はその罰として次々とエジプトに災いをもたらすように神さまから命じられたことです。また、モーセが杖を持って手を海に差し伸べると海が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れたので、イスラエルの人々はそこを歩いて渡って、襲いかかるファラオの追手から救われたのでした。

しかし、モーセの直面した最もつらい試練は、敵の王様の頑固さではありません。何と味方であるはずのイスラエルの人々の頑なさでありました。モーセが苦労し、神さまに従ってすべてを耐え忍んだのは、イスラエルの人々を救うためではなかったでしょうか。ところが彼らは感謝するどころか、不平不満の塊で、モーセに激しく反抗したのでした。その時にただ一度だけ、モーセは神さまの命令通りにしなかった、ということなのです。神さまはモーセが「イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と言われました。モーセは、ただ一度の罪のために、イスラエルに約束された土地に入ることができなかったのだと言われています。

モーセは本当に神さまに忠実でしたが、完全に神様に従うことができませんでした。彼は神さまが救おうとしてくださる神の民のあまりの不信仰、あまりの恩知らずに驚き、あきれ、ついに怒ってしまったからです。それでも、モーセはイスラエルの人々の罪を一生懸命に神さまに執り成して、その生涯を終えたのですが、神さまはモーセに言われました。「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と。神さまが聖なる方であるとはどういうことなのでしょうか。

新約聖書はペトロの手紙の一、4章7節から読んでいただきました。その一つ前の6節から見ましょう。6節。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためです。」死んだ者にも福音が告げ知らされたと語られています。このことはキリストが十字架にお掛かりになり、死んで葬られ、陰府に下られたときに、死んで陰府にいた人々にも福音を宣べ伝えてくださったのだと解釈する人々がいますが、それは確かではありません。ただ、イエスさまの福音が死者を生かす力あるものであるからには、福音がこの地上で生きている人々に限定されて宣べ伝えられるということは考えられないでしょう。

わたしたちの親しい人々が既に地上から去って行きました。その中には、キリストを知らない人々、キリストを信じるに至らなかった人々が多くいます。キリスト教人口が1パーセントと言われるこの国では、当然の現実です。また、教会はこの救いを宣べ伝える使命をイエスさまからいただいているのですが、罪ある人間が十分に宣べ伝えることができているとは決して言えない。イエスさまのことが十分に分かってもらえないうちに親しい者は地上を去って行くでしょう。福音を聞く者も、語る者も共に罪あるわたしたちです。このことを神さまは御存じです。

ですから、たとえわたしたちが、またわたしたちの愛する者、親しい者がイエスさまをこの地上で救い主として受け入れないまま世を去ったとしても、それだからイエス・キリストの罪の赦しは無駄になるのか、無意味になるのか、と言えば、決してそういうことではありません。なぜなら、キリストの恵みの御業は、生きている者たちにばかりでなく、死んだ者たちにまで及ぶにちがいないのですから。だからこそ、わたしたちが「あの人は救われない」とか「あの人は駄目だ。この人は・・・」と批判したりすることは空しいこと、無意味なことではないでしょうか。

御覧ください。ここに飾られた写真の方々、教師として奉仕した方々も、信徒として教会に結ばれていた方々も、地上を去っても霊においてキリストと結ばれて生きる者とされています。では、わたしたちが今地上にあって為すべきことは何でしょうか。モーセに言われた主の御言葉を思い出しましょう。地上に生きているうちになすべきことは、神さまが聖なる方であることを表すことです。モーセにさえ完全にはできなかったこのことを、成し遂げられたのは、イエス・キリストでした。この方は、神さまがわたしたちの罪を赦して下さり、神さまの命に生きる者となるために、わたしたちのために執り成しをして下さったのです。すなわち、イエスさまは十字架にかかり、すべての人の罪の身代わりとなって死んでくださいました。この救いを信じて告白した教会の人々が、新しいイスラエル、神の民です。そのわたしたちは何をして生きればよいのか。すなわち何をしてこの救いの神さまが聖なる方であることを表したらよいのでしょうか。今日のペトロの手紙は勧めています。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。教会では自分たちの求めるべき幸福は神の国の宝を受け継ぐことである、と教えられます。そうはいうものの、わたしたちは特に近年は長寿国に生きていますので、何となく自分も長生きできると思っていますから、神の国のことを思うよりも、専ら考えるのは地上のことです。たとえて言うならば、地上を去る時は必ず迫って来るのに、まるで夢の中でウトウトしているように生きている訳です。しかし、聖書は、それは愚かなことであると警告します。

そうは言っても、ペトロの手紙の時代以来、2千年もの間、世の終わりは来ないではないか、と言う人も多いでしょう。確かに今日明日と過ぎて行くこの世の流れによって、時の長さを測る限り、時間は長いと感じられるのではないでしょうか。しかし、わたしたちの目を上げて、神さまの永遠を思うことができるとするならば、数百年をもって数えられる多くの歳月も、一時間あるいは一分間と思われるようになるのです。そして終わりが近いということに、わたしたちは動揺しません。なぜなら信じる者には、永遠の命を約束されているからです。

そこで勧められています。「思慮深くふるまい、身を慎んでいなさい」と。イエスさまもマタイ24章で教えておられます。42節です。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」と。

そして祈りなさいと勧められています。クリスチャンが生活の中で実践しなければならないことは祈りです。なぜなら、わたしたちの力はすべて主の御力によって与えられる力であって、わたしたち自身の力ではありませんから。それならば、わたしたちが祈らないでいることは、本当に弱くなるばかりということです。だから、「わたしたちを主の御力によって強くしてくださいと、主なる神様に求めなさい」と勧められているのです。

さて、主なる神さまに願い求めるべき、わたしたちの生活は、「何よりもまず、心を込めて愛し合う」生活であります。だから、このためにこそわたしたちは祈らなければなりません。なぜならば、「愛は多くの罪を覆うからです。」人々が互いに愛し合う時には、多くの事がらを互いに赦し合うようになります。わたしたちのうちに愛が支配するとき、それは、特別な恵みをわたしたちにもたらします。それは、忘却という恵みです。不愉快な扱いを受けたこと、傷つけられた思いをいつの間にか忘れてしまうというということよりも大きな恵みはないのではないでしょうか。忘却によって、心に残っていた多くの悪い事を、悪い思い出を葬り去ることができる。これは特別な恵みです。だから、わたしたちが愛のうちに互いを赦し合い、助け合う以上に良いことはありません。人は誰もが多くの罪という名のシミがあり、しわがあり、傷があるのですが、神さまがキリストによってわたしたちを赦してくださいました。だからこそ、わたしたちは何よりも互いに赦し合うことが必要なのです。

そして更に勧められています。「不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と。わたしたちは自分のものと思っているものも、すべて主から与えられている賜物であります。だから、人に何かを与えるとしても、何一つ自分のものを与えるわけではなく、ただ、主がわたしたちの手の中へ入れてくださったものを、他の人々にも分配しているにすぎないのです。ですから自分に与えられた恵みの善い管理者になりなさい、と教えられます。もしあなたが物やお金や、才能を多く与えられているならば、主は、あなたが多く他の人々に分配し、共に豊かになるようにと与えてくださったと知るべきであります。神さまがすべての人に同じ賜物を平等に与えてくださらない理由がそこにあるのです。神さまの御旨は、わたしたちが互いの不足を補い合い、助け合って生きるようになることなのですから。

「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。」キリストに救われて、今を生きるわたしたちが、神さまに求められていることがここに示されています。それは神が栄光を受けるために、わたしたちが与えられたものすべてを用いて、神の栄光を現わすものになることです。

モーセのような忠実な神の僕であっても赦されず、裁かれた罪を、イエス・キリストは取り除いて下さった。この恵み深い神の計り知れない救いのご計画を思い、感謝が溢れます。成宗教会は創立78年になります。主に結ばれていることを証しして下さった兄弟姉妹を、そして教職の方々を通して、教会の主は今、わたしたちに恵みを注いでおられます。不思議な主の御力によって、この方々は地上を去った今も、主と共に在って励ましを送ってくださっています。いつまでも思い出されるのは善いこと、懐かしいことばかりなのです。ここに神の御名がほめたたえられずにはいられない教会があります。わたしたちもまた後に続いて、神の栄光を輝かせるものとなりましょう。地上を生きるこの時を生かし、わたしたちに与えられている賜物を生かして。 祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美します。今日わたしたちは御前に喜び集い、永眠者記念礼拝を捧げ、聖餐の恵みに与ることを感謝します。わたしたちは小さな群れですが、あなたは恵みを豊かに注いで、今日まで守り導いてくださいました。今、わたしたちは、雨の日も風の日も成宗教会に在って共に教会の主に結ばれ、主にお仕えした永眠者の方々を覚え、感謝を捧げます。地上で思い出すわたしたち以上に、天でその名が覚えられていることを信じ、またわたしたちも後に続きたいと切に願います。すべてが主の栄光を現わすために用いられ、天上にも地上にもあなたの喜びが溢れますように。

今日、礼拝にあなたに依って招かれたご遺族の上に、あなたの豊かな顧みがありますように。地上であなたを愛していた兄弟姉妹のご家族がご子孫が、あなたの恵みを受け、主イエス・キリストを知る者となりますように。

成宗教会を今日まで守り導いて下さった大きな恵みを改めて思い、感謝申し上げます。わたしたちは、牧師の退任に伴う後任の人事を進めるために、連合長老会と学びを共にしております。どうか東日本の諸教会と共に歩み、教会の業を整えて行くことができますようにお助けください。この地に変らないあなたの恵み、福音を宣べ伝える教会として、成宗教会を建設してください。今日の長老会の上に恵みのご支配を祈ります。

本日は主の聖餐に与ることを感謝します。どうかわたしたちを、主の死に結ばれ主の命に生きる者として、悔い改めと感謝を捧げて聖餐に与ることを得させてください。本日礼拝に参加できなかった方々も顧みてください。病気の方、悩みにある方々に癒しの賜物をお与えください。

すべてを感謝し、御手に委ねます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。