キリストは謙(へりくだ)って人となられた

聖書:イザヤ45章22-24節, フィリピの信徒への手紙2章6-11節

 今年もクリスマスを待ち望む待降節が始まりました。「神はその独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」これはヨハネ福音書3章16節の御言葉です。神の愛は、イエス・キリストにおいて世に表されました。神はキリストを世にお遣わしになり、神の御心を私たちにお知らせくださいました。そこでようやく私たちは自分の罪について考えることができるようになりました。すなわち、私たちは神に祝福されて神の形に造られたのに、神を求めることなく、神を離れ、神に背いて生きていたことに気付かされるのです。イエス・キリストはこのような人間、すべての罪人のために神の御前に身代わりとなって犠牲を捧げ、私たちの罪の執り成しをするために、地上に来てくださいました。

キリストは人間となられたので、私たちの目には人間としてしか見えなかったと思います。クリスマスの物語によれば、イエスさまの両親となるヨセフもマリアも平凡な貧しい人々で、生まれた赤ちゃんのイエスさまも、本当に貧しく無力な幼子にしか見えなかったことでしょう。それでは、人の目には人間としてしか見えないイエスさまは、本当にただ人間に過ぎなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。今日読まれたフィリピの信徒への手紙は、キリストが天から降って人となられたことを証ししています。この手紙を書いた使徒パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、謙遜を身をもって実践するように勧めました。今日の少し前、2章3節、4節を読みます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

そしてこのような謙遜の例の最も優れたものとして、パウロはキリストの証しを指し示すのです。「キリストは、神の身分(形=フォーム)でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」神の身分というのは、神の形という意味です。神の尊厳をもっておられるということです。キリストは本来、神の身分、神の形であられました。イザヤ書45章で、主なる神は次のように断言しておられます。今日読んでいただいた45章22節。「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」ですから、神以外のだれも神の身分であるはずがないので、キリストは本来神と等しい方であります。そうでなければ、神から身分を奪い取ったことになってしまうからです。

本来神の身分であられたキリストは、その輝きをもって、地上に来てくださっても当然なのであります。私たちは神の形を表すもの、というのは何かが分らなくても、例えば、王の身分を表すものは何か、ということはよく分かるでしょう。王を表す形は、王冠とか、笏とか、また王の座る玉座であり、それによって、その人が王であることが分かるのであります。しかし、キリストはその身分、形や尊厳を捨てて、世に来てくださいました。「捨てて」というのは違うかもしれません。とにかく肉の姿を取られたとき、神の形の尊厳はその人間の姿のうちに隠されたのです。ですから人の目には普通の人と変るところは見えませんでした。

では、イエス・キリストはなぜそのようになさったのでしょうか。そこに神の愛が表さています。キリストが自分を無にされたのは、一重に人間の救いのためであったのです。キリストは外見では神と等しいものとしての形を現さず、また、人々の前では目に見えて現れるべき神の形があからさまには見えなかったのですが、それでも、神はわたしたちにご自分をお示しになりました。なぜなら、神のご性質は何よりもその恵み深さにおいて知られるからです。キリストは貧しい世にあって、貧しい人々に福音をお語りになり、恵みの言葉と共に、人の知恵と力では助けることのできない病気を癒し、悪霊の力から人々を自由にして下さいました。このようにご自分の本来持っておられる輝かしいお姿を捨て、御自分を無に等しい者にして世に来てくださったからこそ、私たちの空しい人生に光が輝いたのです。神に従う者、神の僕としていらしてくださった、その目的は、人間の救いのために仕える僕となることでした。

神と人に仕える僕となられたキリストは、世に降って来られたこと自体、すでに大きな謙遜を示されました。しかしそればかりではありません。キリストは本来、神と等しいもの、不滅のご存在であったのです。そればかりでなく、神と等しいからには命をも、死をも御支配なさる主でもあられるのです。それなのに、キリストは十字架の死を耐え忍ぶまで、従順でした。そこまで、父なる神に従順の限りを尽くされました。キリストはいわば極限の無となられたのです。このようにキリストは死んで、人間の目から見て屈辱であったばかりでなく、神の呪いとなられました。これは確かに私たちの想像を絶する謙遜の手本であります。

私の記憶では半世紀も前の時代までは、謙遜とか、謙譲とかいうことが高い徳目の一つとされていたと思います。その証拠には、男の人の名前にも謙さんとか譲さんという名前の人がよくいました。しかし、人間社会全体で考えるならば、へりくだる、自分を低くする、ということが勧められているにも拘わらず、人々は人より低くされることを嫌うのが常であります。絶えず人と見比べ、自分の方が本当は上だと思う。そして、人前で自分を人よりも大きく優れたもののように見せることに心血を注ぐようなことが起こっているのであります。

しかし、聖書はここに証ししています。人間の心が非常に嫌う無や謙遜は、キリストに在っては、極めて望ましいことであることを。なぜなら、キリストは非常に卑しむべき状態から、最高の高さに引き上げられたからであります。2章9節。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」だれでもキリストの福音を聞き、キリストに従って自分を低くする者は、キリストと共に高められるのです。聖書はこのようにしてキリストの死の中に、神の純粋な恵みを見るようにと、私たちを招いておられます。キリストの死によって私たちがどのような利益を恵みとして受けたことかを知らせるのです。私たちの救いがたい現実に、キリストは御自分を忘れて私たちの救いのために御自分とその命を捧げてくださいました。その計り知れない愛を見上げましょう。その愛を味わい、愛について考え、知る者となりますように。

キリストは謙って人となられました。私たちはこれによって贖われ、神と和解し、神の形を回復していただき、不信仰の罪が清められ、神の永遠の命に至る門が開かれたのですから。神はキリストに「あらゆる名にまさる名を与えられた」と述べられています。名はその持ち主の尊厳を表します。キリストは地上のすべての人々の救いのために執り成す務めを果たされます。すなわち、私たちはイエス・キリストのお名前によって祈ることが許されるばかりでなく、求められているのです。神はこの名によって福音が宣べ伝えられ、真の礼拝が全世界にわたって捧げられることを求めておられます。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」また、今日読まれたイザヤ書45章にもこう告げられています。23-24節。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」これは公の礼拝での信仰の告白を表しています。真の神は御自身の名を決して他のものには与えられません。従って、この方から遣わされ、真の人となられたイエス・キリストも、真の神であられるのです。教会が受け継いで来た信仰は父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三つの名で呼ばれる一人なる神、三位一体の神に対する信仰です。

2017年は、1517年に開始されたルターの宗教改革に象徴される宗教改革運動から500周年ということを謳って多くの記念行事が超教派で行われて来ました。宗教と名を付けられたものについて一般的に寛容な社会が進んできたのですが、一方では、世界に非常に過激な宗教弾圧があります。その中で真の神を尋ね求める私たちは、真の救いが全世界の人々に告げ知らせられることを願うものです。神の御心を尋ね求め、その計り知れない愛を見い出す者は、数多くないというのは、イエス・キリストのお言葉であります(マタイ7:13-14)。そして、宗教改革者自身の言葉でもあります。私たちはクリスチャン人口が少ないことを嘆くことよりも、しなければならないことがあります。それは、まず自分が真心を込めてイエス・キリストによっていただいた福音を信じ、公に信仰を告白して、神の栄光を表す者とさせていただけるよう、自分のために、また教会に連なるすべての者のために祈ることではないでしょうか。

地上で教会につながっていることは、本当にありがたいことです。現実に主の助け、聖霊の導きを悟ること、感謝することができるのは、この現実に地上に建っている教会を通してであるからです。先日も他教会員の方と電話で話し合いました。最近、ガンの末期でホスピスで過ごされていた御夫君が地上の生涯を終えられたとのこと。介護の日々を主が守ってくださり、最期まで安らかであったことを伺い、主に感謝しました。いつも真の神を信頼し、この神のみに祈り、わき目もふらず一心に助けを求め、感謝と賛美を捧げることを忘れない。このことこそは、神の喜ばれることであり、神は御自分だけを見上げ、偶像のようなものを一切求めない人を、決してお見捨てにならないことを、互いに確認して私はその方と喜び合いました。

教会はこのような証しを受け、また他に与えて生きています。目に見えて礼拝を守る人々が多く集まることは、どの教会の願いでもありますが、一方、目に見えて教会に足を運ぶことのできない人々は日毎に多くなっております。その結果、私たちの目には隠されてしまうことが多くなるのですが、それは主の恵みから遠ざかることでは決してないのです。神はわたしたちの思いをはるかに超える方。思いをはるかに超えて、その愛をお示しになられる方であることをわたしたちは知らされています。

礼拝を守れる時には礼拝から離れてしまうことがある私たち。そして礼拝を守りたくても守れないことがある私たちです。主はこの両方をご存じです。そして今、一番弱さを感じている人々の叫びを聞いてくださっている。その時に真の神を、イエス・キリストの謙りに表された真の神を信じて、この方のみを真心から呼び求める人々に、神は応えてくださいます。しかし、だれがこの神を呼び求めるでしょう。若い時に、元気な時に、福音を聞いたからこそできるのです。この神の愛を知ることができたからこそ、神に心を向けることができるのです。使徒パウロが次のように述べるとおりです。ローマの信徒への手紙10章14節。(288)「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」だからこそ、この福音を誰もが聞くことができるために、教会を建てて参りましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

待降節の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美します。あなたは私たちの祈りを聞き給い、あなたに背いている生活を打ち破り、悔い改めの道を日々開いてくださいました。今日の御言葉を聴き、改めてあなたの御子イエス・キリストの御業を思い感謝をささげます。私たちは主の犠牲によって救われ、御前に立つ者とされました。どうか謙って主の心を心とし、主の愛と栄光を表す者になるように、私たちを作り変えてください。私たちの狭い心、低い望みを変えられて、あなたの愛を証しする者となりますように。

クリスマスに向かう今週の歩みを整え、備えさせてください。心からの感謝をささげることができるように。どうか主の愛がこの教会において証しされ、東日本の地域教会と共に主の体を形成するために心を一つにすることが出来ますように。また地方で孤立と困難のうちにある教会を特に覚えます。主の聖霊の助けが豊かにございますように。

私たちの教会のうちにある困難はもちろん、教会の家族、職場、学校の中にある様々な労苦を覚えます。この社会の隅々にまで、恵みの主の御支配を祈り願います。

今日の教会学校から今に至るまで、このように豊かな恵みを感謝いたします。成宗教会長老会、ナオミ会の働に祝福をお与えください。クリスマスの行事をはじめ、すべての教会の計画が、新しい時代の福音伝道に向けて整えられますように。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しい人に良い知らせを

聖書:イザヤ61章1-4節, ヘブライ人への手紙4章14-16節

 先週11月19日の主の日には、今村裕三先生ご夫妻がカンボジアから日本に一時帰国されている機会に、4年ぶりに成宗教会を訪れて下さり、礼拝説教と宣教報告会のご奉仕をいただきました。真に感謝でした。

この日、出席された方々はいろいろなことに心打たれたことと思いますが、私には、この教会の牧師として、責任者として特に印象に残ったことが一つあります。それは今村裕三先生が、説教の中で「日本の教会について心配していることは、今、伝道について内向きになって来ているように感じられること」と仰ったことです。このお言葉を聞いた直後は、私は「それは致し方ないことではないか。これだけ高齢化、少子化が進んでいる中で、私たちはそれぞれの教会がどうしたら次世代に教会を残していくことができるか、という問題に集中しない訳には行かないのだから」と感じていました。

しかし、今村先生は使徒言行録の中で福音がどのように伝えられて行ったか、を説き明かされました。新約聖書の時代にも国々がローマ帝国の支配を受け、平和な時には交易が進み、戦乱の時には国を越えて人々が移り住んでいくことが当然であったのでした。主イエスを迫害して十字架にかけた人々は、主のご復活後に生まれた教会をも迫害しました。教会の人々は故郷を追われ、散り散りになって行きましたが。教会は人々と共に消えてなくなってしまったのではありませんでした。それどころか、散って行った先々で福音を告げ知らせたというのです。真にありえない不思議です。さらに、主は最も強力な迫害者のサウロを取って、最も強力な福音伝道者、使徒パウロに生まれ変わらせました。このように真にありえない奇跡が起こったのです。

私たちが常々思うことは、明日をも知れない時代を生きているということです。ずーっとここに住んで、ずーっと同じように生きて行こうと思っても何の保証もない。それは昔も今も変わりなくそうなのです。しかし、それにも拘わらず、主イエス・キリストの福音は宣べ伝えられて来ました。なぜなら、それは聖霊の神の働きそのものだからです。今村先生ご夫妻が所属する宣教団体の母体はイギリスの宣教師ハドソン・テーラーという人によって設立されました。イエス・キリストの福音を地の果てまでも伝えよ、という宣教命令は19世紀にも、人々の心を神の愛で満たし、動かして、想像を絶する困難を乗り越えさせ、福音は中国をはじめとするアジア諸国に届けられたのです。

想像を絶する困難というのは、パウロも手紙に書いていることですが、嵐や戦乱、盗賊の危険に遭う旅行、病気、そして多くの迫害で、命を落とす人々が後を絶たないことでした。そういう日々の危険の中で、それでも人々は福音を伝えようとするなら、これは聖霊の働き以外の何ものでもありません。使徒パウロは、そのことを「神の愛が私たちを駆り立てている」(Ⅱコリント5章14節)と証ししています。なぜなら、私たちが生きていて様々な喜びがあるとしても、神の愛を知ることよりも大きな喜びはないからです。主イエスは聖書の中で私たちに放蕩息子の例え話を聞かせてくださいました。天の父は、私たちが神に背を向けた生活を悔い改めて、御自分のもとに立ち帰る時を今か、今かと待っておられる。父の愛する子として、神のかたちに造られたものとしての命を回復させるために待っていてくださることを教えられました。

それだけではありません。天の父は私たちの中のもう一つの息子にも限りない忍耐を示しておられます。それは自分では父の傍にいて正しく生きている親孝行息子と思い込んでいるけれども、実際は父の真実の心を知らないもう一人の親不孝な子であります。罪の生活から悔い改めて立ち帰る兄弟に怒りを持つ、あるいは妬みを持つからです。このことは、全く天の父を悲しませる以外の何ものでもありません。しかしこのようにして、わたしたちが神に背いているにもかかわらず、神はなお私たちを愛していてくださる。この天の父の御心こそが、神の愛なのです。

では、神の愛はどのようにして私たちに明らかになったのでしょうか。それは主イエス・キリストを私たちの世界にお遣わしになられたことによって明らかになりました。来週からクリスマスを迎える待降節が始まります。キリストは神の子でありながら、小さな幼子として世に来られ、私たちと同じ人間として地上の生涯を送られました。しかし、神はその愛を世に知らせるために、世に遣わされたキリストに、二つの務めをお与えになりました。その一つは、神の御心を教えることです。キリストは、私たちには見ることも聞くこともできない天の父の御心を教えるために、二千年前、私たちの世界に見える姿で現れ、私たちが聴くことのできる言葉で語ってくださいました。主は言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と(ヨハネ14:9)。また言われました。「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」と(ヨハネ14:11)。

そして、キリストが世に来られた第二の目的は、今日読んでいただいたヘブライ人への手紙の御言葉です。4章14節にこう書かれています。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」主イエスは、ここで大祭司と呼ばれています。祭司の務めは神と人との間に立って執り成す務めであります。

神はキリストに二つの務めを与え給うたと申しました。それは、すなわち教える務めと執り成す務めです。この二つの務めは、どちらも私たちを天の父に近づけるためなのです。つまり、キリストはまず私たちに救いの教えを与え、御自分に従って(信じて、信頼してということと同じです)来るように招いておられるのです。あなたがキリストに従う者となるならば、そのとき初めてキリストは祭司として執り成す者として、神とあなたの間に立ってくださるのですから。

神の御前に立つということを、わたしたちは、また世の人々はどれだけ考えることがあるでしょうか。神は全知全能の神として、私たちのすべてを知っておられる、ということを真面目に考えるならば、私たちの誰もが恐れずにはいられないでしょう。旧約聖書でも預言者イザヤは神の栄光を見た時、次のように告白しております。イザヤ6:5(1069下)「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇のもの。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」しかし、私たちのために神の御前に立って執り成しをしてくださる方がおられる。イエス・キリストがその方であります。大祭司としてのキリストの務めを信頼することほど、幸いなことはありません。

聖書には、イスラエルの民の中で祭司の務めを果たすレビ族のことが書かれています。彼らは私たちと同じ人間に過ぎませんが、しかしレビ族の中から人が立てられ、祭司の務めに当たります。祭司は人間として、神と人の間に立ち、人々のために神に祈りを捧げました。ですから祭司は人間であることが重要でありました。そのためにも、神は御子を人間として生まれさせ、キリストは私たちと同じ肉体の姿、人間の性質をお持ちになられたのです。それはすべて、私たちのために取り成しの務めを果たされるためなのです。

キリストはこのようにわたしたちと同じ体のご性質を持たれた真の人であります。しかし同時に神の子であられるということ。これは、人間として執り成してくださると同時に神の力を持って執り成してくださるということなのです。私たちはこのことを真剣に受け止めなければなりません。ただの人間の執り成しに過ぎないとするならば、その執り成しはどのような力があるでしょうか。しかし一方、神の御子が執り成してくださるならば、私たちの全存在の一切を引き受けて救うために、ただ一度だけ十字架にかかり、罪の犠牲としてその命を捧げてくださったということなのです。その働きは絶大なものです。

この事を信じるか、信じないか。この信仰が改めて問われているのです。信じて洗礼を受けた者たちは、すでに公に信仰を言い表しました。洗礼は、一度限りの主の十字架の死と復活に対する、私たち一人一人のただ一度限りの応答なのです。ですから、本日のヘブライ人の手紙は私たちに呼びかけます。既に公に信仰を表したのならば、その信仰をしっかり保とうではありませんか!と。神の愛が私たちに迫って来た。私たちはその愛に応えた。それならば、何よりも大切なのは、私たちが神の愛を確信して生きることです。

神の子イエスは世に来て大祭司となってくださいました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」神の栄光を表すキリストの御前に、私たちは恐れを抱くしかないものでありますが、真に感謝なことに、福音を信じる私たちは罪赦されて神の子とされ、キリストの兄弟とされました。キリストはその恵みを私たちに与えるために、私たちの弱さをもって試練に遭ってくださったのです。わたしたちの弱さに共感をもってくださることが目的でありました。ヘブライ人への手紙2:17に次のように言われた通りです。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての天で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」

ここで言われる弱さとは、イザヤ書61章1節に言われているあらゆる貧しさを表します。すなわち、貧困や外的な悲惨だけではなく、それらと共に、恐れ、悲しみ、死の恐怖、その他の心の諸々の動きを指しています。貧困、病気、その他の、私たちの外側にあるものはそれ自体が罪ではありません。しかし罪に近づく弱さは、人の心に湧き起こる様々な動きであります。人間はその弱さのゆえに、そうした心の動きに捕えられ支配されてしまうのです。キリストは、私たちの肉も心の動きもご自分の身につけ、その経験自体から教えられて、悩む者を助けてくださいました。しかし、このような手ほどきが御子に必要だったのではないのです。そうではなくて、私たちの救いのための御子のご配慮を、私たちは他の方法では理解することができないからなのです。

このように、キリストは人間の弱さを引き受けられた方です。進んでそれを引き受け、それらと戦おうとされたのです。それは単に私たちのために弱さに勝つためだけではない。私たちが自分の弱さを体験するときいつも、主が私たちの傍におられることを確信するためであります。ですから、宗教改革者も私たちに勧めます。「私たちは肉の弱さの元で苦しみあえぐときいつも、神の御子が同じ苦しみを経験し、感得されたのだということを覚えよう。御子がそうされたのは、その力と権能によって私たちを立ち上がらせ、そうして苦しみに私たちが押しつぶされないためである」と。16節。

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」このように神はイエス・キリストを執り成す者としてお立てになり、この方の名によって御許に近づく者を招いておられるのです。私たちに求められていることはただ一つ。恐れず神に近づきましょう。この方の執り成しによって神の愛は明らかにされたのですから大祭司イエス・キリストの御名によって神に祈りましょう。必ず私たちに救いの約束を実現してくださる、という大きな確信、全き信頼をもって。神は天の御座に、御子イエス・キリストによって新たな旗印を掲げてくださいました。それは、私たちに対する恵み、父なる神の愛という旗印なのです。

最後に「時宜に適った助け」とは何かについて申し述べます。それは、「私たちの救いに必要なすべてのことを得ようとするならば」という意味なのです。「時宜にかなった助け」とは、神がわたしたちを招いておられる恵みの時のことですから、「いつの日か」とか「そのうちに」とかいうことではなく、正に今、「今日」のことです。「今日、福音を聞いたなら、今日、恵みの神に近づきなさい」とキリストは招いておられます。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

終末主日の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美いたします。あなたは御子イエス・キリストを地上に遣わして、御自身の御旨をお知らせくださり、私たちが悔い改めて神の子とされる救いの道を開いてくださいました。

10月に続き、11月も行事に恵まれたことを感謝します。私たちは小さな群れですが、あなたは私たちをお用いくださり、福音の恵みを世に表してくださいました。先週の礼拝において、あなたの大きな働きを証ししてくださった今村先生の派遣を感謝いたします。どうか先生ご夫妻が健康を与えられ、善き働きが続けられるように道を整えてください。

今日はクリスマスの準備を始め、来週から待降節を迎えます。どうか心を一つにして準備をなし、2017年のクリスマスを迎えることができますように。何よりも私たちの心をあなたに向けて清め、悔い改めと感謝で満たしてください。私たちが謙って主の御姿を仰ぎ望み、ただ主の救いの恵みによってのみ、生き、福音を世に伝える者とされますように。

また、この教会のうちに、連合長老会、全国全世界の教会のうちに、主の福音に聞き悔い改めて主に従う者を起こし、キリストの命に結んでくださいますように祈ります。来週は成宗教会の長老会議が開かれます。この教会に進むべき道を示し、また教会を建てるために働く者を与えてください。いろいろなご事情で教会に来られない方々を、その働く場で、また休む場で、お恵みください。若い方々を祝し進むべき道を与えてください。ご病気や試練に遭っている兄弟姉妹やそのご家族を憐れみ、その困難から救い出してください。また、今日の御言葉に従い、私たち自身、あなたの恵みを確信して恐れず大胆に祈る者となり、多くの人々の救いのために執り成す務めを担う者となりますように。あなたの広い御心、深い愛の御旨を信じて、すべてのことを御手に委ねます。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。