イエス様の誕生

主日CS合同クリスマス礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌94番
讃美歌108番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

《説教》『イエス様の誕生』

主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しで始まっています。皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは共和国から皇帝の治める帝国になったのです。彼はオクタヴィアヌスという名前でしたが、紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者となり、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となりました。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。権限を得た彼は次第に帝政を敷き、ローマは共和国から皇帝の治める帝国となったのです。このおよそ百年後にルカはこの福音書を書いたのです。

さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって政策決定の基礎データを収集するために行われました。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行いました。ルカが福音書を書いたこの時、ユダヤはヘロデが王である王国でした。形は独立国家の王国でしたが、ユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象になっていたのです。1節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスとは、長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であったということについては、歴史的に疑問がある様です。さらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということも疑問です。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。父のヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かった筈です。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよい筈です。ですから、このような方法での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時のユダヤの状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語でルカは何を語ろうとしているのでしょうか。

当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込むすべての世界でした。ローマ帝国が全世界であり、その外のことは人々に知られていなかったのです。ですから、ローマ皇帝は全世界の支配者だったのです。そのローマ皇帝の支配下でヨセフとマリアが旅をして、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによって、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。

しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配に従属している、ということではありません。ルカは第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起しているとも言えます。実際当時のローマ帝国では、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

加えてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、この住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そしてベツレヘムで主イエスが生まれたのです。では、ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのでしょうか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった。ユダヤの繁栄の頂点だったダビデ王の子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。それによって、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。また本日読まれましたイザヤ書9章5節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、ダビデ王に優る統治者、いや、ローマ皇帝をも凌ぐ「救い主」が生まれるという、これらの預言が実現したのです。主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、旧約聖書で告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。主なる神様こそ、皇帝をも用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

世界の歴史を本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様です。神様はこの不安や悲しみに満ちた現実のこの世界の中に御子を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、御子イエスが歩まれるご生涯を、とりわけ私たちを救うための十字架の贖いの死を暗示しています。神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。

今日のクリスマスに生まれて来られた御子、主イエス・キリストこそが私たちの「救い主」「メシア」「キリスト」です。お祈りを致します。

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御心の中を生きよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌120番
讃美歌205番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 5篇12節 (旧約聖書838ページ)

5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。

新約聖書:マルコによる福音書 10章13-16節 (新約聖書81ページ)

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

《説教》『御心の中を生きよ』

今日の、マルコによる福音書が語るところは、主イエスの十字架の待つエルサレムへの旅の途上です。

ガリラヤにおける活動も終わり、神が定められた十字架の時が近づいたことを悟られた主イエスは、弟子たちを連れ、エルサレムへ向けて足を速められていました。マルコは、その旅の途中で起きたこのエピソードを語るのです。

主イエスに敵対する人々の憎しみを含んだ行動は一層強まり、十字架の苦難が必然となったこの段階で、主イエスのもとに子供を連れて来るということは、周囲の人々の眼を意識するならば、この親たちにとって大胆な行為であったと言えるでしょう。ところが、そんな思いでやって来た人々を、弟子たちは「叱った」というのです。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。子供を連れて来た親たちに向かって「うるさい」と言って叱りつけたのでしょうか。聖書から具体的なことはよく分かりません。

これまで、主イエスが御言葉を語るときには、大人に混じって常に子供たちも集っていたと思われます。例えば、使徒言行録9章36節以下では、主イエスは傍にいた子供を抱き上げて説教の材料にしていますし、マタイ福音書14章21節で「五つのパンの奇跡」を行った時、そこに「子供がいた」ことが記されています。そして、初代の教会では、「家族全員、即ち子供連れで礼拝に出席する」ことが原則になっていました。「子供はうるさいから」と言って排除する考え方は、初めから聖書にはありません。むしろ「子供が共に居る方が正常な姿である」と言うべきでしょう。

それでは、何故、弟子たちは人々を叱ったのでしょうか。彼らは、「主イエスのために」集まって来た人々を押し止めたとも考えられています。

ある人は、この頃の「イエスの疲れ」を指摘します。また、次から次に主イエスに「あまりにも多くのことが求められている」とも言われ、追い迫る律法学者たちの憎しみの中で「大きな緊張を余儀なくされていた」ことも示唆されています。

これまでの長い旅と、その途中で繰り返されて来た反対者たちとの論争。そして今、十字架のエルサレムへ向かう主イエスの決然とした姿勢。このような状況の中で、弟子たちが主イエスを「しばらく、そっとしておいてあげたい」と考えたとしても少しも不思議はないでしょう。お傍に仕える弟子としての責任からこのように判断したとしても、それは当然の心遣いであったと見ることも出来ます。弟子たちは、恐らく、そう考えて子供連れて来た親たちを叱ったと思われます。

しかしながら、ここで主イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

イエスの憤りは大変珍しいことです。聖書の中で「イエスの憤り」が記されているところはほんの僅かであり、エルサレム神殿における「宮潔め」以外、直ちに思い起こすのも困難なほどです。しかも、「憤る」と訳されている言葉「avganakte,w (アガナクテオー)」が主イエスに用いられているのはここだけです。

さらにまた、弟子たちに語られた「来させなさい」「妨げてはならない」とは、いずれも、はっきりとした命令文であり、彼らのとった態度を「たしなめる」という程度のものもではなく、彼らの判断をはっきりと否定されています。子供たちを追い出そうとする弟子たちに対し、「追い出さなくても良い」とおっしゃっておられるのではなく、むしろ、追い出そうとしている弟子たちに対して、イエスは「激しく怒っておられる」のです。何故、主は、これ程までに怒られるのでしょうか。弟子たちの姿の何処に、これほどの主イエスの憤りを買うものがあったのでしょうか。

それは、「主イエスのもとに近づこうとする人を妨げた」からなのです。主の御前に出る人を妨害することは、主の最も嫌われることでした。たとえそれが、如何に主イエスのためであったとしても、なお、主の御許に近づく人々を止めてはならないのです。十字架へ向かう主イエスからすれば、神の御前に出る機会を奪うサタンの業以外の何ものでもありませんでした。主イエスの憤りの背後には、弟子たちに追い出された人々への強い愛があることを見なければなりません。

さらに、ここに連れて来られた子供と親の姿の中に、「人間本来のあるべき姿」も見なければなりません。家庭は、主の御心を表すべく造られて行くのです。

家庭が御心によるものであるならば、その家庭に生み出されてきたものは、「全て神の意志の下にある」と考えるのが当然です。よく、子供は夫婦の愛の結晶であると言われますが、それに間違いはありません。しかし、結婚に対する神の導きを信じる者は、その結婚の実りのひとつである子供の誕生も、当然、神よりの賜物と受けとめるべきなのです。

子供についての親のエゴイズムは、常にこの信仰から離れた所から生じるのです。旧約以来、結婚への招きは「子供を与える」という約束と結び付けられており、信仰者の家庭に産まれた子供たちは、産まれた瞬間から「神の国に所属している」と考えるべきです。それ故に、子供を主の御前に連れて行くことは親の義務であり、責任であると言えるでしょう。御心に応える正しい家庭生活はそこから始まります。神の国とは、このような生活を送る者の国であり、主イエスの祝福を受けなくては「家庭の祝福はありえない」ということこそ、信仰に生きる者の家庭なのです。

主イエスは、私たち小さな者の幸福のために、何時・如何なる時も御心を傾けて下さり、妨げる者を叱りつけてまで顧みて下さるのです。

主イエスは15節で、「子供のように神の国を受け入れる人」と言われました。「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供のように純真な、汚れを知らない、ということでしょうか。そうではありません。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。今日、子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎないことが分かります。子供は子供なりに罪を持っているのです。

主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのも、決して子供を理想化して言っておられるのではありません。ここには「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、積極的な行為として語られているのではなくて、与えられたものをただ受ける、という受動的なことなのです。ここに出て来る子供たちは、親たちに連れて来られた者です。子供たちは、自分の意志で主イエスのもとに来たのではありません。子供たち自身が自分で主イエスの祝福を求めているのではないし、主イエスが宣べ伝えておられる神の国を自ら受け入れ、それを信じて来ているのではないのです。子供たちは、親に連れて来られるままに主イエスのもとに来たのです。そして主イエスが受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。子供たちは主イエスの祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。自分は良い行いをしています、これだけの正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神様にお捧げし、奉仕しています、だから祝福して下さいなどと要求してもいません。主イエスはそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福して下さるのです。親たちは、主イエスに触れてもらって祝福をいただこうとして子供たちを連れて来たのです。それは神社で七五三のお祝いをするのと変わらない思いだったでしょう。主イエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げて下さった、それぞれの全身を、それぞれの人生の全体を、み手の内に置いて、祝福して下さったのです。

ここで子供とは、与えられたものを素直に受け入れる見本とも言える存在なのです。主イエスは、子供が親にすがりつくように、人は神に「すがりついて」生きるべきだとおっしゃっているのです。一切の自己主張、自己満足を排し、ただ神の庇護の下に生きる道を求める者、それこそが神の国に生きる人間の姿なのです。そして、そのような生き方を実現したのが御子イエスの生涯でした。

家族そろって主イエスの祝福を求めて来た人々を、何故、叱り退けるのか。神の喜びは何処にあると考えているのか。全ての人々を招く御心を妨げることが、いったい誰に許されるのか。誰に出来るのか。主イエスの憤りは、ここにあったのです。それは、御前に出る私たちを、他の何者にも代えがたく思って下さるキリストの愛そのものでした。その愛が、今も私たちに注がれているのです。私たちも、ただひたすらに主の御心の中を生きて行きましょう。

主イエス・キリストの眼差しが、私たちを神の国の民とされようと今も見詰め続けて下さっていることを感謝すべきでしょう。ここにこそ、神の子としての平安があるのです。

お祈りを致します。

イエス様が生れる約束

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌142番
讃美歌320番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-6節 (旧約聖書1,073ページ)

8:23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

《説教》『イエス様が生れる約束』

今日から教会は、イエス様がお生まれになったクリスマスを待ち望むアドベント、漢字で降るのを待つと書く「待降節」を迎えます。私たちが待ち望むクリスマス、イエス様が2000年前に、お生まれになったことは誰でも知っています。

そのイエス様がお生まれになった更にずっと昔に、そのイエス様がお生まれになることが旧約聖書に書かれているのです。今日の旧約聖書イザヤ書9章1~6節は、同じイザヤ書11章1~5節と共に「メシア預言」と呼ばれ、ダビデの家系に王様が誕生し、イスラエルの民を救うことを預言していました。

5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱(とな)えられる」とあります。誕生する子供が王様となって、神様に導かれてイスラエルの民を救う計画を成し遂げ、その支配は、神様の代わりとして、公平さをもって永遠に治め、平和を実現すると書かれているのです。

このイザヤ書を残したイザヤは、イエス様がお生まれになる700年ほど昔にイスラエルで活躍した預言者です。このイザヤの時代のイスラエルの民は、とっても苦しくてつらい日々を過ごしていました。ダビデ王がイスラエル王国の王様のときには繁栄していたイスラエルも、北と南に分裂してしまい、そして、ついにシリア・エフライム戦争が起こってしまい北イスラエル王国はアッシリアに攻められ、紀元前722年に首都のサマリアが陥落し滅びてしまいます。何とか耐え忍んだ南王国も、再びアッシリアなど強い国がいつ攻め込んでくるか分からないという不安の中にありました。南王国も、そのアッシリアの属国として重税など大きな負担を払わなければなりませんでした。そのような大変苦しい現実を生きていたイスラエルの民に、預言者イザヤは「ひとりの男の赤ちゃんが生まれる」と告げたのです。その生まれてくる男の子は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名前で呼ばれる、と言われたのです。神様から特別な力を与えられている男の子は、神様の導きによってご自分の計画を成し遂げ、地上で神様のみ旨を行い、イスラエルを永遠に支配し、平和を実現する方です。「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない」とも言われています。生まれてくる男の子は、王となってイスラエル王国をもう一度強くしてくれると期待されていました。ところが、北の王国だけでなく南の王国も紀元前587年には滅ぼされてしまいます。でも、国が滅んでしまったイスラエルの民は、このイザヤの預言がいつか来てくださる救い主・メシアのことを告げていると信じて期待するようになりました。

 

このイザヤ書では、真の希望とは何か。それは神様が預言者イザヤを通して、大国アッシリヤの勢力の圧迫下に心を惑わし、悩み苦しむご自身の民イスラエルと、イスラエルの王アハズと、後に続くすべての者に対して神様の啓示として、素晴らしい光である救い主・メシヤが来られることを「永遠の希望」として告げているのでした。歴史を造られ支配される神様の預言であれば、数年後の未来に実現することも、何百年もの幾世紀も先に実現することも同じであり、その神様の代弁者・預言者であるイザヤはただ示されるままに神様の啓示の伝達者としての役割を果したのでした。

ユダヤの民にとって大変暗い状況の中で、神の恵みの光が、民を救うために救い主・メシアとして、この世に来られることを、美しい詩を用いた文章の形でイザヤは預言しているのです。

神様が心を痛められたのは、神の民であるイスラエルが高慢になって、自分たちの力を信じて、神様に信頼することがなくなることでした。イザヤは、イスラエルが圧倒的に強力なアッシリヤの軍事力に圧迫されても、自分たちは自分たちの力で立ち上がり、守り抜けるのだ、とイスラエルが高ぶることをまず指摘したのです。このすぐ後の9節に「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き 桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」とあるように、れんがが駄目になったらもっと高価な切り石で、桑の木が駄目になったらもっと高価な杉の木で、という具合に自分たちは向上するのだと豪語し、北イスラエルは高慢になっていると厳しく責められます。万能なる神様はイスラエルの周囲の異邦の国々を用いて、そのような高慢で、神様を信頼しあがめることをしないご自身の民を打たれるのだ、とイザヤは告げるのです。神様は、それでもなお謙虚にへりくだらない高慢なイスラエルの民に対して厳しく迫られますが、民は神様の警告に耳を貸しません。そのような彼らをさばくために、この後更に、神様は指導者たちに混乱をもたらされますが、それでもなお謙虚にならないイスラエルの民に対する神様の審判は激しく広がるのです。

6節には「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と言われています。国家の滅亡を経験したイスラエルの民は、イザヤが、来るべき救い主の王なるメシアについて預言していることを信じるようになりました。

救い主・メシアが到来すれば、闇の中を歩んでいるイスラエルの民に光が差し込みます。1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言われているようになります。死を身近に感じて生きていたイスラエルの人々は、まさに「闇の中」を歩んでいました。イザヤは、そのような人たちが「大いなる光」を見るときが来る、彼らの上に「光が輝く」ときが来る、と告げたのです。

 

2節では、そのとき神様が「深い喜び」と「大きな楽しみ」を与えてくださり、人々が、収穫と戦利品の分配を祝うように、神様の前に喜び祝うことが語られています。現代を生きる私たちにとって、収穫の喜びはあまり実感のないものになっています。豊かな時代になったからだけでなく、収穫を目の当たりにし、その喜びを経験することがなくなったからかもしれません。しかし、当時の収穫は、窮乏の終わりを意味しました。もはや飢えに苦しむことも怯えることもないのです。

3節には「奴隷の軛が壊され」ること、4節には「戦いの武器が取り除かれ」ることが告げられています。奴隷の軛は、アッシリアが属国としたイスラエルの民に与えた課税などの大きな負担を示しています。また「地を踏み鳴らした兵士の靴」や「血にまみれた軍服」は、イスラエルの地で行われた戦争の現実を突きつけています。メシアの到来によって、そのような支配と戦争から解放されることが告げられているのです。

イスラエルの民はイザヤの預言が実現するのをずっと待っていました。それはいつ実現したのでしょうか。イエス様がこの世界に来てくださった時です。イエス様がこの世界に来てくださり、十字架で死んで復活してくださったことによって救いが実現しました。イエス様こそが、イザヤが預言した救い主・メシアなのです。

私たちもまた、自分が闇の中を歩んでいるように、死の陰の地に住んでいるように感じることがあります。また、この世界は戦争などの闇の中にある国や地域も多くあります。貧困、戦争、差別は、過去のことではなく、現在のこの世界を覆っています。

また、世界が闇に覆われているだけではありません。何よりも私たち白身が闇を抱えています。自分自身の力では取り除くことができない闇です。私たちは自分の闇に自分の力で光を灯すことはできません。イエス様は、そのような私たちの闇の中へ来てくださいます。罪に支配された世界へと来てくださったのです。そしてイエス様の十字架の死と復活によって、イザヤの預言が成就しました。イエス様こそイザヤが預言した救い主・メシアです。イエス様によって神様と私たちの間に平和が打ち立てられました。神の国が到来し、神様の恵みの支配が始まったのです。

 

ところで、最初に、イエス様の到来を待ち望むのがアドヴェントであると申しました。しかしよく考えてみると、イエス様は、2000年前にすでにお生まれになっています。ですから、私たちはイエス様のお誕生を待ち望む必要はありません。私たちが待ち望むのは、イエス様が再び来てくださること「再臨」です。預言者イザヤがメシアの到来を預言してからイエス様がお生まれになるまで700年が過ぎました。私たちが生きている間にイエス様の再臨が実現するかは分かりません。けれども私たちは、イスラエルの民が、メシアが救いに来られるのを待ち望み続けたように、クリスマスにお生まれになり、十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださったイエス様が、再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望みつつ、自分に与えられた地上の人生を歩んでいくのです。この人生の歩みにこそ私たちの希望があることを共に分かち合いつつ、アドヴェントを過ごしていきたいと願います。

お祈りを致しましょう。

祝福の下に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌115番
讃美歌280番
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:箴言 30章18-19節 (旧約聖書1,031ページ)

30:18 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。
30:19 天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。

新約聖書:マルコによる福音書 10章1-12節 (新約聖書80ページ)

10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

《説教》『祝福の下に』

主イエスは、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。「ユダヤ地方」とは、エルサレムを中心とする地域です。また「ヨルダン川の向こう側」というのはペレアと呼ばれている地域のことです。

ペレアのことが、ここに出てくるのは何故でしょうか。当時ペレアは、ガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンティパスが支配していました。エルサレムを中心とするユダヤは、ローマ帝国が直接治めており、その総督がポンティオ・ピラトだったわけですが、ガリラヤとペレアは、ローマの監督の下で、ヘロデが治めていたのです。このペレアで、ヘロデの支配下で、この問答が行われたことに大きな意味があるのです。というのは、本日の主題は、2節に「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いが記されているように、離婚、離縁のことなのですが、この問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。その事情はこのマルコ福音書第6章14節以下に語られていました。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。彼は「兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。そのために彼はヘロデに捕えられ、ついには首を切られてしまいました。ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が主イエスのもとに来て、「イエスを試そうとして」、この質問をしました。それは、単に主イエスの律法についての知識を試そうとしたということではなくて、ヘロデの支配下で敢えてこのことを問うことによって、主イエスを危機に陥れようとしているのです。主イエスがもしも、妻を離縁することはいけない、と答えるなら、洗礼者ヨハネと同じ運命をたどることになります。逆に、場合によっては離縁してもよいのだ、と答えるなら、主イエスは洗礼者ヨハネとは違って身を守るために律法を守らず、ヘロデを批判することを避けた、ということになります。主イエスを陥れ、返答次第では殺してしまうことができると思ったのです。

主イエスは5節で、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。旧約聖書には確かに離縁についての教えがあります。申命記24章1節には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあります。これがファリサイ派の人々が考えていた答えでした。確かに、ここには離婚の許可が記されています。そして、これを根拠にして、ユダヤ人社会では離婚が認められていました。

離婚が絶対的に禁じられているのではありませんでしたが、それは、人間の心が頑固だから、神様に背き逆らう罪に捕えられているからだと言われているのです。向かい合って共に生きていく努力を誠実にしていっても、それぞれが持っている頑固さ、罪や弱さのゆえに、どうしても共に生きることができなくなることもあります。互いに反目し合いながら形だけ夫婦であるという状態によって、お互いの罪がますます大きくなり、傷つけ合うことがエスカレートしてしまうということも起るでしょう。そのような場合に、より大きな罪や不幸を避けるために、離婚という選択肢もある、離婚した方がよいという場合もある、それが私たちプロテスタント教会の聖書の読み方です。ですからそれは、離婚が許されているか否かというような単純な、表面的な問題ではないのです。

ここで、ファリサイ派の人々が敢えてこの問題を主イエスへの「試み」として用いたという背景には、当時、この御言葉の解釈を巡って二つの立場があったからです。申命記の離婚理由には「恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき」と記されています。そこで、「恥ずべきこととは何か」ということを明らかにする必要が生じました。

当時のユダヤ教の律法学者には二つの学派がありました。シャンマイ派とヒルレル派です。「恥ずべきこと」の定義に関し、シャンマイ派は、「夫婦間の恥ずべきこととは姦淫の問題である」として、「恥ずべきこと」を「不品行」に限定しました。「性的関係の乱れが生じた場合、離婚は許される」としたのです。ただし、「恥ずべきこと」が、申命記では「妻に」と限定されているため、離婚の条件である「不品行」も「妻にのみ適用される」という不公平がありました。

一方、ヒルレル派は、「恥ずべきこと」の内容を、「妻として恥ずべきことの全て」と極めて広範に考えました。その結果、料理、容貌、態度などの全てが、「恥ずべきこと」として定義されたのです。やがて、「恥ずべきこと」よりも、それに続く「気に入らなくなったとき」という言葉のほうに重点が移り、有名なラビ・アキバという学者は「自分の妻よりも美しい女がいた場合にも適用される」とまで言ったと伝えられています。実に勝手なことだと笑われるかもしれませんが、人間とは、本来、勝手な者なのです。男と女は対等ではないと人格的に差別されていた社会で、この二つの立場のうち、どちらの解釈を人々が喜んだかは言うまでもないでしょう。そして人々は、自分たちに都合のよい解釈をしてくれるものに従いました。

今、主イエスに質問をしたファリサイ派の人々は、拡大的解釈を採ったヒルレル派であると思われます。大衆の人気を背景にして主イエスに挑戦して来たのです。しかしながら、このような大衆の人気、支持を得たという背後に、大きな危機があることに気づかないのが、何時の時代にもいる社会に迎合する(ポピュリズム)世俗的宗教者の惨めさです。そこでは、律法を神の御言葉として成り立たせている信仰の本質が見失われているのです。信仰とは神への服従です。御言葉への忠誠です。御言葉への服従と忠誠とは、御言葉が表す御心への臣従に他なりません。

律法を、神の御心の本質から、人間の都合に合わせて解釈し利用する人間の醜さがここにあります。その姿は、かつてのユダヤ人だけではないところに、この問題の根深さがあります。人間の要求、社会の要望に対し、「開かれた教会」などという美名を用いて、聖書の御言葉を自分たちの利益のために利用しようとする思惑は、どの時代にも決してなくならないのです。何よりも心すべきことは、御言葉に接する時、常に「神の御前に立つ畏れを持ち、御心を窺わなければならない」ということです。

5節で主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と言われました。ファリサイ派の人々は、主イエスが律法を否定することを期待していたのですが、主イエスは、御自身こそ律法の真の意味を明らかにする者であることを、ここに示されたのです。律法とは、罪の下にある人間の生き方を導くものであり、律法は、決して永遠・絶対的なものではなく、使徒パウロの表現によれば律法は、「人を福音に導く養育係」に過ぎません。

律法は、主イエス・キリストによって救いの御業が完成される時まで、罪の中にある人間を守り導くものです。言わば、不完全な人間に「それ以上の過ちを犯させないための保護措置」と言えるでしょう。それ故に、主イエスは、申命記の離婚規定について、「あなたたちの心が頑固なので、モーセはこのような掟を書いたのだ」と言われたのです。ここで「頑固」と訳されているギリシャ語の「sklhrokardi,an:スケーロカルディアン」とは、決して「頑固」という人間の性格を表す言葉ではありません。これは「干からびた心」という意味であり、「愛が消えうせて、干からびてしまった状態の心」のことです。文語訳は「汝らの心、無情により」と訳しています。名訳です。

愛が消え失せて干からびてしまった心。それは、もはや神が喜ばれる心でないのは当然でしょう。それ故に、モーセの規定は、むしろ、瑞々しい愛を失った人間に対する「告発と裁き」であったと考えるべきでしょう。いたわりを忘れ、互いに傷つけ合う「あなたがたの心の何処に愛があるのか」ということです。

ですから、申命記24章の規定は、「離縁状があれば離婚してもよい」ということに目的があったのではなく、当時の社会においてモーセの本心は「勝手に離婚することは許されない」と、女性を守ることに目的があったことも明らかです。

聖書が教える創造の信仰によれば、結婚とは、神によって造られ、選び出された「差し向かいとなる人」との巡り合いであり、差し向かいになり、互いに心と心とが響きあう相手との結合なのです。

私たちは、今日のファリサイ派の人々やその時代の人々のように、離婚を自分勝手なものと考えていないとしても、現在の自分の結婚生活が、この「神の摂理」に基づいているか否かを問われているのです。それ故に、本日の問題は、「離婚、是か非か」ということではなく、「あなたは今の生活は神の御心に適うものか」という、主イエスからの問いとして受け止めなければなりません。

「死後もなお夫婦であり続けるか否か」といった神学問題は別にしても、死を越え、死の先でも「夫婦一体でありたい」と願う時、単なる人間的感情を越えた「キリスト者としての家庭」こそが信仰の原点であることを忘れてはなりません。

この離婚についての主イエスの教え、いやむしろ結婚、夫婦とは何かという教えが、主イエスのエルサレムへの歩み、十字架の苦しみと死とに向けての歩みが始められる場面にあることに注意しなければなりません。

夫婦が互いに向かい合い、共に生きていく間には、人間の頑固さ、罪や弱さのゆえに様々な問題が生じ、傷つけ合うことが起きます。夫婦が共に生きることも、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。主イエスによる罪の赦しがなければ、夫婦の関係も、助け合うよりもむしろ傷つけ合うことが多いものとなってしまうでしょう。

主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、お互いに向かい合い、赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そしてそれは夫婦の関係においてのみでなく、私たちの人間関係の全てに通じることです。頑固さに捕えられており、罪と弱さを負って生きている私たちは、主イエス・キリストの十字架による赦しの中にあって、隣人としっかりと向かい合い、良い関係を築いていけるのです。

今から始まる新しい日々を、この信仰の自覚から始めようではありませんか。

お祈りを致しましょう。

潔められた者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌239番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 2章13節 (旧約聖書857ページ)

  • 2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マルコによる福音書 9章38-50節 (新約聖書80ページ)

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

《説教》『潔められた者』

本日朗読されたマルコによる福音書9章38節から50節は、主によって語られた短い御言葉を集めたものと思われます。マタイ福音書における山上の説教と同じように、マルコ福音書では代表的な箇所ですが、このような教えを読む時も、これまで述べて来た「聖書を読む基本」から外れてはなりません。「一日一言」というような処世訓や格言集などと混同してはならないということです。ここで語られていることは、「神の御業であり福音である」ということを信仰の目を通して認識しなければなりません。

今日の38節で、弟子のヨハネが主イエスに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったとあります。

ペトロを初めとする十二人の弟子たちが主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスがまだ生きて宣教をされていたこの時代、既に、主イエスや弟子たちと別行動を取る者も居たようです。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後、主イエスの弟子たちとは別に、独自に神の国を宣べ伝えていたということはよく知られていますし、さらにまた、数々の人々が福音に関わるような行動をしていたようです。

主イエスは、ガリラヤのいたるところで福音を伝え、神の御心を語りました。多くの人々が主イエスの後を追いかけ、何度も何度も説教を聞いたことでしょう。当然、その中には、ペトロを初めとする十二弟子以上に理解力に優れた者もいた筈です。主イエスから聞いたことを、他の人々に語った人もいたでしょう。そして、驚くべきことには、主イエスの御言葉を伝える時、主イエスと同じような「力ある業が為されることもあった」というのです。

ここで、ヨハネが指摘し、非難している者たちが、主イエスの真似をしていた偽メシアであったと考える必要はありません。後に使徒言行録に現れる魔術師シモンは、奇跡を行う力を金で買おうとして失敗しましたが(使徒言行録8章9節以下)、ここに現れた人はそのような者ではなく、もっと素直に福音を宣べ伝えていたと思われます。

ヨハネの言った「お名前を使って」とは「名前を騙る」という悪い意味で読まれるかもしれませんが、そうではありません。古代の魔術師たちは秘密の神の名を呼ぶことによって、その神の力を利用すると考えられていました。魔術師の呪文とは「秘密の神名」のことです。ですから、「名前を使った」とは「権威によって」という意味であり、現実に行われた「悪霊の追放」が、主イエスの権威を背後に持っていることを証明しているとも言えます。

このヨハネの言葉、ギリシャ語の「エン トー オノマティ ソー」を訳すと、正しくは「あなたの名によって」であり、「利用して」ではなく、「あなたの権威によって」の意味であり、「イエス・キリストへの信仰によって」と言い換えることも出来ます。「やめさせてはならない」という主イエスの容認の言葉は、この権威を意識されているとも言えましょう。

ここで私たちは、「キリストを信じる者は、語る言葉そのものが権威を持つ」ということを教えられるのです。それこそが「信仰の力」なのです。ヨハネはその信仰の奥義を理解していなかったのです。

主イエスは、その「信仰の力」を教えられているのです。むしろ、主イエスの御心は、福音が弟子たちだけのものではなく、この後、福音が世界の至るところに広がって行くことを望んでおられるのです。マタイ福音書最後の28章の大宣教命令が、このことを明白に裏付けています。

そしてさらにそれだけではなく、主イエスの「やめさせてはならない」と言われた積極的な承認の背景には、人々に対する信頼がありました。まず知らされることは、キリスト者は「主の信頼を受けて生きている」ということです。

それが39節の主イエスが言われた「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」との、ヨハネに対する言葉ではないでしょうか。

ナザレのイエスを救い主キリストと告白する者、その告白の言葉によって神の栄光を明らかに示した者は、決して裏切ることはないということを、主イエスご自身が語られているのです。何と素晴しい宣言でしょう。

多くの聖書注解者たちは、ここで「主イエスは寛容を教えられた」と言いますが、これは「寛容」などという生易しいものではありません。十字架を意識した主イエスが、御自分の死後を託す人々への信頼を語っているのです。私たちは、このキリストの信頼に包まれていることを強く意識すべきです。

続いて主イエスはヨハネに「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と、ここで「ひとりの人」を大切にすることを教えておられます。それは、単なるヒューマニズムにとどまるものではありません。重要な言葉がここにあります。それは41節の「キリストの弟子」という言葉と42節の「わたしを信じる者」という言葉です。弟子たちに、キリスト者として行うこと、キリスト者として受けること、すべてがキリストの愛の中を生きることだと教えておられるのです。ひとりの信仰者を愛することは、主イエス・キリストを愛することです。ひとりの信仰者を傷つけることは、主イエス・キリストを傷つけることです。人類という同じ種類の生物として、人間愛、ヒューマニズムをもって受け容れることではなく、「キリストを愛すること」が行いの基本なのです。御子キリストがその人のために生命を捨てられたことを知るならば、その人の生命が、キリストにとって「かけがえのないものである」ことを知るのです。

私たちの社会でも、恩義を知る者は、受けた恩に報いるために「恩人の愚かな息子をも見捨てない」ということがあります。私たちは、私たちのために十字架につかれたキリストの愛を知らされているのです。その愛の大きさを知るが故に、キリストが愛された人々を、キリストへの信仰の表れとして愛するのです。言わば、主イエス・キリストが「全ての人々の後見人である」とも言えるでしょう。そして私たちは、このように、隣人を愛するだけではなく、この大きな愛に「自分も守られている」ということを教えられるのです。

42節以下には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるならば、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と極めて長く厳しい言葉が連ねられています。

「片手」「片足」「片目」、全ては自分の大切なものの象徴であり、捨てるに捨てられないものです。ここに記されていることは、古代オリエントで広く知られていた「目には目を歯には歯を」という『同害報復法』で知られていますが、「片手」「片足」「片目」を失うことは、大切なものを代償とするという原理であり、現代のイスラム社会でも身近なたとえです。

しかし、主イエスは、「自分にとって大切なものであっても切り捨てよ」と言われていますが、この御言葉の中心は、勿論、「切り捨てること」にあるのではなく、「生命に入れ」「神の国に入れ」と言うことです。むしろ、「失うべからざる大切なもの」という意味でとらえておくべきでしょう。私たちにとって、片手、片足、片眼を失うことには耐え難いことであり、如何に罪を犯したといっても、それを切り取ることはしません。

しかし、御子キリストは、私たちのために生命を捨てられたのです。十字架の上で殺されました。私たちの魂を救うために、「何を犠牲にしても悔いはない」というキリストの御心を、この厳しい言葉から読み取ることが出来るでしょうか。私たちは、この御心に包まれているのです。

本日の結論とも言える言葉が49節から「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。

さっと読むと、何となく良く分かったと思える言葉ですが、「火で塩味を付けられる」とは何でしょうか。

かつて、旧約の時代、神殿で献げられる生贄の動物は、塩をかけて潔めてから献げられました。それを「契約の塩」と言います。本日の旧約聖書レビ記2章13節がそれにあたります。祭壇に供えられる動物は、塩の潔めによって、「聖なるもの」として神に献げるに相応しいものになると考えられていました。塩は、「潔めの塩」の意味を持ちます。また、「火」も、穢れを消滅させる「潔めの火」として尊ばれていました。

ですから、「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、「神の潔めを受けている」ということなのです。私たちは皆、「イエス・キリストの贖いによって潔められた者」として、自分を神の御前に差し出しているということです。

本来、私たちの誰が、自分を「神の御前に差し出すのに相応しい」と思っていたでしょう。むしろ、恥ずかしくて、アダムやエバのように、木の陰に隠れたいところです。しかし主イエスは、もはやそんな心配が不要なことを宣言しておられるのです。

何故なら、私たちは、「契約の塩、潔めの火としてのキリストの血」によって潔められたからであり、キリストの贖いの御業によって、私たちの弱さ・愚かさに拘わらず、「聖なるもの」に造り変えられたからなのです。

私たち相互の交わりにおける平安は、この神に受け容れられたことから生じます。私たちは、もはや「神の国から弾き出される」ような者ではありません。人生の一番大切なときに、「お前には用がない」と言って締め出される者でもありません。父なる神が受け容れてくださる保証を、御子キリストが与えてくださったのです。この「神の受け容れ」を主は「平和」と表現しています。聖書は、ここをヘブル語で「シャーローム」と記しています。

「シャーローム」とは、政治的概念としての「戦いのない状態・平和」ではなく、「和合」「充満」を意味し、「欠けるところのない満たされた平安」を表す言葉です。このような状態は、神によって与えられるものでしかなく、神と共に生きる世界にのみ存在するものと言えるでしょう。神によって受け容れられた姿、それを真実の平安と言うのです。

キリストを信じる小さな者をつまづかせる者になるのではなく、自分自身の内に潔めの塩をもって、自分の家族を始め、一人でも多くの方々と共にキリストの十字架に救われ、互いに平和に過ごしたいものです。

お祈りを致します。