十字架の勝利

聖書:哀歌3章18-33節, マルコ福音書10章32-45節

 一行はエルサレムに上って行く途中であります。一行とはイエス様につき従って来た人々の一団であります。イエス様を救い主と告白する人々で成り立つ集団であります。そうだとしたら、それは教会ではないでしょうか。イエス様を救い主と信じた人々。まもなくイエス様は栄光をお受けになると信じた人々です。では彼らはなぜ信じたのでしょう。イエス様がいかにも救い主らしい威厳に満ちた、神々しいお姿でいらしたからでしょうか。あるいは天から響くような美しい声で教えられたからでしょうか。聖書にはそのような記述は一つもありません。

では、イエス様は王侯貴族のような地位と身分の方だったからでしょうか。いいえ、わたしたちの誰もがそうではないことを知っています。イエス様は慎ましい生活の中に生まれ育ち、その御姿には取り立てて言うほどの美しさはありませんでした。それにもかかわらず、その教えに人々が集まり、その癒しの業を見聞きして、やがてたくさんの人々がイエス様に着き従いました。彼らはイエス様の平凡な、むしろ貧しいお姿を見上げて、この方に救いの望みをかけたのでした。

わたしたちは聖書の中に登場する最初の弟子たちが、しばしばあまりにも普通の人々のように見えるので、半分驚きながら、半分安心するのではないかと思います。彼らはあまりにもわたしたちの現実に近いということを思うのですが、ではわたしたちもなぜ、他の人々はイエス様について来ないのに、わたしたちはついて来たのでしょうか。本当に自分が他の人々と特別に変わったこともなく、特に立派である訳でもないことを思う時、改めて分かることがあるのです。彼らも、またわたしたちも、こうしてイエス様の教会にいる、イエス様の群れの中にいるその理由は、イエス様が招いてくださったからです。招いてくださったからこそ、イエス様のお言葉を信じることが出来たのです。

イエス様は「神の国は近づいた」と言われました。神の国とは、神の御支配される王国です。悩みのあるわたしたちを神がご支配なさる、と聞いて、それを信じたからこそ、わたしたちは祈ります。『御国が来ますように』と。「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」と。なぜか分からないけれども、わたしたちの悩みを御支配くださり、悩みを平安に変えてくださる神を信じる。その信仰がイエス様の教えによって与えられました。それでは、今はもうわたしたちも悩みなく、憂いなく、生きているでしょうか。そんなことはありません。地上に生きているわたしたちは、今も「神の国は近づいた」と言われたイエス様を信じ、『御国が来ますように』とひたすら祈っています。また祈ることが必要です。それは、わたしたちもまた教会の中にあってイエス様と共に旅を続けている途上にあるからなのです。

さて、一行はエルサレムに上って行きます。イエス様はこの旅路を先頭に立って進まれます。この世の王様のように先立つ者に露払いをさせ、多くの人々に守られて行くのではありません。先頭に立ってエルサレムを目指しておられます。エルサレム、そこに待っている敵対する者がいることを、主に従っていた人々は知っていたでしょう。そこには、主イエスを憎み、陥れようとする者たちが待っている。しかも彼らは権力ある者たちです。だから、弟子たちは驚き、従っている人々は恐ろしく思いましたが、しかしそれでも、彼らは主の後につき従って行った。それは、彼らに信仰が与えられていたからです。神の救いの恵みが何より素晴らしいと思う心が与えられていたからです。

そこで、主は今一度改めて弟子たちに教えられます。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。この苦難と死と復活。これこそがこの旅の目的でありました。この目的を理解させるために、主は繰り返し語られ、弟子たちを励ましておられます。すなわち、これから起こることを前もって知らせることによって、主は彼らを信仰の戦いに備えさせ、彼らが思いがけない悪に突然襲われるような時にも、悪に負けないようにさせたいのです。

主はまたご自分の十字架に対して、弟子たちが短期間ではあっても屈辱を受けられる主を見て心挫けることがないようにさせたい。この方こそ神の子であり、死に勝ち給う方であることを確信するようにさせるためでありました。このために主は三日目の復活を弟子たちに知らせて励ましてくださいました。彼らは臆病になっていましたが、それでも主を離れてしまわなかった。自分たちも主の弟子として迫害や暴力を受ける危険があるかもしれないけれど、それでも主に従って行きました。

これは神の国を来たらせるための戦いだ、わたしたちはイエス様に従って行こうと、弟子たちは決心した。そこまでは良かったのですが、その時です。主に対する熱意と信仰が、思いがけない欲望にとって代わられたのです。それがあからさまに行動に表れたのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネでした。この二人は兄弟で、主イエスが「わたしについて来なさい」とお招きになった最初の頃の弟子たちの二人です。彼らは熱心に主に従い、ペトロと共にいつも主の近くにお仕えしていました。そのうちに彼らは、主はわたしたちを特別にだれよりも大切に思っておられるのだ、という得意になっていたのではないでしょうか。

彼らのように、教会の中でたくさんの奉仕を熱心に行い、主に仕えることが喜びであるという人々は、主にも喜ばれ、教会にとっても大変ありがたいと思われるでしょう。しかし、自分たちは神さまから特別に大切にされて当然だと思うほど働いている、と思い上がってしまった結果、神の国に特別な地位を求めるとしたら、それは大変な問題であります。

ヤコブとヨハネは「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と求めましたが、一体彼らはキリストが栄光を受けるということが何を意味するか知っていたでしょうか。ほとんど知らなかったと思います。主イエスがエルサレムに上って行かれるのは、苦難と死を受けるためです。そして、この苦難は御自身のためではなく、わたしたちが受けるはずの苦難です。この死は御自身のためでなく(神の御子がどうして死ななければならないはずがあるでしょうか)、わたしたちが受けるはずの死なのです。

彼らは主イエスが世に軽蔑され、非難にさらされているのを見ていました。しかし、それでも彼らは主がまもなく偉大な王となるだろうと信じていました。なぜなら、ただ主がそう言われたからです。主の教えを単純素朴に信じた彼らの信仰は素晴らしいと思います。しかし彼らは将来実現されると信じた王国を心に描いた時、たちまち欲望に囚われました。神の国で一番になりたい。二番になりたいと。このように単純な素直な信仰者も、たやすく自分に取りつかれてしまうことを思う時、私たちは自分のためにこう祈らなければなりません。

主よ、どうかわたしたちの心の目を開いてください、そしてわたしたちを導き、常に正しい目的に向かってひたすら進むことが出来るようにお守りくださいと。わたしたちに信仰を起こしていただくだけでなく、その信仰が救いの道から踏み外すことのないようにお守りくださいと。その時イエスは言われたのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。わたしたちは神に従う者とされました。それは、本当に不思議な恵みの選びによるもので、なぜなのかをわたしたちは知りません。しかし、この恵みによる救いだけがいつもわたしたちの喜びであることを思う者は真に幸いであります。

しかし、ヤコブとヨハネはそれだけに満足しないで、神さまがお望みかどうか知ることのできないことにまで口を出し、自分を神さまのお考え以上の者にしようと画策しました。他の弟子たちは憤慨しましたが、実は彼らもまた同じようなことを考えていたからこそ腹が立っただけなのです。こういう態度は決して主に喜ばれるものではないでしょう。更に問題なのは、彼らが、神の王国について、地上の王国のような序列を想像していることです。人間の浅はかな空想で神の国や、天国について好き勝手なことを考え、それを事実であるかのように言いふらす人々は大きな過ちを犯していると言えるでしょう。

主は彼らの願いがまちがっていることを教え、諭そうとしてくださいます。そのために「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」とお尋ねになりました。それは、主イエスの受けなければならない苦難と死を受けることが出来るかと、問うておられるのです。彼らは簡単に「できます」答えました。これもまた、傲慢な態度だと言わざるを得ません。苦難について、一体誰が自信満々に「わたしは耐えられる」と言うことが出来るでしょうか。わたしたちは日頃、なるべく楽に生きたい。苦労はしたくない。災難には遭いたくないと思っています。それにも拘わらず、天の父は思いがけない苦難、苦労の体験をわたしたちにお与えになりますが、それがわたしたちに必要だとお考えだからなのだ、と思わざるを得ません。

わたしたちは愚かにも、自分が病気にならないと病人の辛さを思い遣ることが十分できないし、また自分が苦労しないと他人の苦労が十分には分からない者です。「そうだね、本当だね」と共に悩みを分かち合うことが出来るように、神さまはご配慮くださっているのではないでしょうか。そのようにして主は世にいらしたとき、わたしたちの弱さをいつも担ってくださり、真の神として誰よりも偉い方であられるのにも拘らず、真の人として誰よりも下にお立ち下さり、多くの人々を下から支えてくださったのです。

私は一生の間に多くの教師に出会い教えられました。高校、大学の先生。そして50歳で編入学した東京神学大学の先生方。教区の牧師方や連合長老会の教職の方々。結論から申しますと、優れた先生ほど、謙虚でありました。相手が優秀であろうがなかろうが、質問を喜んで受け、相手に力に応じて熱心に教えてくださったことを思い出します。だからイエス・キリストの苦難の意味に納得させられるのです。キリストはこの上ない高いところにおられた卓越した方だからこそ、地の底にまで降って、救われる値打ちのない者をも、ただ恵みによって、愛によって救ってくださる天の父の御心を表していることが知られるのです。

エルサレムに上って行く主イエスに、教会も従って行きます。この苦難はわたしたちの勝利のためです。主イエスは十字架の勝利を目指して進んで行かれました。主の勝利はわたしたちに対しても約束された勝利です。ただ、わたしたちは主イエスに従って行く途上にあります。そして主イエスは、ご自分の教会に勝利を確信しなさいと言われます。しかしそのことは、「もう勝ったんだ」とか、「どうせ最後は勝利に終わるから」と言って、地上の日々を無為に過ごしたり、好き勝手なことに時を費やして安閑と空しく過ごすことではありません。この日々の労苦が必ず報われると天の父に希望をかけ、日々の思いがけない戦いに備え、そこにわたしたちの努力を傾けることに集中する。それが十字架の勝利を確信する生き方なのです。

では、十字架の主に従うわたしたちの戦いは、どんな戦いなのでしょうか。それは、主イエスがなさってように、仕えられるためではなく、仕える者となるように、すべての人の僕(しもべ)となるように、日々、このことを私たちの祈りとし、与えられた立場において、境遇において、主が望み給う最善を尽くして、主の体の教会にふさわしく生きる戦いではないでしょうか。教会学校の今月の聖句は、次の言葉です。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つです。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」わたしたちは主イエスの命のパンを分けていただいて一つの家族、神の家族とされているのです。一つの体として、だれかの苦しみを共に苦しみ、だれかの悩みを悩みとし、だれかに慰めをもたらすように。だれかに喜びをもたらすように。この戦いが、私たちに絶えず働いてくださる聖霊の神の助けによって十字架の勝利をもたらしますように。祈ります。

 

御在天の父なる神様

あなたは御子をわたしたちに賜り、あなたの御心を十字架に表してくださいました。御子がわたしたちのためにあらゆる労苦を忍んでくださったことを覚え、深く感謝申し上げます。何のとりえもないわたしたちが、ただ恵みによって救いに招かれていることを思い、わたしたち、喜んで主に従う者となりますように。

一筋の救いの道を歩み、あなたがわたしたちに与えられた尊い使命を見い出し、どのような日にも倦むことなく疲れることなく、いただいた務めを果たすことが出来ますように。私たちの教会に与えられている使命を思います。どうか世の終わりまで福音が力強く宣べ伝えられ、恵みの福音を新しい世代もまた聴くことが出来ますように。救いに入れられる人々をこれからもこの教会に起こしてください。また同時に、わたしたち年老いて行く者が、主に従う者として地上の生涯を全うすることが出来ますように。幾多の苦しみ悩みを乗り越えさせていただき、本当にイエス様は神の御子であったと心から告白しますように。

成宗教会のイースターへ向かう日々、また教会総会に向けて準備する私たちの歩みをお守り下さい。また、悩み多い世に在って、またご病気のため、なかなか礼拝に来られない方々を覚えます。どうかその方々の心身共に安らかに今週もお守り下さい。新年度に備えるこの時期、来年度もいただいた賜物を生かし用いてくださる主の聖霊の導きを切に祈ります。この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストに、神の輝くお姿を見る

聖書:出エジプト24章12-18節, コリントの信徒への手紙二 4章1-6節

 本日は、旧約聖書として出エジプト記の聖書が与えられています。出エジプトの民の物語は、今、21世紀を生きるわたしたちに、現実として差し出されています。彼らの先祖であるヨセフは、ヤコブの息子であり、アブラハムのひ孫にあたりますが、兄弟に妬まれ、憎まれて、奴隷としてエジプトに売られました。しかしその兄弟たちもすべて、パレスチナの飢饉の際にエジプトに移り住んだのです。そして長い間にはエジプト人に支配され、奴隷の身分に転落して行きました。しかし、彼らは神がご自分に従う民として選ばれたアブラハムの子孫でありました。そこで神は人々を支配する者の鎖を断ち切ってくださり、自由へと招いてくださいました。自由。それは神に向かう自由。神に従う自由であります。

人々は実に孤独で生きて来たのではありません。人々の生きた歴史は、人々が共に生きる共同体の歴史です。共に生きる交わりです。それはどんな共同体なのでしょうか。血縁共同体なのでしょうか。または住む地域を共にする地縁の(地域社会の)共同体なのでしょうか。それとも、共同体とは、一緒に仕事をする仲間なのでしょうか。趣味の仲間ならたくさんいる、という人々もいることでしょう。学びの仲間もそうかもしれません。しかしそれ以上に、共同体を作るために集まる人々もいます。それでは、出エジプトの民はどんな共同体だったでしょう。そのどれも当てはまるところがあるかもしれません。しかし、全く当てはまるかと言えば、そのどれにも当てはまらないのです。

なぜなら、出エジプトの民は神が集められた共同体であります。奴隷の状態から自由にされた共同体です。そして自由とは、神への自由です。神だけが人をあらゆるものの支配から自由にしてくださる方です。これは神への信頼で成り立っている共同体です。逆に言えば、それがなければ成り立たない共同体なのです。

先ほど私は、出エジプトの民の現実を私たちも生きていると言いました。なぜなら、わたしたちもまた現代という激動の時代を生きているからです。21世紀、激しい気候変動が起こっています。また、福島の原発事故は人類がかつて体験したことのない災害でありました。これから何十年、あるいは何百年経っても過去の話にはできないかもしれません。そして第二、第三の事故がいつでも起こるリスクがあります。それも、自然災害からだけではなくても、戦争という人災によって引き起こされる可能性はいつでもあるのです。その上に日本ではこれから激しい人口減少に直面していかなければなりません。その一方、世界中では人口爆発があり、地球全体としてはすでに72億を越えているということです。

そういう現代に在って、今わたしたちも、神の集められた共同体に生きています。イエス・キリストによって招かれたからです。今日も、こうしてわたしたちは成宗教会という日本基督教団の1600余りの教会の一つである小さな教会に礼拝を守っております。また、教団の中にある連合長老会の一つである東日本連合長老会という地域教会に所属する群れとして礼拝を守っております。このように、聖書の御言葉に向かいながら、今、歴史的に自分たちがどこに立っているのか、また世界の中でどこに立っているのかを、確認させられることは大切なことではないでしょうか。

こうして今年も春に向かおうとしています。教会の入り口から差し込む光が日に日に明るくなり、柔らかくなっているのを感じて、「ああ、今年も春だ。春だ」と思いながら、私は16年も成宗教会と共におらせていただいたのだと感慨深く思います。16年前も礼拝に集まっていた人々が集まることが出来なくなったという嘆きの思いが教会にありました。一生懸命教会に仕えていた人々が高齢になり、教会に足を運ぶことが出来なくなった。また、転居を、引っ越しを境にどこの教会にも行かなくなった人々は少なくありません。しかし、礼拝を守ることが出来ないことの深刻さを真に理解していた人々はどれだけいたのでしょうか。

出エジプト記でエジプトから脱出した民は、人間の支配者の奴隷状態から救い出されたのでしたが、それからが彼らの戦いの始まりでした。なぜなら、人の支配に縛られなくなっても、罪の支配を受けず、本当に神に従う自由な人となるために、人々は自分たちの罪と戦わなければならなかったからです。なぜなら、人は一人で生きる者ではなく、共同体の一員として生きる者だからです。実はこういうふうに申しますことさえ、ごく最近まで「それは共同体論という一思想に過ぎない」と批判されるだけになっていました。

現代人は共同体など不必要、なくても生きられるという思想が歓迎されたからです。ひとりで○○に登ったとか、世界を一人で○○したとか、そういう個人プレーがもてはやされるのですが、実際にはその個人を育て、サポートするどれだけ多くの人々がいるか、ということが成功の決め手であります。また、7年前の震災の直後、私は一人の老人がお団子屋さんの前から動かないのを見ました。何だかんだと話しながら、そこに座り込んでいるので、店の主人は困った顔をしていましたが、老人の気楽な独り暮らしが地震を境に一変して、家にいるのが恐ろしい様子でした。

生きるということは、決して一人で誰とも関わりなく生きることではないとは、震災を経験したすべての現代人が知っていることです。また長く生きれば生きるほど、多くの人々のサポートによって自分の生活が成り立つことを実感することでしょう。また実感すべきです。また、少子化が進む時代に、子供を家庭で育てられなくなるという深刻な事態も急速に増えています。子どもたちが家族という共同体を失って行く危機的な状況が広がっているのです。

このような今、成宗教会に集まっているわたしたちは、礼拝共同体の一員として主の御招きを受けているのです。神に招かれ、神の自由に生きる特別な恵みを受けるために。主はモーセに言われました。出エジプト記24章12節。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」そこでモーセは山に登り、十戒を刻んだ石の板を主から受けることになるのですが、この板は御存じの通り、礼拝共同体の人々が神に対する戒めを守り、隣人に対する戒めを守って、救いを得るための律法が書かれていたのです。

モーセは神の御許に出るために山に登って行く際に、礼拝共同体の長老たちに言いました。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」

こう言い残してモーセは人々から離れ、四十日四十夜神の御声に聞き従っていましたが、モーセが不在の間、神の礼拝共同体であるはずの人々は、自分たちを導いてくださる神から心が離れ、金の子牛の形を造り、これを自分たちの神として拵え上げ、これに礼拝を捧げるようになってしまったのです。

わたしたちを圧迫し、支配する人間から解放してくださった方こそ、真の神でありますが、その方を信じ続け、従い続けることの何と困難なことでしょう。また、真の神は目に見えない方、わたしたちの感覚や考えをはるかに超える方でありますが、わたしたちは自分の考え、感覚を何と信じていることか。自分で良いと思うものに何と夢中になることか。そして自分で拵え上げたものを神としてこれに仕え、この世の支配に縛られ、それに何とがんじがらめに縛られることになることでしょうか。

モーセが不在であった40日40夜とは、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた長さに匹敵します。それは実際の数字というよりは、十分長い期間を意味します。その間、神の共同体は礼拝を守り、教えを聞くことが出来なかったのでしょうか。それともしなかったのでしょうか。ここに礼拝を守ることの大切さをわたしたちは教えられるのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストによって礼拝の民とされました。共に集まり、讃美と感謝を捧げ、御言葉によって生かされるのです。主の聖霊がわたしたちの罪の赦しを御言葉によって教えてくださるからです。

わたしたちは旧約の民に優るとも劣らない罪の誘惑にさらされている者です。それは絶えざる不安となってわたしたちを攻め立てて来ないでしょうか。自分が救いに入れられたということがどんなに大きな事であったことか。神を忘れ、すぐに他の頼れるものを捜し求めてバタバタする。礼拝を守るどころではない、ということになってしまう。しかし、神はわたしたちの不信仰にもかかわらず、様々な落ち度にもかかわらず、ただ恵みによって救いに入れてくださったのです。それも忘れてしまって、わたしはあれをしたから良かった、わたしはこれができるから、と自分で自分に値打ちをつけようとします。そうすることによって、ただ自分を輝くようにしたいのです。その結果、神の恵み深さをほめたたえることから遠ざかり、神の栄光の輝きを目立たないようにするために努力しているという、真に情けない不幸な状態に陥るのではないでしょうか。

それでも、この教会の群れは、大変幸いであると私は思います。今日の新約聖書コリントの信徒への手紙で、使徒パウロが強調して止まないことを、私も強調するために、説教をさせていただくことが出来たからです。すなわち、イエス・キリストの真の福音とはどのようなものかを明らかに伝えるために、主はパウロをお遣わしになりましたが、私もまた、どんなに小さな足りない者であっても同じ福音を伝え続けるために、この教会に遣わされたからです。本当に誇るべきは、この輝かしい福音伝道の務めであります。

ですからパウロは、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と述べましたその言葉を、私もそのままお伝えしたいと思います。使徒パウロほど、人生の大逆転を経験した人はいないと思います。キリストを迫害する者、教会を迫害する者としてのサウロ。彼の名はダビデ王を妬み殺そうとしてサウル王と同じでした。サウル王には神からの悪霊が来て、彼を迫害者に変貌させたのですが、教会の迫害者サウロには何と主イエス御自身が来てくださって彼を罪に死なせ、福音に生きる者と生まれ変わらせてくださいました。

真に恐るべきは神の力。神の恵みの圧倒的な力であります。わたしたちの目には何が正しいのか、また何が一番大切なのかが、しばしば隠されて見えません。様々な声がわたしたちを惑わし、迷わせるからです。しかし、主の方に向き直りましょう。災害や疫病や戦争や、ありとあらゆる不安が世界に昔からあるのに加えて、今はIT革命の時代です。人間も社会をも支配すると言われるITが果たして誰の支配を受けるのか、わたしたちの知恵が及ばないとしても、わたしたちは見えない神の御支配を信じ、2000年従って来たキリストの体の教会を信じます。

「この世の神(=悪魔)が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の(目に見えない)似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」御父は人間の感覚によっては理解できません。しかし神は、御子を通してわたしたちに現れたまい、御子によって見えるものとなり給うたのです。「闇の中から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストは闇の中に輝く光、救いの光です。しかし、わたしたちの救いのためにいらしてくださった主は、地上では何ら輝かしい、人を引き付けるようなお姿をお持ちになりませんでした。わたしたちの中にいらしてわたしたちの弱さを担い、わたしたちの破れを御自分のものとしてくださったこの愛を、わたしたちは知ることが出来るでしょうか。この愛に神の輝くお姿を見ることが出来るでしょうか。

キリストは救いの光として世に来てくださいました。光がそこにあるだけではわたしたちは感じることが出来ません。目の中に映し出されて、初めてわたしたちは光を見ることが出来るのです。福音は二つの光に例えられます。一つは聖霊が与え給う福音がキリストをわたしたちの罪を贖うために掲げてくださる光です。そしてもう一つは聖霊がわたしたちの心にその光を感じる光を与えてくださることです。聖霊がわたしたちの心を照らして、救いを悟らせてくださるために、わたしたちは礼拝共同体として御言葉を聴き、真の救いを心に確信する教会を建てて参りましょう。

 

御在天の主なる父なる神様

御子イエス・キリストによって開かれた救いの御業を感謝し、尊き御名をほめたたえます。わたしたちはあなたの御招きに従って、本日も礼拝を守り、代々の教会と共に、また全国全世界にある教会と共に真の主イエス・キリストの体に結ばれることを切に願い祈ります。

目に見える悲惨と困難に満ちた世界に在って、またこの国、この社会の問題の中にあって、わたしたちはただ恵みによってあなたに招かれ、あなたに従う者とされました。どうかわたしたちが志を同じくする東日本連合長老会と共に、また全国全世界の教会と共に、御心を尋ね求め、福音を宣べ伝えて真にあなたに信頼する共同体を建て上げるために努めることが出来ますように。

主なる神様、あなたはあなたの慈しみに頼る他はない貧しい者を決してお見捨てにならないとわたしたちは知っております。どうか、同じ信仰を告白し、主の執り成しに頼る人々を教会に集めてください。わたしたちをつなぐものはイエス・キリストの尊い死と復活の命であることを、多くの人々が悟り、悔い改めてあなたに立ち帰りますように。どうか受難節の歩みを主が共に導いてください。今苦しんでいる者を顧みてください。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。

キリストは我らの苦難を負って下さった

聖書:イザヤ55章8-11節, マルコ福音書8章27-37節

 今年の受難節は2月の14日(水)から始まりました。例年二月はほとんど特別な行事がありませんで、それだけ静かにしみじみと主のご受難を覚える季節を迎えるのですが、今年は少し様子が違いました。東日本連合長老会の行事として、2月11日(日)講壇交換礼拝が行われ、十貫坂教会の清野先生をお迎えしました。続いて12日(月)には東日本の長老、執事研修会が自由が丘教会で行われ、その同じ日に、第4回東日本長老会議も開かれました。

例年以上に厳しかった寒さ、インフルエンザの流行が影響して、教会学校やピアノ教室もお休みの方が多かった2月でしたが、皆様のお祈りと奉仕が祝され、支えられて、成宗教会は無事に受難節第3の主日を迎えることが出来ました。真に感謝です。そして2017年度も今月で終わろうとしています。今、ご存知のように成宗教会は記念誌を編集しております。発行は2019年3月です。この計画は2017年度の教会総会で可決承認されたものですが、アッという間に一年が経ちましたので、来年度一年で何とか完成させることを目指さし、皆様のご協力をお願いしたいと思います。

私が赴任しましたのは、2002年ですから、今月で16年が過ぎたことになります。私の前々任の長村亮介先生の時代に50年史が編纂されていますので、それ以後、大石健一先生と私の赴任していた時代の記録を整理することが、成宗教会に必要であるということで賛同を得ています。私は今日まで16年も成宗教会に仕えて参りましたが、私の牧師としての務めは、実は第二の人生の務めでありました。私の前歴については、どなたもほとんど関心をお持ちにならないと思って、お話もあまりしなかったのですが、元々、私が一番やりがいがあると感じ、また誰からも喜ばれた仕事がありました。それは産休代替の教員です。

今有名人の藤井君という中学生棋士が通う名古屋大学附属学校をはじめ、4つぐらいの公立私立で臨時教員を務めました。その仕事の特徴は、勤務年限がはっきりしていることです。産休代替の教員は産休、育休の間、学校に派遣されて喜ばれ、お産の教師が職場に戻れば、辞めていなくなって喜ばれる。だれからも喜ばれる教師でした。そして私個人としては一人の人の出産に協力したという喜びがある。産休と育児休暇で長くても15カ月を超えることはありませんでした。居心地が良いからそこにいつまでもとどまりたい、そういう選択肢はありません。しかし、私はこういう仕事が非常に気に入っていました。

ところが、神さまは私の気に入っていることを好きなようにさせてくださる、ということではありませんでした。神さまは、「自分の好きな道を行きなさい」とは仰らない。ただ、「わたしに従って来なさい」と言われます。ある日神さまは突然、すべてのわたしの気に入っていた職業も、教会も、ボランティアの仕事も次々と道を閉ざされました。そして、神学校だけが、それも東京神学大学への道だけが開かれました。

わたしたちは、皆それぞれに決心をして洗礼を受けています。私も50年前洗礼を受ける前に勉強会があったことを覚えていますが、進行について十分分かったから受けたというようなものでは決してありませんでした。洗礼を受けるということは、自分はこう信じるとか、ああ信じると告白することではありません。そうではなくて、教会が信じて来た信仰を受け入れ、イエス様の体に連なることなのです。しかしそのことも、教えられなければ自分で分かることは困難です。それでも、わたしたちは皆それぞれに、いろいろあっても今日も礼拝を守り、教会に連なる者とされています。これは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれた不思議なことなのだと思います。

本日の聖書は、イエス様が弟子たちに信仰の教育をされているところであります。受難節が巡って来ますと、イエス様の弟子たちについて、わたしたちは学ぶのですが、イエス様の弟子たちも元々はわたしたちとそんなに変わりのない人々だと感じるのではないかと思います。イエス様が大好き。でも、あまり苦労はしたくない。イエス様と一緒にいると何か得することがあるのではないか。と思っているような、まあ普通の人々ではないかと思います。イエス様は初めに一般の人々は、御自分のことをどういう者だと考えているのか、と尋ねておられます。それは、イエス様が世間の評判を気にしておられたからではありません。そして弟子たちも、イエス様にはっきりと敵対している人々の考えについて答えたのではありませんでした。むしろ、ユダヤの人々はイエス様を洗礼者ヨハネと比較し、エリヤと比較して、似ているとか、そっくりだとか、評価していたのでしょう。その好意的な意見について弟子たちは報告しています。

わたしたちも教会の外の人々について考える時、イエス様に好意的な人々、キリスト教に対して良い印象を持っている人々があることを知っています。それはうれしいことではありますが、しかし、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。他の人々はそう考えているのだということだが、それでは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエス様は今、エルサレムを目指して進んで行かれます。その目的地には、非常な苦難が待っていることを弟子たちに教えなければなりません。弟子たちはこれまでイエス様に従って、教えを受けていたのですが、イエス様が受けなければならない苦難については、何も理解してはいませんでした。彼らは本当にわたしたちとあまり変わりない人々だったことは、驚きでもありますが、神さまがイエス様によってこういう人々を呼び集めてくださったことは、わたしたち自身の現実を考える時には、慰められることでもあります。

ところが、イエス様の問に対して、ペトロははっきりと答えます。「あなたは、メシアです。」つまりペトロは、あなたはキリストです、と答えたのでした。キリスト、ヘブライ語でメシアは、救い主の永遠の御支配と祭司職を表します。キリストはわたしたちを神に和解させて下さり、わたしたちのために完全な義を獲得して下さいます。つまりキリストの捧げる犠牲によって、わたしたちの罪を廃棄してくださるのです。こうしてキリストはわたしたちを自分のものとされ、御自分の中に受け入れ、わたしたちをあらゆる種類の祝福で豊かにして保ってくださるのであります。

「あなたはキリストです」という告白。この中にわたしたちの救いがすべて含まれているのです。教会の信仰告白としてわたしたちは使徒信条を告白しています。しかし、ペトロの告白は教会の信仰の根幹であります。こう告白出来たということは、本当に素晴らしいことでありました。では、この告白をしたからには、弟子たちはイエス様のことがすっかり理解できたのでしょうか。それは全くそうではなかった。31節以下を見ますと、そうではなかったことが分かります。

わたしたちの歩んできた生活を振り返ってみますと、弟子たちの様子はよく分かるのではないでしょうか。「あなたはキリストです」と告白出来たことは、本当に素晴らしいことで、奇跡的なことというべきです。なぜなら、わたしたちはだれも、イエス様がキリストである、ということが本当にどういうことなのか、よく分かっている人はいないからです。わたしたちがたとえ長生きするとしても、キリストの担われる苦難と死について、どうして十分理解できるはずがあるでしょうか。ですから、真に聖霊の助け、恵みの御業がなければ、この小さな告白も決して起こらないのです。

しかし、イエス様は弟子たちが全く理解出来ないことをお教えにならなければなりませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。苦難と死の予告は、弟子たちには全く耐え難いものでした。想像を絶するものでした。そのことを知っておられるイエス様は、すぐに「三日の後に復活することになっている」というお言葉を述べて、彼らを慰めてくださったのですが、本当に衝撃は大きく、彼らの耳に全く入りませんでした。

イエス様があからさまに話された時、ペトロはイエス様をわきの方にお連れしたということです。それは、「イエス様に皆の前で何か物申すのは失礼だから・・・」という配慮からでしょうが、しかし、そもそも先ほどの告白と、ペトロの行為はどうつながっているのでしょうか。あなたはメシア、キリストですと告白したからには、わたしたちはキリストにただただ従って行くだけなのです。それなのに、ペトロはキリストに意見をして「苦難を受けるなんてとんでもない!」「殺されるなんてとんでもない!」とお考えを変えるように迫りました。わたしたちはいかにキリストを侮っていることか。それは神を侮っていることと何一つ変らない、恐ろしいことなのです。

わたしたちは、神様に従って生きているつもりでも、実はどんなに逆らっているか、神様を説得して考えを変えさせようとするほど、神様を侮っていることに気がつきません。自分の考えは絶対正しい!と少しも疑わないということが起こります。イエス様はペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは何とサタンと呼ばれました。実際、彼は神に逆らっている彼はサタンの支配を受けていたからです。しかし、このように厳しいお叱りを受けたからこそ、彼は悔い改めることになるのでした。

キリストはわたしたちを招いておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」わたしたちは自分には背負うべき十字架があるとはあまり思っていなかったでしょう。わたしたちは自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをして生きるのが理想だったかもしれません。楽しい趣味で生活を満たして生きようとしたかもしれません。一方、イエス様だけが重い十字架を背負って苦しんでおられるように見えていたのではないでしょうか。

イエス様はあんなに苦労なさって死の報いを受けることしかなくて、お気の毒でした。イエス様は大変立派な方で、奇跡も起こしてくださったけど、あんな苦労は、わたしはしたくない、というのが偽らない気持ちではなかったでしょうか。そして、苦労は一方的にイエス様のところに、楽な人生は一方的に自分のところにあるような錯覚に陥っていたのではないでしょうか。

私は学校教員として派遣されて喜ばれ、学校を去って喜ばれた、と自分の過去を申しました。私は16年前に成宗教会に派遣された時、教会の皆さんに喜ばれているようには感じられませんでした。非常な悲しみと痛みが皆さんの背後に感じられたからです。私はその原因についてほとんど何も分かりませんでした。けれども、少なくとも私は、私を成宗教会に呼んでくださった方を知っておりました。私をここに来させた方は、この教会と共にあり、わたしたちが苦労も苦難も拒否していた時もわたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架を負ってくださったことを、私は知っていたからです。それがどなたであるか、皆様はもうご存知です。その方こそ、教会の主イエス・キリストです。教会と共にいてくださる主、皆様の背後にある苦労と苦難と悲しみと痛みを負ってくださるキリストを信じて、皆様は教会にとどまることが出来ました。だからこそ、主はわたしたちに主の命をくださろうとしておられる。そして、それをわたしたちは信じているなら、そのことこそが、わたしたちに与えられた恵みなのです。祈ります。

 

主なる父なる神様

信仰弱い教会に、計り知れない慈しみをお示しになって、救いに招いてくださるあなたの愛を見上げ、心からの感謝をささげたいと願います。昔地上にいらした時にあなたが読んで下さった弟子たちをあなたは御子によって愛し、その愚かさにも拘わらずお見捨てになりませんでした。わたしたちは何も知らないものでありながら、自分を賢い者のようにあなたに従おうとしませんでした。自分の考えの方があなたよりも正しいと思うに至るほど、罪深いものです。しかし、実際には少しの重荷にも、労苦にも耐えられない。あなたはそのようなわたしたちに、絶えず愛を注ぎ、希望を注いで導いてくださいました。どうかわたしたちがそのことに気付き、驚き、感謝に溢れる日が来ますように。

今苦しんでいる者も、今悩んでいる者にも、そのような日が来て、あなたの思い、溢れる愛を発見する恵みに与りますように。どうかイエス様の労苦、苦難がわたしたちを救うためであったことを悟ることができますように。喜びと感謝に溢れる日が来ますように。この受難節の日々、どうか人知れず労苦している方々の労苦を顧みてください。病気の悩み、孤独の悩み、仕事の悩みにあなたの助け、慰めと癒しをお与え下さい。

今、わたしたちは2017年度の終わりを迎えています。様々な困難のあった一年でしたが、あなたは多くの悩みを通して、共に祈り支え合うことを教えてくださいました。どうぞ、ここにこそ、主の喜ばれることが実現しますようにお助けください。新しい年度に向けて整えなければならないことが多くあります。どうか貧しいわたしたちが持てる力、与えられた賜物を生かしてあなたの喜ばれる教会を建てることが出来ますように、お導きください。連合長老会と共に歩む歩みが祝されますように、切に祈ります。復活のお祝いの日を目指して、わたしたちの日々を一歩一歩整えてください。お病気の方々も癒されて共にイースターを喜び迎えることが出来ますように。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天には父がおられる

聖書:ホセア書2章1-3節, ローマの信徒への手紙8章14-17節

 わたしたちの誰もがよく知っている祈りに、主の祈りがあります。これは、弟子たちが主イエスにお願いして、祈りのいわばお手本を教えていただいたのでした。主は初めに「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけることを教えられました。

それで、今日の日本では、伝道が振るわないと言われる教会だけでなく、キリスト教主義の学校でも、「主の祈り」は広く知られていると思います。しかし、わたしたちが主の祈りに従って、神を「天の父」とよぶことができることの意味を、わたしたちは考えたことがあるでしょうか。この祈りは、天にはわたしたち父と呼ばれる方がおられる、という信仰の告白を表しているのです。父と言えば、わたしたちは地上に父と呼ばれる人を持っていました。豊かな時代には、親は親、子は子で、干渉し合わない生活が理想であったでしょう。しかし、貧しい時代には父の借金をどうするのか。廃墟のようになってしまった親の家、土地をどうするのか。最近の新聞には、親の扶養、介護の問題ばかりではなく、兄弟の作った借金をどうすればよいのか、引きこもりの兄弟をどうすればよいのか等、子供の世代にとって悩みは後を絶たないようであります。

だからこそわたしたちは、神を父と信じることの幸い。その絶大な価値を教えられています。わたしたちは豊かになる時もあれば、貧しくなる時もあります。しかし、それに対して天の父は変ることなく、豊かであります。そしていつも信じて従う人々を豊かに恵んでくださる方なのです。今日読んでいただいてホセア書2章1節です。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。」

イスラエルの人々が生ける神の子らと呼ばれています。しかし、それでは、彼らが「生ける神の子ら」と呼ばれない時があったということでしょうか。その通りです。彼らイスラエルの民は豊かになった時に、生ける神を忘れ、自分たちの好みの偶像に仕えるようになったのです。豊かな地の実りも、豊かな才能も、すべて神から与えられた賜物に過ぎないのに、それを心に留める人は非常に少ない。そこで、神は繰り返し神の子なる民を責め続けます。「あなたがたは「ロ・アンミ」だと。もうあなたたちはわたしの民ではない。わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(ホセア1:8)

それほど神は人々の不信仰を怒り、激しく責め続けても、いつまでも怒り続け、いつまでも責め続けることはない。これは真に不思議なことです。人間ならあり得ないことです。だからこそ、真の神を天の父と呼び奉る有難さがあるのです。神は御自分の民を決してお忘れにならないからです。ところが神の子らとされた人々はどうでしょうか。神から遠く離れ、恵みを受けるよりも、自分の努力で、実力で、何かを勝ち取ったと言いたい。自分が、できることにいつもこだわっている。「天の父よ、どうか助けてください」と祈ることが出来ないのです。

旧約聖書の時代には、神はイエスエルとユダの12部族を選んで、神の民としてくだいました。主は彼らを、「ご自分の宝の民である」と言われました。しかし、イエス・キリストをお遣わしになった時、すべての人々、つまりギリシア人もユダヤ人もなく、すべての人々を御自分の許へと呼び集められたのです。旧約の民への約束は「律法を守るならば、救われる」というものでした。逆に言えば、律法を守らないならば、その人は呪われるということなのです。「わたしはこれをしている。あれをしている」と言って自分の立派さを証明しようとする人々は多いのです。

しかし、守らなければならない律法は数限りなくあります。先ほどの親子関係の例で考えてみても、「親が子を甘やかさない方が良い」というかと思うと、「親の扶養のために子供の生活が成り立たなくなってしまっている」という現実があります。これをすれば絶対だ。あれをすれば絶対に正しいということが実際あるのでしょうか。わたしたちはあれこれ自分の考えを述べ、人を時には批判するものですが、実際には他人に当てはまることが、自分に当てはまらないということがたくさんあり、またその逆もありますから、一律に律法を守ることでは救われないということになります。

イエス・キリストは、このようなわたしたちのために、自ら律法によって裁きを受けてくださいました。それは律法を守って救われることのできないわたしたちが、ただ神の恵みによって救われるためです。キリストはご自分の捧げる犠牲によって、わたしたちがただ恵みによって神の子となるための道を開いてくださいました。わたしたちはユダヤ人ではありません。わたしたちは当時の異邦人、ギリシア人やローマ人と同じ立場にいます。キリストによって、ギリシア人にもローマ人にも、すべての人に救いを得させる神の恵みが現れたのです。だからこそ15節では、世界の共通語であるギリシア語と、アッバ(アラム語で父)というアラム語を並列させて、神への呼びかけを強調しているのです。今や、キリストによって、すべての人が「天の父よ」と親しく呼びかけることが出来るのです。

わたしたちがもし、本当にこのことを信じるならば、そのこと自体、神の聖霊がわたしたちに送られてきている証拠となります。わたしたちは主イエスの御名によってお祈りを捧げていながら、主の祈りを唱えていながら、他方で何と思い煩いの多いことでしょうか。何と不平と愚痴に陥りやすいことでしょうか。真剣に反省しなければなりません。なぜなら、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と書かれているからです。パウロは更に、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と主張しています。「あなたがたは『人を奴隷として再び恐れに陥れる霊』を受けたのではない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちを神の子としてくださる聖霊は、神の自由なお働きによってわたしたちを導き、成長させてくださるということではないでしょうか。

しかしながら、パウロが福音を宣べ伝えた教会の中には、まだまだ律法を守ることによって教会を整えようとする力が働いていたと思われます。わたしたちの中にはイエス・キリスト以外、決して誇るものがあってはならないのです。ところが熱心な奉仕者をほめたたえるあまり、その人の教養学歴をほめたたえ、その人の社会的地位をほめたたえ、その人の力をほめたたえる傾向はどうしても否めません。褒められる側が問題なのではなく、ちやほやする人々に非常な問題があるのです。なぜ、ちやほやするのでしょうか。それはすぐれた賜物を持っている人に取り入って、自分が利益を得ようとするからではないでしょうか。特に気前よく献金する人々に対する、他の人々の態度に、非常に問題を感じることがあります。あの人はお金持ちだ、という噂を流す人々の意図は明白です。人と比べて「自分は貧しいから」と言い、捧げない口実にするのです。何とか理由をつけて自分を正当化しようとします。こういうのを偽善と言います。こういう態度を続けているうちに再び律法に縛られ、神の霊が与える自由を失ってしまうでしょう。

教会を建てるための戦いは、自分の言い訳を作り、自分の気に入った教会を建てることではありません。しかし、天には父がおられることを心から信じ、祈るならば、わたしたちは父から聖霊を受けることが出来ます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と聖書は述べております。

神の聖霊がわたしたちにしてくださる証しは、「わたしたちの霊がキリストの御霊を指導者、また教師として持ち、神によって子としていただく」ということを確実にするほどのものです。しかし、わたしたちの性質は、自分では、このような信仰を心に抱くこともできません。ただ聖霊の証しによるのでなければ、ここに到達できないのであります。ですから、もし聖霊がわたしたちの心に、神の父としての愛を証ししてくださるのでなければ、わたしたちは祈りをすることができません。ですからわたしたちは、神に「父よ」と口で呼びかけ、また心の中でもそのように固く信じるのでなければ、神に正しく祈ることはできないのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」わたしたちがもし神の子であることを信じるならば、神の相続人であることも信じることになりましょう。

神の相続は、永遠の命を相続するのです。このことはこの世の相続のことよりも、実ははるかに大切なことでありますが、わたしたちは聖霊の助けがなければ、この大切さも全く理解できないでしょう。教会にこの世のことを持ち込んで来る誘惑にわたしたちは弱い者ですが、自分の行く先々のこともないがしろにして持ち物を誇っているのは、実に浅ましいことです。

私は最近、ひどい風邪を引きまして、久しぶりに近所のお医者さんにかかりました。すると病院の様子は二、三年前とは、また様変わりしていました。以前は待合室に患者があふれていましたが、今は驚くほど空いています。その分、お医者さんは各家を駆けずり回り、終末期医療に向かう人々を安全に病院やホスピスにお世話しているようでした。このお医者さんは10年以上前に、私が牧師であると知って、こう質問をしていました。「人は年取って死んでいく。それでどうしていけないんでしょうねぇ。」

お医者さんが今も同じ考えを持っているのかどうか分かりません。しかし、わたしたちが、神の子として神の相続人であると信じることと、信じないことには、大きな違いがあるでしょう。キリストによって罪赦され、神の子とされたわたしたちは、キリストと共同の相続人であると信じる。すると世界が変わるのではないでしょうか。世界の何が変わるのでしょうか。キリストはわたしたちの代わりに苦難を忍んでくださいました。ご自分の罪の報いとしての苦しみではありません。人の苦難をご自分の身をもって受けてくださった。この愛に神の栄光が表れているのです。私たちはこの愛を知りました。この愛を知るときこそ、世界が変わるのです。

このキリストに従って生きましょう!キリストの苦しみはわたしたちの救いのためです。わたしたちは、今はキリストと共に苦しみことが出来る。キリストと共に苦しんで、キリストと共に永遠の命を受けることが出来るからです。年を取るということには、多くの困難があります。しかし、希望に生きる高齢者になりましょう。それ自体わたしたちにとって善いことに違いありませんが、そればかりでは決してないと思います。わたしたちの使命は、地上に教会を建てることだからです。わたしたちの後に希望が残るということが何よりも大切です。その希望によって後の世代が慰めと励ましを受け、ここに真の救いがあることを確信して生きるようになるように、私たちは祈るのです。

キリストに従うことは自分の力や業によってできることではありません。ただ天に昇られたキリストが送られる聖霊がわたしたちを導いておられるのです。その自由なお働きによってわたしたちは、楽なことばかりでなく、むしろ困難なことも辛いことも、すべてのことを時宜にかなって与えられた恵みと感謝することができるのです。祈ります。

 

恵みと憐みに富み給う主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。あなたはわたしたちを励まし、天の父と呼びまつる幸いをお知らせくださいました。私たちは、自分の働きによって教会を建て、各人の家庭を支えようと一生懸命になりますが、困難は増すばかりです。しかし、あなたの聖霊によって、私たちはあなたを父と呼ぶことが許されました。私たちの力と知恵の及ばない深いご配慮によっていつも導かれていることを信じる者とならせて下さい。そしてここにただ恵みによって生きる教会を建てて下さい。そして私たちに、なくてならない命の御言葉を満たしてください。

東日本連合長老会とともに歩んでおりますことを感謝申し上げます。どうかこの小さな群れをも豊かに用いて、教会の中でも外にあっても、主のご栄光を表す者とならせて下さい。受難節を歩んでいる私たち、どうか自分の行いに頼り、あなたの助けを呼び求めない罪から私たちを救い出してください。

洗礼準備が御心のままに導かれますように。また来週は、教会の3月定例長老会議が持たれます。どうぞ、来年度の計画、諸行事を決めるにあたり、御心が行われ、御名があがめられる計画となりますように。また、特に記念誌編集のために多くの方々のご協力が得られますように、私たちの過去の歩みが未来に向かって用いられる記録となりますように。

ご病気の方々を覚えます。どうかこれまでの恵みに満ちたご配慮を感謝しますとともに、それぞれの方々が良き治療を受けることができますように道を開いて下さい。どんなときにも私たち信者のすべてが、主の証人として立たされていることを心に確信し、無力なときにこそ、ただ主の恵みによって歩むことができますように。

教会の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神は何でもお出来になる

聖書:ヨブ記42章2-6節, マタイ福音書19章23-26節

 私たちの教会は、先週十貫坂教会との講壇交換礼拝を守りました。十貫坂教会から若いというか、働き盛りの男の牧師が来てくださいました。私の方は十貫坂教会に出かけるのは初めてではなかったので、向こうでは知り合いの先生だ、という感じで迎えられましたが、成宗ではどうだったでしょうか。長老以外の方々は改めて東日本連合長老会の十教会の交わりに入るということは、こういうことなのか、と実感されたのではないでしょうか。

私も、東日本で共に学び、共に教会を建てて行くことが出来ることを、十貫坂教会の礼拝の場で主に感謝しました。どこの教会も日本の少子高齢化を映し出さないところはほとんどないと思います。特に小さな教会、そして地方の教会はそうでしょう。たくさんの人が長生きが出来、高齢に達するということは、社会の平和と繁栄の結果ですから、大変感謝するべきことです。けれども、それは同時に多くの高齢者を社会全体で支えて行くということです。「ゆりかごから墓場まで」という標語は社会保障で言われることですが、それを教会についていうなら、それは地上に生を受けてから、地上の生涯を終えるまで、主イエス・キリスト教会の中に守られ、神の家族の一員として守られることだと思われます。

また、「終わり良ければ総て良し」という言葉がありますが、それは、「神の子イエス・キリストに結ばれて、天の父に守られて生涯を全うする」ということではないでしょうか。ですから、私たちは一日一日年を取りますが、最後までキリストの教会の一員として生きる、つまり主に従う者として心を引き締めて生きるのです。有り難いことに、成宗教会には主に結ばれ、教会に結ばれて地上の生活を送っている方々が過去にも、また現在も多くおられます。本当にありがたいことで、喜ばしく、また誇りに思います。その兄弟姉妹がキリストの恵みの証し人として、私たちを今も励ましておられるからです。これは一重に、教会に送られた慰めの霊、励ましの霊、聖霊のお働きによるのであって、そのこと無しには決して起こらないことです。

では、私たちはその励まし、高齢の方々の励ましを受けて何をするのでしょうか。地上の生涯の終わりに向かう私たちがなすべきことは、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えることではないでしょうか。私たちは体をもって生きています。目に見える姿で生きて生活するので、衣食住は欠かせません。ですから「何でもできる」という言葉を聞くと、すぐ目に見える「できる」ということを考えます。飲み食いする。住むところがある。着るものがある。これらは皆、お金がなくてはできません。だからこそ、お金にこだわっています。そして神様は私たちにそのすべてが必要であることをご存じです。

しかし、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えるということは、そういうとは無関係ではないのですが、目に見える姿だけに関わることではないのです。目に見える姿形と同時に、私たちには目に見えない心があります。心と体を合わせて魂と呼ぶこともあります。私たちは目に見える衣食住のことだけで生きているのではない。むしろ地上の生涯を全うしたとき、私たちに備えられている神の命に生きる者となるために、地上に教会を建てるのです。体だけの救いのためではなく、私たちの心も体も魂も救われるために、今できることをして生きたいのです。

イエス・キリストのお建てになった教会は代々同じ信仰を受け継いで、告白してきました。私たちはその信仰を使徒信条によって告白し、同時に学んでおります。本日は「我は全地の造り主、全能の神を信ず」というところの、「全能の神」についてみ言葉に聞きたいと思います。「神は全能である」ということは、「神は何でもお出来になる」ということです。今はオリンピックのシーズンですから、ひたすら誰が一番か、金メダルか、ということに世界中が注目する。多くの人々にとって、「できる」ということはそういうことなのです。また私たちは、中学生棋士の出現で、「おお!」と驚き、ボナンザという名の将棋ロボットに人間が勝ったの、負けたのと、大騒ぎします。そこで、私たちにとっては「神は何でもお出来になる」という言葉も、何かそのような能力のことのように聞こえてしまうのではないでしょうか。

今日のマタイ福音書の聖書箇所は、一人のお金持ちの青年が主イエスの御許に来た、あの有名な話に続く部分です。お金がある人がどんなにもてはやされ、羨ましがられるかということは、今も昔も変わりないことです。実は、人々がお金持ちに恭しく頭を下げるのは、その人に対してではなく、その人の持っている富に対してなのですが、本人はその区別が分からないかもしれません。そこで、自分は何か偉い尊敬される価値があると思い込んでしまい、何でも思い通りになって当然のように考えるに至ります。しかし、お金で買えないものがあることも金持ちは知っていました。そこで悩んで主イエスに教えを乞うのです。「永遠の命を得るためにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と。

つまり彼は、永遠の命、すなわち、救いに入れられるためには、何か善い業をする必要がある、と考えているのです。人間は善い業によって救われると信じているのです。主イエスは、それならば、と答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。

この人は善い業をすることによって救われると信じる。ところが、主の命令は彼のできることではありませんでした。つまり、自分の財産を貧しい人々に施して、自分も貧しくなることはできなかったのです。金持ちは永遠の命を得るよりも、自分が金持ちであることの方が大事でした。私たちが考えると、「いくらお金をもっていても、この世を去る時には何一つ持って行くことはできないのに」と思いますが、富を持つ人は、なかなかそうは考えられないのでした。

主イエスは、この気の毒な青年のことについて、弟子たちに警告して下さいました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」らくだが針の穴を通るとは、何とも大げさなたとえですが、要するに、全く不可能であることが強調されているのでしょう。今、コツコツ働いて報酬を得るのではなく、マネーゲームのような取引でお金を儲けようとする人々が世界の市場を動かしています。お金をもうけて何かを買う、とか、目的があるのではなく、ただただ富をかき集める欲望は、非常な禍の元でありますが、富に頼る傾向。つまり、天国に入れなくてもお金さえあれば・・・という考えも救いから遠ざかる結果を招くことになるでしょう。

もちろん、富そのものは本来悪いものでもないし、神に従う道を必ず妨害するものでもありません。第一、神に従うことから、私たちを遠ざけるために、悪魔が用意している手段は、富以外に、他にもいくらでもあるのではないでしょうか。とは言え、豊かに持っている人々はついついその豊かさにおぼれて、神に心を向けなくなっていることもしばしば起こることなのです。地上の生涯を終える時は、誰にでも必ず定められているのに、金持ちはこの世の楽しみをいつまでも満喫できると錯覚を起こしてしまうかもしれないからです。皆が頭を下げて迎えてくれるような地上の生活に慣れている金持ちであっても、神がわたしたちに受け入れてくださる救いの道は、狭くて小さな入り口から入ることになりますから、へりくだって身をかがめて入れていただかなければならないでしょう。

さて、弟子たちはこれを聞いて仰天しました。彼らは「それでは、だれが救われるのだろうか」と途方に暮れたのでした。しかし、この話は何も金持ちの青年が救いから閉ざされたことを結論づけるために記録されたのではありません。なるほど、金持ちの青年は失望して去って行きましたが、彼ら弟子たちはびっくりしたものの、がっかりして主から離れ去ったのではありませんでした。むしろ、彼らは「それでは一体、誰が救われるのでしょうか。それが知りたいのです」と言いたかったのです。だから、びっくりはしたけれど、がっかりもしたけれど、それでも主のもとから離れなかった。そこがあの青年と全く違うところです。

弟子たちの問い、そしてそれは私たちの問でもありますが、「それでは、だれが救われるのだろうか」という問い対して、主イエスは彼らを見つめて言われたのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。そしてその御言葉によって、キリストは彼らの心をすべての憂いから完全に解放してくださったのでした。私たちは自分の力で天に上ることがいかに困難であるかを知らなければなりません。人間の力では、金持ちであろうが、貧乏であろうが、どんな人も救われることは不可能だということです。なぜなら、すべての人間の救いは完全に神にかかっているからです。天に上るということはエベレスト登山とは全く違います。神がお招きくださらないのに、天の神のお住まいに上って「わたし、自力で上って来ました」と、誰がいうことが出来るのでしょうか。

人間には不可能なことだ。しかし神にはすべてが可能であると主は言われます。私たちはこの言葉を、福音としていただかなければなりません。たとえ、自分に自信のある人々が「あれをしなさい」「これをしなさい」「そうすれば救われる」と言われる方が好きだとしても、それは自分の能力に、自分の持ち物に頼るから、そうなのです。やがて、自分ができると思っていたことが、実は出来ていなかったということに気がつくでしょう。自分が善いことをしていたと思っていたことが、実は全くそうではなかったということにも気がつくでしょう。特に信じていた自分の善意さえも、正直さえも、実はそうではなかったのではないか、と気がつきます。

しかし、それは辛いことではありますが、不幸なことではありません。いや、むしろそれどころか、幸いなことであると分かります。なぜなら、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」という主イエスのお言葉は、私たちを慰めるために、励ますために語られたからです。あの人はもう駄目だ。もう救われないと人が人を見はなすことになっても、神にはできないことはないからです。イエス・キリストが指し示してくださった天の父は、救いがたい罪人を救ってくださることがお出来になる。絶望の中に希望を生まれさせることが出来る方です。神の全能とは、救われるに値しない罪人、滅びるより他にない人間をなお、愛することがお出来になるその御力、その愛ではないでしょうか。

ヨブとその友人たちは、ヨブの想像を絶する不幸の原因について、また神の義しさについて議論しました。しかし、神の義しさを理解し、自分の正しさを論じることの結論は何だったのでしょうか。ヨブは自分に理解できないこと、自分の知識をはるかに超えたことをあれこれと論じようとしていたことを悔いております。それでも、ヨブははるかに天を仰いで信じ、告白することが出来た。それは、天には自分のために執り成してくださる方がおられるということでした。苦しみから救い出してくださる方がおられる。それはどなたか、いつ、どういうふうにして自分を救ってくださるのかも知らないままに。しかし、神はヨブのこの呻きに、この告白に、答えを備えておられたのです。

時が満ちて、天の父は、その計り知れない御心によって御子を世にお遣わしになりました。神は私たちの思いをはるかに超えたその愛によって、罪人を救いに招くために、愛する御子をお遣わしになって、その御心を地上に明らかにされました。キリストを拒絶したことで、神の愛を拒絶する者の罪は、いよいよ明らかになりましたが、その一方、十字架の苦難が自分のためにも忍ばれたと信じる者は、悔い改め、御子を信じて神に従う者となったのです。これが信仰の告白であり、洗礼であります。私たちは何をすればよいのでしょうか。自分の持ち物に少しも頼ることなく、この神の恵みによって救われることをひたすら信じ、神に心を傾けて祈ることであります。私たちにできること、それは自分の力により頼まず、天からの力を求めて祈ることです。

私たちの教会も東日本連合長老会の教会と共に、また同じ信仰を告白する教会と共に、自分たちの力ではなく、主の恵みの力によって立つことを信じ、ひたすら祈りましょう!

 

御在天の父なる神様

尊き御名を賛美します。私たちは今2018年の受難節の最初の礼拝を捧げました。ありがとうございます。不可能を可能にしてくださるあなたは、私たちの不幸を深く憐れみ、御子をお遣わしになって恵みの福音をお伝えくださいました。

私たちはあなたから遠く離れていましたが、あなたの計り知れない慈しみを示され、罪を悔いて御前に集うことが許され、すべてにわたって御子の正しさによって救われました。どうぞ、この喜びを多くの人々が知る者でありますように。今多くの人々が年を取り、多くの人々が自分の富に自分の能力に頼ることが出来ないことを実感しております。また若い世代の人々にも昔に無かったような時代の悩み、苦しみが押し寄せていることです。

どうかすべての必要な者を備えてくださる主に依り頼み、ただ多くの人々がこの恵みの救いに入れられますように、祈る者とならせてください。多くの方々が教会に来られなくなっていますが、あなたが生きるために無くてならない神の言葉で養い、導いてください。

今日も教会学校から、守られ祝福を受けていることを感謝します。ナオミ会の例会、教会学校教師会が開かれますが、それぞれの会をあなたの恵みの業としてお導きください。また、礼拝に集うすべての方々の上に、そのご家庭に、職場に、あなたの恵みが伴われますように。何よりもお病気の方々、生活の様々な困難に直面している方々に聖霊の助けがございますように。私たち、いつもあなたを仰ぎ、あなたに寄り頼み、絶えず祈る者とならせてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。