キリストは我らの苦難を負って下さった

聖書:イザヤ55章8-11節, マルコ福音書8章27-37節

 今年の受難節は2月の14日(水)から始まりました。例年二月はほとんど特別な行事がありませんで、それだけ静かにしみじみと主のご受難を覚える季節を迎えるのですが、今年は少し様子が違いました。東日本連合長老会の行事として、2月11日(日)講壇交換礼拝が行われ、十貫坂教会の清野先生をお迎えしました。続いて12日(月)には東日本の長老、執事研修会が自由が丘教会で行われ、その同じ日に、第4回東日本長老会議も開かれました。

例年以上に厳しかった寒さ、インフルエンザの流行が影響して、教会学校やピアノ教室もお休みの方が多かった2月でしたが、皆様のお祈りと奉仕が祝され、支えられて、成宗教会は無事に受難節第3の主日を迎えることが出来ました。真に感謝です。そして2017年度も今月で終わろうとしています。今、ご存知のように成宗教会は記念誌を編集しております。発行は2019年3月です。この計画は2017年度の教会総会で可決承認されたものですが、アッという間に一年が経ちましたので、来年度一年で何とか完成させることを目指さし、皆様のご協力をお願いしたいと思います。

私が赴任しましたのは、2002年ですから、今月で16年が過ぎたことになります。私の前々任の長村亮介先生の時代に50年史が編纂されていますので、それ以後、大石健一先生と私の赴任していた時代の記録を整理することが、成宗教会に必要であるということで賛同を得ています。私は今日まで16年も成宗教会に仕えて参りましたが、私の牧師としての務めは、実は第二の人生の務めでありました。私の前歴については、どなたもほとんど関心をお持ちにならないと思って、お話もあまりしなかったのですが、元々、私が一番やりがいがあると感じ、また誰からも喜ばれた仕事がありました。それは産休代替の教員です。

今有名人の藤井君という中学生棋士が通う名古屋大学附属学校をはじめ、4つぐらいの公立私立で臨時教員を務めました。その仕事の特徴は、勤務年限がはっきりしていることです。産休代替の教員は産休、育休の間、学校に派遣されて喜ばれ、お産の教師が職場に戻れば、辞めていなくなって喜ばれる。だれからも喜ばれる教師でした。そして私個人としては一人の人の出産に協力したという喜びがある。産休と育児休暇で長くても15カ月を超えることはありませんでした。居心地が良いからそこにいつまでもとどまりたい、そういう選択肢はありません。しかし、私はこういう仕事が非常に気に入っていました。

ところが、神さまは私の気に入っていることを好きなようにさせてくださる、ということではありませんでした。神さまは、「自分の好きな道を行きなさい」とは仰らない。ただ、「わたしに従って来なさい」と言われます。ある日神さまは突然、すべてのわたしの気に入っていた職業も、教会も、ボランティアの仕事も次々と道を閉ざされました。そして、神学校だけが、それも東京神学大学への道だけが開かれました。

わたしたちは、皆それぞれに決心をして洗礼を受けています。私も50年前洗礼を受ける前に勉強会があったことを覚えていますが、進行について十分分かったから受けたというようなものでは決してありませんでした。洗礼を受けるということは、自分はこう信じるとか、ああ信じると告白することではありません。そうではなくて、教会が信じて来た信仰を受け入れ、イエス様の体に連なることなのです。しかしそのことも、教えられなければ自分で分かることは困難です。それでも、わたしたちは皆それぞれに、いろいろあっても今日も礼拝を守り、教会に連なる者とされています。これは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれた不思議なことなのだと思います。

本日の聖書は、イエス様が弟子たちに信仰の教育をされているところであります。受難節が巡って来ますと、イエス様の弟子たちについて、わたしたちは学ぶのですが、イエス様の弟子たちも元々はわたしたちとそんなに変わりのない人々だと感じるのではないかと思います。イエス様が大好き。でも、あまり苦労はしたくない。イエス様と一緒にいると何か得することがあるのではないか。と思っているような、まあ普通の人々ではないかと思います。イエス様は初めに一般の人々は、御自分のことをどういう者だと考えているのか、と尋ねておられます。それは、イエス様が世間の評判を気にしておられたからではありません。そして弟子たちも、イエス様にはっきりと敵対している人々の考えについて答えたのではありませんでした。むしろ、ユダヤの人々はイエス様を洗礼者ヨハネと比較し、エリヤと比較して、似ているとか、そっくりだとか、評価していたのでしょう。その好意的な意見について弟子たちは報告しています。

わたしたちも教会の外の人々について考える時、イエス様に好意的な人々、キリスト教に対して良い印象を持っている人々があることを知っています。それはうれしいことではありますが、しかし、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。他の人々はそう考えているのだということだが、それでは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエス様は今、エルサレムを目指して進んで行かれます。その目的地には、非常な苦難が待っていることを弟子たちに教えなければなりません。弟子たちはこれまでイエス様に従って、教えを受けていたのですが、イエス様が受けなければならない苦難については、何も理解してはいませんでした。彼らは本当にわたしたちとあまり変わりない人々だったことは、驚きでもありますが、神さまがイエス様によってこういう人々を呼び集めてくださったことは、わたしたち自身の現実を考える時には、慰められることでもあります。

ところが、イエス様の問に対して、ペトロははっきりと答えます。「あなたは、メシアです。」つまりペトロは、あなたはキリストです、と答えたのでした。キリスト、ヘブライ語でメシアは、救い主の永遠の御支配と祭司職を表します。キリストはわたしたちを神に和解させて下さり、わたしたちのために完全な義を獲得して下さいます。つまりキリストの捧げる犠牲によって、わたしたちの罪を廃棄してくださるのです。こうしてキリストはわたしたちを自分のものとされ、御自分の中に受け入れ、わたしたちをあらゆる種類の祝福で豊かにして保ってくださるのであります。

「あなたはキリストです」という告白。この中にわたしたちの救いがすべて含まれているのです。教会の信仰告白としてわたしたちは使徒信条を告白しています。しかし、ペトロの告白は教会の信仰の根幹であります。こう告白出来たということは、本当に素晴らしいことでありました。では、この告白をしたからには、弟子たちはイエス様のことがすっかり理解できたのでしょうか。それは全くそうではなかった。31節以下を見ますと、そうではなかったことが分かります。

わたしたちの歩んできた生活を振り返ってみますと、弟子たちの様子はよく分かるのではないでしょうか。「あなたはキリストです」と告白出来たことは、本当に素晴らしいことで、奇跡的なことというべきです。なぜなら、わたしたちはだれも、イエス様がキリストである、ということが本当にどういうことなのか、よく分かっている人はいないからです。わたしたちがたとえ長生きするとしても、キリストの担われる苦難と死について、どうして十分理解できるはずがあるでしょうか。ですから、真に聖霊の助け、恵みの御業がなければ、この小さな告白も決して起こらないのです。

しかし、イエス様は弟子たちが全く理解出来ないことをお教えにならなければなりませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。苦難と死の予告は、弟子たちには全く耐え難いものでした。想像を絶するものでした。そのことを知っておられるイエス様は、すぐに「三日の後に復活することになっている」というお言葉を述べて、彼らを慰めてくださったのですが、本当に衝撃は大きく、彼らの耳に全く入りませんでした。

イエス様があからさまに話された時、ペトロはイエス様をわきの方にお連れしたということです。それは、「イエス様に皆の前で何か物申すのは失礼だから・・・」という配慮からでしょうが、しかし、そもそも先ほどの告白と、ペトロの行為はどうつながっているのでしょうか。あなたはメシア、キリストですと告白したからには、わたしたちはキリストにただただ従って行くだけなのです。それなのに、ペトロはキリストに意見をして「苦難を受けるなんてとんでもない!」「殺されるなんてとんでもない!」とお考えを変えるように迫りました。わたしたちはいかにキリストを侮っていることか。それは神を侮っていることと何一つ変らない、恐ろしいことなのです。

わたしたちは、神様に従って生きているつもりでも、実はどんなに逆らっているか、神様を説得して考えを変えさせようとするほど、神様を侮っていることに気がつきません。自分の考えは絶対正しい!と少しも疑わないということが起こります。イエス様はペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは何とサタンと呼ばれました。実際、彼は神に逆らっている彼はサタンの支配を受けていたからです。しかし、このように厳しいお叱りを受けたからこそ、彼は悔い改めることになるのでした。

キリストはわたしたちを招いておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」わたしたちは自分には背負うべき十字架があるとはあまり思っていなかったでしょう。わたしたちは自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをして生きるのが理想だったかもしれません。楽しい趣味で生活を満たして生きようとしたかもしれません。一方、イエス様だけが重い十字架を背負って苦しんでおられるように見えていたのではないでしょうか。

イエス様はあんなに苦労なさって死の報いを受けることしかなくて、お気の毒でした。イエス様は大変立派な方で、奇跡も起こしてくださったけど、あんな苦労は、わたしはしたくない、というのが偽らない気持ちではなかったでしょうか。そして、苦労は一方的にイエス様のところに、楽な人生は一方的に自分のところにあるような錯覚に陥っていたのではないでしょうか。

私は学校教員として派遣されて喜ばれ、学校を去って喜ばれた、と自分の過去を申しました。私は16年前に成宗教会に派遣された時、教会の皆さんに喜ばれているようには感じられませんでした。非常な悲しみと痛みが皆さんの背後に感じられたからです。私はその原因についてほとんど何も分かりませんでした。けれども、少なくとも私は、私を成宗教会に呼んでくださった方を知っておりました。私をここに来させた方は、この教会と共にあり、わたしたちが苦労も苦難も拒否していた時もわたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架を負ってくださったことを、私は知っていたからです。それがどなたであるか、皆様はもうご存知です。その方こそ、教会の主イエス・キリストです。教会と共にいてくださる主、皆様の背後にある苦労と苦難と悲しみと痛みを負ってくださるキリストを信じて、皆様は教会にとどまることが出来ました。だからこそ、主はわたしたちに主の命をくださろうとしておられる。そして、それをわたしたちは信じているなら、そのことこそが、わたしたちに与えられた恵みなのです。祈ります。

 

主なる父なる神様

信仰弱い教会に、計り知れない慈しみをお示しになって、救いに招いてくださるあなたの愛を見上げ、心からの感謝をささげたいと願います。昔地上にいらした時にあなたが読んで下さった弟子たちをあなたは御子によって愛し、その愚かさにも拘わらずお見捨てになりませんでした。わたしたちは何も知らないものでありながら、自分を賢い者のようにあなたに従おうとしませんでした。自分の考えの方があなたよりも正しいと思うに至るほど、罪深いものです。しかし、実際には少しの重荷にも、労苦にも耐えられない。あなたはそのようなわたしたちに、絶えず愛を注ぎ、希望を注いで導いてくださいました。どうかわたしたちがそのことに気付き、驚き、感謝に溢れる日が来ますように。

今苦しんでいる者も、今悩んでいる者にも、そのような日が来て、あなたの思い、溢れる愛を発見する恵みに与りますように。どうかイエス様の労苦、苦難がわたしたちを救うためであったことを悟ることができますように。喜びと感謝に溢れる日が来ますように。この受難節の日々、どうか人知れず労苦している方々の労苦を顧みてください。病気の悩み、孤独の悩み、仕事の悩みにあなたの助け、慰めと癒しをお与え下さい。

今、わたしたちは2017年度の終わりを迎えています。様々な困難のあった一年でしたが、あなたは多くの悩みを通して、共に祈り支え合うことを教えてくださいました。どうぞ、ここにこそ、主の喜ばれることが実現しますようにお助けください。新しい年度に向けて整えなければならないことが多くあります。どうか貧しいわたしたちが持てる力、与えられた賜物を生かしてあなたの喜ばれる教会を建てることが出来ますように、お導きください。連合長老会と共に歩む歩みが祝されますように、切に祈ります。復活のお祝いの日を目指して、わたしたちの日々を一歩一歩整えてください。お病気の方々も癒されて共にイースターを喜び迎えることが出来ますように。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

十貫坂教会講壇交換礼拝説教

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

本日は東日本連合長老会の企画による講壇交換礼拝のために、お許しをいただいて礼拝に奉仕致します。私が皆様の教会の説教壇に立たせていただきましたのは、二度目、東日本の長老執事研修会の礼拝を含めますと三回目になります。改めて東日本連合長老会の交わりに加えていただいていることを感謝申し上げます。特に十貫坂教会では関川先生ご夫妻の時代から神学生を大勢受け入れて来られましたので、2010年以降、秋の神学校日には神学生を説教者として成宗教会に派遣していただきました。

地域連合長老会を中会として共に主の体の教会を形成するという目標は、もう何十年も前に掲げられ、取り組まれて来たと伺っています。しかし、この目標をより広く、多くの教会に紹介し、賛同する教会を仲間に入れるという取り組みは、そうたやすくできることではなかったと思います。クリスチャンはほとんどの人が、自分の教会だけが教会だとは思っていないのですが、教会は大きいところも、小さいところも内側ばかり見ているような傾向が続いていたのだと思います。

私が受洗した仙台東一番町教会も、その後転出した横浜六角橋教会も、名古屋教会も大きな教会でした。200~300人もいますと、礼拝出席以外、何もしなくてよいということで、「わたしは信者として楽をしている」という感覚がありました。そして小さな教会は大変だろうと思っていました。そこで、東神大に入った時、小さな教会に奉仕したいという漠然とした希望を持ちました。念願かなって成宗教会に赴任しまして、無我夢中で教会を建てようと頑張ったと思います。「どう頑張ったのか」と言えば、自分の遣わされた教会以外のことは何も考えず「わき目も振らず頑張った」ということです。

しかし、その当時、大きな教会は内側で満足しているという批判があったとすれば、私のしていたこともまた、内側だけに集中していたことでした。つまり多くの教会は、大きさは違っていても、同様に各個教会主義でありました。そして今、日本の教会は社会全体と同じく少子化高齢化の問題を映し出しております。あんなに盛んであった婦人会が高齢化で成り立たなくなっている教会が増えているからです。

去年の春から東日本の婦人会の活動の中で、それぞれの教会の実状を話し合う機会がありました。大変困っている教会から、今までと変わりないという教会まで、様々な様子が話されました。ある時、十貫坂教会の婦人会の方がそのような話し合いの感想を語られ、「こうして集まって、ほかの教会の婦人会の様子を知ることが出来てとても良かった」と仰いました。その時、私は大変うれしい気持ちで一杯になりました。それは、誰もがだんだん余裕がなくなって行く時代に、そして教会に人手がない、お金がない、労力がないと思い、もう他の所のことは考えていられない、と言いたくなるような時に、他の教会の窮状を聞いて、「それは大変なことだ」と思うことが出来る、その心は、一体どこから来るのでしょうか。

それこそが、今日の聖書で、私たちに与えられていることなのではないでしょうか。それは私たちに祈りの言葉として与えられています。会衆に向かって語られますが、しかしそれは何よりも御父の前に謙って捧げられた祈りです。「御父から、天にある家族、地上にあるすべての家族がその名を与えられています。」家族という言葉は、共通の先祖によって血縁的につながる一群の人々を意味します。しかし、御父の家族はどうでしょうか。それは、すべての人間がキリストによって一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天上の霊的な存在である天使とさえも同じ親族にされたということなのです。かつては神の家族は、特別に選ばれたイスラエルの民族だけと思われていましたが、今や、イエス・キリストの執り成しによって罪赦され、御子イエス・キリストの死に結ばれ、その復活に結ばれて、すべてのものが一つとされた主の教会、それが御父の家族なのです。

もはや人はだれも、他の人々を軽視軽蔑したり、また神の家族であるという誇らしい名前を自分たちだけのものにするために、血筋や、能力や、いろいろなものを誇ることはできません。ただキリストによって神の家族とされたこと以外には、教会の人々に誇るべきものが一切あるはずがないのです。キリストのみが私たちをを結ぶ絆であって、キリストを他にしては、ただ無秩序があるのみです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

この祈りは、教会の過去でのことでしょうか。現在のことでしょうか。それとも未来のことでしょうか。もちろん、未来のことだと私たちは知っています。それなら、教会の未来があるということです。教会に未来がある。すなわち、私たちに未来がある。それは神の憐れみがその豊かさの中から私たちに聖霊を送ってくださるからです。使徒はそのように信じ、そのように祈ります。信仰者は上を目指して成長していく。それを願うべきであります。私たちは超高齢化社会におりますが、地上の命を永くされるのも、短くされるのも御父の御心なしには起こらないことです。どんなに長生きして肉体が年とっても、年だからもう神の家族として成長しなくてもよいということは決してありません。地上にある限り、天上のことは分かりませんが、地上に生きている限り、御父から聖霊の賜物をいただいてもっともっと成長することを愛することが出来ますように。

宗教改革者は言うのであります。信仰者がこれ以上進歩する必要がないほど完全になるということはないと。しかし信仰者の完全な状態があるといいます。信仰者の完全とは、神の家族として成長を愛するようになることであると。それは、人間の力によっては決してできないことです。人間の力が目指すのは、もっと健康を、とか。もっと○○ができるようになりたいとか、もっとお金があればなあ、とかいうことでしょう。こういう願いは信仰のない人々も切に願っていること。そしてそのような願いは教会の中でも、ついつい出て来ない訳には行かないからです。

たとえば成宗教会の会堂は建築から25年ほど経っています。そのころはバブルの時代で、会堂建築には内からも外からも沢山の献金が捧げられた。いわゆる景気が良かったので、人々も気前よく捧げることができたのでした。そして建物も、省エネなどあまり考慮しなかった時代でした。しかし今は年月が経ってだんだん修理修繕に費用が掛かるようになる。そして経済的に厳しい時代で、多くの教会員も高齢になっていますから、昔のようにはいきません。経済や、人手が乏しいことを嘆きたくなってしまう現状は、多くの教会でも同じようではないかと思っております。

こうして私たちは目の前のあれやこれやの問題で頭がいっぱいになるかもしれませんが、正にこのような私たちのために、代々の教会のために、エフェソ教会へとあて名が付けられた手紙は差し出され、パウロ(本当はパウロの後の時代の伝道者かもしれませんが)は祈りを捧げているのではないでしょうか。聖霊によって内なる人が強められますように、と。そうです。パウロはⅡコリ4:16においても、次のように力を込めて励ましているのです。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、ついつい年取って大変だと思ってしまうのですが、大変なのは後の世代のことです。世に在る教会を去る時に、世に在る教会が残されるように。私たちに与えられた伝道の使命は、世に在る人々に対して果たすべきなのですから。地上に教会を建てることは主の尊い御旨であります。そのためにこそ、御父が豊かな栄光の中から聖霊を送り給い、心にキリストを住まわせてくださるように、と祈られているのです。キリストが私たちの内にお住まいくださる。そこに私たちの力では到底できないことがなされるのです。すなわち、教会は愛に根差し、愛にしっかりと立つ者とされる。そのために必要なこと、それは何か、キリストが私たちの内なる人に住んでくださることです。

私が前回十貫坂教会の礼拝に奉仕しましたのは、中村恵太先生がまだ伝道師でいらした時でした。聖餐式を執行するために伺い、礼拝後にも教会員のお宅を訪れて聖餐に与っていただきました。その兄弟はお嬢様の見守る中、聖餐を受けられましたが、90代になっておられ、私は嚥下障害を心配しました。聖餐のパンを呑み込むことも大変ですが、ぶどう酒の方は更に呑み込みが難しいので、私はその時、誤嚥性肺炎が起こるといけないから、ほんの一滴でも良い、形だけ、しるしだけにしようとしました。ところが車椅子に腰かけて聖餐を受けられた兄弟は、私が口元にほんの少し差し出した盃にかみつくようにグイッと口に引き寄せられたのです。聖餐の秘跡。聖なる恵みに与りたいと兄弟はどんなに望んでおられたことか、それを知らされた瞬間でした。自分はキリストの体に結ばれている。結ばれたい!その強い思いが、意志が伝わって来て、圧倒されたことを思い出します。その三日後に兄弟は主の御許に召されたと、中村先生より伺いました。

このような証しをさせられるのは、主イエスが教会と共に、信仰者と共におられるからに他なりません。キリストが私たちの内に住んでくださることの結果は何でしょうか。それは愛です。キリストがいかに私たち罪人を愛しておられるかを知る。そしてキリストを通して神を知ることにおいて前進することです。今週水曜日から教会歴は受難節を迎えます。イザヤ書53章は語ります。世界の支配者たちは皆、主なる神のご支配から離れ迷い出た羊の群れのようであったが、主はその罪の重荷を忠実な一人の僕の上に置かれました。ここにキリストの受難が告げられています。苦役を課せられて、かがみこみ・・・捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。しかし、彼が苦しんだのは私たちのため、彼が負ったのは私たちの罪であった。

しかも彼が身代わりの苦難と死を受けることは神の御旨であったというのであります。

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」この僕こそ、神の御子イエス・キリストであります。神はこのために御子を世にお遣わしになりました。御子の執り成しによって罪が贖われ、神の御前に立つ者。キリストに結ばれて神の子とされ、神の家族とされるために。私たちはこのキリストを心に信じます。

パウロが教会の人々のために祈っている通りに、キリストが天に在って執り成しの祈りを捧げてくださっています。ですから、キリストを通して神の愛を知り、神を愛し、キリストを愛する愛が、私たちの内なる人に深く根を下ろすようになるでしょう。その愛は、ちょっと風が吹いた、ちょっと何かが起こったことで、揺れ動き、吹き飛ばされるようなものではない。愛が堅固な建物のように、岩の上の教会のように建てられるように、と私たちは祈られているのです。

キリストの愛をパウロはその広さ、長さ、高さ、深さと表現しております。どれが広さなのか、長さなのか、高さなのか、深さなのか、それは言葉で言い尽くすことはとてもできないことでしょう。私は、十貫坂教会の婦人会の方が他の教会のご様子が分かって良かったと言われた時に、とてもうれしく印象に残ったことをお話ししました。他の教会を思い遣る心そのものが、主の愛を証ししているからです。教会を建てることは、キリストの愛を知るようになることです。東日本連合長老会が発足して9年が経ちました。

私は個人加盟としてはその時からおりますが、成宗教会が加盟を認められたのは2013年です。加盟に至るまでも、その後も東日本に所属して学ぶことが沢山ありました。たとえば、教会学校の教案については連合長老会の日曜学校委員会のカテキズム教案を用いるようになって、教会学校が改善されました。また、私は前歴が学校の教員でありましたので、教会員はいわば担任の教室の生徒のようなイメージでありました。優等生もいれば、憎まれっ子もいます。先生に嫌がらせをする生徒がいても一向に気にしない教師でありました。ただただ生徒が可愛いだけで、生徒のために頑張りました。受洗した教会は長老派の教会でしたが、神学校に入ってからも、教会にとって長老会の形成がどんなに重要であるかが、どうも私にはピンと来なかったのだと思います。

そこで成宗教会に赴任して16年。教会は牧師が一人で頑張るという習慣が、いつの間にか当たり前になってしまっていたことも、大きな問題でした。増田先生に成宗教会のある問題を指摘されるまで、私は全く気がつかなかったという大失敗もありました。そのことも東日本の長老会議や教師会で指導を受けて初めて改革することが出来たのでした。個々の教会の内側にいて長い間、気づかれない問題というものが、連合長老会の交わりによって明らかになるということは、大変大きな恵みです。

いくら個人的には愛情があるつもりでも、キリストの教会を建てるためには、ほとんど役には立ちません。人の知恵、知識をはるかに超えた主の愛を知ることは私たちの力ではできません。だからこそ祈ります。そしてそれを宣べ伝えることも、人の力ではできません。ですから、もし礼拝において私たちの口を通して語られ、耳を通して聞かれる言葉が、御言葉として伝えられるならば、キリストの愛を伝える言葉となるように、私たちは祈り、祈られるであります。東日本の教会の交わりがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを日毎に理解する交わりとして前進していることを思い、真に感謝しております。そしてまた、大きな目に見えないキリストの一つなる体の教会を望み見ることが、同時に小さな教会の片隅に起こるキリストの溢れる愛の証を見い出すことと、深くつながっていることに感謝します。祈ります。

天には栄光、地には平和

聖書:イザヤ書52章7-10節, ルカ福音書2章8-20節

 私たちは、クリスマスを祝うために、この年も、成宗教会の礼拝に集まることができました。私たちはしみじみ思うのです。礼拝に出席できる、ということは決して小さなことではない。むしろ大きな恵みなのだ、と。まず第一に元気がなければ来られない。そして元気があっても日曜日の朝にも、時間がない、休めない人々がいます。その上、出かけて来るにも電車賃も惜しまなければならない人々も増えているという社会であります。

しかし、健康がない、時間がない、お金がない、という人々が教会に多くなるにつれて、教会は活発になります。活発にならないではいられないはずです。なぜなら、私たちは主イエスがどのようなところにお生まれになったかを知らされているからです。主は馬小屋で生まれられました。世の人々でにぎわう街の宿屋に、母マリアとヨセフの滞在する場所がなかったからです。人々の日常茶飯事のてんやわんやの中には、主イエスの宿るゆとりはありませんでした。そこで、神はその御子を貧しい馬小屋、家畜の小屋に生まれさせました。ひっそりと、だれも顧みることもない者としてお生まれになったことは、私たちへの神様からのメッセージであります。主は貧しい者、小さな者の所に、まず来て下さったのだと。

私たちの社会が貧しくなり、健康に乏しい人々、時間に乏しい人々、経済的に乏しい人々が増えれば増えるほど、私たちは改めて思うのであります。救い主は王侯貴族の間にお生まれにはならなかった。貧しい人々、小さな者たちの所に来て、そこに宿ってくださったことを。教会はこのことを知らされています。だからこそ、教会は活発にならないではいられないのです。救い主がお生まれになったクリスマス。この良い知らせを、多くの人々に知っていただくために。

クリスマスの夜、救い主誕生の知らせを誰よりも早く聞いたのは、羊飼いたちでありました。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が現れたのでした。主の天使は、神の御心を忠実に伝えます。その言葉が神の言葉として伝えられ、人々に聞かれるために、天使は神の威厳、神の栄光と共に現れたのでした。恐らくは圧倒的な輝き、この世の知恵では計り知ることのできない栄光の姿によって、天使は現れたので、羊飼いたちは非常に怖じ畏れました。

しかし、天使は彼らを労いました。「恐れるな」と。なぜなら、羊飼いたちに現れた天使の目的は、何も彼らを脅すためではなかったからです。それどころか、天使はクリスマスの知らせを、真っ先に彼らに伝えるために現れたのです。天使は彼らを励まして告げ知らせます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

当時、羊飼いという職業は大変でした。羊は他の家畜もそうですが、人々の貴重な財産、多くの富を生み出す生き物でありますから、その世話をする羊飼いは、欠くことのできない仕事でした。しかし、それは当然非常な労苦を伴っていました。上野動物園のパンダなど、貴重な動物の飼育をする人々のことを考えれば、少しは分かるのですが、動物の健康を昼夜を問わず気遣うのは大変です。その上、この当時の牧畜の方法は、安全な囲いの中に常時いる訳ではなく、むしろ広い牧場というよりも山野を放牧して移動するわけです。昼も夜もですから、ある時は野獣の危険、ある時は羊泥棒の危険に立ち向かわなければなりません。

この仕事の苛酷さを考えれば、当然、これを担う人々は、金持ちではなく貧しい人であり、また身分の高い人ではなく、雇われて主人に仕える僕の仕事であったでしょう。しかし、不思議なことですが、神は御自身を私たちに理解させるために、何と言われたかと申しますと、御自身を羊飼いであると表現されたのです。この人間にとって苛酷な職業は、「わたしの務めである」と。イザヤ書40章11節にこう書かれています。1124頁。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

主は、羊の群れを養うように、小さな者、弱い者、無力な者を養ってくださる羊飼いとして世に来られました。旧約の預言のように、主イエス・キリスト御自身、こう言われたのです。ヨハネ福音書10章11節。186頁末。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」主イエスが命を捨てるのは何のためでしょうか。それは「羊が命を受けるため」に他なりません。これが、救い主が来てくださった真の目的であります。

もちろん、このクリスマスの夜、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、このようなことは何一つ知らなかったでしょう。ただ、彼らに理解出来たことがあったと思います。彼らに告げられた言葉は、彼らにだけ秘密に知らされたのではないこと。天使が告げる言葉は、民全体に、つまり皆に与えられた喜びとして、告げられたのだと。昔の王ダビデの出身の町ベツレヘムに救い主がお生まれになった。この方は皆の救い主なのだと。

では、救い主のしるしは何でしょうか。天使は言いました。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」何と、救い主は飼い葉桶の中に寝ておられると。限りない天から降って、人々の中に。王宮の中にではない。整えられた文化的な施設の中にではない。貧しい人々の塵芥(ちりあくた)の中に。これこそ、神の御心。人は見かけで人を見ることしかできなくても、神はそうであられるはずがない。こう天使が宣言したとき、思いがけない賛美が起こります。天の大群、きらめく満天の星座が天使と共に高らかに賛美したのです。

神はどんなに人を愛しておられることか。悲しむ人、傷む人、苦しむ人、悩む人を。罪の奴隷となり、人の支配に踏みにじられた魂をどんなに救おうとしておられることか。それは、何と愛する神の御子を世に降らせるほどに。しかも最も低くされた人々、低くされても黙々と耐え忍んでいる人々のところに。自ら幼子となって。飼い葉桶の馬草の中に、家畜の匂いと共に。ああ、神はどんなに人を愛しておられることか。神はどんなに褒め称えられるべきか、と、天の万軍は歌ったのではないでしょうか。

今日読まれたイザヤ書52章7節も高らかに歌います。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」良い知らせを伝える者の足は美しいと謳われる。褒められているのは足ではありません。良い知らせが美しいから、伝える者も美しくされる。その足、その労苦全体が美しくされるのです。良い知らせは何の知らせか、もう私たちは知っています。それは救いを求めている者への知らせです。

この知らせを待ち望む者すべてに平和が告げ知らせられます。なぜなら、救い主がその人々の王となってくださるからです。その声を、その知らせを今か今かと待っていた見張りがいます。教会は見張りの務めが与えられています。救い主の来られるのを待ち望み、いち早く告げ知らせ、皆共に喜び歌うために、教会は世の終わりまで建てられます。

ところで、ルカ2章14節に歌われています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」私たちの地上の生活は、常に競争があり、人々は上を上をと目指して頑張っております。祝福がそこに与えられていると、工夫も進歩も生まれていることは、だれもが認めるところであります。しかし、もし他に与えられるべき栄誉を奪って自分のものとするなら、その悪行は良い結果を生まないようにでしょう。さらに、すべては神から与えられていることを否定し、自分に栄光を与え、自分をほめたたえようとするなら、そこから、あらゆる争いが起こるのではないでしょうか。

日本の社会は二十世紀後半、平和が与えられ、人々は繁栄を楽しみましたが、その間にも多くの国々が、人々が戦争と貧困に苦しんできました。戦争は政治の世界のことであり、力を持たない私たちには、一度始まった流れを止めることなど到底不可能に思われます。しかし、身近なところで起こる小さな争いに対しては平和のために何かができるのではないでしょうか。テレビで近隣住民との騒音トラブルの報道を見て、考えさせられました。騒音を出して近所を悩ませている人は、実は周囲の住民に悪意を持たれているという被害者意識を持っているというのです。「恐怖のあまり、対抗措置として騒音を出している」という言葉を聞いて、国と国との間でも同じではないか。自分がやられるのではないかという恐怖心が募る時、戦争は起こるのではないかと思いました。

どの人も救いを求めています。ただ傲慢な人々だけが平和に関心がないのです。恐るべき傲慢は、戦争で金儲けしようということかもしれません。しかし神は御子を遣わして、この方によって御心にかなう人々を救いに招いておられます。平和の王、イエス・キリストに招いておられるのです。御心に適う人々とはだれでしょうか。貧しい姿で世に来てくださったイエス様の低さに躓くことなく、「この方こそ、私の救い主です。私は長い間神さまに背いて生きていましたが、この方、イエス・キリストによって神さまが私を愛し、私の罪を赦してくださったことを私は信じます」と告白する人ではないでしょうか。

平和の主イエス・キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私たちは自分の貧しい心を知っています。私たちの力では到底敵を愛することができない。迫害する者のために祈ることもできません。しかし、私たちが神に背いて敵となっていた時、キリストは私たちの罪のために死んで執り成してくださいました。キリストはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分の力では到底こう祈ることはできない者だと認めます。

しかし、だからこそ、私たちはキリストに結ばれて生きなければなりません。赦せない者を赦し、神の国に招き入れてくださった方を信じ、救いの約束に結ばれて行きましょう。2017年クリスマス。今は家族の平和のために祈るべき時です。また友人、社会の平和のため、日本の平和のため、そして全世界の平和のために祈るべき時です。わたしたちが熱心に祈り、多くの人々の救いが全世界で実現するように。御心に適う人々に平和があるように、と天使は歌いました。地にある私たちは、この願いを多くの人々の願いとするために、祈ろうではありませんか。祈ります。

 

恵みの主、天の父なる神さま

2017年のクリスマス聖餐礼拝を感謝し、尊き御名をほめたたえます。私たちは会堂に集められ、主の喜ばしい訪れをほめ歌いました。どうか私たちの背きの罪を赦し、御子の救いの恵みに固く結んでください。御子が尊い救いの務めをもって世に来てくださったことを私たちは知りました。御子によって救われた私たちを、与えられた命を主の喜び、主の栄光を映し出すために貴くお用いください。そしてこの小さな者らのまことに小さな働きを喜び用いてくださり、目の前の人々との交わりの中に平和を築くために、そして世界の平和のために、聖霊の神様によってを私たちをお遣わしください。

今日の恵みの聖餐を感謝します。ここに集う方々、まだあなたを告白する決意に至っておられない方を深く顧みてください。教会の群れ、主の体に結ばれる日を待ち望みます。主と共に歩み、主と共に喜ぶ者とならせてください。

本日、礼拝に参加できない方々をあなたが特別に顧みてくださることを信じ、祈ります。特にご高齢の方々、ご病気の方々を慈しみ、クリスマスの祝福をお与えください。本日の礼拝後の祝会、そしてクリスマス・イヴ礼拝が真に主に喜ばれるものとなりますように。参加する方々、そしてこのために奉仕するすべての方々をお支えください。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主を待ち望む

聖書:イザヤ40章3-5節, マルコによる福音書1章1-8節

私たちはこの年も主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを迎えようとしています。救い主の到来は全世界が待ち望んでいることです。昔そうであったように、今も全世界が救いを求めているのではないでしょうか。一体。救いを待ち望まない人々が本当にいるのでしょうか。

旧約聖書の神の民に預言者たちは、長い間語りかけて来ました。彼ら預言者たちは、神の民でありながら、神の掟を守らない人々に、神の言葉を語り続けて来たのです。「主に立ち帰れ」と。神の掟を守り、神に捧げるならば、あなたがたは豊かな祝福を受けるだろう。そして、世界中の人々があなたがたを幸いな者と呼ぶだろう、と。しかし人々は、神に従っても、何の得もない。神の戒めを守って謙って歩いても何の利益があるだろうかと言いました。むしろ高慢な人々に従った方がいいではないか。彼らは悪事を行っても何の損もしない。むしろますます繁栄しているではないか。神を試みても罰を受けていないではないか、と。

私たちはどう思うでしょうか。この世界は貧しい者がますます貧しくなり、力ある者がその力を最大限に生かして富に富を積み上げ、力を増し加えているように見えます。戦争さえも、力を持つ者が起こしている。もっと力を持つために。そして戦いの最前線に出されるのは貧しい人々、戦争で家を失い、土地を追われるのも貧しい人々なのです。そのような人々と、多くの力を握り占めている人々とでは、命の値打ちが違うのでしょうか。権力者の命は金やダイヤモンド。そして貧しい人の命はゴミのようなものなのでしょうか。

主の憐れみが深ければ深いほど、主の怒りは火山のように高く、激しく燃え上がらないでしょうか。こうして戦争に次ぐ戦争が起こるのです。荒廃に次ぐ荒廃に人々は心も荒れ果てて行きます。それでも、地上に僅かな人々が残される。わずかな人々、それは主を畏れ敬う人々です。男であれ、女であれ、身分の高い者であれ、取るに足らない小さな者であれ、強い者であれ、力尽きて倒れる者であれ、主を畏れ敬う人々が残されています。そして、それも神の御業に違いありません。人は皆罪を犯して、神の恵みから遠く離れてしまっているので、神がその人を慈しんでくださらなければ、だれも神を仰ぎ見ることもできない。ですから、神を畏れ敬うことも、皆神から心にいただく賜物ではないでしょうか。

私たちもまた、こうして何の取り得もない者も、ある者も、こうして主の日の礼拝を守るために招かれました。いても立ってもいられないほど、忙しい時代に、また「何かしなければ明日が心配だ」という時代に、不思議にも私たちは神に従う者とされている。これこそは、私たちにとって福音の初めです。福音、神の喜ばしいメッセージを聞きましょう。

マルコ福音書は書き出しの言葉を次のように始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」キリストは「ダビデの子」と呼ばれたり、「アブラハムの子孫」と呼ばれたりします。キリストは、アブラハムの子孫である神の民の中にお生まれになって、神に背いている罪人を救ってくださる救い主でありますが、マルコが強調しているのは、この方は神の子であるということです。なぜなら、罪人を救うことは神の力でなければできないことだからです。神は背く者の傲慢不遜を大目に見たり、甘やかしたり、なさる方では決してないのですが、その一方、ゴミのように打ち捨てられている小さい者を、お見捨てになっておられるのではありません。預言者たちが繰り返し語っているように、神は「不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」方でありますから。

そこで、苦難の時に、何の希望も見いだせない時に、なお主を待ち望み、「あなたこそ主、正しくお裁きになり、私に落ち度があっても、どうぞ憐れんでお救いください」と祈り求める信仰こそ大切なのであります。神は荒れ野に使者を遣わすことを約束されました。荒れ野。わたしたちは、荒れ野というと、もちろん文字通りの厳しい気候風土で荒廃した場所を思い浮かべることもできましょう。しかし、むしろ荒廃しているのは、自然だけではなく、戦争によって、また人の強欲、傲慢、心無さによって破壊された自然や、農耕地や、建物なのではないでしょうか。さらに荒廃しているのは、人々の悪意に囲まれて、踏みにじられて、すっかり貶められてしまった心、自分の価値など全く見い出せないほど地に落ちた人間の魂の荒れ野ではないでしょうか。

神は悪事を決して見逃されない方であり、しかしまた、罪人を憐れんで救ってくださるために、私たちの思いをはるかに超えた恵みの業を備えてくださいます。この方が御子にこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。そこで、神の子イエス・キリストの福音の初めに、語られるのは、キリストに先立って荒れ野に遣わされた使者。すなわち洗礼者ヨハネのことであります。

彼に与えられた使命は、救い主のために道を整えることでした。私たちの人生の荒れ野。そこにはいろいろな道があります。細い道、曲がった道、崖に沿った道、谷間の道、鬱蒼とした山中の道。救いに至る道はどこか、探すうちに迷路に入ってしまうかもしれない私たちの人生です。神から遣わされた者の声は、そのとき荒れ野に響き渡ります。その声は「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」と叫ぶのです。いろいろな道があるのです。しかし、主の道は一筋。それは救いに至る道です。その道を真っすぐにしなさい。

「救われるために何をしたらよいのですか。」それは複雑なことではありません。もったいぶって、「それはなかなか難しい」と言っている人がいます。ああでもない、こうでもない、とさんざん議論し、「あれをしなさい」、「これをしなさい」と勧めて人を引き回す人がいます。そうではない。そんなことは聖書には書いてないのです。主の道は真っすぐ、だれでも見出せる広い道に整えなさい、と命じられています。でこぼこもなくし、歩きやすくしなさいと言われているのです。

私たちは多くの人々が長命を生きる時代にいます。昔の人々と比較して、世の中何が変ったかというと、いろいろありますが、何と言っても多くの人々が長生きできるようになったことが100年前、200年前、500年前と全く違うところだと思います。昔の人は子供を沢山授かりましたが、育って成人になる確率は決して高くなかったと思います。戦争の危機に加えて、ペストのような疫病が突如猛威を振るったからです。宗教改革者ルターもカルヴァンも子供たちに先立たれました。そして本人は60代で亡くなりましたが、それでも長生きした方ではないかと思います。

自分はいつまでも生きられるわけではない、と思う時、私たちの心に一筋の道が与えられるなら、私たちは非常に幸いです。自分の救いのために最善の道を日々祈り、選ぶでしょう。また、自分が先立つ時に残される人々のために、最善の道を日々祈り、自分の力で出来ることはして、彼らのために真心を尽くすでしょう。それに対して、いつまでも生きられるという想定をするなら、一筋の真っすぐな道よりも、寄り道をしてみようと思うでしょう。面白いことの追及が最大の目的となり、迷路遊びに取りつかれ、ついに迷宮入りとなってしまわないでしょうか。真に残念なことです。

洗礼者ヨハネは、文字通り荒れ野に現れたと思われます。便利で華やかな都会ではなく、不便で生活も厳しい地方に生活しました。ヨハネの服装や食べ物については、預言者として禁欲的な生活を進んでしたのだと考えることもできますが、彼の生活ぶりはこの時代の農耕や牧畜をして生活する人々の生活と変わりなかったというかもしれません。ヨハネは人々に質素な禁欲的な生活を勧めようとしたのではないのです。ただ私たちもそうですが、立派な風貌の人が立派な身なり出で立ちで現れると、何となく偉い人のように思ったり、話を聞く値打ちがあるように思ったりするものです。しかし、ヨハネは普通の庶民の貧しい身なりをしていました。そしてそれにも拘わらず、人々が彼の許に集まるほど、ヨハネの宣教は力に満ちたものだったことが分かります。

彼は救いの道を真っすぐに整えます。救われるためにはどうしたらよいのか。ヨハネは罪の赦しを求めている人々に、悔い改めを迫りました。すなわち、「私は神さまに背いて罪を犯しました」と告白することを求めました。この告白を公に行った人々に、ヨハネは洗礼を授けたのでした。ですから、洗礼を受けるためにしなければならないことがある訳です。それは神と人の前で(公に、ということの意味です)罪を告白することです。こうして人々は彼の宣べ伝える言葉を受け入れました。その人々の数は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたと言われますから、本当に相当な人数になったと思われます。

人々は神から遣わされたヨハネを非常に尊敬したと思われます。神から遣わされ、神の御心をその通り人々に教える預言者。洗礼者ヨハネもその通りの忠実な人でありましたから、人々は彼を尊敬したことは言うまでもありません。牧師が一生懸命福音を宣べ伝えているのは、聞く人に、福音の中心であるイエス・キリストを心に受け取っていただくためであります。別の言い方をすれば、福音を聞く人が福音を通して、主イエスが自分を救いに招いてくださっていることを知るためであります。ところが、聞く人は、イエス・キリストが自分を招いておられると感じないで、○○牧師が自分を招いておられると錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネもそのような間違いを心配していました。救いの道は神の子イエス・キリストの御名にこそあるのに、「ヨハネ先生は素晴らしい。救いはヨハネ先生の言葉にある!」と勘違いしてしまい、「この先生について行こう」ということになってしまうのではないか。洗礼者ヨハネはそのことを大変心配しました。そこで、彼は救い主について、次のように予言したのであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

来るべき救い主、キリストは、力と地位において自分よりはるかに優れているので、ヨハネは一般的な表現(ここでは、「履物の紐を解く」という奴隷の仕事を例にとりました)を用いて、自分との差が絶大なものであることを教えました。そうしてヨハネは、キリストの栄光をほめたたえ、キリストに比べれば自分は無に等しいものだと述べているのであります。ヨハネがこのように証しした通り、教会の牧師も罪を告白する者に対して、形式として、目に見える形でバプテスマを授けるのです。これはキリストが自ら定められた聖礼典であるので、教会は聖餐式と同様に、この形式を固く守っています。しかし、この形式に表された内容、内実をお与えになる方は救い主、イエス・キリストその方であります。

ヨハネは宣言しています。自分は外的な(目に見える形のことです)バプテスマを授ける者に過ぎない。けれども、やがて来られるキリストは聖霊によってバプテスマを授けてくださる方なのだと。

今成宗教会は、長村牧師以後、今に至るまでの時代の記録を編纂しようとしており、他の教会の記念誌にも目を通して参考を得ております。それらを見ると、今80歳前後の世代の方々がお若い頃は、日本は戦後のキリスト教ブームがあり、多くの人々が洗礼を受けたようでした。時代は変わって行きます。しかし、主の体の頭であるイエス・キリストは変わることがありません。だからこそ、私たちがよろよろしてもグラグラしても、この方に救いの望みをかけることができるのです。本当に主の教会に結ばれる人々は、移り行く時代の牧師に、ではなく、変らない主の体に結ばれているのです。この恵みに感謝してクリスマスを迎えましょう。

 

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。待降節第三主日の礼拝に私たちを呼び集めて下さり、ありがとうございました。この日も恵みの御言葉をいただき、讃美と感謝を捧げることができました。 クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちの心と体と魂を、御子をお迎えするにふさわしく整えてください。日頃のあわただしい心、落ち着きのない考えを鎮め、感謝と祈りによって一週間を過ごすことができますように。

私たちの地上の命を永くしてくださり、主の恵みを証しする機会を日々与えてくださることを感謝します。どうか若い人々に、次の世代の人々に慰めと励ましと、生きる勇気と知恵の源であるあなたをイエス・キリストを通して紹介することができますように。

クリスマスの準備が沢山ございますが、奉仕者が限られた力を精いっぱい捧げております。どうかあなたが喜んで助けてくださいますように。健康を整え、クリスマス主日聖餐礼拝、祝会、そしてイヴ礼拝を捧げる私たちに、恵みを豊かにお与え下さい。多くの地域の方々の間に、あなたの御名が高く崇められますように。福音が宣べ伝えられますように。そして病気のため、ご高齢のため、礼拝に参加できない方々の上にもクリスマスの喜びと慰めをお与え下さいますように祈り願います。

最後に私たちの教会に集う者すべてのうちに、その背後にあるご家族のうちに、どうか福音の光が届きますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの権威は人を救う

聖書:イザヤ書9章5-6節, マルコによる福音書1章21-28節

 先週からクリスマスに向かう待降節が始まりました。世界中がイエス・キリストについて聞いたことがあり、お名前を知っています。その中にはただ名前だけ知っている人々も大勢いますが、この方を礼拝している人々も大勢なのです。キリストは神と等しい方、神の御子でいらっしゃいましたが、限りなく高いところから、御自身を低くされて、地上に降って来られました。人間の罪を負うために、人間として苦しみを受けてくださったのです。キリストには世に来られたことには、はっきりとした目的がございました。それは私たちの罪を贖って、私たちを自由にしてくださることでした。

イエス・キリストのお働き、職務について、教会は三つのことを信じて来ました。それは、第一に預言者の務めです。旧約聖書にはモーセ、イザヤ、エレミヤなど多くの預言者が登場します。神は見えないお方であり、私たちはその声を聞くこともできないのですが、神は御自分の御心を預言者の口を通してお知らせくださいました。その言葉を聞き、神に従う民となるためです。地上に来られた主イエスもユダヤ人の会堂に入ってしばしば人々を教えられました。旧約聖書を紐解いて神の御心を教えられたのです。今日読んでいただいたマルコ福音書の物語も、その一つの場面です。

安息日にはユダヤ教徒の人々は旧約聖書の教え通り、労働を止めて会堂に集まりました。そして聖書を読み、讃美と祈りを捧げていました。その時に会堂の責任者がこれと思う人々に話をすることを要請したと思われます。キリスト教会の礼拝のルーツもここに見られるでしょう。主イエスも促されて、人々の前に立たれました。すると人々はその教えに驚きました。主イエスの教えは他の人々の教えとは全く違っていたからです。それは、人々がいつも聞きなれていた律法学者のようではなかったというのです。律法学者は旧約聖書の専門家です。聖書の解釈が専門です。聖書に精通して、どこから聞いてもまちがい無く答えたと思います。しかし、そこには聖霊の神の力がなかったのです。

正しい教えであるはずなのに、それは心を動かす話ではなかった。魂を揺さぶる話ではなかったということでしょうか。人々はそういうお説教に聞き慣れてしまっていました。律法を守りなさい。そうすれば救われる、という教えです。その通りだ。しかし、実際、救われている実感がない。あれも出来ていない。これも出来ていない。出来ていないことが多い、どんどん増えていくように思われるのです。その一方罪の償いのために、しなければならないことがありました。人々は疲れ果てていたのではないでしょうか。

主イエスは権威ある者としてお語りになりました。主イエスは、律法学者のような経歴も無く、人から教えられて学んだのではなかったでしょう。それだけに、人々は驚きが大きかったこともあったでしょう。しかし、主イエスの権威は人からのものではなかった。それは天から与えられた権威であったのです。だからこそ、人々は主の御言葉に計り知れない威厳を感じたのであります。その御言葉は神の国が近づいたことを人々に告げ知らせるものでありました。すなわち、人間の側から何かをして、手柄を立て、点数を稼ぎ、積み上げて神の国を目指して這い上がって行くのではない。神の国が近づいたのは、神の方から恵みをもって近づいてくださるからに他なりません。

預言者イザヤが何百年も前に告げ知らせた御言葉を今日は読みました。9章5節。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それは幼子誕生の預言です。そしてイザヤは、幼子キリストがやがて果たすべき職務について、この預言を信じる者に告げ知らせるのです。「驚くべき指導者」と。驚くべきとは、素晴らしいという意味です。「指導者Counselor」と呼んでいるのは、キリストがあらゆる角度から見て最高の完全な教師であるからです。

私たちの救いに必要なすべてのことは、このようにしてキリストよって道が開かれました。そのことを、キリストは人々に親しく教えられたのでありました。権威ある者として教えられたのですが、しかし同時に親しみをもって身近に教えられました。それはキリストが弟子たちを僕と呼ばず、友人と呼んでいる親しさなのです。ヨハネ福音書15章15節に主の御言葉を聞きましょう。(199上)「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

幼子の名はまた、「力ある神」であるとイザヤは預言しました。人々は神を信じていると思いながらも、不安に揺らいでいました。それは昔も今も変わりありません。クリスマスが近づくこの時期、一度は行ってみたいベツレヘム生誕教会をはじめエルサレムは、クリスマスを祝う観光客でにぎわうはずですが、今年はただただ大きな戦争にならないことを祈るばかりです。何十年も前にパレスチナを訪れた友人からは、イスラム教徒が観光客にキリスト教徒の喜ぶ土産物を盛んに勧められたと言っていました。そのような平和な共存のためにこそ、私たちは力ある神を頼ります。「キリストは力ある神」と私たちが賛美するのは、この平和を実現してくださるキリストに全面的に頼っているからです。この方が全世界の主として執り成してくださる。キリストは私たち小さな者の日々の救いのためにも執り成しをして、大祭司の務めをも果たしておられます。これが、キリストが世に来てくださった第二の目的です。

また預言者イザヤは幼子を三つ目の名で呼びました。それは「永遠の父」です。父という名前は造り主を意味するものです。キリストは御自分をただ一度罪の犠牲、供え物として十字架に死なれました。そして三日目に復活され、御自分を信じる者を御自分の復活の命に結んでくださいました。こうしてキリストの体である教会を造られ、教会を世々限りなく保ってくださいます。だからこそ、主イエス・キリストは永遠の父と呼ばれているのであり、私たちは永遠の命であるこの方に心を高く挙げて生きるべきであります。

最後にキリストは「平和の君」と呼ばれています。私たちは戦争のない世界を一心に望んではおりますが、神の望まれる平和とは、戦争なしに世界を維持すること以上のものでしょう。平和とは、ヘブライ語では、繁栄prosperityを意味します。すなわち、すべての祝福のうちでも、よりよいもの、望ましいもの。それが平和なのであり、ただ争いがないという状態よりも豊かな内容を持っています。さらにその中に調和のある健全な姿を含んでいるというべきものではないでしょうか。

今、私たちの目には、世界中あまりにも平和がない、むしろますます争いと混乱と悲惨が増し加わって行くばかりのように見えるのではないでしょうか。しかし、それでもこの悩みに満ちた世界に、毎年クリスマスは巡って来ます。その度に私たちは祈り願わずにはいられません。平和の君がやがて完全な幸福の元となることを。または少なくとも平穏で祝福された平安の元となることを。キリストが私たちの世界に来てくださった目的の第三はそのことです。すなわち、キリストは王としての務めを果たすためにいらしたのです。

平和の君。それは、キリストが十字架に付けられる前、エルサレムに王として入城されたことでも知られることです。人を驚かせ、恐れさせるきらびやかな姿で軍隊によって先導されたこの世の権力者としての王ではなく、聖書の証しする平和の王としてキリストは来られました。その様子をマタイ福音書はイザヤの預言を引用して記しています。マタイ21章4節5節。(40上)「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

このように、イエス・キリストは三つの職務を果たすために世に来られました。それはすなわち預言者の務め、祭司の務め、王の務めであったのです。そしてその三つの働きはすべて、神に背いて敵となっていた人間が本来神に造られたとき持っていた姿、すなわち神の似姿を取り戻させるために、用いられたのです。

このような神のご意志に、私たちは私たちの理解をはるかに超える愛を知らされるのではないでしょうか。神のこの決意、この熱意こそ、本日読まれましたマルコ1章の21節以下に語られている権威なのです。その権威は神の権威、聖霊によって告げられた言葉となりました。それは人々を非常に驚かせました。そしてその権威はついにそのとき会衆の中にいた一人の男に叫び声を上げさせました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

この人は汚れた霊に取りつかれた男と呼ばれています。どうしてそんなことが分かるのだろうか、と私たちは不思議に思いますが、汚れた霊、つまりサタンの力によって魂も身も心も強く押さえつけられているので、その話すこと、行うことすべてがサタンの思うままにされていると見做されていたのだと思います。よほど尋常でない言動をしていたから人々にそう言われたのでしょうが、神さまから御覧になれば、この男と他の人々とどれぐらい違いがあるのだろうかと疑問に思います。なぜなら、皆が神から遠ざかり、皆が神に従っていないとすれば、皆が神の敵であるサタンの近くにいるわけですから。

ところがこの汚れた霊に取りつかれていると言われる男は、他の人々とちがった行動に出ました。すなわちいきなり主イエスに向かって叫びました。「かまわないでくれ」と。サタンは、たとえ他の人々が知らなくても知っていました。キリストが神の聖者であることを。それを知っていても黙っていれば、他の人々には気づかれない。サタンには何の損害もないはずです。ところが、サタンはこの人を使ってわざわざ「あなたの正体は神の聖者だ」と言わせたのです。これはサタンの策略ではないでしょうか。

汚れた霊に取りつかれていると人々が思っている男の口から、主イエスを持ち上げる言葉を語らせる。そうすれば、あの男とナザレのイエスは知り合いだ、と印象を人々に与えるでしょう。何か深い関係があるのではないか。ひょっとしたら仲間なのではないか?という憶測さえ生まれるかもしれません。神の国を宣べ伝えようとされる主イエスを貶めるためにサタンは巧妙な手段を取っているのではないでしょうか。真に神の恵みから人々を遠ざけようとするサタンの策略は、実に底知れないことをわたしたちは知らなければなりません。

しかし、主イエスはお命じになります。「黙れ。この人から出て行け。」この命令はサタンに対するもの。サタンは神の権威に逆らうことはできません。そして汚れた霊に取りつかれている人に対しては、これは解放の言葉となりました。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」からです。同じ出来事が記述されているルカ福音書では、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も追わせずに出て行った」のでした(ルカ4章35節)。サタンつまり悪霊によってこの人はさんざん苦しみました。この人とサタンは一体のように人々に見えていましたから、サタンを恐れる人々は当然この人を怖がっていたことでしょう。しかし、主イエスはおいでになり、御自分の前に姿を現わした悪霊を追い出して、この人を解放しました。

この人は人々の目に一目で分かるほど悪霊に取りつかれていましたが、罪の奴隷になっているのは、決してこの人ばかりではありません。人間のすべてが、神に従う道を見失っていたのです。何が良いのか、悪いのか、どれが正しい道なのか、そうでないのかさえ、しばしば分からなくなっているからこそ、この世界に多くの苦しみがあります。人は人を訴え、家族が親しい者が争い、憎み合い、殺し合う有様です。ましてや、遠い国と国の間に悪の応酬があり、真に無慈悲な戦争に発展するのは当然ではないでしょうか。

しかし、希望はイエス・キリストにあります。すっかりサタンの手先になってしまっていてどうにもならないこの男さえ、主の御前に叫んで救われました。真に主の御前に出ることがどんなに幸いなことであるか。この事を私たちは教えられました。なぜなら、キリストは神の権威を持って私たちを執り成してくださるからです。預言者の務め、祭司の務め、そして王の務めによって、私たちを罪から救ってくださることを知らされました。この救いに招かれてキリストの救いの木の枝に連なりましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。私たちは今日の礼拝で御子イエス・キリストの地上でのお働きについて教えを受けました。深く感謝いたします。悪霊に取りつかれた人が、自分では何もできなくなっているのに、ただ恵みによって罪から解放されました。ただキリストこそ、変らない希望であることを多くの若い人々に告げ知らせることができますように。私たちは何かできることによって救われるのではなく、ただただ、地上に来てくださった御子の働きの中に現れたあなたの尊い恵みと慈しみによって救われました。

どうかこのことをこの上ない喜びとし、感謝とし、今日この日から感謝と賛美の生活に入るよう、私たちを造り変えてください。そして、これから多くの重荷を負って生きて行こうとしている人々が、自分の働きによる救いではなく、イエスキリストの働きによる救いを信じ、身を委ねて、安らかに健やかに生きる者とされますように。

私たちの教会では、多くの方が高齢になり、健康に支障をきたすことが多くなりました。しかし、自由に何でも出来ていたとき以上に、あなたを思い、祈り、感謝して生きることの幸いを感じております。あなたの恵みを証しする生活を祝福して下さい。今、ご病気の方、入院されている方々を心に覚えます。どうかそれぞれの苦しみを取り去ってください。それぞれの困難を通して主の愛が新たに確信されますように。今週もクリスマスに向かう歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。