イエス様が生れる約束

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌142番
讃美歌320番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-6節 (旧約聖書1,073ページ)

8:23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

《説教》『イエス様が生れる約束』

今日から教会は、イエス様がお生まれになったクリスマスを待ち望むアドベント、漢字で降るのを待つと書く「待降節」を迎えます。私たちが待ち望むクリスマス、イエス様が2000年前に、お生まれになったことは誰でも知っています。

そのイエス様がお生まれになった更にずっと昔に、そのイエス様がお生まれになることが旧約聖書に書かれているのです。今日の旧約聖書イザヤ書9章1~6節は、同じイザヤ書11章1~5節と共に「メシア預言」と呼ばれ、ダビデの家系に王様が誕生し、イスラエルの民を救うことを預言していました。

5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱(とな)えられる」とあります。誕生する子供が王様となって、神様に導かれてイスラエルの民を救う計画を成し遂げ、その支配は、神様の代わりとして、公平さをもって永遠に治め、平和を実現すると書かれているのです。

このイザヤ書を残したイザヤは、イエス様がお生まれになる700年ほど昔にイスラエルで活躍した預言者です。このイザヤの時代のイスラエルの民は、とっても苦しくてつらい日々を過ごしていました。ダビデ王がイスラエル王国の王様のときには繁栄していたイスラエルも、北と南に分裂してしまい、そして、ついにシリア・エフライム戦争が起こってしまい北イスラエル王国はアッシリアに攻められ、紀元前722年に首都のサマリアが陥落し滅びてしまいます。何とか耐え忍んだ南王国も、再びアッシリアなど強い国がいつ攻め込んでくるか分からないという不安の中にありました。南王国も、そのアッシリアの属国として重税など大きな負担を払わなければなりませんでした。そのような大変苦しい現実を生きていたイスラエルの民に、預言者イザヤは「ひとりの男の赤ちゃんが生まれる」と告げたのです。その生まれてくる男の子は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名前で呼ばれる、と言われたのです。神様から特別な力を与えられている男の子は、神様の導きによってご自分の計画を成し遂げ、地上で神様のみ旨を行い、イスラエルを永遠に支配し、平和を実現する方です。「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない」とも言われています。生まれてくる男の子は、王となってイスラエル王国をもう一度強くしてくれると期待されていました。ところが、北の王国だけでなく南の王国も紀元前587年には滅ぼされてしまいます。でも、国が滅んでしまったイスラエルの民は、このイザヤの預言がいつか来てくださる救い主・メシアのことを告げていると信じて期待するようになりました。

 

このイザヤ書では、真の希望とは何か。それは神様が預言者イザヤを通して、大国アッシリヤの勢力の圧迫下に心を惑わし、悩み苦しむご自身の民イスラエルと、イスラエルの王アハズと、後に続くすべての者に対して神様の啓示として、素晴らしい光である救い主・メシヤが来られることを「永遠の希望」として告げているのでした。歴史を造られ支配される神様の預言であれば、数年後の未来に実現することも、何百年もの幾世紀も先に実現することも同じであり、その神様の代弁者・預言者であるイザヤはただ示されるままに神様の啓示の伝達者としての役割を果したのでした。

ユダヤの民にとって大変暗い状況の中で、神の恵みの光が、民を救うために救い主・メシアとして、この世に来られることを、美しい詩を用いた文章の形でイザヤは預言しているのです。

神様が心を痛められたのは、神の民であるイスラエルが高慢になって、自分たちの力を信じて、神様に信頼することがなくなることでした。イザヤは、イスラエルが圧倒的に強力なアッシリヤの軍事力に圧迫されても、自分たちは自分たちの力で立ち上がり、守り抜けるのだ、とイスラエルが高ぶることをまず指摘したのです。このすぐ後の9節に「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き 桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」とあるように、れんがが駄目になったらもっと高価な切り石で、桑の木が駄目になったらもっと高価な杉の木で、という具合に自分たちは向上するのだと豪語し、北イスラエルは高慢になっていると厳しく責められます。万能なる神様はイスラエルの周囲の異邦の国々を用いて、そのような高慢で、神様を信頼しあがめることをしないご自身の民を打たれるのだ、とイザヤは告げるのです。神様は、それでもなお謙虚にへりくだらない高慢なイスラエルの民に対して厳しく迫られますが、民は神様の警告に耳を貸しません。そのような彼らをさばくために、この後更に、神様は指導者たちに混乱をもたらされますが、それでもなお謙虚にならないイスラエルの民に対する神様の審判は激しく広がるのです。

6節には「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と言われています。国家の滅亡を経験したイスラエルの民は、イザヤが、来るべき救い主の王なるメシアについて預言していることを信じるようになりました。

救い主・メシアが到来すれば、闇の中を歩んでいるイスラエルの民に光が差し込みます。1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言われているようになります。死を身近に感じて生きていたイスラエルの人々は、まさに「闇の中」を歩んでいました。イザヤは、そのような人たちが「大いなる光」を見るときが来る、彼らの上に「光が輝く」ときが来る、と告げたのです。

 

2節では、そのとき神様が「深い喜び」と「大きな楽しみ」を与えてくださり、人々が、収穫と戦利品の分配を祝うように、神様の前に喜び祝うことが語られています。現代を生きる私たちにとって、収穫の喜びはあまり実感のないものになっています。豊かな時代になったからだけでなく、収穫を目の当たりにし、その喜びを経験することがなくなったからかもしれません。しかし、当時の収穫は、窮乏の終わりを意味しました。もはや飢えに苦しむことも怯えることもないのです。

3節には「奴隷の軛が壊され」ること、4節には「戦いの武器が取り除かれ」ることが告げられています。奴隷の軛は、アッシリアが属国としたイスラエルの民に与えた課税などの大きな負担を示しています。また「地を踏み鳴らした兵士の靴」や「血にまみれた軍服」は、イスラエルの地で行われた戦争の現実を突きつけています。メシアの到来によって、そのような支配と戦争から解放されることが告げられているのです。

イスラエルの民はイザヤの預言が実現するのをずっと待っていました。それはいつ実現したのでしょうか。イエス様がこの世界に来てくださった時です。イエス様がこの世界に来てくださり、十字架で死んで復活してくださったことによって救いが実現しました。イエス様こそが、イザヤが預言した救い主・メシアなのです。

私たちもまた、自分が闇の中を歩んでいるように、死の陰の地に住んでいるように感じることがあります。また、この世界は戦争などの闇の中にある国や地域も多くあります。貧困、戦争、差別は、過去のことではなく、現在のこの世界を覆っています。

また、世界が闇に覆われているだけではありません。何よりも私たち白身が闇を抱えています。自分自身の力では取り除くことができない闇です。私たちは自分の闇に自分の力で光を灯すことはできません。イエス様は、そのような私たちの闇の中へ来てくださいます。罪に支配された世界へと来てくださったのです。そしてイエス様の十字架の死と復活によって、イザヤの預言が成就しました。イエス様こそイザヤが預言した救い主・メシアです。イエス様によって神様と私たちの間に平和が打ち立てられました。神の国が到来し、神様の恵みの支配が始まったのです。

 

ところで、最初に、イエス様の到来を待ち望むのがアドヴェントであると申しました。しかしよく考えてみると、イエス様は、2000年前にすでにお生まれになっています。ですから、私たちはイエス様のお誕生を待ち望む必要はありません。私たちが待ち望むのは、イエス様が再び来てくださること「再臨」です。預言者イザヤがメシアの到来を預言してからイエス様がお生まれになるまで700年が過ぎました。私たちが生きている間にイエス様の再臨が実現するかは分かりません。けれども私たちは、イスラエルの民が、メシアが救いに来られるのを待ち望み続けたように、クリスマスにお生まれになり、十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださったイエス様が、再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望みつつ、自分に与えられた地上の人生を歩んでいくのです。この人生の歩みにこそ私たちの希望があることを共に分かち合いつつ、アドヴェントを過ごしていきたいと願います。

お祈りを致しましょう。