キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

十貫坂教会講壇交換礼拝説教

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

本日は東日本連合長老会の企画による講壇交換礼拝のために、お許しをいただいて礼拝に奉仕致します。私が皆様の教会の説教壇に立たせていただきましたのは、二度目、東日本の長老執事研修会の礼拝を含めますと三回目になります。改めて東日本連合長老会の交わりに加えていただいていることを感謝申し上げます。特に十貫坂教会では関川先生ご夫妻の時代から神学生を大勢受け入れて来られましたので、2010年以降、秋の神学校日には神学生を説教者として成宗教会に派遣していただきました。

地域連合長老会を中会として共に主の体の教会を形成するという目標は、もう何十年も前に掲げられ、取り組まれて来たと伺っています。しかし、この目標をより広く、多くの教会に紹介し、賛同する教会を仲間に入れるという取り組みは、そうたやすくできることではなかったと思います。クリスチャンはほとんどの人が、自分の教会だけが教会だとは思っていないのですが、教会は大きいところも、小さいところも内側ばかり見ているような傾向が続いていたのだと思います。

私が受洗した仙台東一番町教会も、その後転出した横浜六角橋教会も、名古屋教会も大きな教会でした。200~300人もいますと、礼拝出席以外、何もしなくてよいということで、「わたしは信者として楽をしている」という感覚がありました。そして小さな教会は大変だろうと思っていました。そこで、東神大に入った時、小さな教会に奉仕したいという漠然とした希望を持ちました。念願かなって成宗教会に赴任しまして、無我夢中で教会を建てようと頑張ったと思います。「どう頑張ったのか」と言えば、自分の遣わされた教会以外のことは何も考えず「わき目も振らず頑張った」ということです。

しかし、その当時、大きな教会は内側で満足しているという批判があったとすれば、私のしていたこともまた、内側だけに集中していたことでした。つまり多くの教会は、大きさは違っていても、同様に各個教会主義でありました。そして今、日本の教会は社会全体と同じく少子化高齢化の問題を映し出しております。あんなに盛んであった婦人会が高齢化で成り立たなくなっている教会が増えているからです。

去年の春から東日本の婦人会の活動の中で、それぞれの教会の実状を話し合う機会がありました。大変困っている教会から、今までと変わりないという教会まで、様々な様子が話されました。ある時、十貫坂教会の婦人会の方がそのような話し合いの感想を語られ、「こうして集まって、ほかの教会の婦人会の様子を知ることが出来てとても良かった」と仰いました。その時、私は大変うれしい気持ちで一杯になりました。それは、誰もがだんだん余裕がなくなって行く時代に、そして教会に人手がない、お金がない、労力がないと思い、もう他の所のことは考えていられない、と言いたくなるような時に、他の教会の窮状を聞いて、「それは大変なことだ」と思うことが出来る、その心は、一体どこから来るのでしょうか。

それこそが、今日の聖書で、私たちに与えられていることなのではないでしょうか。それは私たちに祈りの言葉として与えられています。会衆に向かって語られますが、しかしそれは何よりも御父の前に謙って捧げられた祈りです。「御父から、天にある家族、地上にあるすべての家族がその名を与えられています。」家族という言葉は、共通の先祖によって血縁的につながる一群の人々を意味します。しかし、御父の家族はどうでしょうか。それは、すべての人間がキリストによって一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天上の霊的な存在である天使とさえも同じ親族にされたということなのです。かつては神の家族は、特別に選ばれたイスラエルの民族だけと思われていましたが、今や、イエス・キリストの執り成しによって罪赦され、御子イエス・キリストの死に結ばれ、その復活に結ばれて、すべてのものが一つとされた主の教会、それが御父の家族なのです。

もはや人はだれも、他の人々を軽視軽蔑したり、また神の家族であるという誇らしい名前を自分たちだけのものにするために、血筋や、能力や、いろいろなものを誇ることはできません。ただキリストによって神の家族とされたこと以外には、教会の人々に誇るべきものが一切あるはずがないのです。キリストのみが私たちをを結ぶ絆であって、キリストを他にしては、ただ無秩序があるのみです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

この祈りは、教会の過去でのことでしょうか。現在のことでしょうか。それとも未来のことでしょうか。もちろん、未来のことだと私たちは知っています。それなら、教会の未来があるということです。教会に未来がある。すなわち、私たちに未来がある。それは神の憐れみがその豊かさの中から私たちに聖霊を送ってくださるからです。使徒はそのように信じ、そのように祈ります。信仰者は上を目指して成長していく。それを願うべきであります。私たちは超高齢化社会におりますが、地上の命を永くされるのも、短くされるのも御父の御心なしには起こらないことです。どんなに長生きして肉体が年とっても、年だからもう神の家族として成長しなくてもよいということは決してありません。地上にある限り、天上のことは分かりませんが、地上に生きている限り、御父から聖霊の賜物をいただいてもっともっと成長することを愛することが出来ますように。

宗教改革者は言うのであります。信仰者がこれ以上進歩する必要がないほど完全になるということはないと。しかし信仰者の完全な状態があるといいます。信仰者の完全とは、神の家族として成長を愛するようになることであると。それは、人間の力によっては決してできないことです。人間の力が目指すのは、もっと健康を、とか。もっと○○ができるようになりたいとか、もっとお金があればなあ、とかいうことでしょう。こういう願いは信仰のない人々も切に願っていること。そしてそのような願いは教会の中でも、ついつい出て来ない訳には行かないからです。

たとえば成宗教会の会堂は建築から25年ほど経っています。そのころはバブルの時代で、会堂建築には内からも外からも沢山の献金が捧げられた。いわゆる景気が良かったので、人々も気前よく捧げることができたのでした。そして建物も、省エネなどあまり考慮しなかった時代でした。しかし今は年月が経ってだんだん修理修繕に費用が掛かるようになる。そして経済的に厳しい時代で、多くの教会員も高齢になっていますから、昔のようにはいきません。経済や、人手が乏しいことを嘆きたくなってしまう現状は、多くの教会でも同じようではないかと思っております。

こうして私たちは目の前のあれやこれやの問題で頭がいっぱいになるかもしれませんが、正にこのような私たちのために、代々の教会のために、エフェソ教会へとあて名が付けられた手紙は差し出され、パウロ(本当はパウロの後の時代の伝道者かもしれませんが)は祈りを捧げているのではないでしょうか。聖霊によって内なる人が強められますように、と。そうです。パウロはⅡコリ4:16においても、次のように力を込めて励ましているのです。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、ついつい年取って大変だと思ってしまうのですが、大変なのは後の世代のことです。世に在る教会を去る時に、世に在る教会が残されるように。私たちに与えられた伝道の使命は、世に在る人々に対して果たすべきなのですから。地上に教会を建てることは主の尊い御旨であります。そのためにこそ、御父が豊かな栄光の中から聖霊を送り給い、心にキリストを住まわせてくださるように、と祈られているのです。キリストが私たちの内にお住まいくださる。そこに私たちの力では到底できないことがなされるのです。すなわち、教会は愛に根差し、愛にしっかりと立つ者とされる。そのために必要なこと、それは何か、キリストが私たちの内なる人に住んでくださることです。

私が前回十貫坂教会の礼拝に奉仕しましたのは、中村恵太先生がまだ伝道師でいらした時でした。聖餐式を執行するために伺い、礼拝後にも教会員のお宅を訪れて聖餐に与っていただきました。その兄弟はお嬢様の見守る中、聖餐を受けられましたが、90代になっておられ、私は嚥下障害を心配しました。聖餐のパンを呑み込むことも大変ですが、ぶどう酒の方は更に呑み込みが難しいので、私はその時、誤嚥性肺炎が起こるといけないから、ほんの一滴でも良い、形だけ、しるしだけにしようとしました。ところが車椅子に腰かけて聖餐を受けられた兄弟は、私が口元にほんの少し差し出した盃にかみつくようにグイッと口に引き寄せられたのです。聖餐の秘跡。聖なる恵みに与りたいと兄弟はどんなに望んでおられたことか、それを知らされた瞬間でした。自分はキリストの体に結ばれている。結ばれたい!その強い思いが、意志が伝わって来て、圧倒されたことを思い出します。その三日後に兄弟は主の御許に召されたと、中村先生より伺いました。

このような証しをさせられるのは、主イエスが教会と共に、信仰者と共におられるからに他なりません。キリストが私たちの内に住んでくださることの結果は何でしょうか。それは愛です。キリストがいかに私たち罪人を愛しておられるかを知る。そしてキリストを通して神を知ることにおいて前進することです。今週水曜日から教会歴は受難節を迎えます。イザヤ書53章は語ります。世界の支配者たちは皆、主なる神のご支配から離れ迷い出た羊の群れのようであったが、主はその罪の重荷を忠実な一人の僕の上に置かれました。ここにキリストの受難が告げられています。苦役を課せられて、かがみこみ・・・捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。しかし、彼が苦しんだのは私たちのため、彼が負ったのは私たちの罪であった。

しかも彼が身代わりの苦難と死を受けることは神の御旨であったというのであります。

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」この僕こそ、神の御子イエス・キリストであります。神はこのために御子を世にお遣わしになりました。御子の執り成しによって罪が贖われ、神の御前に立つ者。キリストに結ばれて神の子とされ、神の家族とされるために。私たちはこのキリストを心に信じます。

パウロが教会の人々のために祈っている通りに、キリストが天に在って執り成しの祈りを捧げてくださっています。ですから、キリストを通して神の愛を知り、神を愛し、キリストを愛する愛が、私たちの内なる人に深く根を下ろすようになるでしょう。その愛は、ちょっと風が吹いた、ちょっと何かが起こったことで、揺れ動き、吹き飛ばされるようなものではない。愛が堅固な建物のように、岩の上の教会のように建てられるように、と私たちは祈られているのです。

キリストの愛をパウロはその広さ、長さ、高さ、深さと表現しております。どれが広さなのか、長さなのか、高さなのか、深さなのか、それは言葉で言い尽くすことはとてもできないことでしょう。私は、十貫坂教会の婦人会の方が他の教会のご様子が分かって良かったと言われた時に、とてもうれしく印象に残ったことをお話ししました。他の教会を思い遣る心そのものが、主の愛を証ししているからです。教会を建てることは、キリストの愛を知るようになることです。東日本連合長老会が発足して9年が経ちました。

私は個人加盟としてはその時からおりますが、成宗教会が加盟を認められたのは2013年です。加盟に至るまでも、その後も東日本に所属して学ぶことが沢山ありました。たとえば、教会学校の教案については連合長老会の日曜学校委員会のカテキズム教案を用いるようになって、教会学校が改善されました。また、私は前歴が学校の教員でありましたので、教会員はいわば担任の教室の生徒のようなイメージでありました。優等生もいれば、憎まれっ子もいます。先生に嫌がらせをする生徒がいても一向に気にしない教師でありました。ただただ生徒が可愛いだけで、生徒のために頑張りました。受洗した教会は長老派の教会でしたが、神学校に入ってからも、教会にとって長老会の形成がどんなに重要であるかが、どうも私にはピンと来なかったのだと思います。

そこで成宗教会に赴任して16年。教会は牧師が一人で頑張るという習慣が、いつの間にか当たり前になってしまっていたことも、大きな問題でした。増田先生に成宗教会のある問題を指摘されるまで、私は全く気がつかなかったという大失敗もありました。そのことも東日本の長老会議や教師会で指導を受けて初めて改革することが出来たのでした。個々の教会の内側にいて長い間、気づかれない問題というものが、連合長老会の交わりによって明らかになるということは、大変大きな恵みです。

いくら個人的には愛情があるつもりでも、キリストの教会を建てるためには、ほとんど役には立ちません。人の知恵、知識をはるかに超えた主の愛を知ることは私たちの力ではできません。だからこそ祈ります。そしてそれを宣べ伝えることも、人の力ではできません。ですから、もし礼拝において私たちの口を通して語られ、耳を通して聞かれる言葉が、御言葉として伝えられるならば、キリストの愛を伝える言葉となるように、私たちは祈り、祈られるであります。東日本の教会の交わりがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを日毎に理解する交わりとして前進していることを思い、真に感謝しております。そしてまた、大きな目に見えないキリストの一つなる体の教会を望み見ることが、同時に小さな教会の片隅に起こるキリストの溢れる愛の証を見い出すことと、深くつながっていることに感謝します。祈ります。

天地の造り主を信じる

聖書:詩編95篇1-7節, 使徒言行録17章22-27節

 わたしたちは今日も礼拝を捧げる中で、使徒信条を告白しました。使徒信条はわたしたち一人一人の口によって唱えられますが、決してバラバラにではなく、思い思いの言葉によってでもなく、異口同音に唱えられるのであります。そして今、全国全世界の多くの教会が使徒信条を告白して礼拝を捧げている訳ですが、それも決して今に始まったことではなく、代々の教会が行って来たことなのです。そう考えるだけでも、同じ信仰告白を同時代に世界中で告白し、また時代を越えて、千年、千五百年と告白することの重大さを思わずはいられません。それは時を越え、所を越えて神に捧げられ続けている告白であります。「神さま、あなたはこういう方であると信じます」と告白することは、そのまま神への賛美となるのです。

そこで、今日は、使徒信条の最初の言葉、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、「天地の造り主を信じる」とは、どういうことなのかを学ぶために、使徒言行録17章を読んでいただきました。聖書のこの場面は使徒パウロがアテネで行った伝道について伝えています。アテネはギリシャ文明の栄えた中心都市で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、古代から哲学、数学、化学などの学者が多数輩出し、学問が非常に栄えた所です。

パウロが当時のアテネに行ってみると、そこに夥しい数の神々の像があることを発見しました。つまり人々はいろいろなものを神として礼拝していたわけです。その一方で、どれが本当の神なのだろうか、と考えてはいないのでした。神々というギリシャ語は聖書では悪魔と同じ、ダイモニオンと言葉なのです。日本ではディーモン小暮という芸名のタレントさんがいますが、要するにディーモンの元の言葉です。そしてアテネの人々はディーモンをそれほど悪いものと思っていませんでした。アテネ人の神々は、いと高きところにいます神のような存在と、人間との間に立っているもの、時には守護神のように考えられる存在だったようです。

人々はそのような神々を幾つも考え出し、空想の限りを尽くして、それらを像として形造り、安置して犠牲をささげました。神々には人間のあこがれ、また願望、また時には恐れが表現されていました。たとえば、美の女神、音楽、知恵から、お酒の神、戦争のなどをつかさどる神々です。そんなに沢山作っても彼らは不安であったのでしょう。「知られざる神」へという祭壇も作っていました。パウロはこの祭壇を見て、これを伝道のきっかけにしようと考えました。

なぜなら、パウロには分かったことがあったからです。アテネの人々はこんなにたくさんの偶像があるのに、まだ知らない神があると思っているのはなぜだろう。彼らは偶像を造って満足するのだが、それでも足りない不安感があるからだ。不安。それは神々を怖いと思う不安です。拝まないと祟られるのではないか。それは大きな恐れ、恐怖心となって彼らを支配しているのではないか。なぜだろうか。それは彼らが、本当の神がどのようなお方か知らないからだ、とパウロは思いました。このように、新約聖書のアテネの人々の様子を見ますと、その姿は意外なほど現代日本の人々と共通するものが見えるのではないでしょうか。

それは、たくさんの偶像に囲まれて生きていることです。お金が沢山ほしいと人々は思います。しかし実際はあればあったで、安心より心配も増えるかもしれませんが。同じように神々も沢山あれば、安心という訳には全く参りません。その神々、ディーモンの性質が分からない。だから、ディーモンが自分をどう思っているのかも分からない。従っていつ祟られるかも分からない、ということになります。あちらも拝んで、こちらも拝んで祟られないようにお付き合いしている。しかし、それで満足、安心という訳には全く行かないのであります。

そこで、パウロはアテネの人々を前にして、あなたがたは信仰のあつい人々だと思う、と話を切り出しました。この「信仰のあつい」という言葉もまた、ダイモニオンという語から成り立っています。その意味は、「神々を恐れる」ということですが、悪い意味では「迷信などを信じやすい」ということなのです。アテネに集まる知識人は自分たちの教養を大変誇りに思っていながら、その一方では、迷信にも惑わされビクビクしていたのでしょう。

パウロはその人々にはっきりと申します。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」すなわち、目に見えるものも見えないものもすべては、真の神さまによって造られました。ですから私たちは、そのすべてのものが神さまのものだということを信じるようにと、招かれたのです。

神を自分の考えで形作って拝んでも、空しく、心満たされないのです。神とはどなたかを知らなければなりません。わたしたちは天地を造られたただお一人の神を信じましょう、とパウロは呼びかけました。この方は人の造った神殿に閉じ込めることは決してできません。また、人の造った服を着せてもらったり、食べ物を食べさせてもらうために、人々にお世話される必要もありません。すべてのものが神さまのものですから。それどころか、すべての人は神さまによって命を与えられ、生きるために必要なすべてを与えられているのです。

この方を礼拝するためにはどうしたらよいのでしょうか。祟られないように、何かを捧げるというのは、神さまを恐れてはいても、信頼してはいないことになるのではないでしょうか。すべてを造りすべてを与え、すべてを守り導いておられる神を、信頼することこそ、正しい礼拝の第一歩です。神はなぜ人を造られたのか。その答は詩編102篇に歌われています。102篇19節。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」939

このように恵み深い神さまを知らない、そして知ろうとも思わないために、この上なく恵み深い方が、全く正反対に思われる。この上なくケチで、気まぐれで、冷酷だ、と思ってしまう人々が何と多いことでしょうか。自分を頼って生きて行くしかない。あるいは人を信じて助けを求めるしかない。しかし、神さまの代わりになる自分はいるでしょうか。神さまの代わりになるような他人はいるでしょうか。一晩に同じ人に数百回メールを送ったとか、送られたとかいう話があります。あれをして、これをして、とひっきりなしに電話をくれる人がいます。神ならぬ人間を神のように頼れば、人間関係を破壊することになります。神を信頼しない人々の関係は、闇の中で手探りするようなものです。手の届くものは何であろうとしがみつく。その結果は、神でないものに支配されることになるのです。真の神さまを信頼できないほど不幸なことは在りません。

パウロは恵み深い一人の神を信頼しなさい、と呼びかけています。26節。「神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」唯一の神さまによってすべてのものが造られた、という信仰は、更に唯一の神がお造りになった一人の人からすべての民族が分かれたことを信じることでもあります。どんなに多くの民族があり、国家があり、思想信条が異なっていても、私たちが唯一の神さまによって造られたと信じる限り、人は人をないがしろにすることはできません。天地の造り主を信じるということは、他民族や他宗教に対する憎しみや無関心から、解放されることを意味します。

天地創造の初めに、すべてのものがひとつの血から造り出されたと信じることは、私たちがどこに生まれようともどこに住もうとも、常に唯一の創造者、すべての人の父である神さましかおいでにならないと信じることです。だから、この方、真の神こそ、すべての人が満場一致で求められなければならないのです。神がアブラハムを呼び出して、わたしに従って来なさいと命じられた時のことを、私たちは繰り返し思い出します。創世記12章2-3節。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神はアブラハムに言われました。(旧約15頁)

このことは、神がアブラハムの子孫の中から、救い主をお立てになられたことで実現したのであります。しかし、パウロは神を知らないアテネの人々、そしておそらく聖書も読んだことのなかったアテネの人々に対しては、何よりもまず、神が人を創造された目的を強調して教えます。今日の27節。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが捜し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」すべての民族、すべての造られたものが等しく神を捜し求め、追い求めることにこそ、造り主の目的があります。この方がどんなに恵み深い方、憐れみ深い方であることか。それは、罪のために全く神さまから離れ去って暗やみを手探りするように歩いているすべての人々を、救い出し、再び救いの光に招こうとする恵み深さなのです。神はそのために愛する御子を救い主としてお遣わしになりました。

この恵み深い神をほめたたえる歌を、今日は詩編の95篇に教えられました。この心、この褒め称えの歌こそ、真の神を礼拝する第一歩なのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。御言葉によってあなたの恵み深さを知り、心を込めて御名をほめたたえます。私たちは、ただあなたの恵みによって救われました。イエス・キリストの執り成しによってあなたを信じ、あなたに罪赦され、あなたに従って平和の道を歩むことが許され、真に感謝申し上げます。どうか、この信仰の弱い者を励まし、聖霊によって強めて、今週の歩みをお導きください。たくさんの日々の困難が私たち自身にも、家族にも、友人、社会にも起こっておりますが、どうかわたしたちが主の御体に結ばれ、主から良いものすべてをいただき、また私たちから悪いものをすべて取り去っていただきますように。教会の主と結ばれて、時が良くても悪くても、福音の使者にふさわしい教会を建ててください。

成宗教会の礼拝に出席することが出来ないでいる方々にも、豊かな顧みを日々注いでください。あなたの助けによって、常に主の体の肢としてご栄光を表す者となりますように、私たちのすべてを顧みてください。連合長老会の交わりを感謝します。東日本の諸教会も少子化高齢化の中にあって、取り組むべき課題を多く与えられています。共に学び共に助け合って教会を建てて行くことが出来ますように。

来週は講壇交換の礼拝が行われます。どうか御言葉を心新たに伺い、互いに多くの励ましをいただきますよう、聖霊の神様、二つの教会を祝し、仕える長老会、教会員の方々を励ましてください。恵みの聖餐に与ります。わたしたちの救いのために差し出された犠牲を覚え、真心から感謝して受けることが出来ますように。また、福音の招きに答え、主イエス・キリストを告白する人々が教会に与えられますように。主よ、どうか日本の救いのために、世界の救いのために、それぞれの地域の教会を顧みてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

三位一体の神

聖書:エゼキエル書37章11-14節, ヨハネによる福音書16章7-15節

 キリスト教の信仰は、二千年の歴史を経て教会が受け継いで来たものです。私たちは教会の信仰、つまり、教会は何を信じて来たのか、ということを学んでいます。この学びが正しく誠実になされるならば、それは、必ず神をほめたたえる礼拝として、捧げられることになるからです。

わたしたちの教会は礼拝で使徒信条を告白しています。しかし同時にわたしたちは日本基督教団に所属する教会ですから、教団の信仰告白をも持っています。日本基督教団信仰告白は、1890年に日本基督教会が制定した信仰告白を土台にして、1954年に完成したものです。世界中には各国、各地域の教会が生み出した信仰告白があり、またこれからも各地域、各時代の教会の戦いの中で新しく生まれる可能性があります。

その一方、使徒信条のような基本信条は初代教会、また古代教会の信仰を伝えるもので、同じ信仰告白の下に、全世界に福音が宣べ伝えられ、主の体の教会が建てられるための土台であります。そのことは昔も今も変わりありません。日本基督教団の信仰告白も元を正せば、使徒信条の信仰の上に立てられている訳です。

さて、本日は「三位一体の神」という説教題を掲げました。この言葉は聖書の中に書かれている言葉ではありません。しかし、日本基督教団信仰告白には次のようにあります。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と。一(ひと)頃(ころ)、何かと信仰告白や聖書の文言を批判する考えが教会の内外で盛んな時期がありました。その批判は、ついに信仰告白にまで及び、「三位一体なんて言葉は聖書にはない」とか、「そんな言葉はもう古い」などと言われたことを思い出します。ところが、当時の小泉首相が三位一体の改革と銘打って、税制改革を打ち出すと、それは教会の言葉だということが社会に改めて認識されました。その後は三位一体に言いがかりをつける風潮は下火になって行ったことは不思議でした。

教会暦について少し申しますと、待降節、降誕節、受難節、復活節と教会暦は進みます。ペンテコステの後の主日は三位一体の日と呼ばれ、その後は、日本基督教団の教会では聖霊降臨節と呼んでいるようですが、これはいつからか、分かりません。しかし、世界中で用いられている「日々の聖句」では、教会暦は、三位一体後は待降節までずっと三位一体節という名称が用いられています。成宗教会では、少なくとも大石牧師の時代には、この三位一体節という名称を使っていました。そこで私もこの教会の伝統を踏襲して、そのまま三位一体という名称を残して参りましたのは、当時の教団の風潮に対するささやかな抵抗の気持ちでありました。

三位一体の神の信仰は、教会にとって真に要であり、土台となるものです。本日はエゼキエル書37章を読んでいただきました。預言者エゼキエルは、心頑なな信仰共同体の民に、神の言葉を語る召命を受けたのです。しかし、人々の頑なさは、神の言葉から遠ざかり、自らに不幸を招くばかりでありました。大きな者強い者から、小さな者弱い者に至るまで皆、神に背き、その結果は悲惨でした。国は破れ、能力ある者は神の僕となる代わりに、他国の民の奴隷となりました。そして美しい谷は戦場となり、死者の骨で埋め尽くされたのです。その時、エゼキエルは命令を受けました。預言せよと。しかし、心頑なな人々に預言せよ、というのではありません。神は言われます。「骨に預言せよ」と。

「骨は枯れた。望みは失せた。我らは滅びるばかりだ」という骨に向かって。エゼキエルは死に絶えた者に神の言葉を語りました。主の言葉。「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と。霊とは何でしょうか。それは息です。神の息です。創世記第二章に神は土から、塵に等しい人間を造られました。そして息を吹きかけられました。神の息によって、神の霊によって、人は生きるものとされたのです。

その時のように、今、再び人間が創造されます。罪に死んで、背きに背き、ついに枯れ果てた骨に神の言葉が語られる。人はみ言葉によって再び生きる者とされる。神の息が吹きかけられると人々は再び立ち上がる。再び礼拝の民が形成された。罪に枯れた人の復活。それはすべて、神の息、神の霊のなさる御業であります。

この神を証しするために、キリストは地上に降って来られました。「わたしを見た者は父を見たのだ」と御子は言われました。地上でキリストにお会いした弟子たちは、キリストを「先生」と呼び、「主よ」と呼び慕いました。「あなたはメシア、生ける神の子」と告白し、「あなたのためなら命を捨てます」と告白しました。皆、それほどキリストを愛していたのです。しかし、弟子たちは父なる神と御子キリストが一つであることを本当に理解してはいませんでした。

弟子たちは、キリストが父の御もとに行くと言われた時、悲しみで一杯になりました。その彼らを、キリストは慰めようとして言われた。それが今日の言葉です。7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」弟子たちはいつも目の前に主の御姿を見ていたいのは真に当然の気持ちでありました。しかし、キリストは何が本当に彼らの得になるかを教えておられます。御自身が弟子たちの傍を離れ、天の父の御許から神の聖霊を弟子たちに送ってくださる時、それは聖霊のあらゆる賜物を送ってくださることと同じなのですから。その恵みがわたしたちに伝達される時、それはキリストのお姿を見るよりもはるかに素晴らしく、望ましいことなのだ、と主イエスは力を尽くして語っておられます。

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と主は言われました。聖霊は、ただ個々人の弟子に来てくださって心に住んでくださるのではありません。聖霊を受けて弟子たちは、全世界にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることになります。「世」と言われているのは、これから福音を聞く人々すべてを含む人々です。福音を聞いてすぐに悔い改める人々もいるでしょう。その人たちはどうして悔い改めたのでしょう。どうしてキリストを信じ、従うようになるのでしょうか。

それは、罪ということが分かるからです。特に他人の罪ではなく、自分の罪について分かるから、神の前に心が低くされるのです。罪とは何でしょうか。これを宣べ伝えるのは大変です。人々は罪について考えないからです。あるいは他人のことだと思っているからです。福音を宣べ伝えるにあたって、罪のことを告げるのは難しいことです。もし、律法について宣べ伝えるとしたら、その方がはるかに分かりやすいでしょう。もっとも、喜ばれるかどうかは別です。「あれをすれば救われる。」「これをすれば救われる」というのは、逆に言えば、「できなければ救われない」ということですから。わたしたちも子供の時からそういう教育は徹底して受けています。「良い子にしていないと○○はもらえないよ」とか、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」ということです。

しかし、福音を宣べ伝えるために、「聖霊は罪について世の人々の考えの間違いを正される」と主は言われました。では、罪とは何か。罪とは、キリストを信じないことです。キリストを見た者は神を見たのです。またキリストは、父の御心を常に言い表し、常に行ってくださいました。この方は罪人のために十字架にお掛かりになり、罪人の罪の贖いのために死んでくださいました。そのことは、世の人々には俄かに信じられないのです。なぜなら、世の人々には、「神とキリストが同じ心であるとしても、そんなはずはない」と思われるからです神さまはそんなにお人よしなはずはない」と思う。「神さまはそんなに優しいはずがない」と思う。そして更に、欲張りな人は、「神さまは狡い、自分ばかり何でも持っていて」と思い、冷酷な人は「神さまは冷酷なんだ」と思っている。そして「自分も何でも持ちたい、何でもできるようになりたい。神さまがしているように人を踏みにじっても、蹴倒しても・・・」と思うに至る人々も少なくないでしょう。

罪はキリストによって証しされた神を信じないこと。このことこそ、実に神の愛を踏みにじる罪なのです。罪の唯一の原因は不信仰であるとキリストは言われました。目の前にキリストを見ている弟子たちも、キリストの姿が見えなくなったときこそ、信仰が問われるのです。見ないで信じる者は幸いである、と主は言われました。そして、キリストは弟子たちを聖霊によって幸いな者にしてくださいました。彼らに聖霊が来てくださった時、聖霊は信仰の確信をもたらしてくださったからです。

また、聖霊が来られる時、義についての世の人々の誤りを正してくださるでしょう。人が第一に、人が自分の罪に心を動かされなかったら、決して神の正しさを求めて、飢え渇くことはないでしょう。何よりもまず、謙虚な思いにさせられなければ、福音のうちにいささかも成長を遂げることはできないからです。律法の目的は、人々に自分では正しいことができないことを思い知らせ、神の裁きに恐れ慄かせるものです。しかし、それに対して福音の目的は、私たちを罪ある者から正しい者へと変えることであり、死から救い出して命に導き入れることに他なりません。

私たちの正しさとは、律法を守ることによって達成される正しさではありません。それは、主イエス・キリストの恵みによって私たちに伝えられる正しさ、義であります。主は「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これは、ローマ4章25節の御言葉です。279上。復活された主は天の父の御許に昇ることによって、私たちの救いを成し遂げてくださるのです。エフェ4章10節に次のように書かれているからです。「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。」356上。

讃美歌第二篇に「シャロンの花」という讃美歌があります。キリストをシャロンの花にたとえて主をほめたたえている讃美歌です。「シャロンの花、イエス君よ、わがうちに開き給え、善き香り麗しさを我に分かちあたえつつ・・・。また「二番にはわがことば行い皆、なれのごとくになるまで」と歌います。天に昇られたキリストが天の栄光の座にいらして、キリストの義の甘美な香りと快い匂いとをもって、全世界をかぐわしいものとする。この希望は天に昇られたキリストから遣わされる聖霊の賜物によって、教会が清められ、日ごとに成長させられることによって成し遂げられる恵みです。そして、13節を御覧ください。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて審理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」聖霊もまた、神の御心を忠実に告げ知らせることが語られます。ですから、父も子も聖霊も三つの位格で表現された一人の神であり、全く同じ神として崇め礼拝されるべきなのです。

教会の歴史には、様々な誤った教えが現れました。聖霊の神についても聖霊が特定の人にだけ降るように解釈し、聖書を差し置いてその人の考えを尊重するように主張する考えも起こりました。教会は、近代、現代でも同じ試練を受けています。多くの学者や牧師などが、自分は聖霊によって独自の新しい考えを与えられたと考え、自分の考えは聖書の教えに優ると主張することがあるからです。

しかし、聖霊はイエス・キリストから切り離された賜物をもたらすことはございません。知恵と知識のすべての宝はキリストの中に隠されているのですが、それは十字架に付けられた形で見ることのできるキリストです。聖霊の導きによって教えられる時、弟子たちには満たされました。それは、彼らが聖霊から受けた知恵を人から人へと与えるためであり、使徒たちはその義務を果たしたのです。わたしたちの信仰の高さ、広さ、深さはキリストの中に顕わにされた神の愛がどのようなものか、知ることにあります。今日は特に聖霊の神についてお話ししましたが、5世紀の神学者、聖アウグスチヌスは語りました。「父、子、聖霊のどれかお一人がおられるところに三位一体なる唯一の神がおられることを信じるべきである」と。祈ります。

教会が受け継いで来た信仰

聖書:詩編33篇4-19節, コロサイの信徒への手紙1章15-20節

 今、多くの人が、買い物はネット通販を利用しています。忙しい人々も、時間はあるけれども買い物に出ることが難しい人も、ネット通販で物を手に入れることが出来ます。しかし、それで問題になっていることがあります。一つは今までのような商店街が成り立たなくなって行くこと。もう一つは配達業者が忙しすぎて苛酷な労働を強いられることです。

これは物流の話ですが、では心の問題はどうなのでしょうか。教会まで一人一人が足を運ぶ。みんなで集まって礼拝する。自分の声を出し、皆と合わせて、祈り、讃美する。自分の耳を傾けて聖書の言葉を聞き、その説き明かしを聞く。本当にわたしたちは当たり前だと思ってこれらのことをして参りました。

歴史的に見ても、戦争や、疫病や、政治的迫害、弾圧を別にすれば、そのようにして全身全霊を上げて、具体的に動かして礼拝するために教会に集う。それが当たり前のことだったのです。そして、共に集まることは、大きな喜びでありました。しかし、今ネット通販と同じようなことが起こっているのではないかと思います。本当に働いている人々は多忙を究めています。日曜日の、決まった時間に休みを取ることが難しい時代になりました。

また休みと言っても、文字通り倒れて寝ているだけ。そうしないと疲れが回復しないということもあるのでしょう。まだまだ他にも原因があるのだと思いますが、分かりません。

それに対して、これまで喜んで共に神様の前に出ていた人々が出来なくなる、その理由は大変良く分かるものです。とにかく高齢世代になると、病気やケガ、その他の支障が起こるからです。それで、礼拝に出かけることが困難になるのです。物を手に入れるためには、ネット通販がある。注文すれば、届けてもらうことが出来る。衣食住の問題はそれで何とかなるのでしょうが、しかし、私たちの命の糧の問題はどうなるのでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とは、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。また、主イエスも、悪魔の誘惑に遭われたとき、この聖書の言葉によって戦ったのでした。

私たちが試練に遭うことについても、主はそれを通して命のパンに飢えることについて私たちに考えさせたいと思われているのでないでしょうか。すなわち、肉の糧を得る物流(それはもちろん大切なのですが)、それにもまして大切なもの、命の糧を得るためにはどうしたらよいか、考えなければならないのではないでしょうか。私がこの教会に参りました時に、最も努力したことの一つは、このことでした。すなわち、教会に来られない状況になっている方々に、どうしたら教会をお届けするか、ということでした。教会を届ける、と申しましたが、一体何をどうしたらよいのか、私には分からないまま、暗中模索の日々でした。ただ、聖霊の助けによって、一つだけが分かったことがあります。それは、教会に来られなくなった高齢の方、病気の方は、私が「教会から来ましたよ」と声を掛けると、嬉しそうに相好を崩されたことでした。

その時、私は使徒信条の告白を思いました。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず。」そうだ、私たちは教会を信じているのだと。そして私たちは、教会が受け継いで来た信仰を信じているのです。成宗教会は毎週、使徒信条を礼拝で告白しております。これは、プロテスタント教会とそれを生み出したローマカトリック教会でも告白されて来ました。このような信仰の内容は長い歴史の中で整えられてきたものです。私たちが今日取り上げましたコロサイ人への手紙の中に、使徒信条の信仰の内容の一部が語られています。

読んでみると一見、とても難しいことをバーンと言われたような印象です。しかし、神について、信仰について考えること、そして「私たちはこう信じます」と告白することは、実は大きな、そして真剣な戦いの中から生まれて来たのです。そして、私たち自身もいつ倒れるかもしれない、いつ礼拝を守れなくなるかもしれない、という危機感の中で、このことを考えることの大切さを発見するわけです。なぜなら、教会とは何か。神とはどなたか、という問いの答を見い出さないでは、私たちの救いはどこにあるのだろうか?ということになってしまうからです。

コロサイ人への手紙は使徒パウロによって書かれました。この教会があった場所はフリギアという地方で、今のトルコの内陸です。コロサイの町はラオデキア、ヒエラポリスというこの地方都市と共に、ローマ皇帝ネロの時代に襲った地震のために破壊されたということが5世紀の歴史家によって伝えられています。つまり、パウロがこの手紙を書いてから何年も経たないうちに大災害が起こったことになります。その頃、パウロが手紙を書いてコロサイ人を教えようとした背景には、災害とは別の大変大きな危機感があったのだと思われます。この地方には人々を伝えられていた福音から外れさせようとする力が働いていました。しかし、それは何も暴力的な力ではないのです。

私たちは「暴力でなければ大丈夫だ、平和だ」と思ってしまいがちですが、実は人を唆し、救いから遠ざけるものは、暴力とは限りません。それは、主イエスが福音を宣べ伝える前に荒れ野に行かれ、そこで受けたサタンの誘惑を考えても納得するでしょう。(マタイ、ルカ、共に4章)コロサイ教会の人々を逸脱させようとしたものは、哲学者たちが論じる星、運命、その他さまざまの空想でした。また、そういう興味を引く話の一方、教会にいるユダヤ人たちは儀式的なことにこだわりました。ああでなければならない、こうでなければならないという主張が、次第に律法主義的になって行ったのです。その上、この時代盛んに論じられていたのは、何と天使の階級論でありました。見たこともない天使についてあらゆる空想を加えた結果、その人々は天使をランク付けし、天使を神と人との仲介者として立てて、天使によって神の御前に近づこうと企てたのです。

それに対してパウロは真っ向から否定します。彼の主張は、あらゆるものはキリストに在り、コロサイ人にとってはキリストのみで十分であり、それどころか十分以上であるべきだということでした。まず15節。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」とパウロは述べます。これは、ヨハネによる福音書の主張でもあります。ヨハネ1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(163下)すなわち、神が我々にご自分を表されたのは、ただ、キリストによってのみなのだとパウロは言いました。

また、15節では、神の姿と言われていますが、それでは、神がキリストの人間としての姿をもっておられるということではありません。キリストのお姿は、あくまでも私たち人間、限りある人間の目に認識できるように現れてくださったお姿なのです。つまり、私たちが理解できるように、そうして下さったということなのです。そして神が私たちにご自分を表されたのは、ただキリストによってのみであったのですから、その他の姿形によって神を求めることがあってはならないのです。もし、キリストを抜きにして、神を表そうとするものがあるとしたら、それはすべて偶像に他ならないでしょう。

また、キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」と主張されています。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。万物は神の言葉によって造られたのですから。キリストはまた、死人の中から最初に生まれた者と呼ばれています。なぜなら、私たちもキリストによってのみ、復活の希望があるからです。すべての被造物はキリストによって造られたということは、キリストが万物の基礎であるということですから。

「天にあるものも地にある者も、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」天は、神の居ますところを表しますが、また天使の存在するところをも表します。人々は天使の階級という複雑な空想を造り上げ、人間と神との間の仲介者と考えようとしました。その考え方は結果的にキリストの権威を弱めることになったのです。これに対して、パウロは、天使は体を持たないが、被造物であり、天使の持つ主権も支配も権威も含めて、すべてのものが御子において造られた、と主張しました。

天使がキリストによって造られたその目的は、キリストに仕えるためであります。キリストは天使をその力によって支えておられるのだと。

次にパウロはキリストと教会との関係を教えています。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めのもの、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一のものとなられたのです。」キリストは、人間の体に対して頭に例えられています。なぜなら、人間の体において、頭は、そこから生命力が他のあらゆる部分に流れる司令塔ですから。それと同じように、教会の生命はキリストから生じるからです。しかし、ここでは、主として支配について語っています。キリストは教会を支配する権威を持った唯一の存在です。そうであるならば、信徒はキリストにのみ注意を払わなければならないのは当然ではないでしょうか。なぜなら、キリストはこの栄誉を受けておられる通りに、その職務を真実に遂行なさる方に他ならないからです。

キリストは創造の初めに神と共におられた方であり、甦ることによって神の国を始められたので、初めのものと呼ばれます。私たちは、キリストと共に十字架に死んで、キリストの死と結ばれたように、キリストの命に結ばれて再び生きるものとされる約束をいただきました。そして、新しい命の希望に生き始めているのです。キリストは「復活の初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼ばれています。その結果キリストは、御自分の体である教会にも生命を取り戻してくださったのです。19-20節。

「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「満ちあふれるもの」とは、「あらゆる完全」と訳されることが出来ます。父の御心は、あらゆる完全がキリストに宿ることであったからです。キリストの完全とは何でしょうか。宗教改革者は述べています。それは、「全き義、知恵、力、あらゆる種類の恵みである」と。では、私たちの救いのために何が必要でしょうか。私たちは真剣に考え、真剣に願わなければなりません。そして、私たちが望むすべての善きことを、キリストの完全から引き出さなければならないでしょう。

言い換えれば、「キリストは私たちにとってすべてである。キリストなしには、私たちは何も持たない」ということですこれが私たちが代々の教会から受け継いで来た信仰です。だから、反対のことを考えてみるならば、神から離れること以上に、悲惨なことは在りません。また私たちは、この称賛をキリスト以外の人間に移すことはできない。ましてや、人を神に近づける仲裁者として天使などを考えることも、救いから遠ざかる悲惨につながるのです。

キリストの血は十字架において流されました。それは、私たちと神との和解のしるしです。私たちが神に義しい者とされるために、御子は償いの生贄となり、罪の罰に耐えなければならなかったからです。私たちは平和な時代を生きている間も、教会が受け継いで来た信仰を告白し、礼拝に連なることが出来ました。パウロが大きな危機感を持って書いた手紙、その中に記されたキリストをほめたたえる信仰は、今日にまで続いているのです。この手紙を受け取ったコロサイ人の町はまもなく破壊されました。人々は悲惨な時代を生き抜いたでしょうか。生き抜いた信仰者がいたからこそ、この手紙が残され、聖書正典の中に入れられたのではないでしょうか。

私たちも困難な時代を生きなければなりません。ただいつの時代の教会にも目標があります。時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、福音を生きることです。それは、「礼拝を守れなくなる時まで」ではありません。むしろ、礼拝を守れなくなっている人々の信仰生活のために祈り合うことこそ目標です。祈りによってキリストにを通して神と交わり、祈りによってキリストに通して人々と交わり、これを地上にある限り続けることです。なぜなら、この私たちのために主は地上にいらして労苦の限りを尽くされ、私たちを教会に呼び集めてくださいました。私たちはその愛を思い起こしているからです。だからこそ、キリストの完全の中に、私たちはすべてを期待しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。使徒信条の中に表された教会の信仰を感謝します。私たちはあなたの御心を知らないままに唱えていることが多いのですが、改めてキリストによって示されたあなたの計り知れない御心を思うことが出来ました。どうか愚かなもの、貧しいものの罪を赦し、ただキリストのみを救い主と信じる信仰の計り知れない恵みを悟らせてください。教会に来られなくなった方々を訪ねて互いに喜んだ過去の交わりを今、思い起こします。今、私たちの多くが年を取りましたが、どうかこの恵みのうちに歩むために、あなたの豊かな知恵と力をお与え下さい。

また、若い人々のためにも祈ります。激しく変化する社会にあって、昔の知恵の思い及ばない世界を生きて苦闘している

人々のために、どうかあなたが必要なすべてを備えてくださいますように。一切をあなたに委ねて、教会が祈りをもって世に送り出すことが出来ますように。また高齢の世代にもなすべきことが沢山あることを教えてください。御言葉をもって、知恵をもって励ますために、聖霊の神様、弱い者にも、病気の者にも勇気と愛とを増し加えてください。私たちが御国へと続く道を指し示す者でありますように。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

教会に集められた人々

聖書:ヨエル3章1-5節, 使徒言行録2章37-42節

 私たちの教会は只今、カテキズムによって教会が受け継いで来た信仰について学んでいます。カテキズムとは信仰問答とも訳されて来ましたが、必ずしも問と答えという形式をとるものではなかったようです。カテキズムという言葉の語源はカテケーシスという「響き合う」、「再び響かせる」という意味です。古代教会の時代から、洗礼志願者が洗礼を受け、聖餐に与るために、教会が伝えて来た信仰の言葉をくり返し学ぶことが熱心に行われて来ました。私たちはキリストの福音を宣べ伝えるために、共にキリストの救いの秘儀と信仰を伝え、共に救いに招かれていることを、繰り返し心に響き合いたいと思います。

さて、先週の新年礼拝では、「幸いな人」と題して、イエス・キリストの教えの一つ、山上の説教について学びました。主イエスは私たちに何を教えてくださったのでしょうか。それはこの世のことに忙殺され、目をくらまされ、この世の幸福と不幸を押しつけられて生きている人々には、――そして私たちもその中で苦しむことがしばしば、なのですが――驚くばかりの、そして信じがたい教えでありました。なぜなら、私たちを圧倒している価値観は、「豊かな人は幸いであり、喜んでいる人は幸いであり、あらゆる能力を発揮して人々を支配する人は幸いである」というものだからです。そしてそのような幸いを追い求める結果、身近なところから、全世界の隅々まで、不幸の種は尽きず、戦争の火種はつきません。

だから、それを見れば分かるのではないでしょうか。私たちの世界で通用している価値観がどれだけ間違っているかが。そして主イエスが教えられたことが、どんなに私たちにはそうは思えなくても、真に正しいのだと。キリストは神の御心を私たちに教えておられるのだと。神の御心は、私たちを御自身の国に招くことであると。神から遠く離れていた私たちを御自身の救いに招くことであると。神に造られた私たちであるのに、造り主を知らない私たち。人間は神に似る者として造られました。神の似姿に造られたのです。それなのに、神から離れ、神に背を向けて生きている人間は皆、罪人であります。

その人間を罪から解放するために、救い主は世に遣わされました。この方の贖いによって私たちの罪が赦されるためです。このようにまでして、罪人を愛しておられる神がおられる。キリストはこのことを知らせてくださいました。この愛の神を信じることが、どんなに幸いなことであるか。この神を、この愛を信じきって、神にすべてを委ね切って、神に従う人だけが、本当に幸いな人なのです。その人はだれでしょうか。それは主イエス御自身ではないでしょうか。主は本当に神の御心をご存じでした。主こそは本当に神を愛し、人を愛して愛し抜かれた方でした。

さて、今日の聖書は主イエスの弟子、ペトロが語った説教です。これはペンテコステの日、すなわち聖霊が弟子たちの上に降った日の説教です。主イエスは山上の説教をはじめ、たくさんの教えを下さり、その教えが真実であることを奇跡の御業で示してくださいました。しかし、弟子のうち、だれ一人として最後まで主イエスに従い切った人はいなかったのでした。皆、十字架に付けられた主から逃げ去ってしまいました。このことは、人間の力では、だれも主に従うことが出来なかったことを表しています。

しかし、十字架に死に三日目に甦った主イエスは、弟子たちを愛して、彼らに御自身を現してくださったのでした。では、弟子たちが本当に主イエスを神の子と、救い主と信じる者、本当に従う者となったのは、いつでしょうか。それは、ペンテコステの日、すなわち、聖霊が弟子たちの上に降った時だったのです。

人々はその時、弟子たちが言葉の壁を超えて神の偉大な業をほめたたえるのを聞きました。その時ペトロは立ち上がって旧約の預言書ヨエルの言葉を語り始めます。預言の言葉が実現したのだと。今日読んでいただいたヨエル3章1-5節です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」1425頁。

聖霊の奇跡の御業は、言語の壁を乗り越えることばかりではありませんでした。聖霊は頑なな人々の心を打ち砕いて、ペトロの教えに耳を傾けさせたのです。だからこそ「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言ったのです。これこそ、悔い改めの始まりでした。なぜなら、ペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言し、「あなたがたは、この方を十字架に付けて殺してしまった」と追及したからです。しかし最後に、「神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と証ししました。聞いていた人々は、自らの間違い、不幸に胸を突き刺されました。そして彼らは神への恐れに満たされたのです。それは、悔い改めの始まりであり、聞いていた人々に福音が訪れた瞬間でした。

ペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。悔い改めとは、何よりも人が心において新たにされることです。ローマ12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」291下。主に教えられ、主に従って、今までとは全く別人のように心新たにされたい人を、神は決して拒まれません。主イエスはまた、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」(ルカ11章9節)と約束しておられます。

人々の言葉「わたしたちはどうしたらよいのですか」は、直ちに神に服従する彼らの志を意味します。一方では、聖霊が教えるものに神のご意志を与え、他方では聞く者に悔い改めを起こしてくださる。どちらにも聖霊の御業が働いているのです。福音の訪れの第一歩は、ペトロが人々に自らの罪に思い至らせ悔い改めを促したことです。しかし、それと同時にペトロは人々に罪の赦しの確信を与えました。罪を知らされただけでは救われる希望はありません。ですから罪の赦しがキリストによって備えられていると、ペトロは語りました。それによって伝道者は罪人を正しい道に立ち帰らせることが出来たのです。

ですから、悔い改めと赦しは、主イエス・キリストの名によって宣べ伝えられなければなりません。私たちのために死んでくださったキリストの死に、私たちも結ばれなければ、私たちは神と和解することが出来ない。すなわち、キリストの復活の命に結ばれることはできません。このことが教えられ、受け入れられる時、信じる者には、バプテスマを受けることが勧められます。バプテスマは救いの恵みを約束する保証であります。

そうすれば、賜物として聖霊を受けると、人々は教えられました。聖霊の恵みはイエス・キリストが天に在って父と共に私たちに与えられる賜物です。聖霊によって、私たちは心に信じていることを真心から告白することが出来るのです。聖霊によって私たちに賜物が与えられます。また聖霊によって私たちはサタンとこの世の誘惑や脅しに対して立ち向かうことが出来、勝利することが出来るのです。

このようにわたしたちは溢れるばかりの救いの恵みを受けるのですから、家族、友人、社会のあらゆる人々が、主イエスの福音を聞くことが出来るように、悔い改めに至り、罪の赦しの確信を得て、キリストを救い主と信じて、神に従う者としてバプテスマを受けることが出来るように、日々祈りを篤くしようではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と宣言されているからです。

ペトロは、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。この勧めも、私たちはしっかりと心に留めなければなりません。神の愛を信じる者の一番の困難は、キリストに敵対する人々、また神に背いている者が絶えず仕掛けて来る有形無形の攻撃なのです。ペトロはこういう危険から離れることを命じました。私たちにも警戒が必要です。私たちが世に在って生きることは、邪悪な人々に従うか、それとも、善良な人々と共に神に従うか、という選択をしながら生きることなのですから。

ペンテコステの日、ペトロの初めての教えを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったということです。ここに聖霊の御支配により教会が始まりました。福音はイエス・キリストによる恵みの救いです。この主の死につながれ、主の命に結ばれ、主イエスが例えられたように、真のぶどうの木に接ぎ木された人々が教会であります。教会と訳されたギリシャ語エクレシアとは、元々は呼び集められた人々、のことでありました。招集された議会のことです。

それでは最初の教会、キリストに呼び集められた人々は何をしたでしょうか。そのことが、2章42節に書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」最初の教会は、自分たちの信仰を確かなものにするために役立つことを絶えず熱心に努力することでありました。説教者の教えを聞きました。なぜなら、教会の魂がここにあるからです。神の御子が使徒たちを通して与えてくださった教えがあるからです。人々は教えを聞いて自分たちの生活に役立たせることに努めました。

次に信徒同士熱心に交わりをし、共にパンを裂いたとあります。パンを裂いたのは、一緒に食事をしたということよりもむしろ、聖餐式を執り行って主の体の教会を建てていることを意味します。信徒同士の交わりは、教えを聞いている結果、起こっていることです。共に集まっているところに、キリストを通して祈りの扉が開かれるのです。ここでは当然のことながら、共通の信仰の告白も整えられて行ったことでしょう。最初の告白は、「イエスは主である」という短いものであったそうです。それを皆で唱える。そして皆で祈るのです。もし皆が共に祈るために集まらないとしたら、一人一人が特に自分の家の中で祈りを捧げても、それは十分であるとは言えないのです。

今日の聖書から、私たちは教会にはどのような人々が集まって、何をしていたかを学びました。それは二千年経った今日の教会と変りありません。建物とか、規模とか、言葉とか、讃美歌とか、そういうことを別にすれば、変わりないのです。なぜなら私たちもまた真の教会を建てることを目指しているからです。真の教会のしるしとは何でしょうか。少なくとも、そこには、教え、聖餐、交わり、祈りがなければなりません。それは、共に集まり、教えを受け、聖餐に与り、主に在る交わりの中で祈る教会です。

わたしたちは今、厳しい時代にいると言わなければなりません。教会に集まることが難しくなかった時代と比べているからですが、子どもたちや若い世代が大勢いた平和な時代がありました。家が狭いので、日曜日は親が子供たちを教会に追い出してくれ、教会は溢れるばかりでした。また、大人も日曜日は休みという職業も多かったのではないでしょうか。今は介護、養護、病院、など24時間、365日の交代勤務。休日があってないような仕事も増えました。高齢者が出来なくなった仕事を下の世代が担って行く。本当にゆとりのない時代。しかしそういう時代でも教会は続いて行きます。それは、「続いて行かなければならない」という義務ではなく、たとえ私たちには非常に困難でも、主が続けてくださるからです。集まることが困難な人々が増える度に、私たちは改めて思います。主に在る交わりの尊さを。互いに祈り合うのは、主が私たちを恵みによって集めてくださったからです。主が大切に思ってくださる兄弟姉妹だから私たちもそう思うのは当然です。私たちは弱い。しかし、主は私たちを励まして聖霊の助けによって支えておられます。私たちは困難の中にこそ、主が幸いだと言ってくださる教会の交わりの喜びが生れているのを感じるのではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き主イエス・キリストの父なる神様

本日の礼拝を感謝し、あなたの尊き御名をほめたたえます。今日も私たちを呼び集めて下さり、恵みの礼拝に与りましたことを感謝いたします。真の教会の姿を、私たちは追い求めながら、日々困難と向き合っています。しかし、あなたが私たちに御言葉を聴き、交わりを持ち、祈りをささげる教会としてくださいました。どうか、今、力弱くなっている方々をお支えください。共に御前に出ることが出来ますように。また、どうか、私たちに与えられた福音を後の時代にも伝えるために、この教会を用いてくださいますように祈ります。成宗教会が東日本連合長老会に加盟して以来、共に学び合い、助け合って歩んでいる諸教会を覚え感謝いたします。小金井西ノ台教会の引退教師の青戸歌子先生が召されました。残された青戸宏史先生の上に慰めが豊かにございますように。

本日は今年最初の長老会を開きます。この教会、また東日本の教会の諸行事を通して、また長老、信徒の方々を通して、主の恵みの御業が現れますように、生かし用いてください。特に少子化の時代に教会を建てようと、連合長老会のみならず、教区、教団、更には他の教派との間にも協力が生れていると聞きます。主よ、どうか心を低くして共に祈るこれらの働きを祝福して下さい。

今、病気やお怪我のため、療養しておられる兄弟姉妹を特に顧み、またご家族を祝して下さい。癒しの御手を祈り求めます。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。